マーチ(木名瀬、大槻訳)『詩人のための物理学』(講談社)という物理の本があった。
『詩人のための物理学』とはどんな物理学なんだろうと思ってその本を買ったが、どうも普通の物理学のように思えた。
多分、視点は私の普通に接している物理学とは違うのだろうが、その違いは明瞭には感じ取れなかった。
それにしても、どういう内容を私はこの本に期待していたのだろうか。どうも期待の内容が自分でもわからないが、なんだか普通の物理学とは違うものを期待していたらしい。
だってそうではないか。詩人が物理学を学ぼうとするときにどんなことをどういう視点で学ぼうとするのか知りたい。そういう同じような気持をもったのだろうか、同じ本を子どもがやはり買っていた。
これは親子だからまあしかたがない。子どもは親とは違う独立の個人ではあるが、その好みとかは遺伝的または環境的にその好みを受け継ぐ。よきにつけ、あしきにつけ。
物理学は誰が学ぼうが、物理学には違いがないとしても、「詩人のための」と冠してあれば、なんらかの独自の視点があると思うのはないものねだりだろうか。
物理学ではないが、数学者の矢野健太郎がどこかのエッセイで書いていたが、日本の小説に出てくる数学の内容とかはあまりよくわからないと。
これは小説は数学がテーマであろうとそれはあくまでもテーマにしか過ぎず、人物に最終的には焦点があるからなのだろう。
それで思い出したのだが、小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮社)は私にもその数学が理解できた。もっとも私はあまり数のいろいろな性質等についてあまり関心がない方だ。