■セッツブーン二〇二四
日本列島を急に覆うこの大寒波とともに積雪には驚かされるのですが祭事準備など京都はこの瞬間も動いているのですね。
セッツブーン、といますか今年も節分神事が近づいてまいりました。一年を通せばいろいろと象徴的な神事がありまして、年末年始が最たるものですが、この年末年始を例外としますと何故か節分は象徴的といいますか、印象深いといいますか、気になる神事です。
初詣、という訳ではないのですが節分神事も近づいてまいりましたので、伏見は伏見稲荷大社へと参拝へ行って参りました。すると、これ狙ったわけではないのですが伏見稲荷大社でも節分や前後して行われます神事の準備が進んでいまして、季節を感じたのでした。
京都市伏見区深草藪之内町、伏見稲荷大社は京都でも有数の歴史と共に多くの崇敬を集める社殿でもあります。参道から楼門が、JR稲荷駅から一直線に伸びているところをのびのびと参拝へ向かうのですが、そう、やはり人気といいますか、人の多さを感じます。
立春と立夏と立秋と立冬、節分というのはこの季節の境界線を示す一日の前日を示しますので、実は一年にセッツブーンの一たびだけという訳ではないのですけれども、この立春の節分は、心躍るのは昔の時代、人類が冬を超えるのに難渋していた時代の名残なのか。
旧暦、そうセッツブーンを特別な一日に感じるのは旧暦が関係しているようで、旧暦ではこの立春のあたりが旧正月にあたるところとなっていて、いわば太陽暦が日本で採用されるまでは節分の立春が新年とされ、そして冬を越せたという祭事をも意味していたのだ。
楼門は重要文化財となっていまして、 もっとも創建以来幾度も再建と破損を繰り返してきまして、あの応仁の乱でも供養とでは定番の話題ですが焼討されて焼けています。そして今現存するものは天正17年こと西暦1589年、豊臣秀吉の寄進によって再建されたもの。
豊臣秀吉寄進の楼門は入母屋造の三間一戸構造となっていまして檜皮葺の屋根を冠しています。安土桃山時代、一応日本の歴史はその後も幾つか戦乱の時代を挟むのですし、京都が地震被害を受ける事も台風被害も多いのですが安土桃山時代のものが現存しているのだ。
東山三十六峰最南端稲荷山。さて、そもそもここ伏見稲荷大社が創建されたのは、実のところ正確な年度は不明となっています、けれども稲荷神社と号します神社は日本全国に三万とあるそうでして、その総本山がここ伏見稲荷大社、農耕神であり産業振興の神を祀る。
山城国風土記には、秦氏の祖霊を祀る社殿として古くから存在し、秦氏族伊侶具が濃厚で栄えた際、餅を的に弓矢の練習を積んだところ或る日に餅が白鳥となって逃げてしまい、その出来事を機に伊侶具の家は豊かさを逃してしまい、これを悔いて白鳥を探したといい。
白鳥の留まった場所がこの社殿の御神体である山の山頂で、稲荷山として餅を的とした事を悔いて社殿を造営した、ともいわれます。故に餅から農耕守護の、そして日本が産業などにより豊かになりますと、豊かさという視座から社殿は産業振興の社殿ともなった、と。
外拝殿は楼門の先にある舞殿でして重要文化財、。天保11年こと西暦1840年に再建されたといい、内拝殿は賽銭箱とともに祈りをささげる場、そしてその奥に本殿が。重要文化財となっていますが、 明応3年こと1494年の再建といいまして、まさに応仁の乱の直後だ。
応仁の乱により、ここは稲荷山の山頂まで焼き払われたということですが、本殿だけは、応仁の乱の終戦から僅か、というべきでしょうか17年後に再建された、ということになります。暖かい冬、でも直ぐ寒波が来るという。世の中の平安を祭神にこう、祈るのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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日本列島を急に覆うこの大寒波とともに積雪には驚かされるのですが祭事準備など京都はこの瞬間も動いているのですね。
セッツブーン、といますか今年も節分神事が近づいてまいりました。一年を通せばいろいろと象徴的な神事がありまして、年末年始が最たるものですが、この年末年始を例外としますと何故か節分は象徴的といいますか、印象深いといいますか、気になる神事です。
初詣、という訳ではないのですが節分神事も近づいてまいりましたので、伏見は伏見稲荷大社へと参拝へ行って参りました。すると、これ狙ったわけではないのですが伏見稲荷大社でも節分や前後して行われます神事の準備が進んでいまして、季節を感じたのでした。
京都市伏見区深草藪之内町、伏見稲荷大社は京都でも有数の歴史と共に多くの崇敬を集める社殿でもあります。参道から楼門が、JR稲荷駅から一直線に伸びているところをのびのびと参拝へ向かうのですが、そう、やはり人気といいますか、人の多さを感じます。
立春と立夏と立秋と立冬、節分というのはこの季節の境界線を示す一日の前日を示しますので、実は一年にセッツブーンの一たびだけという訳ではないのですけれども、この立春の節分は、心躍るのは昔の時代、人類が冬を超えるのに難渋していた時代の名残なのか。
旧暦、そうセッツブーンを特別な一日に感じるのは旧暦が関係しているようで、旧暦ではこの立春のあたりが旧正月にあたるところとなっていて、いわば太陽暦が日本で採用されるまでは節分の立春が新年とされ、そして冬を越せたという祭事をも意味していたのだ。
楼門は重要文化財となっていまして、 もっとも創建以来幾度も再建と破損を繰り返してきまして、あの応仁の乱でも供養とでは定番の話題ですが焼討されて焼けています。そして今現存するものは天正17年こと西暦1589年、豊臣秀吉の寄進によって再建されたもの。
豊臣秀吉寄進の楼門は入母屋造の三間一戸構造となっていまして檜皮葺の屋根を冠しています。安土桃山時代、一応日本の歴史はその後も幾つか戦乱の時代を挟むのですし、京都が地震被害を受ける事も台風被害も多いのですが安土桃山時代のものが現存しているのだ。
東山三十六峰最南端稲荷山。さて、そもそもここ伏見稲荷大社が創建されたのは、実のところ正確な年度は不明となっています、けれども稲荷神社と号します神社は日本全国に三万とあるそうでして、その総本山がここ伏見稲荷大社、農耕神であり産業振興の神を祀る。
山城国風土記には、秦氏の祖霊を祀る社殿として古くから存在し、秦氏族伊侶具が濃厚で栄えた際、餅を的に弓矢の練習を積んだところ或る日に餅が白鳥となって逃げてしまい、その出来事を機に伊侶具の家は豊かさを逃してしまい、これを悔いて白鳥を探したといい。
白鳥の留まった場所がこの社殿の御神体である山の山頂で、稲荷山として餅を的とした事を悔いて社殿を造営した、ともいわれます。故に餅から農耕守護の、そして日本が産業などにより豊かになりますと、豊かさという視座から社殿は産業振興の社殿ともなった、と。
外拝殿は楼門の先にある舞殿でして重要文化財、。天保11年こと西暦1840年に再建されたといい、内拝殿は賽銭箱とともに祈りをささげる場、そしてその奥に本殿が。重要文化財となっていますが、 明応3年こと1494年の再建といいまして、まさに応仁の乱の直後だ。
応仁の乱により、ここは稲荷山の山頂まで焼き払われたということですが、本殿だけは、応仁の乱の終戦から僅か、というべきでしょうか17年後に再建された、ということになります。暖かい冬、でも直ぐ寒波が来るという。世の中の平安を祭神にこう、祈るのですね。
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