北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】小田原城(神奈川県小田原市)堅城は上杉謙信と武田信玄を退け豊臣秀吉と戦う

2024-01-31 20:24:19 | 旅行記
■最盛期の巨大な城郭
 城郭探訪は時間の関係から掘割の散策を割愛して文字通り登城に臨んだのですが見上げる天守閣は青空に映えていて美しい。

 小田原城は広い、そして堅城である。これは現存する城郭そのものの大きさと共に石垣、城郭が籠城するうえでの防御施設と何より必要な兵站物資の備蓄に適しているとともに、上杉謙信と武田信玄の侵攻を防ぎ切った為という一点でもすべてを示す事ができる。

 上杉謙信については、もっとも最初の上杉謙信による小田原攻めは関東管領を目指す上杉氏の示威行動であったともいわれていますが。ただ、永禄12年こと西暦1569年の武田信玄による小田原攻めは非常に危険な状況でもあったようで、城郭は拡張される。

 天守閣へ天守閣へ、と階段を上りそして櫓や城門を往く。これでも廃藩置県の際に相当破壊され、更には関東大震災でも被災している建物を何とか昭和時代と平成時代に修復しまして今に至るというのですから中々に雄大な気分を味わえるというものです。

 日本の城郭で思うのは様式美と共に形式美というところがあります。それは日本が歩兵主体の軍事ドクトリンを構成していたため、工兵により城郭そのものを破壊するという運用が限られ、迷路のような城郭とすることに一定以上戦術的な意味があったため。

 櫓や城門が防御拠点ではあるのですが、工兵が相応に発達している国であれば、迷路のような城郭を一直線に破壊して指揮中枢である天守閣を叩きます。もちろん工兵に当たる集団は存在しましたが、築城に充てるような建設工兵が主体であったといえるところ。

 城郭を攻撃するにも、欧州などでは一般的であった坑道戦などはせいぜい井戸を掘りぬく程度であり、城郭そのものを坑道戦により崩壊させた事例は聞きません。騎兵は、攻城戦には使えませんし。この点で日本の架橋や道路などの面での不思議な部分を感じる。

 将棋の影響ではないか。まえにわたしは日本の歩兵重視の背景には将棋の歩兵が多い部分が心理的に影響しているのではないかと持論を示してみましたが、灌漑整備など工兵の機能が役立つ分野はある程度あるはずなのに、日本では工兵は現代史まで影が薄い。

 城郭が美しいのは逆に、こうした技巧の様な建築設計がそのまま軍事的に意味を有したからではないかといえます。そして日本の城郭が軍事施設であったのは砲兵技術が発達する以前、野砲が誕生したころには江戸時代ですので、城郭は行政施設となっていました。

 永禄十二年の三の丸大普請、という総構への大改修はこの武田信玄による小田原攻めが背景にあったといい、习歳大普請としまして更に天正年間には三の丸周辺の掘割の拡張、天正年間にはもういちど家臣団の屋敷などを総構に収める改修を行っていました。

 小田原城のこの天正時代に入ってからの拡張は大きく分けて五度に上るという事ですが、その背景には豊臣秀吉の脅威というものがあり、そして実際に天正18年こと西暦1590年、天下統一総仕上げとして北条氏と豊臣氏は開戦することとなります。

 小田原征伐と言われました戦いでは豊臣秀吉は徳川家康など本体だけで15万3000名、上杉や毛利にも動員をかけていましてその合計戦力が5万7000名といいますので、ほとんど陸上自衛隊全軍と航空自衛隊全てに攻められたような状況となっていました。

 小田原城は北条氏8万2000名規模、しかし籠城とは支援ありきの持久戦、支城や同盟の見通しが破綻し、また石垣山一夜城築城など心理戦などもあり、小田原城は開城することとなっています。北条氏は生き延び、河内国狭山の大名として明治時代まで続くのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】小田原城(神奈川県小田原市)北条早雲の一大城郭は東海道新幹線小田原駅を眼下に収める

2024-01-31 20:10:13 | 旅行記
■小田原城をあゆむ
 新幹線ひかり号を降りたホームを歩んでいますとそのホームを見下ろしている純白の城郭があります。

 小田原城、もともと好きな城郭で幾度も探訪している城郭なのですけれども、COVID-19新型コロナウィルス感染症のあの2020年以降、もう五年目の2024年ですがますます親近感がわいてくるところです、こういうのもここは新幹線駅から非常に近いのだ。

 東海道新幹線、COVID-19新型コロナウィルス感染症とともに所用で首都圏に行く場合、前は別の用事も兼ねて東京駅へ直接行く事が多かったのですが、神奈川県での所用の場合は基本的に新幹線のぞみ号を利用せず、ひかり号で小田原駅から移動していました。

 新幹線の駅から小田原城は指呼の距離にあり、しかしもちろんの事それほど時間にも心にも余裕があるわけではありませんので乗り換えの時間だけでも少し散策しよう、となりますと、それはもうどうしても城郭の一部しか探訪できず、故に城へ通う事足繫く。

 城郭探訪も、城門はじめもともとここは明治維新の廃城後は天守閣も含め破却されてしまいましたが、幸いにして土塁や石垣や掘割のかなりの部分が残るとともに、城郭に観光地としての価値を見出す余裕が生まれますと次第に修復や再生が行われます。

 探訪して凄いなあと思うのは、小田原城は今も修復事業が進められているところですので初めて探訪したときには、もちろん天守閣はその威容を放っていたのですが、巨大な城郭を湛えるさまざまな櫓や城門などはまさに再生される過程、変化する様子が見れた。

 小田原城、その歴史を遡りますとそう築城年は応永24年、それは西暦でいうところの1417年に北条早雲が大森藤頼からこの一帯を奪い領有化した際の拠点として整備した城郭が、ここ小田原状の始まりと言われています。どうりで小田原駅からも近いわけです。

 伊勢宗瑞と名乗っていました後の北条早雲、室町幕府政所執事たる伊勢氏の出自で、当地では駿河館襲撃に堀越公方の家督争いと伊豆討ち入り、そして小田原城奪取と勢力を伸ばし巨大な北条家の基礎を固めた人物です。もっとも、歴史には小田原城奪取とある。

 明応地震という、1498年に発生した地震は北条氏が小田原城を最初に大改修した時代と重なりまして、これは推測も交じるのですが震災により破壊された部分を補修するとともに櫓などを増強することで城郭としての防御力を高めたのではないかと考えられます。

 平安朝末期、相模国豪族土肥氏一族であった小早川遠平の居館が、そもそもの小田原城の始まりという。そもそもの小田原城、というもったいぶった表現をしましたのは、小田原城は元々上記の北条氏が際限なく巨大化させたために主郭部分のみが城址であるゆえ。

 主郭部分、というのは、当初の小田原城というのは八幡山という、小田原城の向かい側に在ります稜線に沿って聳えていまして、現在は上司としてではなく小田原高校と。そして元々の小田原城と今の小田原城の中間に、東海道本線と新幹線が走る、小田急も。

 八幡山にも土塁などの遺構は残っているといいまして、要するにそれはもう一度や二度探訪しただけでは全容がつかめないほどに巨大な城郭であった、というのが小田原城の醍醐味といいますか、何度探訪しても飽きない場所でもあるのです。そして駅から近い。

 総構という、二の丸総堀と三の丸総堀そして総構堀という防御陣地に守られた城郭となっている小田原城、最盛期には全周で実に9kmにものぼる防御線が築かれ、その背景には武田信玄と上杉謙信、時期は異なるものの歴史に残る武将の侵攻を受けた為という。

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臨時情報-中東情勢:在ヨルダン米軍基地へ無人機攻撃で米兵死傷者多数,イラン系武装勢力犯行声明

2024-01-31 07:00:20 | 国際・政治
■臨時情報-中東情勢
 中東の火種がもう一つ増えつつあり大規模戦争への危険なパズルにくわわるピースの一つとなるもよう。

 中東ヨルダンに所在しますアメリカ軍施設“タワー22”へ無人攻撃が行われ、アメリカ兵3名が戦死し少なくとも34名の負傷者が出たとのこと、負傷者の内8名はヨルダン国外に搬送されるほどの重傷とのこと。タワー22はヘリコプター発着スポット十カ所程度を有する補助施設であり、無人機攻撃は休息区画として準備されていた天幕に命中したもよう。

 イラクのイスラム抵抗勢力、今回攻撃を行ったのはイランが支援する武装組織“イラクのイスラム抵抗勢力”、ヨルダン国内には2000年代初めにはヨルダンとアメリカの防衛協力のための施設が複数建築されており、アメリカ軍とヨルダン軍も恒常的に訓練協力を行っています。イラク戦争では孤立した米軍特殊部隊をヨルダン軍が救出した事例もありました。

 ヨルダン政府は28日、ヨルダン国営テレビと通じて無人機攻撃について非難しました。無人機はヨルダン国境を領空侵犯しています。そしてその一方、アメリカ軍施設についてはヨルダンとシリアとの国境などでのテロ勢力浸透や麻薬と武器密輸対策に当たる施設であるとし、国家の安全を脅かす脅威に対しては徹底的に対応すると発言しています。

 イランが支援する武装組織“イラクのイスラム抵抗勢力”の行動について、イラン外務省のキャンアニ報道官は、イラン政府が指示した攻撃ではない、として関与を否定しています。一方、アメリカのバイデン大統領は28日、南部サウスカロライナ州での会合の場において、攻撃へ報復措置を執ることを明言しました。戦死者3名はアフリカ系でした。

 アメリカ軍の報復措置について、その概要は示されていません。ただ、これに関連してバイデン大統領やブリンケン国務長官からはイランとの直接戦争はのぞんでいない、としており、また報復措置について、段階的で長期的なものになると発言しました。少なくとも、新月の日にテヘランへトマホークが撃ち込まれるような状況は回避できるのでしょう。

 アメリカの報復措置、具体的にはイラン関連団体への経済制裁強化やイラン全体への経済制裁、また実行した武装勢力に対する限定攻撃等が予想されます。ただ、議会共和党の一部などから既にバイデン政権の対応について不十分、との批判が示されており、昨年から数十回を超える無人機攻撃へ後手後手の対応への批判が強まることも予想されるでしょう。

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