私の友人に「ぼけっとしているのが好きだ」という人がいるが、私にもそういうところがある。
忙しくしているので、そんなに長い間「ぼけっとしている」という訳にはいかないが、それでも朝食後の10分くらいはそうしていることがある。
特に日曜には仕事をしないことにしているので、放心していることが多い。そしてリビングから庭を見ている。
特に小鳥が来て遊んでいるのを見るとか、風に庭木がそよいだり、小鳥がさえずったり、遠くから物売りの声が聞こえたり、そういうとりとめもないときを無為に過ごすのが楽しいというか、心地よいのだ。
人はいろいろ俗世の苦しみをもっている。それは人に言えないから、苦しみであって、もし人に声に出して言えるようになれば、その苦しみの一部はもう誰かに肩代わりをしてもらうことができるのだ。まだ苦しみはなくなってはいなくても。
そして、声に出していえる段階に至るまでには、言葉に表せないからこそ苦しみは深いのである。
本当に苦しいときは言葉に出すどころか、いろいろな感情や気持ちや思考が頭の中を駆け巡る。
それは嫌悪、恐れ、不安、心配やいろいろなものが織り交ざっていていて声にもまとまった思考にもならない。
しかし、それから少しづつ頭の中で仕分けされて来ると、それは人に話をすることができるようになる。
創造の苦しみを私自身はあまり経験したことがないのだが、それでもそういったなんだかもやもやした時間が、またそういう感覚というか思考があるということも想像に難くない。