実は「どう生きるか」とかいう大したことをいま議論したいわけではない。
先日の大学の出身研究室の同窓会でいま何をしているかという報告で久しぶりに論文を書いたという人もいたが、日本の文化を知りたいと思って日本の小説を読んでいるという人もいた。志賀直哉の暗夜行路は長い小説だったとか、夏目漱石はやはり文章がうまいとか言っていた。
その後の2次会で私がそんな暇はないといったら、ちょっとその人の気分を損ねたらしかったが、別にそのような人生がいけないというつまりはまったくない。自分はそういう暇がないというだけである。どうしてか。それは自分でなくてはできないことをやっておきたいからである。
それは高校数学のレベルでもまたは大学の基礎数学のレベルでもはたまた物理のことでも自分のよくわからないことを徹底的にわかることとその経過を記録しておきたいという欲求が強い。それは自分自身への覚書でもあるから、冗長をいとわずに書きたい。
先日、S先生から私の式の計算の記述の仕方があまりにも冗長なのではないかとのご指摘を頂いた。たぶんそれはあたっているのだろうと思うが、それでもこの冗長さをよしとしてくれる人もいるのではないか。
私の数学エッセイは研究論文とは違う。論文は多分生涯に一回の出来事でなくとも比較的少数回のことであるが、教育とか学習とかは本当に多くの人に何年にもわたって繰り返して起こることである。そしてその頻度はとても研究における追体験とはその多さの桁が違う。
確かに新しい研究は人が知らなかったことをはじめて世に知らせるということでその重要性はもちろんいうまでもない。しかし、それを追体験する人は少数とはいえなくてもやはり限られている。
ところが小学校の算数などでは本当にその計算練習をする人の数はもう桁違いに多いのである。だからまずい教え方だとその悪影響はとても大きい。それが遠山啓や銀林浩たちが水道方式という数の計算方式を考え出した理由であった。
この例からもわかるように、数学者の遠山啓が数学の研究から数学教育の研究に踏み込み、そこから数学の研究に戻らなくて、数学教育に留まった理由はもちろん(数学の)研究が難しいということもあるが、それだけではなく数学の分野でいい教育法を考えれば、その影響がとても大きいということを悟ったからでもあろう。
もっともそこまで、私は大上段に考えているわけではないが、ちょっとそういった気分がある。もちろん、できるだけ消化しやすい形で教育の場では素材を提供するべきだという側面もある。だからすべての私の体験をそのままに提供するのがいいのかということは問題ではあろう。
いずれにしても悩みは尽きない。