東京工業大学に勤めていた遠山さんは若いときにレッドパージにかかって大学を辞めさせられるのではないかと心配をしていたときがあったと知った。
彼は狭い意味での政治的な人ではまったくないが、その算数教育の方針が時の文部省の方針に反していたので、そのための心配を密かにしていたのだろう。
それで、もしレッドパージにかかって大学を辞めなければならなくなったとしたら、文筆で生きていく覚悟をしていたとはなかなか悲壮である。
そのことは実際には起こらなかったのだが、それでも算数教育では彼と数学教育協議会のメンバーたちが考案した「水道方式」と「量の理論」とは数学教育に一石を投じることとなった。
結局のところ、その教育のしかたが文部省の方針よりも合理的で多くの子どもたちの算数教育に有用であったためにときの政府の介入をもはねのけて、いまではどの算数の教科書も数学教育協議会の教えた方を少なくとも部分的には取り入れるというふうになっている。
これで想起するのは戦後の一時期だが、やはり武谷三男がある種のジャーナリストとして文筆で生計を立てていたという事実である。武谷は1953年に立教大学に勤めるまで、大学卒業後、およそ19年にわたって、大学とか研究所に勤めることも会社に勤めることもできなかった。そのための後遺症は長く武谷に残っており、武谷に批判的な人にはその事実の重さがわかっていない、大きな事実だと思う。その不幸にもかかわらず、武谷が物理学者として生き残れたのはあるいは奇跡だというべきかもしれない。
遠山は武谷ほどその旗幟が鮮明ではなかったから、大学から追われることはなかった。しかし、レッドパージの覚悟をしていたとは、戦後の政治状況の様子の一環が読みとれる。