物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

意にかなう複素解析のテクスト

2018-04-25 16:10:13 | 数学

があったので、購入の手続きをしたら、数日で大学の生協に入荷したらしい。今日か明日に取りに行こうと思っている。これは1を虚数単位の i の導入が座標原点 O のまわりの90度回転で導入している。

こういう虚数単位 i の導入をした複素解析のテクストとして、はじめて見るものである。この虚数単位 i の導入のしかたは、このテクストの専売特許ではないのだが、それを実際にこのしかたで虚数単位 i を導入した複素解析の日本語のテクストを見たことがなかった。google booksでのサービスで見て購入を決めた。もっとも他の部分がうまく書けている保証はない。アマゾンコムの書評では名著との評がいくつかあったけれども。この書評も点の辛い人と点の甘い人とがあるので、何とも言えない。

いつもこのブログで述べているように私の複素解析のテクストの評価は「分岐点をどう説明しているか」と「解析接続の方法とその例がどくれくらい豊富か」ということにあるが、そのどちらにもあまり合格するテクストはない。

近々このテクストを手に入れるのだが、いまはそのタイトルも覚えていない。それでここに紹介することができない。なんでも多くの人が著者になっている本だったことしか覚えていない。その著者のうちの二人はもう故人になっているとあった。


3次元のラプラス演算子の極座標表示(再々論)

2018-04-25 15:37:32 | 数学

3次元のラプラス演算子の極座標表示を江沢洋先生の計算方針にしたがって、また導びいてみた。昨夜の夕食後にそれも12時過ぎに寝る前の少しの時間と今日の午後のちょっとした時間を使って導くことができた。

正味の時間として、どれくらいかかったのだろうか。今日は午前中には眼科の診療所に行ったり、洗濯物を干したりの家事が午前中にあったので、午前はまったく時間を使っていない。午後はラジオ体操をしたり、ラジオの「まいにちドイツ語」と「まいにちフランス語」を聞いたり、また昼食をとったりしている。

学生のころには、3次元のラプラス演算子の極座標表示の計算は1週間くらいかかって、それでもなかなか計算が一致しなかったと思う。だから、江沢先生の式を小分けにした計算の威力のほどがわかる。それに私もちょっと計算の工夫をしたので、これほど早く計算ができたのだと思う。

それは微分の前の係数をすべて添字つきではあるが、1文字に置き換えた。それでも一つの式の計算がうまくあわないで慌てたので、ちょっと検算に時間がかかったが、それのミスもあまり時間を空費せずに見つかった。

やはり、この方法での極座標表示も数学エッセイに書いておくべきだろう。

(2018.6.12付記) ここに述べた方法での「3次元のラプラス演算子の極座標表示」の求め方は最新の「数学・物理通信」8巻5号に掲載した。まだ谷村さんのサイトに載っていないかと思うが、数日後には載ると思うので、参考に読んでほしい。


Je voudrais peindre comme tu ecrits.

2018-04-25 12:20:46 | 日記

これは画家のセザンヌが友人の作家のエミール・ゾラに言った言葉だという。意味は「君が書くように絵を描きたいものだ」(ジュ ヴードレ パインドレ コム チュ エクリ)

いまでこそ画家のセザンヌは日本では印象派の画家の代表としてとても有名だが、生前には亡くなる数年前にようやく名声が得られたのだという。親友の作家エミール・ゾラに言ったこの語はちょっと愚痴のように聞こえないでもない。中学生のころに絵の先生からセザンヌは銀行家で、日曜画家であったと聞いたような気もするが定かではない。

親友のゾラの方はすでに名声を得ていたそうであるから、そういう友人にちょっと愚痴が出たともいえるかもしれない。昨夜のNHKのテレビのフランス語の放送で見た。毎年横浜かどこかで行われるフランスの文化祭か映画祭か何かで招待された映画監督がスザンヌの好きな言葉として言っていたのをちょっとメモったのだから、正しくメモったかどうかはわからない。

それとこれもちょっとこのブログで書いておきたいと思っていたのだが、作家カミユは先日のNHKのフランス語の放送で聞いたところではカミュであり、日本語では強調される名前の終わりのユではなくuはほとんど聞こえない。

(2018.4.26付記) カミユの主な作品である、『異邦人』(?)は自分で翻訳でも読んだことはないが、これは戯曲に変換されたものをもうこれは何十年か前のNHKのフランス語の放送で聞いたことがある。けっこうフランス語的には難しかったという記憶がある。ただ、はじめの「昨日、ママが死んだ」という始まりはいまもまだ覚えている。