というのはポスト・ノーマル・サイエンスが提唱されたヨーロッパでGMO(遺伝子組み換え作物)をアメリカからヨーロッパへと輸入するかどうかという議論のときにヨーロッパ(EU)側が言い出した論理である。
これは科学史家の塚原東吾さんはヨーロッパ起源の概念だとお思いのようである。だが、すでに日本でも武谷三男の「安全性の哲学」の中で提唱されている概念であった。
武谷の編纂した岩波新書の『安全性の哲学』などにもその考えはあるようだが、すでに熊本の水俣病訴訟でその闘争の論理として採用された。
このことは私の徳島科学史雑誌への投稿論文(2015)「他人から見た武谷三男」で言及したことである。重複にはなるが、ここでその原田正純氏の引用個所を書き抜きしておく。
(引用はじめ)
武谷氏は農薬に限らず、薬物を使う、ときには被害が証明されない限り使ってはいけない
いけないというのが基本原則であって、逆に有害が証明されない限りつかってもよいというのは非常に困る、と述べていた。
害が証明されないというが、現実にそういうことをやってみてそうなるかどうかがはじめて証明されるというのでは科学の無能を意味し、ときであり、降灰放射能の害が証明されるのは、人類が滅びるときであり、人体実験のほかならない思想にほかならないこと
(引用おわり)
いま直前の文はもともとビキニでの水爆実験による降灰放射能の害についてどう考えるかを述べたところに出ていることである。
水俣病研究会では(1)高度の注意義務(2)安全確認義務という二つの原則に仕立て上げた。
最近、ポスト・ノーマル・サイエンスという概念を塚原さんの論文で知ったので、それとの関係で2015年の私の論文を思い出した。詳しくは今年末に発行される「徳島科学史雑誌」に述べたいと思っている。
これは科学史家の塚原東吾さんはヨーロッパ起源の概念だとお思いのようである。だが、すでに日本でも武谷三男の「安全性の哲学」の中で提唱されている概念であった。
武谷の編纂した岩波新書の『安全性の哲学』などにもその考えはあるようだが、すでに熊本の水俣病訴訟でその闘争の論理として採用された。
このことは私の徳島科学史雑誌への投稿論文(2015)「他人から見た武谷三男」で言及したことである。重複にはなるが、ここでその原田正純氏の引用個所を書き抜きしておく。
(引用はじめ)
武谷氏は農薬に限らず、薬物を使う、ときには被害が証明されない限り使ってはいけない
いけないというのが基本原則であって、逆に有害が証明されない限りつかってもよいというのは非常に困る、と述べていた。
害が証明されないというが、現実にそういうことをやってみてそうなるかどうかがはじめて証明されるというのでは科学の無能を意味し、ときであり、降灰放射能の害が証明されるのは、人類が滅びるときであり、人体実験のほかならない思想にほかならないこと
(引用おわり)
いま直前の文はもともとビキニでの水爆実験による降灰放射能の害についてどう考えるかを述べたところに出ていることである。
水俣病研究会では(1)高度の注意義務(2)安全確認義務という二つの原則に仕立て上げた。
最近、ポスト・ノーマル・サイエンスという概念を塚原さんの論文で知ったので、それとの関係で2015年の私の論文を思い出した。詳しくは今年末に発行される「徳島科学史雑誌」に述べたいと思っている。