大学と大学院での私の同級生であった H 君がカープファンだった関係で彼と一緒にもうなくなってしまった、広島市民球場にも数回カープの試合を見に行った。当然のことだが、1塁側の観覧席である。
私は1968年3月に広島を去ったので、1965年にカープに所属することになった、衣笠さんと広島では数年しか一緒ではなかったことになる。多分、衣笠選手が活躍しだしたのは私が広島を去って以後のことである。だから市民球場で衣笠選手を見たことはなかった気がする。
それでも衣笠選手と山本浩二選手とはスター選手であったので、すぐに覚えた。1975年の初優勝のときには、たまたま訪れていた N 高専のテレビで優勝の瞬間を見たという記憶があるが、これはひょっとすると日本シリーズのことであったかもしれない。
もうすでに亡くなって久しい H 君がもう負けつづけて、弱かったカープが優勝するなんてと感動していたのを今でもありありと思い出す。それくらい広島県民には悲願のカープの優勝だった。
そういういわくがあるのだが、衣笠選手の筋肉は柔らかくて典型的なスポーツ選手だったと聞いたか、読んだことがある。筋肉は労働者は硬く、私たち何もしていない者は柔らかい。そしてスポーツ選手は力を入れれば、労働者ほど硬く強くなるが、力を抜くと私たちと同じくらい柔らかいのだと聞いた。
それだから、100回を越える、死球にも耐えられたのであろう。そういう体が2215回という連続出場を可能にした。それと強い意志もあったろう。衣笠さんといえば、死球に怒る自チームのベンチをなだめながら、1塁に向かったといわれる。この寛容さはどこから来ているのだろうか。生身の人間であるから、死球が痛くないはずはない。異口同音に長嶋さんや王さんが優しい人だという印象を衣笠さんに抱いた、そのもとはやはり寛容さから来ているのだと思う。
自分には厳しいが、他人には優しい。これはそういう人間が理想だとは思うが、なかなかできることではない。
新聞で見たのだが、江夏さんが死とは「誰で通る道だが、もうすぐに俺も行くからいつまでも寂しくはさせない」というような言葉を述べたと新聞に出ていた。さすがに衣笠さんの親友という江夏さんの言葉として、この人の人柄を察することができた。
(2018.4.28付記)祥夫と間違っていました。祥雄でした。