パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

書き残しておいた文章の中から、今気になるものを幾つか

2023年07月13日 09時40分44秒 | あれこれ考えること

気になって書き残しておいた言葉の中には、読み返して考えさせら得るものがある
今日はその中からいくつかをピックアップ

エールリッヒフロムの自由からの逃走(129から130ページ)

どんな社会にあっても、その文化全体の精神は、その社会のもっとも強力な支配階級の精神によって決定される。その理由は、強力な支配階級が教育制度、学校、協会、新聞、劇場を支配する力をもち、それによって自分の思想を、すべての人間にあたえる力を持つからである。
さらにまた、これらの支配階級は、非常に多くの特権をもっており、下層階級はたんに彼らの価値を受け入れたり、まねたりしようとするだけでなく、彼らと心理的にも合一しようとする傾向を持っているからである。


トリエンナーレ「情の時代」コンセプト 津田大介から

我々の『感情』は、日々様々な手段で入手する情報によって揺り動かされる。視聴率や部数を稼ぐために不安を煽り、正義感を焚き付けるマスメディアから、対立相手を攻撃するためであれば誤情報を拡散することもいとわないソーシャルメディアまで、多くの情報が人々を動揺させることを目的として発信されている。
複雑な社会課題を熟議によって合意形成していくのではなく、1つのわかりやすい回答を提示する政治家に支持が集まる状況も同じである。近年、選挙に勝つことだけを目的にしたデータ至上主義の政治が台頭したことで、かつての人文主義的な教養や技芸と結びついた統治技術はすっかり廃れてしまった。
世界を対立軸で解釈する事はたやすい。「わからないこと」は人を不安にさせる。理解できないことに人は耐えることができない。苦難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望をもたらすことを知りつつ、その手段をとることを端から諦め、本来はグレーであるものをシロ・クロはっきり決めつけて処理したほうが合理的だと考える人々が増えた。



「主権者のいない国」白井聡から反知性主義について

反知性主義の定義
知的な生き方およびそれを代表されるという人々に対する憤りと疑惑

反知性主義とは積極的に攻撃的な原理であるということだ
それは知的な事柄に対して無関心であったり、知性が不在であったりするということ、言いかえれば、非知性的であることとは異なるのである
知的な事柄に対して単に無関心なのではなく、知性の本質的な意味での働きに対して侮蔑的で攻撃的な態度を取ることに反知性主義の核心は見出される。


反知性主義の類似物として「パンとサーカス」の標語に象徴される愚民化政策が古代からある。為政者が、大衆のもつ知性への憎悪を操作・利用して動員し、それをそれによって政敵を武装解除するというようなことは、歴史上無数に繰り返されてきたに違いない

この世の中には「知性の不平等」が常に存在し、この不平等は際的な富や権力の不平等に関連する。前近代的な身分制社会においては、この格差は「うまれながらのもの」として正当化され、低位に位置づけられた層は、納得しない少数の例外者を除いて「分を弁える」ことになる。これに対して、万人が同等の権利を持つ、したがって同等の発言権を持つという前提に立つ近代民主政においては、現実に存在する「知性の不平等」とそれに関連する「現実的不平等」は渡し難い不正として常に現れ、不満の種とならざるを得なくなる
そこに現れるのは、ルサンチマンの情念が猛威を奮う世界にほかならない。「〇〇が私より富んでいるのは。〇〇が不正を働いているからだ」という思考回路が強力なものとなる。
無論、これが現実に正しい場合もある。これがルサンチマンになるのは「〇〇が私よりも優れているから」という可能性があらかじめ排除されている場合である。現実にある差異を否認することによって、卓越者を悪党に仕上げてしまう。かかる思考回路の前景化こそ「自由で平等な人間」という近代原理の陰画であり、かつてニーチェやオルテガが大衆社会の悪夢として警鐘を鳴らした事態だった。
そして、富や社会的地位の場合と同様に、真正の知的精神や態度も、単なる気取りや見掛け倒しに過ぎないのではないかという疑惑から、決して逃れられなくなる。
「〇〇が私より知的に見えるのは、知的な振りをしているからである」という思考において、「〇〇が私より優れているから」という可能性があらかじめ排除する。そして客観的事実促されて「〇〇」の知的優位を「私」が認めざるを得なくなったとき、それでもなお「平等」を維持するためには「知的な事柄全体が本当は役に立たない余計なものに過ぎない」という発想が出てくる。これはまさに、反知性主義のテーゼである。

これらの言葉の一つひとつが現代社会の傾向としてリアリティをもって感じられるのは
きっと良いことでは無いだろう

結局のところ、一人ひとりが賢くなっていかないと駄目なのだが
歌にあるような「世界に一つだけの花」のように個を確立して
その上で人と違っていても独自の社会生活を実践していくのは
日本では難しそうな雰囲気と思えてならない

コメント
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