このことは実際にあった話で先輩に聞いた。物理学会では若手の夏の学校というのをどの分野でも行っている。今はどうか知らないが、昔は長野県で行われていた。
その中の物理若手グループの一つ「素粒子・宇宙線・原子核」のグループの夏の学校で講師に湯川先生を呼ぶということが企画されたという。
そのとき当時夏の学校が行われていた木崎湖畔の村長が湯川さんが来てくれるというのでとても喜んだという。村の文化度が一気に上がるとでも思ったのだろうか。
ところが、何かの都合で湯川さんの都合がつかなくなったらしい。それで計画を立てている若手の事務局としては急遽、当時学会では世界的な業績をあげていた朝永さんに白羽の矢を立てて、そのことを村長に告げたら、村長いわく「一流の湯川でなく、二流の朝永を呼ぶのか」とお冠だったという。
その村長がいつまで生きられたかは存じないが、もし1965年まで生きていたら、二流(?)の朝永がノーベル賞を受賞するというニュースに驚いたに違いない。
この夏の学校が何年のことかは聞かなかったが、多分1955年(昭和30年)ころのことであろう。
50年以上も前の話である。こんな話がこのブログでされているのを見たら、元村長さん、泉下でいまごろくしゃみをしていることだろう。