人として小さいときに修得しておきたいこととして、泳ぐことと自転車に乗ることがある。どちらも努力して修得しないとできない(注)。
だから、小学生になれば、どの親御さんも子どもに自転車に乗ることを教える。もっともこれは教えることなどできない。本人が転げたりしながら、自転車の乗るためのバランスのとり方を体得して自転車に乗れるようになっていく。
ところが小さいときにこのことを修得しないで大人になってから自転車に乗る練習する人もいる。本人は自転車に乗れない間は乗れないということをいわないが、乗れるようになった後で乗れるようになったと聞いたことがある。多分、親御さんが子どもに危ないことをさせないという主義だったのかもしれない。
同様にカナヅチだったが、泳げるようになったと告白された方も知っている。そういう人は私よりも実は泳ぐのが上手になっている。また、カナヅチだったある女性は水泳の指導員の資格まで取られた。
だから、人生においてどこからでもやろうと思えば自分のできないことをできるようにすることもできるのだと思う。
これは水泳とか、自転車に乗るとかほど必須ではないが、小学校の体育でできた方がいいこととして鉄棒の逆上がりがある。若いころ私の父は体が弱くて体操などできそうになかったが、鉄棒の逆上がりも蹴上がりもできたと聞いたことがあった。
私も逆上がりは小学校のころに練習してなんとか6年生のときにできるようになったが、蹴上がりは練習してもなかなかできるようにはならなかった。
これは中学校のときだったか、もう高校生になっていたかは覚えていないが、それでも蹴上がりの練習をしてできるようになった。今は多分できないだろうと思うが。
子どもがやはり小学生のときに、なかなか逆上がりができなかった。弟の方は身が軽くてちょっとお尻を持ち上げてやっているとすぐにできるようになったが、兄のほうがなかなかできるようにはならなかった。それでもときどき鉄棒のところへ行って練習していたので、腰を持ち上げてやっていたら、いつしか要領を覚えて、逆上がりはできるようになった。不思議なものである。
親ができることはこどもできるようになる。もっとも子どもはなんでも親のできないことをするようになるのだろう。それが世の中の進歩というモノだろう。
(注)フランス語で「私は泳ぐことができる」とはje sais nager(直訳だと「泳ぐことを知っている」)という。savoirは「知っている」という意味だが、ここでは努力して修得してできるという意味だとフランス語で教わる。「できる」という意味では英語のcanに対応するpouvoirもある。こちらには修得してできるという意味はなかったはずだ。je sais nager,mais je ne peux pas nagerということがある。泳ぐことはできるのだが、いまは風邪をひいているので泳げないというふうな意味で使うことがある。