昨日の温度勾配に続いて経験したことを述べてみよう。30年ほど前になるが大学の宿舎に住んでいた。子どもが小さくてまだがさがさ部屋の中を這い回っていたころのことである。当時はまだ灯油のストーブを使っていたが、子どもがそのストーブの燃焼部分を触ってストーブから取り出してしまい、本来円筒形になっているべき部分が楕円形にゆがんでしまった。それでも別に支障は感じずに使っていたのだが、気がつくと部屋が煤でくろんずんで来ていた。
それでやっとおかしいということに気がついたのだが、どうしてだかわからなかった。そのストーブを購入した電気屋さんに聞いてもわからなかった。そのうちに妻がどうも円筒形になっていなくて楕円形にひずんていることを思い出し、電気屋さんに新しい燃焼部分を注文したらやっと煤が出なくなって部屋がくろずむのが止まった。
ちょっとしたゆがみにしか思えなかったが、それは灯油の燃焼にとってはちょっとしたゆがみどころではなかったわけである。どうもそういうところの感覚が私にはまったく欠けている。
それで思い出したのだが、学生の頃帰省していたときに夏になって柱時計が遅れ気味になった。母が私に遅れないように振り子の錘の位置を調整するように頼まれたので、1センチくらい錘の位置を上げたら、これは進みすぎていけなかった。そして母に笑われた。暑さで時計に振り子が伸びたのだから、ほんのわずかしか錘をあげるしかない。それをまったくわかっていなかったという私はお粗末な物理科の学生であった。
要するに生活とか実際とかについて考えることなしに本の上で物理を学んでそれを現実の世界や実生活で適用するということを考えたことないはなはだナンセンスな感覚だったというわけである。いや、昔のことに限らない。いまでも多分そうなのだろう。こういう欠陥は私に一生つきまとっている。