物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

クラウド・ファンディング

2013-07-29 13:39:47 | デジタル・インターネット

クラウド・ファンディング(crowd funding)という語を知ったのはNHKのTEDカンファランスで、あるアメリカの歌手の方がCDやDVDを出さないで、生の演奏会で聴衆から少しだけ資金を出してもらうというか謝礼をもらうという経験からはじめたと話をしていた。

7月27日の朝日新聞にそのクラウド・ファンディングの種類とか説明が出ていた。

それによると

1) 寄付型

2) 購入型

3) 投資型

の3つに分けられるという。

私もこれとは違うのかもしれいないが、一つ経験したことがある。それはWiki-Pediaをあるときに検索したら、数千円の献金を要請されていた。それを無視してもよかったのかもしれないが、そのときはなるほどと思ったので、額は忘れたが数千円の献金をした。

これはクラウド・ファンディングではなくて、ネット献金であるかもしれないが、こういうことを経験をした。

私はe-Learningのコンテンツをつくっているが、まだこれをインターネットに展開できるようにはなっていない。こういうネット献金とかクラウド・ファンディングとかで資金が得られたら、それが可能になるかもしれないなどと考えている。

もっとも献金を強制するのは嫌だし、あくまで自発的にお願いするのが筋であろう。

もし100万円(のオーダー)であれば、一人1、000円の献金としても1,000人の人が献金がなくては達成ができない。

1、000人の広がりはどうも達成できそうにないから、ネット献金によってもクラウド・ファンディングによっても、私のe-Learningのインターネット展開は難しそうである。自分の資金をもってそれくらいの額ならなんとかなればいいのだが、それもままならない。


ふえのねカフェ

2013-07-29 12:23:34 | 音楽

市駅前の近くのビルの地下室にあるカフェsing outで阿部一成さんとそのお弟子さんたちの篠笛コンサートとゲストの田付里英先生のコンサートを昨日聞いた。

阿部さんのお弟子さんたちは結構たくさんいて、多くの曲を聞いた。習い始めの人とか結構長くやっている人とかいろいろであったが、それでも狭い会場は満席であり、たぶん聴衆は100人を越えたのではないだろうか。

阿部一成さんはヨーロッパで10年ほど活躍していたそうだが、現在では新居浜在住の由である。

「月の粉」という篠笛とギターの合奏がよかったと思う。さすがにヨーロッパで活躍されるだけのことはあると思われた。最後は「永遠」という題の曲だったが、これをそれぞれ英語やドイツ語やフランスではどういうだろうかと思った。英語ならeternityかなと思ったが、foreverだろうか。

foreverは辞書によると副詞であるので、題としてはふてきとうだろうか。フランス語ではeternelがあるが、果たして適当だろうか。

第2部はゲストの田付先生のシャンソンである。再会(原題:私は決して忘れない je n'oublie jamais (?))などは昔恋人だった男性と年を経て、出会ったという内容の歌らしいが、田付先生が歌うと本当にそういう実体験をしたのでないかと思われるのような情感たっぷりの歌い方であった。その歌われている瞬間はその歌の文句通りの気持ちをもたれなければ、ああは歌えないだろう。

声楽家というのは素晴らしいものである。


自己言及パラドックス

2013-07-29 11:29:55 | 国際・政治

7月28日の朝日新聞の政治断簡という記事の冒頭に佐藤武嗣さんが「自己言及のパラドックス」として書かれている。以下に引用しておこう。

数学や論理学で「自己言及のパラドックス」というのがある。 「私はウソつきだ」と語る人の発言は果たしてウソか本当かーー。

ウソつきならば「私はウソつき」と語るのもウソだから、ウソつきでないことになる。逆にその人が本当のことを言っているのなら「私はウソつきだ」というのも本当だからその人はウソつきで。いずれも矛盾をきたす。『張り紙禁止」と書かれた張り紙も自己矛盾。自分自身に言及するとたちまち論理矛盾を引き起こすというものだ。(引用終わり)

「私はウソつきだ」という言い方は簡単であるが、それを自分自身に当てはめると矛盾をきたすという論理はこれで十分説明されている。

これも以前にこのブログで書いたことがあるはずだが、もっと複雑な言い方では

「あるクレタ人は『クレタ人はみなウソつきだ』といった」

というのがある。これもそのクレタ人自身について考えると論理的な矛盾が生じるのは上の話と同じである。

この命題は数学の不完全性定理との関係で、よく使われる。

上の朝日新聞の記事の冒頭のことと論理的に同じ話を「板倉式発想法」という題ですでに書いた。