「入市被曝」とは本当は適切な用語があるのだろうが、今すぐに思い出さないので当面使っておく。
これは1945年8月6日8時15分の原爆投下の後で、多くの人が肉親を捜して市内に入った。これらの人は、必然的に後年に放射線被曝して後遺症に悩まさせられることになる。
その当時には、放射線の後遺症に悩まされることになるなどとはだれも思わなかった。私の物理のS先生はすでに物理学者であったから、放射線を受けたということを知っていたらしく、彼は自分の体を水で丁寧に洗ったとか誰かから聞いたことがある。
このS先生は故人だが、たまたま塀の向こう側を歩いていて、その塀もこのS先生の歩いていた前後の塀は倒れたという。ただ彼が歩いていた部分の塀は倒れなかったという強運の持ち主であった。
もし塀が倒れていたら、このS先生は塀の下敷きで亡くなっていたかもしれない。
そういうこともあって、このS先生の後半生は物理の研究よりも原水爆禁止運動にささげられた。こういう経験は普通の人にはできない経験であるから、私はS先生の生き方を否定したくない。
入市被曝ではなく、直接の広島での原爆にあった方を知っており、こちらのS先生はまだ中学生だったと聞いた。だが、その経験談を聞いたことがなかった。
多分に広島の原子爆弾被曝などというつらい経験を人に話すなどということはとてもできないことなんだろう。ずっと後になってある新聞のインタビューに答えての記事を読んでだったか、このS先生の被曝経験を知った。
昨日の8月6日は、広島への原爆投下75周年の日であった。75年は木も草も生えないなどということは私もその当時の1945年に聞いたことがあるが、自然の回復力はすごくてつぎの年にはすでに草木も生えていたと思う。それでも人の体に与えた放射能の生理的な影響は大きい。また人に与えた心理的の影響はもっと大きい。