昨夜、R氏から今日おじいさんが松山高等学校でドイツ語を教えていたというドイツ人親子が松山を訪れるという話を聞いた。
そのドイツ人親子の年齢がどれくらいなのかは聞かなかったが、その祖父のドイツ人は1924年頃に松山高等学校でドイツ語を教えていたということだった。
1924年(大正13年)と聞くと日本では大正末期にあたる。そして物理学を少し学んだことのある人なら、1923年にフランスのde Broglieの電子の波動性の提唱があり、1925年5月にはHeisenbergの行列力学の端緒となる研究が行われ、1926年初めからはSchr"odingerの波動力学の一連の論文が出るというような波乱に富んだ年代である。
そのころに多分にまだ若かったであろう、一人のドイツ人が松山の地で高校生(いまなら大学の1年生とか2年生にあたる)にドイツ語を教えておられた。
妻にそのことを話したら、自分の祖父がそのころにやはり松山で、ある学校の数学の教師であったという。だから、妻にとってはそういうことを思い出して、ちょっと感慨があったようである。妻が小さかったときに亡くなった祖父が活躍していた時代に遠い異国の日本までドイツ語を教えに来ていたというドイツ人はどういう人であったのだろうかという。
そういうゆかりのためにその子と孫が松山を訪れるという。たぶん、その子といっても私よりも大分年上かもしれないし、孫といっても私よりも多分若いではあろうが、もうそうは若くはなかろう。
松山高校のゆかりの建物はすでに愛媛大学付属中学・小学校の講堂くらいしか残っていないが、それでもゆかりのものがまったくないわけではない。この講堂は松山の焼夷爆弾攻撃の夜(1945年7月?)に当時の松高生が必死で消火して守ったものとされている。
10年ほど前に亡くなった妻の叔父なんかも私たちが松山に住むようになったころ(これももう半世紀前に近くなったが)、東京から帰郷した折に、その講堂を見に来たことがあった。彼は旧制の松山高等学校の卒業生であったので、そして自分が松高生だった昔を思い出してとても懐かしがっていた。桜の花が咲いていたら、こういう桜の木が自分の若い学生のころにもあったとか言っていた。