昨日は、四谷での勉強会でU先生をはじめいつもの楽しいメンバーと充実した時間を過ごした。行動の病理学ということであったが、私は小学校1年の時の友達が目の前で交通事故で亡くなったことによる、自分の体験を語った。
抑圧された感情が50年くらい引きずり、しこりとなり変な不安として悩んだが、10年ちょっとの「生き甲斐の心理学」の学びで、見事に自己分析ができ楽になった事例である。
かつての車を運転することへの抵抗、ある状況での妙な不安感は、考えてみれば病的だった。
「生き甲斐の心理学」では、カールロジャースのプロセススケールで病的か否かを観るが、確かに病的であった。10年前は、その事件の光景を思い出しても感情も湧かないし、それをうまく自己表現することもできなかった。あるいは、その体験の解釈も、小学校のころから殆ど変わらない。まあ、7つのポイントすべてが低であったのだ。
それが改善される話は、後日丁寧にしていきたいが、昨日のブログでも書いたが、現在の不安である原発問題をより自分のこころの問題として取り上げたいこともあり、書店で関係する書籍を購入した。
原発の問題は、自分にとってどうだったろう。ずっと不安が続いてはいるが、日々の中で何となく折り合いがついているようである。プロセススケールでいうと中レベルだと思う。しかし、自分の生き甲斐、アイデンティティという意味で大きな問題のように考えている。
つまり、自分の仕事との関係、自分も含めた身内をだいじにするためにどうしたらよいか、そんなことを熟慮する必要を感じたのである。
それ故に、さらに不安を煽るところもあるけど、敢えて本を買い原発問題を勉強しようと考えた。
原発問題は私にとって、恐らく健全な不安なのだと思う。その特長は、それを解決する中で、ある意味人生を楽しむのである。
写真は、町田の勉強会のときに散策し、皆で感動したそば畑の光景。
(なお、今回の「不安を観る」は「生き甲斐の心理学」(植村高雄著)の系統図を参照していますので、是非参考にしてください。)
不安を観る 2/10