田舎暮らし山裾の日々

信州に移り住み16年 山裾になじむ今日この頃 ECOな生活“循環型社会”を志し 昔と今の田舎の生き方を愉しむ

静かな環境は 先達のありがたい活動のたまもの

2009年11月22日 | 日記
11月22日(日) 曇り   僅かに陽ざしがでる  寒い一日

昼過ぎ午後1時に向けて中央公民館へ向かった。
5分前に着き2階へ上がったが誰もいない・・・・
倉庫からテーブルと椅子をだして並べ始めると定刻にはTH先生はじめ多くの方が到着した。
会場のセッティングが整い定刻になると準備した席はほぼ埋まっている。

『浅間山米軍演習地反対運動を語る会』が9条を守るたてしなの会の主催で開かれた。
昨年からの連続講座の一環で、今沖縄の普天間基地の問題が大きく取り上げられ、沖縄には米軍の基地の75%が集まっていると云われている。
しかし、長野県には米軍の演習地が一つもないのだ。
5分押しでF君の会式のあいさつで始まった。


軽井澤の荒井さん土屋さん金井さんのお三方の紹介があった。
1952年に浅間山麓に米軍演習地が作られることが信濃毎日新聞に掲載され大騒ぎになり、特に軽井沢西部の御代田町との境、追分近くの開拓団の集落から反対運動が起こったと云う。


当時は日本国内に750か所余も米軍のキャンプが合ったと云う。
荒井輝充さんは当時20才血気盛んな若者ながら緻密な動きをして、その動向を調べると、軽井沢町長他要職の人が外務省に米軍の演習地を浅間山麓に作って欲しい陳情書を提出したと云う。
それは、町民も議会にも掛けられず一部の町の有力者がでっち上げて陳情したことが判ったと云う。
全町民と御代田、小諸、他多くの人たちが反対同盟を締結しムシロ旗を掲げて決起集会を開いたと生き証人の荒井さんは熱く語られた。


金井さんが持っていた当時の≪ピンバッチ≫浅間山の雲煙がたなびくピンバッチを同志の証として胸に掲げたという。


土屋さんが作られたパネルは当時の写真を復元して資料をもとに詳しく説明がつけられている。
金井さんはパネルの写真を指しながら詳細を説明してくれたが、かれは当時長野県には居られなかったが、その活動の詳細を調べ上げた方だ。


米軍基地反対運動は北佐久郡から長野県全域に広がり大きな反対運動となったと云う。
今の安全保障条約ということが名を代えて地位協定と云う日本にとって不利な密約がなされていることがおかしいと云う。
住民が国民が信念をもって反対することが必要だと語る。

用意した椅子は全てが埋まり盛況に終えたことに感謝したい。
コメント (4)
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