■詣でるのは春待ちの本殿
元日地震が発災しますと何かいい話題は無いのかと思われるかもしれませんが。
新しい一年の朗報を挙げますと、平野神社の大鳥居に遂に扁額が帰ってきました。そう、昨年までは扁額の無いまま、なにしろ拝殿の台風被害から復興を受けるとともに本殿の修理が始まりましたので平野神社はいつ行っても普請中、という印象でした。
扁額の戻った鳥居とともに、本殿の修復も完了していますし、勿論拝殿も元通り、これは2018年の、つまりコロナ前から続いていた不振がようやくひと段落しまして、そう春待ち、というのでしょうか、今年の桜の季節の情景が待ち遠しくなるほど。
平野神社、此処の本殿は日本的というか昔の日本の良さを示すというか説明が難しい。今木皇大神、久度大神、古開大神、比売大神、この四柱が主祭神として奉じられています。で、どなたが一番なので、と問おうものならば紙屋川川底に案内されるかもしれない。
紙屋川云々は冗談にしても、今木皇大神、久度大神、古開大神、比売大神、これ全て主祭神として奉じられていまして、あとからついかというのではなくもう平安時代の延喜式神名帳には平野祭神四社と明記されているのです。いや最初は今木皇大神だけであった。
今木皇大神さん、いまきのすめおおかみさんと読むのですが、此処から広がっていったといいまして、実に日本的だなあと思うのは比翼春日造の本殿といい、要するに四柱が平等になるにはどのようにすればよいのかという試行錯誤の方式で変容を続けたため。
比翼春日造様式は、平安朝の頃から連綿と受け継がれているようで建て替えの旅に、さてあれどんなだっけかてきな変容を繰り返していまして、平安時代の頃から鎌倉時代にかけての時代には、二棟に左右二柱づつを奉じて四柱を平等に並べたとされています。
室町時代の頃には、相当廃れていたようで、二十二社の上七社がそれでは心もとないとも思われるかもしれませんが建武の新政に南北朝分断や応仁の乱など、神様に祈るよりもまず紛争を鎮静化しなければならないという動乱でもあり、資料さえ残るものが少ない。
慶長年間にはようやく余裕が出てきた関係で、しかし第一殿と第二殿を連結するものの第三と第四は独立するという左右対称なのか非対称なのかは分かりにくい構造で再建されたというのですが、これがまあ現在の形になったのが寛永年間といいます。
昭和中期以降の日本の製品や建築物は興行的といいますかマスプロかされたものを正確に精緻に量産する事だけを考え、そのグランドデザインをどうするかという重要分野が硬直化された産業システムの中に消えてしまい、しかも社会制度もこれに倣った。
日本の停滞は、右に倣えの精神と傾斜生産方式の残滓の様なそれっぽいものを製造するならば多少の改善を積み重ねるだけで延々と売れ続ける構造が定着してしまい、世代交代や次の需要の読み取りというものが往々にして失敗してしまったことが響いている。
平野神社の本殿は、いいものであればそれでいいではないかという寛容さと、追加された祭神をそのまま分け隔てなく並べてゆき一体化させるというもう一つの融和性というものを内包しているようで、この本殿を見るたびに、成程な、と考えてしまうのです。
春待ち。さてさて、平野神社といえば花山天皇の時代から観桜が名物です、既に一部咲いているのは十月桜なのですが、今年は久々に出店が並ぶのか、桜並木のみ有料区画となるのか、そして四月まで花が続くのか、いまからもう楽しみになってしまうのですよね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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元日地震が発災しますと何かいい話題は無いのかと思われるかもしれませんが。
新しい一年の朗報を挙げますと、平野神社の大鳥居に遂に扁額が帰ってきました。そう、昨年までは扁額の無いまま、なにしろ拝殿の台風被害から復興を受けるとともに本殿の修理が始まりましたので平野神社はいつ行っても普請中、という印象でした。
扁額の戻った鳥居とともに、本殿の修復も完了していますし、勿論拝殿も元通り、これは2018年の、つまりコロナ前から続いていた不振がようやくひと段落しまして、そう春待ち、というのでしょうか、今年の桜の季節の情景が待ち遠しくなるほど。
平野神社、此処の本殿は日本的というか昔の日本の良さを示すというか説明が難しい。今木皇大神、久度大神、古開大神、比売大神、この四柱が主祭神として奉じられています。で、どなたが一番なので、と問おうものならば紙屋川川底に案内されるかもしれない。
紙屋川云々は冗談にしても、今木皇大神、久度大神、古開大神、比売大神、これ全て主祭神として奉じられていまして、あとからついかというのではなくもう平安時代の延喜式神名帳には平野祭神四社と明記されているのです。いや最初は今木皇大神だけであった。
今木皇大神さん、いまきのすめおおかみさんと読むのですが、此処から広がっていったといいまして、実に日本的だなあと思うのは比翼春日造の本殿といい、要するに四柱が平等になるにはどのようにすればよいのかという試行錯誤の方式で変容を続けたため。
比翼春日造様式は、平安朝の頃から連綿と受け継がれているようで建て替えの旅に、さてあれどんなだっけかてきな変容を繰り返していまして、平安時代の頃から鎌倉時代にかけての時代には、二棟に左右二柱づつを奉じて四柱を平等に並べたとされています。
室町時代の頃には、相当廃れていたようで、二十二社の上七社がそれでは心もとないとも思われるかもしれませんが建武の新政に南北朝分断や応仁の乱など、神様に祈るよりもまず紛争を鎮静化しなければならないという動乱でもあり、資料さえ残るものが少ない。
慶長年間にはようやく余裕が出てきた関係で、しかし第一殿と第二殿を連結するものの第三と第四は独立するという左右対称なのか非対称なのかは分かりにくい構造で再建されたというのですが、これがまあ現在の形になったのが寛永年間といいます。
昭和中期以降の日本の製品や建築物は興行的といいますかマスプロかされたものを正確に精緻に量産する事だけを考え、そのグランドデザインをどうするかという重要分野が硬直化された産業システムの中に消えてしまい、しかも社会制度もこれに倣った。
日本の停滞は、右に倣えの精神と傾斜生産方式の残滓の様なそれっぽいものを製造するならば多少の改善を積み重ねるだけで延々と売れ続ける構造が定着してしまい、世代交代や次の需要の読み取りというものが往々にして失敗してしまったことが響いている。
平野神社の本殿は、いいものであればそれでいいではないかという寛容さと、追加された祭神をそのまま分け隔てなく並べてゆき一体化させるというもう一つの融和性というものを内包しているようで、この本殿を見るたびに、成程な、と考えてしまうのです。
春待ち。さてさて、平野神社といえば花山天皇の時代から観桜が名物です、既に一部咲いているのは十月桜なのですが、今年は久々に出店が並ぶのか、桜並木のみ有料区画となるのか、そして四月まで花が続くのか、いまからもう楽しみになってしまうのですよね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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