パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

奈良時代は女性にもいい時代だったかも

2024年07月11日 09時58分24秒 | あれこれ考えること

京都人がアメリカ大統領選の公開討論会を見たならば
そのストレートな物言いに驚くだろう
そして品のない、、と呆れるかもしれない

京都人は考えを表に出すことには注意を払っていたようだ
安易な発言は政権闘争のどちらに属しているかがわかってしまい
敵味方を区別されてしまうので、なるべく本音がわからない言い方をしたそうだ
それは生活の知恵とも言えるが、そこから生まれた美醜の感覚は
気取っているとの一言では片付けられない何かがあるように思える

「光る君へ」では定子のサロンを始めとする女性の活躍の場が描かれているが
そこでの教養の深さは男の世界にも必要で、その価値観は政治の表舞台に役立つものとなっている
だが紫式部も清少納言も本名ではなく、いわばあだ名のようなものだった
ところが一時代前の奈良時代は女性の名前も本名で記録に残されていたそうだ
しかも政治的な書物(続日本紀)に

昨日録画しておいたNHK先人たちの知恵泉
 「奈良時代のキャリア戦略 女官たちの立身出世術」は面白かった
ここでは二人の女官が登場した
天武天皇の時代から4世代にわたって仕え、異例な出世を果たした飯高宿禰諸高と
孝謙天皇に使えた和気広虫の二人だ

後者の和気広虫はどこか聞いたことのある名前だと思っていたが
後に和気清麻呂の姉ということがわかった(それで見聞きしたことがあったのかもしれない)
この女性はなかなか人格者で、路頭に迷う子どもたちを何十人も親代わりになって育てたそうだ

孝謙天皇と言えば、道鏡の宇佐神宮の神託の事件がある
道鏡を天皇にすれば社会・政治は良いことがあると宇佐神宮の神託がでたので
その真偽を確かめるために孝謙天皇は信頼していた和気広虫に宇佐神宮に派遣しようとした
彼女が行くことは体力的に無理だったので弟の和気清麻呂が行くことになったのだが
宇佐神宮の神託は、今度は全くの反対の内容だった
子どもたちの親代わりをする広虫の生き方は、道鏡への宇佐神宮の神託の否定につながって
それは彼女らしいと想像できるが、この姉と弟の行為(判断)に怒った孝謙天皇は
和気広虫を別部広虫売(わけべ の ひろむしめ)和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)
と改名させてしまう

結果的に彼らの判断は、道鏡の支配を防いだことになるが、
この和気清麻呂のストーリーを絵にしたものを自分は京都御所の近くで見たことがある
それが御所近くだったことは覚えているが、どこかは覚えていないのが情けない

ともかく、女性と言えども有能な人物は抜擢した奈良時代から
女性の教養サロンはあるが政治の表舞台にはでられなくなった平安時代は
少し残念に気がするが、それは「薬子の乱」がきっかけとなったらしい
「薬子の乱」も名前は聞いたことがあるが内容は覚えていない

つまりは政治制度は歴史の出来事を踏まえていろいろ変わるということだ
歴史を知るということは、想像以上に役立つかもしれないと思うのが
最近の実感

歴史を知ることとは、社会主義とか共産主義が生まれるきっかけとか必然性にも通じる話で
「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ著)資本主義社会対共産主義社会の
対立は終わったと思われたが、その勝ち残ったはずの資本主義に問題点として取り上げられたのが
「ショック・ドクトリン」(ナオミ・クライン著)とか「21世紀の資本」(トマ・ピケティ)
つまりは人間の行うことはどこか不完全ということ
そしてそれらの不完全さを補うものとか、不完全さを生まないようにする方法としての
歴史の知恵を学ぶことは大事だと思う

それにしても知らないことの多いこと
薬子の乱も飯高宿禰諸高も











 

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「男と女の違い」と「本質的なことから考える」ということ

2024年07月10日 10時32分40秒 | あれこれ考えること

今回の都議選のポスター掲示板とか人物像がよくわからない石丸氏の
予想外の投票数は、自分は同じ問題だと感じている
両者とも今まで社会にあった緩やかな常識とか倫理観などが
ものすごい速さで破壊されていると言う感覚だ

そしてもう一つの問題は、男の凝り固まった価値観による判断が
時代についていけないにもかかわらず、それなりの民意として
形になっていることだ

後者の問題は想像の世界で、確たる証拠はないとしても
当たらずとも遠からずと想像するが
少し前取り上げた蓮舫氏の出身に関する抵抗感は
男どもに多くないだろうか、、
それは東国原氏とか太田光氏の発言にも現れているし
SNSで蓮舫氏を批判するアカウントは男どもが多い
彼らは蓮舫氏の政治的な能力というより出自のみで嫌っているように見える

例えば国会中継で蓮舫氏の質問を見たならば人はどのように感じるだろう
短い質問をテンポよく続け、質問の道筋は無断なく的確に進められている
これを見る限り国会議員としての彼女の実力は、出自に関係なく素晴らしいものと
自分は感じる
だが自分に都合が悪かったり、国籍のアイデンティティにとらわれる人や
嫌悪感を感じる人は、何が何でも嫌いの一択だ
そして発信力のある人はそれが世間に影響を与えていることを自覚している

男に関する問題点は、あるイベントが女性の間では行われたが
男の社会では実現されなかったこともそうだ
それは以前森喜朗氏が「女の話は長い」とバカにした発言をした時に
女性蔑視と総スカンを食ったが、この事件の後、女性陣は有識者とか
メディア関係の人々が集まり「わきまえない女たち」とのタイトルで
女性が現実社会で受けている差別などを語り合う機会を設けた
これはYoutubeで見たが、本当に参考になった
だがその時彼女たちから出たのは、こうした問題は女性のみに存在するものではなくて
男性社会にも存在するものだろうとの共通認識で、「わきまえない女たち」のあとには
「わきまえない男たち」と言う対談が計画されることになった
しかし、それは自分が想像した通り実現されなかった
男の社会は無言の力が働いて、自由に語ることは難しいだろうと自分は思ったのだが
結果的にその通りとなった

男はもしかしたら女性より世界的な感覚において遅れているのではないか
と思うことがある
それは世界旅行の経験の数は男と女ではどちらが多いか?
を考えてみると、身の回りでも女性は世界を見て回っている人を多く見かけるが
男は女性ほどフットワーク軽く出かけているように見えない
それが問題ではないかということだ

外に出ると人は自分が持っていた価値観なり常識が違っていることがあると気づく
そして外に出た女性は、感覚的、実践的にその思いを実感する
だが内向きな男は世界標準の実感をできないままでこの国の中だけで生きる
そしてそれはナショナリティとかアイデンティティと言う言葉に集約される

明治維新後、外国を回ることになった人たちは、皆が皆外国を目標にしよう
とはならなかったらしい
文化とか社会制度に圧倒された気弱な日本人は、その精神的なバランスを保つために
自国の良さを過度に信じようとした
この心理的傾向は多分昔も今の変わりないだろう

つまりは経験不足の男どもは、自らを守るために自らの出自や文化を過度に
信用しようとする心理作用に支配される

自分が思う違和感のもう一つは社会主義に対する日本社会の嫌悪感だ
何故、そんなに嫌われるものなのかは、正直なところわからない
国会の質問でも共産党の議員の質問は、問題意識に満ちていて
なれあいの与党同士のそれよりずっと参考になる

だが、共産党は共産党であるために、それだけで否定され
何故かそれはそれなりの社会常識となっている

でも、本当に共産主義(社会主義)は間違いなのだろうか?
と考えてみると、コロナ禍ではある程度国家による方針の決定とか
強制力をもった政策は必要とされた
つまりは、ある程度の社会主義的なものは必要と実感していたと言える

貧民が多く生まれている時、社会主義的な考え方が勢いを持つのは
人の社会ではごく自然と思う
これはよく調べないといけないが、例の2.26事件の精神的なバックボーンは
北一輝の思想にあったとされていて、それは社会主義的な傾向があったものらしい

つまりは共産主義とか社会主義は,簡単に全否定されるものではなく
一度は立ち止まって、良い悪いを検証すべきものと思われる
こうした歴史とか物事への精緻な検討がなされず、単なる選挙における
戦術論だけで物事が語られる社会は、、、どうだのだろう

冒頭にあげたの掲示板とか、知らないまま人物を面白がって投票する
そして本質的な問題提起を自らは発しないで、なんとなく人と同じことをする
ことで安心感を覚える人々
オルテガの「大衆の反逆」フロムの「自由からの逃走」の問題提起は
今も深刻なもののように思われる
そして今、本棚から引っ借り出してきたのは「全体主義の起源3」ハンナ・アーレント
これは読まなければならない、、と何故か何かに導かれているような気がしている

またもや、まとまらない話


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若い人の「人を見る目」は大丈夫だろうか?

2024年07月09日 09時18分32秒 | あれこれ考えること

フランスの選挙システムは日本の一回勝負とは違って
より慎重な段取りになっているようだ
そのシステムは考えうる危険な可能性を削除するために
フランス人特有の合理的な思考のもとになっているようで
合理的な思想が実社会に生かされているといえる

その結果、懸念された極右の議席数は過半数を割った
これ一安心!と言ったところのようだが
この時期だからこそ、日本の選挙とどうしても比較してしまう

例の都知事選の掲示板のポスターのこと
フランスでは(外国)では、どのように報じられているのだろう
日本では法の抜け穴がとか、現状に合わせた法改正が必要との声もあるが
選挙に対するそもそもの向かい方が、日本人の精神の中に確固として
存在していない気がする
それは自然法に通じる倫理とか正義感とか常識というものが
おろそかにされていることで、この最後の防波堤があまりにも簡単に
突き破られている現在の日本には不安を覚えざるを得ない

ところで、都知事選の選挙分析によれば小池さんはまんべんなく数字を稼いでいたが
対立候補では若い層は石丸氏に投票し年齢の重ねた人は蓮舫さんに投票したとのことだ
若い人と年配者の接するメディアが違うからそうなったとの考え方があるようだが
果たしてそれだけのなのだろうか?

若い人と年配者
これは対立する存在として捉えて、年寄は程々に死んでいけ
との発言をしたとんでもない人物がいたが、確かに年寄りに必要なお金は
医療関係など嵩んでその負担は現役の若い人に負担になっている

だが、少なくとも心の内では、じいじやばあばは若い人と対立する存在
ではないと思っているのではないのか
その証拠にじいじやばあばは、借金を孫の世代まで背負わせるのは心配だ
と考える人が少なくない
我が市の新市庁舎建設に関してじいじやばあばが懸念したのはこのことだった
息子娘、孫までに借金を負わせるのは心配で仕方ないと口にしていた
つまりは、年寄は最低限の生活が保証されれば、決して若い人とお金を奪い合うような
対立する存在ではないと思われる

じいじやばあばはその経験から若い人にはない判断基準を持っている
生きているうちにいろな人に出会い、良い人、悪い人、見栄っ張りの人
自己承認欲求の強い人、権威主義の人、怒りっぽい人、優しい人
それらを総合的に判断する力をもつようになる

石丸さんを面白い人物として選んだ若い人
そもそも彼を知らないから選ばなかった年配者
知っていたとしても自己の判断基準から違和感を覚えて投票しなかった年配者

ここで、石丸氏は本当に上位のポジションに任せて良い人物か?
を今になってSNSで問題になっている
彼の安芸高田市の市長当時の市議会での答弁やら
最近のインタビュアーへの対応が、、自分から見れば決して好ましいものとは思われなかった

市議会においては、我が市の市議会の一般質問でも
議員の質問内容が要領を得ずに何を問われているかわからない時がある
そんな時、行政は議員の質問の意図、言わんとすることを想像力を駆使して
または反問権を利用して、できうるかぎり人として丁寧に応えようとする

だが「何が聞きたいかわからない、、」とか「勉強不足だ」
と議員を叱責する石丸氏は、そもそも議員の話そうとする意図を
理解しようとする気がないように思えてしまう
それは今でいうマウントをとる  と言う姿勢のように思えるし
それが今の若い人には心地よいと感じるのかもしれない
だがこれを心地よいと感じるのが若者の感じ方の大半とするならば
若者はそもそも人を選ぶ能力は大丈夫なのだろうか?
と不安を覚えてしまう

今の世の中はあまりにも軽いと不安になる
汗水たらして真っ当に努力して熱くその意味を語ろうとする人を冷笑する
いつも何故か自身を高い位置において弱者を自己責任と決めつける人
社会的な経済的な思想が必然の流れて生まれてきたことを
自らの内的経験とせずに、ただ単に面白いかどうかの価値判断だけで
済ませてしまう社会


説教、昔話、自慢話は年配者が若者に嫌われる要素らしいが
それらは、時によっては知恵の箴言にもなりうるものと思える
世の中はもう少し対話ができる社会になればいいと切に思う

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すぐに思いついたこと

2024年07月08日 13時46分15秒 | あれこれ考えること

現職は強い現実を改めて実感した東京都知事選
この傾向は我が市の市長選でも見られた

いろんなことのあった今回の都知事選
巷ではいろんな分析、解釈が討論されているが
個人的に一番思ったのは、多分それらとは大きく違う

思いついたことは2つ
一つはイデオロギーよりはアイデンティティという言葉
蓮舫さんは名前からわかるように純粋な日本出身者とは違う
イギリスならインド系のスナク氏
アメリカならアフリカにルーツを持つオバマさんがが当たり前のように
(しかしたいへんな困難を乗り越えたと思われるが)
評価されたが、日本ではどうしてもそれを乗り越えることはできなかったと感じる
実際に二重国籍のネガティブキャンペーンがSNSでは頻繁に見られた
政策、思いなどの本質的な問題よりも、まずはそこで撥ねられてしまったと思う

もう一つは選挙応援のあった共産党のこと
共産党もまた存在自体で割り引かれることの多い団体だ
多分、共産党のどこが悪いというよりは、共産党だから駄目だ
とする思考方法が多いと思われる
そもそも歴史の中で共産党が生まれた経過とかその存在意義を
少しなりとも学んだり読んだことのある人は
その存在にある程度の必然性を感じ取ることができる
それは今でも通用する部分があり、アメリカでも新自由主義者の行き過ぎ対する
アンチとしてブレーキ役にもなっている

ただ日本社会において、これらの直感的に判断する出身とか共産党に対する思いは
想像以上に乗り越えるハードルは高いと思われる

アメリカでもそして多分日本でも、左派的な指向性をもつ連中は
高学歴とか知識人というレッテルを貼られる事が多い
現実生活にたくましさを発揮する人々は、抽象的な理想主義を唱える人々を
嘘っぽく感じてしまう
しかし、そうした理想のない社会などは悲惨な世界になってしまうというのが
理想主義者の言い分で、これを知識による分断と説明した人もいた
(ブルデューの「ディスタンクシオン」では、この社会的属性の違いによって
 思考傾向が違うことを事細かく紹介している)

これは、自分が直接聞いた言葉だが
「頭のいい人たちは難しいことを言って現実的なわかりやすい話をしない
 そしてそれによって我々は片隅に追いやられてしまう」
これはもしかしたらアメリカでも見られる反知性主義の言葉と同じかもしれない

移民とか社会主義とか、そうしたものに真正面から取り組んだことのない
そして今まではそれでやってこれた日本
でもこれからは、そんなことではやっていけないと想像するのだが
アイデンティティと反共産主義はその存在意義を確かめることもなく
NOと判定してしまう世の中と教育

例のポスター掲示板のみっともない出来事から想像できる
日本社会の壊れていく様、、
そして人が人を選ぶというシステムの危うさ

これからどのような道が生まれるのだろうか
こういうときこそ「正気に戻れ!」の言葉を思い出す

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「一人街宣」を知った

2024年07月07日 09時10分32秒 | あれこれ考えること

暑いっ!
エアコンのない2階のこの部屋にいられるのもあともう少しだけ
出来るうちにボケ防止のルーティンが済ませてしまおう

都知事選、愛知県の田舎は関係のない話だがちょっと気づいたこと
今までにデモを経験したことのある身として実感したことは
攻撃的な言葉のシュプレヒコールは恥ずかしいということ
かつて安保関連法案の時は、その代表的な言葉として
「安倍辞めろ!」というのがあった
でも田舎から国会議事堂前に行って訴えたかったのは
そんなことではなかった
もっとシンプルにこれからの日本に起こる不安とか
その危険性をみんなで共有したいとか
そう感じる人がいることを可視化させたい!そんなことだった

昨日の小池さんの街頭演説ではアンチの人たちの
「小池辞めろ!」の大声があったらしい
ここで問題なのは当人たちは必死で行っているかもしれないが
この大声の訴えは例えば蓮舫さんたちの応援になっているか?
といえばそうではなくて、むしろ反感を覚えさせることになっていないだろうか

強い言葉での批判は、気をつけないとこうした感情(反感)を招きやすい
これは我が市の市政についても同様に感じる
批判的な意見は問題提起として重要だが、これがいつまでもその時点でとどまって
解決策としての方法が示されないと、批判ばかり、、との声がでてしまいそうなのは
わからないでもない

強い言葉で言わないとわからない!
と焦る気持ちもわかるが、一旦呼吸を整えてじっくり構えるのも必要と思われる

今回の都知事選で面白い動きが見られたようだ
それは今風のSNSを通した手法のことではなくて、もっと別のこと
「一人街宣」というやつだ
一人街角にスローガンを書いたパネルを持って声も発せずに立っている
その一人ひとりは団体のメンバーではなくて単なる普通の人たち
彼らは声に出すのが恥ずかしいので強い言葉を発しない
それでも自分が信じることを勇気を振り絞って行っている

ほんの小さな出来事だが、これはSNSの少し軽いノリよりは
切実感があって良いものと自分は思う
そして、これ今後の一般人の政治活動のスタンダードになればいいと思う

デモをする時、過激な言葉は恥ずかしくて嫌だ!と言う人は必ずいる
そう言う人たちのために緩やかな、、抵抗感のない方法というものとして
少し勇気が必要なこの方法が広がればいいと思う

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威勢のいい言葉には注意が必要

2024年07月06日 08時04分36秒 | あれこれ考えること

「政治屋の一掃」
拍手喝采を受けそうな言葉だが、なにか違和感を感じていた
それが何かはわからずにいたが、不意に
「政治屋と判断するのは彼の独断に過ぎないかもしれない」
つまり自己判断を絶対化して自分が政治屋と感じたものはすべて政治屋
そんな理屈を強引に進めているのではないか、、と思ってしまった

問題はこの態度の良し悪しではなくて、人はこうした断言された言葉に弱いという点だ
面倒な説明は省いて結論だけを告げる
その方がわかりやすい
だが、わかりやすくするためにいろんなところをカットしたり
強引に理屈を進めている場合もあるので、正確な物事の理解ができている訳では無い
つまりは、正確な情報をもとに判断がくだされるというより
勢いとかポピュリズムによって物事が判断されてしまう
そんな世の中になってしまいそうというのが違和感の根っこだった

誰かが悪い、犯人探しして、とりあえず不平の発露をして気持ちがスッキリして一見落着
現実世界はそんなことでは回っていかない

実は政治屋と判断された人物も一人の人間
その人間に対しては嫌悪感を全面に出すだけではなくて
人としての敬意みたいなものは最低限必要と思われる

ただ、そう断言して貶めたい気持ちもわからないでもないが
結局は、言葉を発する人の人間性をじっくり見ないとアカンと思う

まとまらない話

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夏は嫌いだ!

2024年07月05日 09時05分44秒 | ダイアリー

夏は日の出が早いから目も早く覚める
今朝は5時半に起きてご先祖様と妹のお墓参りに行って
仏壇のお参りをして、ご飯を食べて、部屋のお掃除をして
洗濯物を干して、浴槽のクリーニングをして、、
そんなことをしていたら眠たくなってしまった

クソ暑い昨日だったが、幸い昨晩はよく眠れた
日中は流石にエアコンの力を借りたが、エアコンを切ったのは
7時半くらい、それからは惰性の涼しさを頼りに過ごした

寝室は2階にあるが、夏はいつも下で寝る
畳に布団を敷いて眠りにつくが、いつも感じることは
畳の上20センチから30センチくらいは涼しいということ
畳が水分を吸収しやすくて、そこから発生する冷っこさを感じているのだろうか

南側の窓を開けておけば、風が少しはいる
幸い南側は庭の木々があるので、影になった地面の低めの気温のお陰で
入ってくる風は暑いということは今のところない
だが、それでは間に合わない日々もこれからは来るだろう

朝、布団を押し入れに入れる
その時、今まで寝ていた背中のあたる部分がほんわかとあったかい
人の体というのはずいぶん熱を持っているものだ、、と改めて実感する
そう言えば昼寝をする時も、畳があったかくなっている

それにしても、夏は暑すぎる
エアコン無しではやっていけないが、エアコンは温度調節と風の向きなどに悩む
風は当たらないように設定していても、当たらないと暑かったり
当たると寒かったり、つまりはいつも最適な使い方はできていそうにない
だが、昨日の設定はとりあえず良い感じだったので今日も使ってみよう

暑いと頭がボーっとする
おまけに今は眠たい
子供の頃はこんなに夏が耐えられないなんてことはなかった

夏は夜
蛍の飛ぶさまを枕草子では趣のあるものとして取り上げていたが
子どものころ姉は竹箒をもって近所の川に蛍狩りにいった

その川にかかる橋からは妹が落ちて大声で泣いていたことがあった
イモリがいて怖がっていたのだった

自分は日誌とか宿題をササッと済ませると、ランニング姿と短パンで
友達の家に遊びに行った
あの時は、こんなにクソ暑いことはなかったはず

それにしても、かなわんなあ、、クソ暑い夏
まだ蝉の声は聞いていない、、
と昨日子どもたちと校門まで歩いている時口にしたら
子どもは、もう鳴いてるよ!
おじさん、さっき鳴いてたじゃん、、と突っ込まれてしまった

まだ7月5日、、これからどんなことになるのやら

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いつもより大きな声の挨拶だった

2024年07月04日 18時22分32秒 | 子どもたちのこと

今日嬉しかったこと

夕方、庭の木に水やりをしていた時、
近くのアパートに住むブラジル人の家庭の方々が車で出かけようとしていた
「こんにちは」と奥さんの声がする、彼女はまだ小さな女の子を抱っこしている
彼女は朝に子どもを送り出す時も顔も見ると「おはようございます」と挨拶をしてくれる

先日は女の子のおでこに擦り傷があったので聞いてみると
転んで怪我してしまったとのこと
かわいそうに、、
気をつけてね、、と女の子に話しかける
話しかけたのはどこの誰かわからない人かもしれないが
表情は不安そうなものではなかった(と思う)

お母さんの声に続いて男の子の声が聞こえた
「こんにちは」
ずいぶん元気のいい声だ
声の主は月木の校門までのウォーキングに出会う子だ
かれはその時は面倒くさそうに小さな声で「おはようございます」というだけ
ところが、今回は予想外の大きな声
ちょいと驚いた
そしてそれはなんだかとても嬉しかった

いつも行っているあいさつ運動は、役に立っていると実感できて
そして彼は知らない近所の日本人は信用できる
と感じているのだろうと思えて

これらは錯覚かもしれないが、
子どもたちが安心して話したり相談できる人間としてみてくれたら
こちらも幸せな気分になれる

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ルール違反ではないとしても、疑問を覚えること

2024年07月03日 09時16分06秒 | あれこれ考えること

登山には必要な「3とう」と言葉があって
水筒、弁当、懐中電灯がそれらに当たる
これらは登山経験者の経験から知恵となったものだ
その他にもいろんな実践的な知恵があって
それは製品となって便利この上ないものになっている

例えば下着は綿製品だと汗はなかなかひかないので
いつまでも着ていると寒くなることがある
こういうときはゴアテックスの発汗しやすい素材はありがたい

またごつい靴はいざ使ってみると、徐々に脚が上がらなくなってくる時には
石を蹴ってしまうことがあってもつま先は傷めない
その他にも長袖シャツは日焼けしないので、半袖シャツを着た時の
日焼けで火照ってしまうことはなく体にも優しい

つまりは、道具というのはちゃんと合理的なものがあるということだ

山梨県側の富士登山口に入山料として2000円支払うようになった場所がある
だがちゃんと入山料を支払った人の中に、Tシャツ、短パン、サンダル、
おまけにキャリーケースを引きずっているひとを見かけたとニュースでやっていた
確かにお金は支払った証はつけていた
しかし、その格好で登山はどうなのだろう
もちろんその人達が全員頂上に行くとは限らず、少し登ったところで帰って来る可能性はある
しかし、仮に標高の高いところまで行くとしたら、そんな格好では寒くて仕方なかったり
上り下りに不便で仕方ないことになる
そしてそれは想像以上のもので、必ず「甘く見すぎた」と実感する羽目になる

お金を払ったからゲートを開けて通す
それは適切なことなのだろうか
明らかに心配が予想される人々に対し、ルール範囲内だから見逃すというのは
そこにいる立場の人としてどうなのだろう
少なくとも、頂上まで行くのか行かないのか
服装・靴はちゃんと用意する様に、それができないなら無理はしないように
と何らかの制限を課すようなアドバイスは必要なのではないだろうか

こうした一つの目安としてのルールは、時として数字だけが独り歩きしてしてしまう
最近では政治資金収支報告書の金額がそうだ
規定の数字以内なら記述しなくていいのなら、誰もが想像するように
それ以下の金額使用をいくつも作って行けば良いことになる

話は飛んで、地元の産廃中間処理施設では食物残渣を長い時間発酵させて
肥料とするリサイクル事業を行っていたが、この発酵時間の決定というのが
極めて根拠のない怪しいもので、40日間で発酵が終わり水分も飛んで
匂いもなくなると県が認めている
だが、実態は40日ではとてもそんな状態にはならないし、匂いもなくなることはない
でも文書には40日で完成品になるとしている
だから法的にはルールを守って作業していることに苦情は言えなくなっている

ここで更にややこしいのは悪臭防止法と言う法律で、悪臭について文句を言うのは
市の権利としてあって、それについての対策を事業者にものいうことは出来る
しかし、悪性の元となる原因についての施設の不備等については管轄が市ではなく
県となるので、詳しいこととか施設に対する要望は何も言えなくなっている
つまりは、一見安心のための法律というものが、実は抜け道みたいになっている
ということは世の中には少なくないということだ

法律違反ではない、、しかし、正義ではない
そんなことが多すぎはしないだろうか
誰もがもう少し常識的な人間であれば良いのだが(上にあげた登山者も)

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それなりの年齢の人は、それなりの考えをもつのが当たり前

2024年07月02日 09時35分12秒 | あれこれ考えること

それなりの年齢の大人が選挙のことに関心を持つのはごく自然のこと
先日、サッカーののヨーロッパ選手権真っ最中のフランスのエース
エムバペが「サッカーも大事だが、選挙も大事」と発言した記事を見かけた

このことを取り立てて紹介しなければならないこの国の状況は
正直言って情けない状態だ
SNSでの政治的な内容に気分を害しているような人は
SNSから離れる方が良いと諭したメディア関係の人がいたが
この発言は、その人の人間性を疑わせるものだった
(それとも何らかの目的意識があってしたのか)

人間が普通に生きていればいろんな困難に出会う
自己責任によるものもあれば、理解できない出来事によるものもある
そうした時に、それなりの経験をした人はその解決法として
「政治的な方法」があることを知っている

だが政治的な解決法はともすると「多数決」という必殺の言葉で
極めて危なっかしいものになってしまう
多数決は現実的なところ、民意の総意の結果ではなく
多数決の数をカウントできる人たちの都合の良い結果とい考えたほうが良いかもしれない

多数決が一人の判断より「まし」である条件は、判断する人がその案件に対して
客観、公平、中立であることが求められるが、現実の世界はこの前提の確保ができていない
ある時は正当な(?)ロビー活動によって、ある時は表に出ない形の協力によって
民意は反映されない形になる
これはある時、「民主主義は民意を反映しないシステムだ」
と定義した若い学者がいたことを思い浮かべてしまう

時々、西欧式の個人主義の考え方は日本にはあわない!
と口にする人に出会う
簡単に言えば、公共的な価値観に従うべきで自分勝手ではいけない
と言う主張だが、こういう人は少し勘違いしていると思う
西欧の個人が大事とする考え方は、自分自身としての個人生活が大事なように
他の人の個人生活も大事と考えていること
つまりは他人の個人を自分と同じように認めるという言うことで
その違いから生まれるものは徹底的な討論等で解決できると言う考え方だ

ちょいと面倒くさい考え方だが、これらは長い時間をかけて育ててきたものだ
その基本的な思考方法を理解せずに、個人主義の言葉でバッサリと
決めつけてしまうのは、自分にはずっと違和感を覚えるものだった

普通の大人が当たり前のように感じる思い、こうした方が良いとか
こうであって欲しい、、という思いが、政治的な意味合いを持つ時
それを表に出すことがこの国は何故こんなに息苦しいものとなってしまうのだろう
(テレビでは暗黙の約束事があるように思えてしまう)

その意味でがっかりした人物は為末大、糸井重里、眞鍋かをり、太田光で
それに逆らったカンニング竹山とか勝俣州和などはちょいうと見直した

とにかく今度の都知事選はプロパガンダによる支配が
進行している可能性を感じさせるものということ



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