パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

想像力

2024年12月19日 10時15分10秒 | 徒然なるままに

FBの「光る君へ」グループに参加している
と言っても、見るだけになっているが、それでも十分面白い
メンバーは女性が多いようなので投稿には男には気づきにくいところもある

深読みした(想像した)感想を述べる人もいれば、歴史を解説してくれる人もいる
知らない人同士がこうした交流を持てるのも凄いものだ

ところで、このグループのお陰で「そうだったのか」
とスッキリしたことがあった
それは矢部さんが演じた乙丸の最終回のこと
彼は旅に出るまひろに同行すると訴えたが
彼には太宰府に出向いた時、口紅を手に入れてそれを贈った
愛しい女性がいたはずだ
彼女を残したまま、まひろについていくのは変だな
感じたのだったが、旅に出るシーンの前に乙丸は
仏像を掘っているシーンがあった
それは愛しい女性は亡くなてしまったことを暗示している
シーンだったのだ(この指摘がグループであった)
だから彼はまひろに同行することができたのだ

大したことではないが、こうしたドラマの理解は
知ることだけでなかなか面白い

もう一つ最終回で気に入ったシーンは
まひろの弟をすごく可愛がって育てたいとさん(信川清順)が
年齢を重ねて少しボケてきて、白髪も増えてきて「姫様、若様はどちらに」
と、もうこの世にはいない惟規の仕事の時間が迫ってきていること
が気になって聞いた時のこと
年齢のなせる技をこのように表現する方法があったのか
と感心すると同時に、このときにの家族の気配りがとても良かった
まひろは「そこよ」と父為時を指差し
為時は「今日は休みなのだ」と答える
この柔らかな娘と父の応対はとてもハートウォーミングなものだった

物語を筋だけで追うのではなく、想像力を駆使して自分なりに理解する
それでこそ物語の真の楽しみ方ではないだろうか
想像力こそが人を人としてあらしめる重要なポイントだ
と思えてならない

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「忠臣蔵」は、もはや社会の共通の記憶ではないそうだ

2024年12月18日 09時38分04秒 | あれこれ考えること

おばあちゃん子だった自分は、新城に2軒あった映画館に
(新城駅に近い方に)よく連れて行ってもらった
覚えているのは「忠臣蔵」「四谷怪談」「新吾十番勝負」
幼かったから自分好みがわかるはずもなく、これらは祖母の好みだったのだろう

忠臣蔵は浅野内匠頭の切腹のシーンをなぜか覚えている
多分「風さそう花よりもなお我はまた春の名残を如何にとかせん」
の歌がなぜこんな時に歌われるのだろうと違和感を持ったのだと思う

四谷怪談は夜にトイレに行くのが怖くなった
(昔はトイレは家の外にあった)
そして新吾十番勝負は「示現流」という言葉が何故か頭の中に残っている

12月14日は忠臣蔵の討ち入りの日
その日は母方の叔母の誕生日でもあった
母方の祖母は叔母に向かって
「お前の生まれたのは討ち入りの日だよ」
と繰り返し言っていたらしい

最近の若い人は「忠臣蔵」とか「松の廊下」とか「吉良上野介」
といってもピンとこないそうだ
「お岩さん」とか「お菊さん」も同様で、殆ど知名度はないらしい

ある年代以上では常識的な知識が全く途絶えているのようだ
そういえば、最近は12月14日になっても「討ち入りの日」
とニュースで伝えることはなくなっている
報道する価値がないとのことだろうが、個人的にあまり好きではない忠臣蔵でも
ある程度の日本人の心情を表すものだから、せめて教養としてこれらの事件は
覚えておいてほしいと思う
(もしかしたらお家大事は、お国大事の心情に繋がり
 ある種の危険性があることも含めて)

忠臣蔵が好きではないのは、主君の汚名を晴らすと言っても結果的に何十人もの人物の
命を奪うようなことになっているからで、そんなものは価値あるものとは思えないからだ
尤も、その当時の価値観は今と違うので否応なしにそう行動しなければならなかった
のかもしれない

忠臣蔵については歌舞伎のそれは、本当によくできている作品だと思う
感情に訴えるストーリーがいくつもあって、万人に受ける要素は納得できる
(ただし、物語は江戸時代ではなく前の時代となっている)

忠臣蔵には否定的だが大石内蔵助はやはりそれなりの人だったとは思う
赤穂藩が取り潰しになった時、武士はみんな失業者になるわけだが
藩に蓄えていたお金は低い身分の者に多く分け(今で言う退職金として)
身分の高い者は少なくしたエピソードとか
瑤泉院(浅野内匠頭の奥さん)から手渡されたお金は
使い道をきちんと記録していたとか
つまりは実務家として、人としては立派だったとは思う

でも、そうした記憶は今の人達に伝わっていない
流れ行く時間の中で、人々の中から少しづつ大事ななにかが忘れられていく
最近は12月8日の開戦記念日すら報道されなくなっている
それは、本当に良いことなのだろうか

何でもかんでも過去の事件に当てはめることが良いとは思わないが
それでも、過去の反省を踏まえるには過去のことは知らなくてはならないと思う
(最近はやたらと日本を美化する傾向が多いようで不安を覚えてしまう)



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書き残しておいた文章とか考え方

2024年12月17日 09時36分00秒 | あれこれ考えること

大河ドラマ「光る君へ」が終わった
多分、女性の捉え方とは違うと思うが楽しめた一年だった
女性は恋愛モノとして、自分はフィクションの見事さとして

ところで、これがきっかけではないが枕草子を現代文で読んだ時
(書き)残しておいたものがあった

枕草子  25  にくらしいもの

途中から

なんでもかでも人のことをうらやみ、自分のことについては泣き言を言い
人の噂話ばかりし、ほかのちょっとしたつまらぬことでも根掘り葉掘り知りたがって
しつこく話をせがみ、話してやらないと、うらんだり悪口を言ったりし
またほんの聞きかじった程度の話を、自分がもともと知っていることのように
他の人にも得得として受け売りしたりする。このような人も実にいやだ。

すぐに想起したのは、立花孝志氏がSNSで一方的に流した情報に
安易にのって拡散してしまった人たちのこと

その他に書き残しているものを見ていたら、こんなのが見つかった

自発的隷従論から(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)

少数者の支配

圧制者をその地位にとどめているのは、つねに4人か5人の者である。
彼のために国全体を隷従の状態に留め置いているのは、ほんの4人か5人の仕業であるということだ。

ことは次の様に進展してきた。まず、5.6人の物が圧制者の信頼を得る。次に自ら彼に近づくか、彼に誘われて、共謀して残虐な行いにふけり、逸楽の場に同伴し、淫行のお膳立てをする。また略奪したお宝のおこぼれにあずかる。この6人は、主君をうまくもり立てて、一味全体のために、主君がいっそう悪者になるようにしむける。その際彼は、自らの悪行のみならず、手下どもの悪行によって悪者となるのだ。この6人は、みずからのもとで甘い汁をすう600人を従え、そしてこの600人は6000人を登用し、所領の統治や租税の管理に当たらせる。こうしてこの6000人を欲深く残虐なままに任せ、必要とあらばそのような資質を発揮させ、更なる悪事を行わせるのだ。もっともこの6000人は、その悪行の際にも、上司の庇護のもとでしか生きながらえることができず、上司の命による以外は、法や罰を逃れることができないのだが。

現実論として圧制者が恐れるものは知恵ある庶民だが、それが育たないように彼らはこんな手をうつ

トルコの大王は、書物や学識というものが、ほかのいかなるものにもまして、人間に、自己を知り圧政を憎む能力と力を与えることを熟知している。だから彼は自分の領土に識者をほとんど置かず、そんな連中も求めたりもしないのだ。

なんかどこかの国もそうしているみたい
もう一つ同じ本からの引用を

自発的隷従論(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)から

農民や職人は、隷従はしても、言いつけられたことをすればそれで済む。だが、圧制者の周りにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧制者の言いつけを守るだけでなく、彼の望む通りのものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめ汲み取らなければならない。連中は、圧制者に服従するだけでは充分ではなく、彼に気に入られなければならない。彼の命に従って働くためには、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さねばならない。彼の快楽を自分の快楽とし、彼の好みのために自分の好みを犠牲にし、自分の性質をむりやり変え、自分の本性を捨て去らなければならない。彼のことば、声、合図、視線に絶えず注意をはらい、望みを忖度し、考えを知るために、自分の目、足、手をいつでも動かせるように整えておかねばならない。

 はたしてこれが、幸せに生きることだろうか。これを生きていると言えるだろうか。この世に、これ以上に耐え難いことがあるだろうか。私は勇壮な人に語っているのでも、高貴な生まれの人に語っているのでもない。普通の常識ある人、さもなくばただ人間の顔をもつ人に対して語っているのだ。こんなふうに生きるよりも悲惨な状態があるだろうか。自分ではなにももたず、自分の幸福も自由も、からだも命も他人に委ねるとは。

想起するのはいつぞやの官僚さんたちのこと
そのように思う人は少なくないと思う

ところで「国家はなぜ衰退するのか」と言う本では結論として「少数者の収奪」
がある時は国家は衰退するとしている
確かにシリアとか、かつてのユーゴスラビア、マルコス時代のフィリピンなどに
その傾向は見られる
(果たして日本にはそれはないと言い切れるか?)

民意と言う言葉でまるで意思を持っているかのようでも
どこに向かうか心配が尽きない大衆とか庶民については
こんな指摘がある

群集心理から(第4章群衆のあらゆる確信がおびる宗教的形式)

群衆は、推理せず、思想を大雑把に受け入れるか斥けるかして、論議も反駁も許さず、しかも群衆に作用する暗示は、その悟性の領域を完全におかして、ただちに行為に変わる傾向を有することを説いた。また過度の暗示を受けた群衆は、彼らに暗示された理想のためには、進んで一身を犠牲にすることを述べ、最後に、群衆は、強烈で極端な感情のみを知ることを説いた。群衆にあっては、同感はただちに崇拝となり、反感が生まれるやいなや憎悪に変わる。これら概括的な説明によって、すでに群衆の抱く確信の性質をうかがうことができる。

これらを読むと、冷静に世の中を眺めた過去の人も、現在自分たちが感じているものと
同じ思いをしていることがわかる
つまりは、過去の出来事はとても参考になるということだ

ただ問題は、こうした過去のことを知っている人と、知っていない人では
その先の考え方とか行動に違いが起きてしまう
いくら考え方には多様性があるとしても、教養としての、あるいは背景知識として
こうしたことを知っていることは、特にそれなりの立場の人には必要と思われる


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不安なこと

2024年12月16日 10時12分08秒 | あれこれ考えること

泉大津の市長選は、問題の立花孝志氏が立候補して
昨日投票の結果、現職の南出けんいち氏が当選した
投票率は44.07%で
南出けんいち 21,700 立花孝志 4,439 だった

初日こそ街宣車の周りに人だかりができたが
徐々に人が集まらなくなった立花氏
それは選挙を面白半分にしてはならないとする泉大津市の
市民の気持ちの現れと思えたのだが
4,439票の数はどのように理解したら良いのだろうか
個人的には多すぎると思うし、以前からの不安が消えることがなかった

いろんな考え方があるとしても、自分の頭が固くなっているとしても
自分はこの結果に不安を覚える
いくらかの数の人がこうした人に投票してしまう現実に

不安な出来事はもう一つある
被団協がノーベル平和賞を受け取るためにノルウェーに行った
テレビニュースを見たが、その人々の中に数人の高校生らしき女性が見られた
ちなみに授賞式の航空券とかホテル代は3名まで主催者持ちのようだから
彼女たちは自費、募金(クラウドファンディング)などで賄ったと思われる

不安なのはそこに若い男の姿が見られなかったことだ
とりあえず、若い女の子たちはいた
ニュース画面で自分たちの行動の意味を語る若い女性たちは
とてもしっかりしているように見える
ところが若い男の姿が見られない
単にテレビ画面に映らなかっただけなのか
それとも本当に若い男は少なかったのか、それはわからないが
なんとなく若い男の出不精というか覇気の無さが気になっているので
これが不安でしょうがない

日本の若い男どもは大丈夫か?単純にそう思う
多様性を認める様々な経験とか面倒なことよりも
心地よく過ごせる今の事態を過度に信じ切っている姿

世の中にこうした男女差があるとしたら、政治とか仕事分野で
男だけが上のポジションに居るというのは合理的でないし
内向き傾向が進んでしまいそうな気がする

これらが杞憂であれば良いのだが、、






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理解は個人のポテンシャル内でしか果たされない

2024年12月15日 10時02分58秒 | あれこれ考えること

なにかすごい話になってきている
韓国の尹大統領が戒厳令を出したのには極右のYoutubeの影響を
受けたためとの説が、かなりの信頼性をもって伝えられている

今どきらしい
と、のんびり構えているわけにはいかないと思われるのは
日本でも似たようなことがあるからで、先の兵庫県知事選は
その典型的な例だ

分断が生まれてしまったように見える兵庫県
ある程度の意見の相違があるのは当然だとしても
今回のことで自分が一番ショックを受けたのは
殆どデマと思われることが、少なからずの人々に真実と思われてしまったこと
そしてそのために、双方が罵り合いにまで発展している

人はなぜデマに振り回されてしまうのだろう
嘘と思われることを何故信じてしまうのだろう
世界史的には「シオン賢者の議定書」という偽書を信じ込み(意図的に利用し)
ナチスがユダヤ人を最終解決の正当性を訴えた例がある

自分が知らないことは、知らないが故にそれを無邪気に信じてしまうかもしれない
違うと言う根拠も、本当だと言う根拠もないとき、保留状態にしておくのは気持ち悪い
と感じるのは人間の傾向らしく、人は無理矢理にもどちらかを信じてしまう
そしてその信じるものは自己の経験とか感情にフィットする方を真実と思い込みやすい

こうした時、兵庫県でもそうなのだが、法的な理解とか手続きの妥当性があるかないかが
本来は問われるべきなのだが、必ずしもそうとはならず、むしろ判断の基準は
感情的なものとか自己の理解できる範囲内にとどまってしまう

例えば、公益通報か否かと言う問題では提出された場所による1号と3号の違いがあって
公益通報と認定されるタイミングは法律家によっても意見の相違があるらしい
(これはこれで別の場所で問われることか?)

また百条委員会は法的に個人のプライバシーを問うてはならないとされていて
委員会で審査されるのは議題として挙げられたことの審議だけなのだが
それを一部の人達はなにか隠しているとかで関係のない話まで広げている
(話は飛ぶが、新城市議会では以前、懲罰委員会が開かれたことがあったが
 訴えられた議員は議会で個人的なことを口にしたからだったし
 【プライバシーはこのくらい守られるということ】
 別の議員が政治倫理審査会に訴えられてそれが長くなったのは
 あらかじめ調査すべき項目がたくさんあっためで、今回の百条委員会は
 その手続きに沿ってちゃんと行われているように思われた)

問題はこうした細かな、あるいは精緻な理解ではなく
個人の理解できる範囲内での解釈が何よりも優先することだ

つまりは、一番わかりやすく興味を引きそうなネタ(不倫とかクーデターとか)
を信じやすいことになる
今回例では個人のUSBを強制的に取り上げて、中身を見た人が自分たちに優位な
道具として使っていて、その中身は多くの人は知らないので
見たという人の解釈を信じるしかないのだ
だがそれは本当にその解釈で良いのか?

そもそも法的に個人のUSBを取り上げることは法的に許されるのか
そのUSBに入っていた内容は書き換えられていないか
これらは証拠として正当性があるのか は疑問なのだと思う
(またデータが外部に漏れているのは、それも問題とする考えもある)

ところで、SNSを見ていると本当に知らなかったことが
集合知と言う形で明らかになってくる
公務員のパソコンは通常USBからのデータは読み込むことはできるが
その反対のパソコンからUSBへのデータのコピーはできないとのことだ
(仕事中に行っていたとされる余分な仕事はどうやって
   個人のUSBに移すことができたのだろう)

また先日の「パワハラは確認されなかった」とされる兵庫県の報告は
実態は「パワハラがなかったとするものではない」とのことで
どっちともとれる内容というのが実態だ
また、今話題となっているのが、県の調査を扱う部署が一般的なら法務関係の部署なのだが
何故か今回は財務関係の部署が行っていて
その部署のスタッフは斎藤知事の元部下ということらしい

だから偏った結果になったとは言わないにしても
なにか疑われても仕方ないようには思えてしまう

ということで、人は地道にわかりにくいことを理解しようとするよりは
自らの感情とか知識量に従って物事をわかった気になりやすいということ
それはタイパの一言で片付けられる問題ではないと思う

わかりやすさの罪
最近はこのことをつくづく実感する




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正月の休業について

2024年12月14日 09時30分09秒 | あれこれ考えること

百貨店の幾つかが元日と2日を休業するとのニュースが流れていた
素直に良いことだと思った
中には店が開いていないことで不便を覚える人もいるから
一概に賛成はしかねるとの考えもあるようだが
優先すべきは家族のある社会人(従業員)の生活を守ることで
それは2日間の営業利益よりも価値あることだと自分は思う
(そもそも今まで正月休みだったのを営業するようにしたのは
   開いている分だけ売上が上がると考えたからだ)

昔聞いた話だが、愛知県に本社のあったあるチェーン店は正月も営業していた
ただその日、店に出ていたのは年輩のお偉いさん方だったそうだ
一番の働き手の若い年代は子どもたちとか親戚との時間が必要なので
手当をつけても応募がなく、仕方無しに出勤の羽目になったそうだ

自分が子どもの頃、店は正月休みが大半だった
一年の計は元旦にあり!の言葉を親などから聞かせされ
年の初めからお金を使うのは良くないと教え込まれた

店が開いていない分は年末に不足等を見越して年末のうちに購入しておく
それが身についた知恵だった

同様なことで自分が賛成しかねた営業形態にコンビニの24時間営業がある
もともとは7時から11時の意味で名付けられたあの有名な店舗も
販売機会のロスを恐れて24時間営業に踏み切ったのだった
だが、そこで起きたことは売上数字だけでは判断できないものだった
(人手不足、そしてそれを補うオーナーたちの過剰労働、犯罪、間接経費の増加などなど)

休みはそいうものだ!とあらかじめ生活に組み込まれていれば
人はその中でなんとかこなしていくのではないだろうか
昔、ドイツ等を放浪した時、日曜日は店が開いていなかったし
人々はそれで不便を感じているようには思えなかった
日曜日には教会から人の声が聞こえた

聖書では1週間に一度休むことは神の教えとされている
休むということは労働してはいけないということで
以前、これをものすごく厳密に守っていたのがユダヤ教の人たちで
一時期はシナゴーグまで車で行くというのは
運転は労働になるから禁止されていたこともあったらしい
流石にそれは現実に合わないのでそれは許されるようになったが
休め!というのは神の言葉みたいな一種強制的なものがないと
なかなか実現できないかもしれないと実感する

豊かな生活とか人間らしい生活というのは
経済的状況に左右されるとしても、内的な生活の満足度も重要だと思う
尤も、内的精神の充実は経済的バックボーンがあってこそとも言えるので
どちらが先か?というのは鶏と玉子論争になってしまいそうだが





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次々と出てくる故障など

2024年12月13日 09時19分29秒 | ダイアリー

今年は電化製品の不調が続いている
まずは3年ほど使用したiPhoneが突然作動しなくなるようになった
そこで、今の生活では高機能は必要ないので
一番廉価モデルのSEを購入した

次は9年目の車検で、クーラントの不足が頻繁に起こることを伝えると
どこかに穴が空いていて漏れるとのことで
その修理に笑えないほどの金額を要した

その他にもオートマの変速時にショックが大きいので見てもらうと
変速機の機械的な不調が見つかり、これも載せ替えして
多くの渋沢さんと別れれることになった

これで一段落と思いきや、今度はテレビ画面が急に二重に見えるようになった
色もおかしい
このテレビは8年くらい前に購入したものだが
見れれば良い!と言う感覚で少しばかり廉価のものにしていたのだった
結局、それなりの価格のものを購入する羽目になった

3週間ほど前には、17年使い続けている床暖房の部品(リモコン)の
3つのうち一つが何の反応もしなくなった
急いでメーカーの問い合わせてサービズの方が来られて
チェックすると不意に普通に作動するようになった
どうやら接触不良だったようだ
しかし、屋外機器も長年使っているから、そろそろ故障するかもしれないし
修理するにも部品がないかもしれない!
との恐ろしい言葉を聞く羽目になった

もう一つの屋外機器、エコキュートも17年使っているから
いつ不調になっても不思議ではない(怖い怖い)

そして次は
実はこれが一番ショックが大きいかもしれないのだが
レコードの再生時に全く音が出なくなった
CD再生時には音が出るので、レコードの周辺機器に原因がある
怪しいのはフォノイコライサーだ
これももう10年以上頑張ってきている
ということで、今日はオーディオショップに修理等の相談に

どういう理由か、こうしたものはバトンリレーのように次々と現れてくる
たまたま機械的な寿命が重なっただけかもしれないとしても
なんかショックだな

ついつい、こうした状況と自分の体調の不良を重ね合わせてしまう
相変わらず腰はイマイチだし、腰から来る股関節関係もどこか違和感がある
記憶力も目もなんだか怪しくなってきてるし
瞬発力なんてものは運動機能も思いつきにも見られなくなっている

全部、仕方ない、、と思うしかないのだろう
時間が経過するというのはこういうこと
そんなことを気にせずにいられるのは、それだけで幸せなことかもしれない


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現時点での選択は、思いのほか難しいのではないか

2024年12月12日 10時13分33秒 | あれこれ考えること

新聞をトイレの中で読むのが習慣になっている
文句を言っていた同居人は、今は諦めてするがままになっている
この中で二つの記事が気になった

一つは豊橋市の市長が「住民投票を提案せず」の方針を伝える記事
もう一つは兵庫知事告発文書 県の調査 パワハラ「確証なし」の記事

豊橋市は分断が起きつつある
それは新アリーナ建設に反対し、それを訴えて立候補し当選した長坂市長が
前市長が契約した工事の契約破棄を行う手続きに入っているからだ

ところが、豊橋と浜松をベースに活動しているプロのバスケットチームがあって
バスケットチームを応援したり、これを地域発展のきっかけと考える人達は
アリーナ建設は必要だと考えている
Jリーグでもそうだが、正式にBリーグに登録されるためにはホーム会場として
それなりの規模が必要になっている
つまりはホームの会場があってこそチームと言えるわけだ

選挙後、アリーナ建設を求める人達は署名活動を展開して
市内外で約13万筆を集め、アリーナ建設の継続を求めて市長に提出した
しかし市長は公約に掲げたことだから方針の転換はできない

このように市民の意見が分断している場合には「住民投票」に問うと言う手段がある
住民投票の結果に拘束力はないが、無視するわけにいかず、多くはその結果を
尊重するようになっている

豊橋市ではすでに2回ほど「住民投票を行うべし」として
市民の有志(アリーナ反対派)が署名活動を展開し、規定の署名数が集まった時点で
議会の判断に委ねることになった
だが、その結果は2回とも議会の判断は「住民投票の実施に否決」だった

市を二分するような問題なら、あの時住民投票をしておけばよかったのに!
と思うが、これはそう簡単な問題ではなさそうだ
住民投票をして負けてしまったら都合の悪い人たちは、住民投票などしないほうが良い
結果がやってみないとわからないが、最悪の予想をすると住民投票などは余計なことだ
と考えても不思議ではない

議会が否決した住民投票だが、現時点で豊橋市に分断があるのは事実だ
(しかし、市長選の投票率は高くなかった)
それならば、今度は市長が現状を鑑みて住民投票の実施を議会に提案し
議会で可決すれば住民投票は可能となる

ところが今度困るのは市長の方だ
仮に今、住民投票をしてアリーナ建設賛成の方が多くなってしまったら
その意見を無視できない
だから「選挙公約としてアリーナ反対を訴えてきた」市長は
そうした状況をつくりたくない
そこで彼が口にしたのが
「前と議会の状況は変わっていないので、住民投票の可決は難しい」
との考えだ
そこには住民投票の結果への不安がある

ここでわかることは、民意としての選択を選ぶという行為(住民投票)は
実は行政と鍵員の都合によって左右されていることだ
つまりは当事者同士の背景なしに「どっちがいいいか?」
という白黒の選択の機会は与えられないということだ

話は兵庫県の記事に変わるが、調査結果の発表が選挙結果後という点が
大きな意味を持つのではないだろうか
斎藤さんは県知事に再選された
この記事の調査をしたのは誰かが詳しく書かれていないが
仮に県としたら県職員が行ったこととなり
それはもしかしたら首長として適切か否かを問うものとなる
毎日顔を合わせる可能性のある人物を
現実問題として完璧に公平に立ち向かうことができるだろうか?

もし斎藤さんが再選されなかったとしても
兵庫県の調査の結果は同じだったのだろうか
そうであってほしいというものの、現実世界は職員と首長との関係がある
つまりは、結果はいろんな要素で変わってしまいそうだ

このような調査は、つまるところ第三者に任せないと公平が保たれない
と想像できるが、実態はどうだったのか気になる

ということで、いろんな意見があって、公平に物事を進めようとしても
実態は何らかの損得で縛られているということで
それなりの年齢の大人は、こうしたことも頭に入れて
よーく考えないとあかんな!と実感する

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読みかけの本と読みたい本

2024年12月11日 09時34分43秒 | 

先日、友人のお母さんのお葬式に列席した時
キリスト教の牧師さんが話されたことが気になった

「エッセンシャルというのは必要不可欠という意味です
  世界中のどの地域にも宗教はあります
 だから宗教は人類にとって必要不可欠なものです
 また、ほとんどの宗教はあの世のことを扱っています
 キリスト教も、、、」

普段耳にするエッセンシャルはこう言う意味だったのか!
と初めて知ったのは恥ずかしいが、確かに宗教というものは
人類には心理的必然性があるように思われる

そこで思い出したのが昔読んだ3冊「世界宗教史」ミルチア・エリアーデ著

本棚にひっそりと並んでいたのを、今ならどう感じるだろうかと
引っ張り出して、ところどころ読んでみた
しかし、情けないことに何も覚えていない
かすかな記憶にはどの宗教にも「イニシエーション」(通過儀礼)が存在する
ということぐらいだ
今読んでも手応えはありすぎて、昔、本当に読んだのか?
とさえ思うが、これは部分的に拾い読みしたい気分
(今はユダヤ教絡みのところ)

ところで自分は同時進行で何冊かの本を読むタイプではなかった
一冊をとにかく終えてから次に取り組むのが常だった
しかし、困ったことに今は読みたい本が一気に増えてしまった

図書館で借りたのは村上春樹と並んでノーベル賞候補と言われる
金井美恵子さんの「スター誕生」

一つ一つの文章がとても長くて、野坂昭如の「エロ事師たち」を思い出した
それからプルーストの「失われた時間を求めて」と文体が似てるな!とも

ところで最近の世の中は「法に抵触していない」との言葉で芳しくないこともスルーされる
傾向にあるが、そもそも「法の存在意義」は一体なんだろうか、、
と考えるうちに思いついたのは「法の精神」モンテスキューの本
何が書かれているかは全くわからないが、今の気分に合いそうとの直感でアマゾンで購入した


これは面倒くさい本だが、とても面白い
西欧人の知識人の懐の深さに驚く

アマゾンで購入した最近の本は「赤松小三郎ともう一つの明治維新」

少し前に読んだ「江戸の憲法構想」の中に、幕府の中にも民主主義的な考えを持った
赤松小三郎という人がいて、生きていたら世の中は今とは違ったものになったとされるが
彼はテロによってその役目は果たすことができなかったとあった
自分は運の悪い人はどうしても気になってしまうし、読むべきとの使命感に襲われて手に入れた

そして今年中に読み終えないと!と脅迫観念に襲われるのが「香子」紫式部物語 帚木蓬生著

5冊ある中の最後の一冊だ
「光る君へ」の進行と合わせて読んでいたが、これは何としても今年中に最後のページに
たどり着きたいものだ

ということで、少なくとも今は「読みたい」意欲とか衝動があることにホッとしている
なかなか偉いぞ!と自分で自分を褒めてる毎日

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まとまりの良い作品は、、

2024年12月10日 09時15分00秒 | あれこれ考えること

視聴率は芳しいものではないようだが、一年間欠かさず見ている「光る君へ」
昨年の「どうする家康」は地元にも関係することもあって我慢してみていたが
今年は我慢どころか、視聴中の時間経過が速く、次回が待ち遠しいくらいだった

確かに藤原姓が多くて、人間関係とか地位の把握が難しかったが
それでも源氏物語のエピソードを匂わせる挿話とか
歴史上有名な人物のさりげない登場は面白かった

その大河ドラマも来週が最終話
総括としてどんなことになるかわからないが、先日まででふと思いついたことがあった

先日は周明(ジュウミン)が弓矢に打たれて亡くなった
このドラマの一話ではまひろの母が斬り殺された
最終話はエピローグとすれば、最初と実質的な最後は親しい人の死で
まとめられているのではないか!と要らぬ想像をしてしまった

この最初と最後に同様なエピソードを採用するのは
物語としてのバランスが良いような気持ちが働いたからではないのか

話は飛ぶが、ビートルズのサージェント・ペパーズのアルバムは
最初にアルバム・タイトルの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ」
が演奏され、最後の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の前に再びタイトル曲が再現される
これを聞いたとき感じるのは、まとまりが良いとか統一感だ

分野は違っても、何かをつくる人は知らず知らずバランスの良い手段として
こうした手法をもちいるのではないだろうか

ヴァーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」では
一幕はイゾルデとブランゲーネの女同士の話がメインで
第三幕はトリスタンとクルベナールの男同士の話が際立っていて
それは一種対称の様になっている

たまたま必然的にそうなっているのか、意図的にそうしようといたのかわからないが
このように考えることができると、あれこれ想像することはなんだか楽しい

ということで、毒にも薬にもならない話をいろいろ考えることのできるというのは
とても幸せなことだと思う

その反対に幸せだとは思えないことは「泉大津市市長選」で面白半分に出馬した
立花孝志氏の演説を、まるでタレントを見守るかのように多くの人たちが
聞き入っていることだ
そこでは立花氏を批判する人々もいて一時騒然となったようだが
彼のような人物は相手せずに無関心に徹することがベストだと思う

#立花孝志から社会を守れ
というハッシュタグが広まっているが、本当にこの通りだと思う

 

コメント
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