先日注文して昨日手に入れた鶴見さんの『悼詞』を読んでいる。以前に朝日新聞等で読んだ追悼の詞もあるが、その広がりはもっと広い。その大部分が私の知らない人である。
鶴見さんには自分と意見や思想の違う人でもその人の生き方とか何かに共鳴するところがあれば、敬意を払うというところがあり、それが彼の幅の広さを示している。
彼は自分の出自を不良少年だとしている。そのことはこの『悼詞』にはあまり出てこないが、その不良少年くずれはなかなか几帳面と言うか義理固いというかきちんとした、いわば正座した人という印象をもつ。
ある小さな集まりでの講演をお願いしに鶴見宅を訪問したときが彼との初対面であった。謝礼をわずかしか払えないといったのに快く承知してくれて講演をしてくれた。また、その数年後であったが、松山まで憲法九条をまもる会の総会があったときに講演に来てくれた。これは今になって思えば、彼のお姉さんの和子さんが容態がすでに悪くなっていたのに、以前からの約束だからということで来てくださった。
日本の、いや世界の誇る知性の一人であるのに、彼には偉ぶったところがまったくない。むしろ彼の出自を恥じてはいないにしても、そこから離れて個人として立つというところがあり、その点に好感をもつ。
私と鶴見さんとの接点のもとは武谷三男である。私は武谷の研究論文のリストをつくり、著作目録を作ってその別刷を彼に送ったことから接点ができた。私は彼の判断を通じて自分の先入観を改めたりしている。