幸せとは有名大学に入ることではないような気がしている。
もちろん、有名大学を出て、活躍する人も多いのだろう。だが、昨日の同窓会の後で考えたことは必ずしもそうではない友人たちの後世があったような気がしたからである。
私よりも有名大学に入った人は多くいたのだが、いまの私より幸せだった人は少ないのだろうと思っている。これは家庭的な幸せのことではない。それは人それぞれ幸せだったのであろう。
だが、84歳の現在、自分が十分に幸せであると感じるからである。これは大学在職中には感じることのできなかったことである。だから、地位とか名誉の問題ではない。やはり自分の生き方とか性(しょう)に現在の自分があっていると感じているからだ。
久しぶりに何人かの友人にあってこの人たちも幸せであるだろうと想像できた。その一人は S 君である。彼は演劇に凝って自分の劇団をもっているはずだ。それに有名な詩人で劇作家の寺山修司の全集の3人の編集委員の一人である。
若いときには映画に凝って高校の授業をさぼって映画を見に行くほどの映画好きであった。しかし、どこかの映画の撮影所で助監督か助手になったのだが、映画を諦めて出版社をはじめた。
あるとき寺山修司とつきあいができて演劇に熱中するようになり、出版社を他人に譲って演劇にのめり込むようになった。脚本を書いたり、または、劇の演出もしているだろう。そういう人はやはり幸せだろうと思う。
私もそれには劣らず自分の好きなことをしている。こんな幸せなことがあろうか。