イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

白蓮さんの人生選択!(ストレスをバネに ① 4/10)

2014-07-11 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 朝ドラの「花子とアン」。どんどん面白くなってきている。花子さんの仕事や結婚。腹心の友の白蓮さんの白蓮事件も近づいてきている。

 その中で、特に白蓮さんに興味を持ち、長谷川時雨氏の「柳原子(白蓮)」をkindleで読んだり、後年に接点のある森光子さんの日記もアマゾンでたのんだりしている。

 白蓮さんは、私の好きな持統天皇のように強烈な不幸をものともせず(つまり実にストレスに強いというか、ストレスを親友にしているというか)、自分の人生を深いところでつかみ選択していくことができたのだ(今日の花子さんの、村岡さんとのやり取りも実に興味があるが)。

 長谷川時雨氏の「柳原子(白蓮)」の白蓮さんの『踏絵』や、朝日新聞に載った、伊藤伝右衛門への絶縁状を読むと、その謎への回答が観えてくる。これは生き甲斐の心理学での理論とも重なるようでもある。

 

 踏絵の中で、胸を打ったのは・・・

 わが魂(たま)は吾(われ)に背きて面(おも)見せず昨日も今日も寂しき日かな

 骨肉は父と母とにまかせ来ぬわが魂よ誰にかへさむ

 

 白蓮さんの絶縁状の中のこの節は実に迫力がある。理性的に考え抜いた爽やかさすら感じられる。

 ・・・貴方と私との結婚当初から今日までを回顧して私は今最善の理性と勇気との命ずる処に従ってこの道を取るに至ったので御座います。・・・

 

 私は白蓮さんの強さは、自分の傾向と渇望をしっかり把握し、それで不確定な未来を選択したのだと確信している。ロジャースの人格形成論に次の命題があるが、心の奥底にある傾向と渇望をつかんだ人は自己実現の道に近づく。

 命題4:有機体は、一つの基本的な傾向と渇望をもっている。すなわち、体験している有機体を現実化し、維持し、強化することである。

 そして、自分の傾向と渇望、アイデンティティを、「自分は何のために生きているのか?」と自問自答することで、さらにストレスをバネに生き抜くというか、ブレずに健康に生き抜くことができるようだ。

ストレス曲線をバネに① 4/10

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信頼を失うことを、神話から思索する!(ストレス曲線をバネに ① 3/10)

2014-07-10 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 仕事でも家庭でも、信頼は大事である。さらに言えば神仏との関係、所属するコミュニティーあるいは自分自身との関係も信頼も大事だ。

 そうした関係で、信頼を保持できればよいが、時に過ちとか不思議な成り行きとかで信頼を失うことがある。これは、昨日の死による喪失体験にも似ているが、激しい感情を揺り動かし、時に悲劇を産む。

 世の中では、マスコミも含め、多くの場合厳しく過ち等を攻めたて、覆水盆に返らずかのように突き放すことが大半である(とかく自分もそうだが、自分に甘く他人に厳しくなりがちだ)。子供も大人も老人も、男も女もこうした事態に涙を流す。

 さて、U先生から「生き甲斐の心理学」を学び始めると、ギリシャ神話をはじめ神話の勉強をするようになる。そして、神々が何と神々であるにもかかわらず信頼を失う姿に出会う。日本神話でも、イザナギがせっかく黄泉の国にイザナミに会ったのは良いが、イザナミの観てはならないという言葉を裏切り、イザナミの姿を観てしまうことで大変な事態を招く。ゼウスとヘラの関係も、たびたび浮気をするゼウスにヘラは激しく嫉妬し、アラゴンという恐ろしい嫉妬の化け物のような怪物で監視をさせる。

 もちろん、さまざまな事態から信頼を失うということが生じるので、それを一般化して論じることは無意味なのであるが、私も信頼を失う経験も積んできた(笑)。そして、それは信頼を得るということと殆ど紙一重の世界であることにも気づく。神々を人間的だと笑うのではなく、神々ですら間違える世界なのだ。

 信頼を失ったときに、厳しさの余り防衛機制を張り巡らせ、それゆえに自分の真実に眼をつぶりがちである(自戒をこめて)。この時に、自分の感情の意味を無理のない範囲で思索したり、視点を柔軟にするために古典や神話を読んだりするのは大切だと思う。神話といえば、難しい文庫本に触れるより、少年少女向けの図書や、コンビニ本(私は「日本の神話と世界の神話が面白いほどわかる!」をU先生にすすめられたが良い本だと思う)がこういう時には良い気がする。神々の乗り越える姿は、とても刺激的だ。 

ストレス曲線をバネに① 3/10

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喪失の生育史から学ぶ!(ストレス曲線をバネに ① 2/10)

2014-07-09 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 先日の東京のふるさと探究で自分の育った地域に行ったせいか、自分の喪失の原形というか、若いころの経験を今日は考えている。台風の影響で天候もさえないこともあり、喪失の経験がじわじわと浮かぶ。

 さて、「生き甲斐の心理学」を学んだことによる典型的な成果は、6歳の時の幼友達の近所での交通事故死の心の整理があった。身近な人が亡くなることによる影響は根深いものになりがち。時が解決するということを言う人がいるが、私は大きな誤りであると思う。積極的にその感情を整理しなければ何年たっても解決には至らず後ひく。私の場合など50年くらい影響があった。

 身近な人を喪失することは、でできていたことができなくなることで、喪失感が生まれる。代替え物のようなものはありそうだが置き換えは多くの場合期待できない。

 喪失感とは別に、今まで生前の人により困っていたことが解消されることもある。喪失感とは別に、安堵感が生まれることも。私の場合は、幼友達の喪失で、苛められなくてすむという安堵感の整理ができず、感情を引きずってしまった。

 8歳のときに亡くなった祖母については、病院に入院し亡くなったのだが、子供ながらも見舞い等に行けなかったりお別れを告げられなかったことが問題になったようだ。意識に上がることは少なかったが、不全感というか罪悪感というものが、結構抜けなかったようだ。遅れ馳せながら、最近になって母の話や祖母の生育史を知る努力の中で、解消してきたようだ。仲が良かった祖父は16歳で亡くなったのだが、亡くなる直前まで親しくしていたので、そういう不全感や罪悪感は全くないのと対照的だ。

 しかし、その家に出入りしていた、祖父の友達や、両親や親戚、ぺット(秋田犬他多数)。当時は賑やかなものであったが、それが今では故人が大半で、なんとも悲しいものだ。まあ、昨日の「死後の世界へ」ではないが宗教や哲学を信じることで癒される部分は大きいことも事実だ。

 こうした喪失の経験の中から、ある種の自分なりの習慣というか人格がつくられていくようだ。そして、それが形をかえ、いろいろな人生の局面で顔をだす。例えば、高校・大学時代は学園紛争の時代であったが、その中での喪失感も、その背景に友達の交通事故死や、祖母の経験などが重なり、より重苦しいものにしていたようだ。もし、早めに喪失の原体験をより整理していたら、青年期以降はもっと違ったものになったかもしれない。

 私たちは、公教育等で社会人として活躍したりすることを学ぶが、喪失体験への対処方法も含め、生き甲斐の心理学にあたる体系的な心の教育を受けた覚えはない。東日本大震災、福島原発問題、高齢化問題・・・日本もかつてのような行く行けドンドンではなく喪失への対応が大きな課題になっているのだ。生き甲斐の心理学をもっと普及せねば! 

ストレス曲線をバネに① 2/10

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天国は大忙し、ストレスもあるようだ!(ストレス曲線をバネに ① 1/10)

2014-07-08 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 還暦も過ぎると、あの世がだんだん身近に感じられるようになる。大切な方が亡くなったりしたとき、あの世はどうなんだろうと確かに考えたことはあるが、この年になると日常の中でもっと真面目に考えるようになる。

 時々親しい人から、あの世はあるのだろうか?などと訊かれることも多くなる。

 そんなことで、この数年ダンテの神曲に興味をもったり、渡辺昇一さんの「人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するか?」などを熟読したりした。好きな寺社仏閣・教会訪問でも、地獄の閻魔様や三途の川で衣服を剥ぎ取る、奪衣婆像に釘付けになったり。ヨーロッパの大聖堂にある謎の彫刻(たぶんキリスト教の古層の宗教か?)にぞくっとしたりも。

 しかし、スマホが跋扈する21世紀にはピンとこないことがあり、どうしたものかと思っていたが、最近読んだ、米国で著名な精神科医M.スコット・ペック(1936-2005)の「死後の世界へ」(集英社)は衝撃的であった。今のところ一番、私のあの世像に近い感じだ(スコット・ペックはキリスト教徒であることもある)。

 亡くなると身体は亡くなるのだが、基本的に自由の原則があり、思考・感情・行動が存在する。そして、天国、煉獄、地獄があるのだが、それは何か仕切りがあって分れているというより、混在しているようなイメージ。面白かったのは、天国でも仕事があり、例えば社会貢献?をする委員会で人の世話をしたりする。そして、天国の住人でも睡眠をとるのだ。きっとストレスから回復するためなのだろう。

 これは、なかなか深い考えからきていると思う。U先生の「生き甲斐の心理学」でも、ストレス曲線(暗い感情)は、極めて大切にされている。

 通常、日常の中で誰もが問題を抱えていて、ストレス曲線を抱くものである。しかし、時にその感情を防衛機制のためにうまくキャッチできなかったりで、問題を放置することがある。10年一日のとおり、同じような問題の重力に捉えられ、同じような防衛機制を繰り返し、問題の周りを回っているかのようだ。

 

 私も、同じような状況に陥ったことがある。今でも、そのような問題がどこかに残っているかもしれない。

 それは、兎に角、問題解決は問題をしっかり把握するところから始まるのは、心の問題だけでなく共通のようだ。品質管理でも現状の把握はポイントだし、ケプナートリゴー社の有名な手法も同じだ。そして、問題を吟味して、解釈を変えたりすることで問題が解決すると幸せ感が生じる。それが何とも素晴らしい実感を伴う。ディズニーランドのような疑似的幸せ感(これもたまには良いかもしれないが)が天国ではなく、問題を解決し真の幸せ感を感じるのが天国なのだろう。

 さて、心の問題では感情(ストレス曲線)をつかむところが大切だ。次の写真は先日、都会のふるさとを散策したときの写真の一枚である。

 都会でも一歩入り込めばありそうな風景。通常、この風景に引っかかり深くストレス曲線を抱く人は少ないだろう。車だったら「通りにくいなぁ」と一言軽口をたたき通り過ぎる人がいるくらいだ。

 しかし、この道にも歴史がある。ここは坂町というところで、江戸時代から町名変更の荒波にも耐えて町名をのこしてきたところだ。江戸時代には幕府の御手先組の長屋が付近にあり、ちょっとした屋敷があったため、道が鋭角に曲がったのだった。鋭角に道を曲げたのは、何か防衛的な意味もあったのだろうか?

 東京大空襲では、このあたりは焼け野原になったが、また復興して道は残る。そして、私が生まれ、このあたりで幼馴染からもらったべっこ飴を食べようとして祖母からきつく叱られたことがある。当時は疫痢が流行っていたからだ。しかし、祖母の生育史や考えを理解できない私にとっては、単なる偏屈な祖母であり、心のどこかで傷ついたのだろう。

 この一枚の写真を撮るとき、何らかのストレス曲線が蠢き(無意識からの感情も含め)、写真を撮った。その感情をきっかけに、何らかの課題を抽出してみる。そんなことが心の問題を扱う時も大事なようだ。

ストレス曲線をバネに① 1/10

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都心に行ったついでに東京歴史散歩!(地図と年表 10/10)

2014-07-07 | 第五章「和解と平和」

 昨日は、誕生祝いということでホテル・ニューオータニで楽しく昼食をとり祝った。実に楽しい会であったが、最近の江戸病?もあり、上智大学の前にある尾張名古屋藩屋敷後の碑、ニューオータニにある近江彦根藩井伊家屋敷跡の碑もしっかり見た。

  彦根藩井伊家屋敷跡の碑

  ニューオオタニから新宿方面を望む

 上智大学から市ヶ谷方面を望む

 このホテルニューオータニや清水谷公園周辺は、若いころはしょっちゅう通ったところであるが、紀尾井坂(清水谷公園周辺の紀州屋敷、上智大学周辺の尾張藩屋敷、ニューオオタニ周辺の井伊家屋敷)の位置関係や、明治11年の紀尾井坂の変の顛末なども殆ど頭に残っていなかった。しかし、今回、いろいろ調べてみると、何とも言えない気持ちになる。

 殺害された大久保利通の惨殺の様子。さらに殺害に加わった6名の死刑(斬刑)。それに纏わる流言や実態(大久保利通は8000円の借金を残してなくなり、家族を路頭に彷徨わせてはならないとのことで、募金等が行われたこと)に触れて何とも言えない気分になる。

 そんな、悲劇の場所を、殆ど知らないで通った私は何だったのだろうか?

 様々な思想や哲学あるいは宗教は、そのドグマ性で時に、何というか原理主義的になり、本来の理念と違って、とんでもない結果(殺害等)を引き起こすこともある。そして、悲劇を経験したものから、和平と平和をもたらす知恵の歴史も日本にもあるように思う。壬申の乱の混乱の後に、制定され記録された、「和をもって尊しとなす」(聖徳太子の言葉とされるが)という思想がある。これなどは世界の至宝かもしれない。

 あるいは、「生き甲斐の心理学」の基盤の人間観は聖パウロの「人の身体は神の神殿」という思想なのだが、こうした考えは欧米の人間観としてはポピュラーであり、NPOの思想や福祉・医療、人権思想にも大きく影響を与えているように思う。

 U先生の「生き甲斐の心理学」はあくまで臨床心理学の分野であるものの、ベースには比較文化論や比較宗教学が流れている。それゆえに、平和構築にも役立てることのできるのだと思う。

 今日は、少しハイになってしまったが、昨日はほろ酔い気分で、紀尾井坂を下って清水谷公園のほうには行かなかったのが残念。来週16日には、アースフィーリングを味わいつつ東京散歩をしようと思う。

地図と年表 10/10

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