物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

泳ぐ、自転車に乗る

2017-04-12 15:36:35 | 日記

人として小さいときに修得しておきたいこととして、泳ぐことと自転車に乗ることがある。どちらも努力して修得しないとできない(注)。

だから、小学生になれば、どの親御さんも子どもに自転車に乗ることを教える。もっともこれは教えることなどできない。本人が転げたりしながら、自転車の乗るためのバランスのとり方を体得して自転車に乗れるようになっていく。

ところが小さいときにこのことを修得しないで大人になってから自転車に乗る練習する人もいる。本人は自転車に乗れない間は乗れないということをいわないが、乗れるようになった後で乗れるようになったと聞いたことがある。多分、親御さんが子どもに危ないことをさせないという主義だったのかもしれない。

同様にカナヅチだったが、泳げるようになったと告白された方も知っている。そういう人は私よりも実は泳ぐのが上手になっている。また、カナヅチだったある女性は水泳の指導員の資格まで取られた。

だから、人生においてどこからでもやろうと思えば自分のできないことをできるようにすることもできるのだと思う。

これは水泳とか、自転車に乗るとかほど必須ではないが、小学校の体育でできた方がいいこととして鉄棒の逆上がりがある。若いころ私の父は体が弱くて体操などできそうになかったが、鉄棒の逆上がりも蹴上がりもできたと聞いたことがあった。

私も逆上がりは小学校のころに練習してなんとか6年生のときにできるようになったが、蹴上がりは練習してもなかなかできるようにはならなかった。

これは中学校のときだったか、もう高校生になっていたかは覚えていないが、それでも蹴上がりの練習をしてできるようになった。今は多分できないだろうと思うが。

子どもがやはり小学生のときに、なかなか逆上がりができなかった。弟の方は身が軽くてちょっとお尻を持ち上げてやっているとすぐにできるようになったが、兄のほうがなかなかできるようにはならなかった。それでもときどき鉄棒のところへ行って練習していたので、腰を持ち上げてやっていたら、いつしか要領を覚えて、逆上がりはできるようになった。不思議なものである。

親ができることはこどもできるようになる。もっとも子どもはなんでも親のできないことをするようになるのだろう。それが世の中の進歩というモノだろう。

(注)フランス語で「私は泳ぐことができる」とはje sais nager(直訳だと「泳ぐことを知っている」)という。savoirは「知っている」という意味だが、ここでは努力して修得してできるという意味だとフランス語で教わる。「できる」という意味では英語のcanに対応するpouvoirもある。こちらには修得してできるという意味はなかったはずだ。je sais nager,mais je ne peux pas nagerということがある。泳ぐことはできるのだが、いまは風邪をひいているので泳げないというふうな意味で使うことがある。

 


生きる意欲は

2017-04-12 12:27:27 | 日記

ものを食べることから来ているという話をテレビで見たことがある。

具体的には歯を直して自分で楽しんで食物を食べるようになった老人でもういまにも死ぬかと思われていた人が生き生きしてきて、生きる意欲をもってきたという様子を示したという話でした。

だから私は歯を大事にしています。半年に1回くらいの割で歯科医に診てもらって歯の掃除とか点検とかをしてもらっています。8020とか言われますが、80歳のときに自前の歯を20本残すとかいう医療運動です。

80歳にはまだ数年ありますが、多分20本の自前の歯は残せそうです。もっともそれ以外の病気で80歳前に死亡するかもしれませんが、もしそうならそれも仕方がないでしょう。

ともかく、8020運動は私の場合には成功しそうです。もっとも奥歯から奥歯から歯が痛んで来て、すでに数本の奥歯を抜いたという経験をもっています。

(注)もう40年以上も前のことだが、ある歯科学の研究者と知り合いになった。彼の言によると人間の内の1/3は歯を磨かなくても虫歯にはならない。また1/3は歯を磨いても虫歯になる。残りの1/3が歯を適切に磨くことによって虫歯になることを防ぐことができると。

多分彼の言うことは本当だろうが、それでも残りの1/3だと思って3食後の歯を磨いて来た。それでもすでに数本の奥歯を失った。またこれからもまだ数本の歯を失うであろう。

それでも食べることが生きる意欲を保つ一番の方法であるということは多分変わらないのであろう。歯を大切にすることを勧める由縁である。


桜がようやく満開

2017-04-12 12:18:15 | 日記

です。今年は満開が遅かったです。それに天候にも恵まれなかった。

それで花見もできませんでした。それでも石手川沿いのサクラは満開で風によってそろそろ散っています。毎年書くけれど「年々再々花相似たり、年々再々人同じからず」です。先日も書いたけれども昨年には数人の知人が亡くなっている。親戚も一人亡くなった。

そういう新陳代謝が人間社会もあるのですね。これは自然自身も同じことでしょう。先日チラッと見たテレビではある面積の野原が年々どう変わって行くかを追跡したものでした。

草や草花が段々と年によって変わって行くさまを示してくれたのをちらっと見ました。けっこう植物の相というのが変わっていくが、草を刈って見ると、以前滅びたと思っていた草がちゃんと生きてまた復活したとか。

そう簡単ではないと思い知らされたことでした。