北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】平野神社-初詣,比翼春日造様式の昔日日本文化への憧憬と十月桜の春待ちの平野さくら

2024-01-17 20:24:03 | 写真
■詣でるのは春待ちの本殿
 元日地震が発災しますと何かいい話題は無いのかと思われるかもしれませんが。

 新しい一年の朗報を挙げますと、平野神社の大鳥居に遂に扁額が帰ってきました。そう、昨年までは扁額の無いまま、なにしろ拝殿の台風被害から復興を受けるとともに本殿の修理が始まりましたので平野神社はいつ行っても普請中、という印象でした。

 扁額の戻った鳥居とともに、本殿の修復も完了していますし、勿論拝殿も元通り、これは2018年の、つまりコロナ前から続いていた不振がようやくひと段落しまして、そう春待ち、というのでしょうか、今年の桜の季節の情景が待ち遠しくなるほど。

 平野神社、此処の本殿は日本的というか昔の日本の良さを示すというか説明が難しい。今木皇大神、久度大神、古開大神、比売大神、この四柱が主祭神として奉じられています。で、どなたが一番なので、と問おうものならば紙屋川川底に案内されるかもしれない。

 紙屋川云々は冗談にしても、今木皇大神、久度大神、古開大神、比売大神、これ全て主祭神として奉じられていまして、あとからついかというのではなくもう平安時代の延喜式神名帳には平野祭神四社と明記されているのです。いや最初は今木皇大神だけであった。

 今木皇大神さん、いまきのすめおおかみさんと読むのですが、此処から広がっていったといいまして、実に日本的だなあと思うのは比翼春日造の本殿といい、要するに四柱が平等になるにはどのようにすればよいのかという試行錯誤の方式で変容を続けたため。

 比翼春日造様式は、平安朝の頃から連綿と受け継がれているようで建て替えの旅に、さてあれどんなだっけかてきな変容を繰り返していまして、平安時代の頃から鎌倉時代にかけての時代には、二棟に左右二柱づつを奉じて四柱を平等に並べたとされています。

 室町時代の頃には、相当廃れていたようで、二十二社の上七社がそれでは心もとないとも思われるかもしれませんが建武の新政に南北朝分断や応仁の乱など、神様に祈るよりもまず紛争を鎮静化しなければならないという動乱でもあり、資料さえ残るものが少ない。

 慶長年間にはようやく余裕が出てきた関係で、しかし第一殿と第二殿を連結するものの第三と第四は独立するという左右対称なのか非対称なのかは分かりにくい構造で再建されたというのですが、これがまあ現在の形になったのが寛永年間といいます。

 昭和中期以降の日本の製品や建築物は興行的といいますかマスプロかされたものを正確に精緻に量産する事だけを考え、そのグランドデザインをどうするかという重要分野が硬直化された産業システムの中に消えてしまい、しかも社会制度もこれに倣った。

 日本の停滞は、右に倣えの精神と傾斜生産方式の残滓の様なそれっぽいものを製造するならば多少の改善を積み重ねるだけで延々と売れ続ける構造が定着してしまい、世代交代や次の需要の読み取りというものが往々にして失敗してしまったことが響いている。

 平野神社の本殿は、いいものであればそれでいいではないかという寛容さと、追加された祭神をそのまま分け隔てなく並べてゆき一体化させるというもう一つの融和性というものを内包しているようで、この本殿を見るたびに、成程な、と考えてしまうのです。

 春待ち。さてさて、平野神社といえば花山天皇の時代から観桜が名物です、既に一部咲いているのは十月桜なのですが、今年は久々に出店が並ぶのか、桜並木のみ有料区画となるのか、そして四月まで花が続くのか、いまからもう楽しみになってしまうのですよね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【京都幕間旅情】平野神社-初詣,皇太子守護の社殿は八姓の祖神に一年の挨拶とともに平安を願う

2024-01-17 20:01:19 | 写真
■平野神社へ初詣
 元日地震さえなければ箸が転がっても慶事なのですが橋が転がるような側方流動が起る震災が起こってしまってはとももおもつつ初詣です。

 平野神社、北区平野宮本町の西大路通り沿いに鎮座しています神社です。ここにはいろいろ思い入れがありまして、そして何かこう文明開化と共にいろいろなものが情景として失われる錯覚がある中で、神域を護る鎮守の森はいまなお聳え、安心感を醸す一画だ。

 初詣、そう初詣の話題なのですがここの初詣は松の内といいますか三が日の内にお参りしましたところの話題を。もともとは平城京の田村後宮に鎮座していました神社といいまして、平安遷都に際して平安京大内裏の鬼門を護る神社として此処に遷りました。

 鳥居をくぐりまして、春爛漫な季節にはこの一帯を桜吹雪か、ちょっと出遅れると、何しろ最近は桜の開花時期が早いのだ、春爛漫の頃には青葉というきせつにもなっているかもしれないのですが、まあ、賑やかな情景でして、いまの冬景色はなんともはや。

 西大路通から鳥居をくぐりましたので本殿を真横に神域を進むのですが、真冬の桜並木は、近寄れば確かに蕾は見えるのでしょうけれども、もの悲しさというような景色だけを湛えています。春になれば、とおもいつつ春になればここは有料拝観の桜並木となる。

 皇太子守護の社殿だ。ここ平野神社は不思議な性格をもちまして、いや平安遷都に遡る歴史を湛えるならば東寺の常識と現在の常識が異なることも気づかねばならないのですけれども、そのなかでこの神社は皇太子守護を願い、桓武天皇の生母が創建したとも。

 初詣にそんな、と思われるかもしれませんけれども、ここのご利益はほかの数多神社と同じくその歴史の流れと共に性格を異なるところに向かわせているようではありまして、実際、源氏、平氏、高階氏、大江氏、中原氏、清原氏、菅原氏、秋篠氏の氏神、と。

 八姓の祖神、なんていうふうに奉じられている背景にはこの多くの氏神としての存在がありまして、こう報じられる背景には皇太子守護を皇統守護に置き換え、そのまわりを護る公卿と官僚機構を、含めて皇太子守護と強い解釈を加えたともいえるのかなあ。

 現代の日本、平成も過ぎて令和ですが、これはまあ、見方を変えれば国民国家へ少なくとも明治憲法の時点で日本は方向性を定めたのだろうからいわば万民の云々、ご利益を云々、とみえるのかもしれません。そして京都に多いが全国では稀少な別表神社の一つ。

 二十二社の上七社その一つに列せられていまして、平安時代以降、天変地異などが起きました際には国家鎮護の行事等を執り行う社殿でもありまして、いや一年の計は元旦にあり、という最中に凄いのが能登半島を襲った後なのですけれども、一年の無事を祈る。

 北野天満宮と平野神社は、そう、大鳥居こそは離れているのですが神域そのものは紙屋川を挟んでほぼほぼ隣接しているような立地ですので、しかし北野天満宮が大学共通テスト間近ということもあり丸太町通りまで行列が続くのと比べなにかここは対照的だ。

 正月という事もありまして振る舞い酒も用意されていて、いや帰りは車だからという人に向けて甘酒もふるまわれている。これもたる酒を早々の鏡開きのような活気と豪気さには対照的に、指呼の距離にある北野天満宮程混雑がないのが印象的なのですけれど。

 災害の無い一年を、願っているのは2018年の台風21号災害により拝殿が倒壊するなど大被害を受けてしまった平野神社の氏子衆こそ、とおもうのですが、先ずはお参りを、と振る舞い酒はぐっと我慢しまして、そしてこう本殿の方へと向かいました次第です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎮魂1.17:兵庫県南部地震/阪神大震災発災29年-巨大地震,平時ではない非常時の概念とどう向き合うか

2024-01-17 07:00:38 | 防災・災害派遣
■1.17が遺した明日への教訓
 0547時でしたか部屋の鳩時計はもう少し進んでいたようにも思うのですが不思議と揺れる少し前に目が覚めたのを思い出します。

 本日で、あの兵庫県南部地震、阪神大震災発災から29年となりました。経験のない激しい揺れ、というものを経験する事となりましたが、神戸市と淡路島とに伸びる野島断層の直下型地震は震源が浅かったもののその直情には当時は想定外と云われたほどの激震により、建物倒壊と大規模火災により多くの犠牲者を出した、死者数は6000名を越えました。

 戦後日本災害史を顧みれば、あの阪神大震災以前の最大の災害と云えば伊勢湾台風であり、しかし伊勢湾台風を契機に防災インフラ整備が進められ、1973年の大規模地震対策特別措置法や建築基準法改正により、地震災害は最早克服できるのではないかという錯覚を、危機管理というものも突き付けるとともに根本から覆してしまったものが阪神大震災という。

 伊勢湾台風は、まだ太平洋戦争の記憶が新しい頃の災害ではありましたが、そうした戦時という記憶を深く封印してしまった遥か後、阪神大震災は、平時ではない状況がある、といういわば有事の概念を突き付けたのも、特色であったのかもしれません。実際問題、119番や110番が輻輳し通報不能となる様な状況は平時以外としか言えないのではないか。

 震災を鎮魂するだけで、浮かばれるというならばわたしもそうとどめるべきと思うのですが、2011年東日本大震災と、熊本地震に能登半島地震と震災は続き、そして南海トラフ巨大地震が想定され警戒されているうえで、そもそも平時の制度を維持できない状況における国の仕組み、憲法が想定しない緊急事態、というものの必要性と向き合うべきでは、と。

 阪神大震災は、トリアージという制度の必要性を突き付ける機会ではありましたが日本医師会を含め当初はトリアージを命の選別に繋がるとして否定的でした。わたしも否定的なのですが日本医師会は東日本大震災規模の地震でも医療体制が充分な水準への医療基盤を構築するようなことはせず、結局トリアージをせざるを得ない状況に結果的に陥りました。

 東日本大震災、そして次の国家危機というべき巨大災害を考えますと、先ず、阪神大震災において平時ではない状況が起きうるという簡単な事実を突き付けた、その為の平時以外の状況に対応する制度を構築する決断を躊躇することは、もしかするとあの震災で救えなかった人命の幾つかが残した教訓を、風化させているのではないか、危惧するのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする