物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

出版社と著者

2011-08-18 12:02:41 | 本と雑誌

みすず書房が物理学者の朝永振一郎さんと密接な関係にあったことはよく知られている。

だから、朝永著作集はこのみすず書房から出されているし、また朝永さんの名著「量子力学I, II」とかこの量子力学IIIにあたる、「角運動量とスピン」とかももちろんそうである。最近では「スピンはめぐる」の新版もみすず書房から出ている。

勁草書房は武谷三男の著作集とか現代論集を発行しているから、一時は武谷の著作を一手に発行していた観があった。それでかどうか羽仁五郎の「都市の論理」も出して、この本が一時ベストセラーになったことは知られている。

だが、朝永さんや武谷さんが亡くなって、みすず書房の方はそうでもないが、勁草書房は著者の層が変ってきたように感じられる。それだけ勁草書房の出す本に魅力が少なくなって来ているように感じられる。そんなことをいうと編集者に失礼にはなるのだろうが。

著者と出版社の関わりで言うと、鶴見俊輔さんと筑摩書房のかかわりも深いと思われる。鶴見俊輔著作集を出しているからである。ところがお姉さんの和子さんは藤原書店と関係が深そうである。

こうやって見ると出版社はいい著者を見つけると、ある一定の売り上げが保証されることになるのだろうか。

こういう特定の著者を見つけるのは出版社にとって難しいことだろう。武谷は自分の著書は初版3,000部でそれ以上には売れないとか言っていた。それでも3,000部が売れるということは日本ではすばらしいことであろう。

「数学ブーム」のブログでも言ったが、「語りかける中学数学」「オイラーの贈物」はそれぞれ総数で10万部の売り上げというから、これは数学書としては異例のベストーセラーにちがいない。もっとも年数をかけてなら、今でも売れていると思われる、高木貞治「解析概論」とかはその売り上げの総数はどれくらいなのだろうか。

そういえば、ホルプが遠山啓の「数の広場」シリーズの3部作、「さんすうだいすき」、「算数の探検」「数学の広場」を出したが、これはどれくらい売れただろか。もちろん売れ筋だけを出すのが出版社の仕事ではないのだが。

遠山啓で思い出したが、彼の著作集は太郎次郎社から出されている。これは故淺川満さんという編集者が遠山の大ファンだったことによるらしい。また、仮説実験授業の板倉聖宣の著作はほとんど仮説社から出されている。

このように出版社とその著者には関係が深いことが多い。

私の著書「数学散歩」などは300部も売れただろうか。公立の図書館等がある程度書名に引かれて購入してくれたが、ほとんどの方はそういう書が出たこともご存じないに違いない。またこの書の抜粋版にあたる「物理数学散歩」を今年の4月にやはり発行したが、あまり売れているという話を聞かない。

大学の理工科系の学生のために役立つと思ってこの抜粋版を国土社から出してもらったのだが、預けた250部が売れたという話を聞かない。楽天が少してこ入れをして宣伝をしてくれているらしいが、あまり誰の役立たなかったのかと思うと悲しい。


原爆に会わなかった人々3

2011-08-17 12:01:48 | 日記・エッセイ・コラム

これは私たちの先生の一人数学者のT先生から、大学院の数理物理学の授業で聞いたこぼれ話である。

T先生は相対論の数学を専門とする数学者であったが、8月6日にはたまたま所用で広島市にはいなかったので、原爆を被爆することからはまぬかれた。だが、先生の親族の多くは原爆を被爆して亡くなった。

これは後年彼がアメリカのテクサス州であった、一般相対論の国際会議に招待されたときのことであるが、そのときのはまだ健在であった原爆の父といわれたオッペンハイマーも出席していたという。

帰って来られたときに、「オッペンハイマーも来ていたが、親族の多くが原爆でやられたので、一発食らわしてやりたかった」と半ば冗談、半ば本気で話しておられた。もちろん、オッペンハイマーが優れた学者であることは間違いがないのだけれどと付け加えるのは忘れなかったが。

このとき国際会議にはじめ出席できないと一度は断ったらしい。旅費を出すから出席しないかと再度言われて引っ込みがつかなくなり、彼は重力崩壊(gravitatinonal collapse)の講演をしたのだと言われていた。

Before collapsing myself, I  will stop my talk・・・とかいって話を終わったのだと話されていた。これはもちろん重力で星が崩壊するということに引っ掛けたジョークであろうか。

このT先生から私の先生の一人、S先生が原爆に会われたことを知った。このS先生は運のいいことにちょうど塀によって原爆の熱線の直撃を受けずにすみ、80歳過ぎまで生きられた。

S先生は物理学者だったが、私の大学院生のころはもう物理よりは原爆禁止運動の方に熱心であった。


半角公式

2011-08-16 13:30:50 | インポート

S. ラングの「解析入門」(岩波書店)のp.268の上の方に三角関数の半角公式が与えられている。そのすぐ下に

cos^{2}  x-sin^{2} x=cos 2x   (1)

cos^{2} x+sin^{2} x=1                 (2)

の式が書かれている。これを見てラングが、私の知っている三角関数の半角公式と同じ導き方をしていることがわかった。

ラングの本ではもちろん上の2つの式(1), (2)を上下に並べて書いてはいないが、そのつもりであろう。

どうやって半角公式を導くか。

(1)と(2)を辺々足せば、2cos^{2} x=1+cos 2xが直ちに得られる。また、(2)から(1)を辺々引けば、2sin^{2} x=1-cso 2xが得られる。

これはそのままで半角公式であるといってもいいが、見かけ上もきちんとした半角公式にするにはxをx/2と置き換えてやればすむ。もちろん、最後に両辺を2で割る必要がある。

私はこの導き方を自分で見つけたわけではない。藤森良夫先生の続「解析の基礎」続(考え方社)で読んで知ったのはもう50数年前の高校生のころである。

もっともこういう風な導き方をexplicitに書いた本を藤森先生以外の本で見たことはない。(もちろん頭の中では明らかにこういう演算がされてはいるのだろうが)。

それで、1999年から3年にわたって、私が個人として発行した「電気電子工学科ミニマム」(愛媛大学)にはこの導き方を書いておいたが、誰もそのことに気がつかなかったかもしれない。

ラングの本は分かりやすい本と定評のある本であるが、藤森先生の半角の公式と同じ導き方にこの本で出会って懐かしかった。


原爆に会わなかった人々2

2011-08-16 10:41:03 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のK夫人は私も面識のある方だが、今日ご紹介するN氏は面識がある方ではない。N夫人はまだ存命なので面識があるが、ご主人の方は私ども夫婦が知り合いになる前に亡くなられていた。

このN氏は戦争中に医者になるために長崎医学専門学校で学んでいた。ところが継母さんからいじめを受けてもうそこで医者の勉強をするなら、送金はしないと言われて、泣く泣く郷里に帰り、師範学校に入って、戦後中学校の数学の先生になった。もし医学専門学校で勉学を続けていれば、おそらくは原爆を被爆したであろう。

継母さんの意地悪はこのN氏の命を救ったという数奇な運命を辿ったわけである。彼は愛媛県の佐田岬といわれる全長が50kmにも及ぶ(多分日本一長い)半島の真ん中、または、むしろそれよりも九州に近いところの出身である。N氏のお父さんも医師だったそうだから、頭もよかったのであろう。

しかし、継母のいじめにあって、泣く泣く医学の勉学を断念したのだが、それが彼が長崎での原爆にあうことを避けられたことになったのは何が幸いするかわからない。

三崎の中学校等南予に勤められたと思うので、愛媛県の人で彼の教え子はかなりいるであろう。

いまではこの佐田岬の途中の伊方町には四国電力の伊方原子力発電所ができて、そのためにこの佐田岬には立派なドライブウエイが走っている。それで、いまではこの半島は昔のように文明の果てる所といった感はない。しかし、私がまだ中学生か高校生の頃にはこの半島は細い道をくねくねと辿るか、または、船で半島の途中の町村へ行くという風だったらしい。

佐田岬に関係のある、有名人物にこの半島出身の坪内稔典さんとか、青色LED発明者の中村修二氏がいる。もっとも中村修二氏のご兄弟は松山在住だし、「ねんてん」さんと親しみをもって呼ばれているらしい、坪内氏は有名な俳人である。「ねんてん」さんは本当は「としのり」と読むのが正しい。「ねん」のため。


原爆に会わなかった人々1

2011-08-15 10:38:01 | 日記・エッセイ・コラム

原爆を被爆してその後の人生が変った人もいるし、原爆で亡くなった人の数は広島では14万人とも言われている。これは昭和20年(1945年)中に亡くなった人の数だそうだから、その後の晩発被害で亡くなった人は入っていない。

ところが、人生には逆に危ういところで原爆に会わずにすんだ人もおられる。そういう数奇な人生を送った人もいる。そのうちの数名にしかすぎないだろうが、私の知っている例をいくつかあげてみたい。

これは妻の知人のK夫人のことであるが、幼児のときに広島市に住んでいた。ところが父親は兵隊にとられて、母親と二人で住んでいたが、昭和20年になって家の前の通りを戦車を通すために狭いからといって、家を壊されて強制移住のやむなきにいったという。その家のあったところは後に原爆の爆心地とされたところからは数百メートルしか離れていなかったという。

家にあった服とかもほとんど持ち出せずにK夫人のお母さんは不満だったらしいが、しかたなく故郷の愛媛県に帰った。そしてその3日後に広島に原爆が落とされた。K夫人はそのときに3歳でものごとがまだよく分る年齢ではなかったらしい。

この家屋の撤去は普通には焼夷爆弾攻撃での類焼を防ぐためと言われているが、その当時はそういう風には言われないで、戦車を通りに通しやすくするためという口実が使われていたらしい。

今ならともかく当時戦争の遂行に係ることに異論を唱えることなどできない情勢だろうから、家を取り壊されてそこに住めなくなったK夫人のお母さんにとってそのときの不平不満は想像するに難くはないが、それでもそのために命拾いをしたことの感慨は深かったであろう。

明日はもう一人の方の話を書いてみたい。


真夏日

2011-08-13 13:10:21 | 日記・エッセイ・コラム

テレビのニュースでは全国至るところで真夏日である。しかし、幸いなことに私の仕事場では一昨日、昨日とエアコンはつけないで過ごせた。これは西風が吹き込んで比較的過ごしやすかったからである。今日も昨日までほどではないが、いくらか風が吹いている。

もちろん、夕方は瀬戸内海特有の夕凪で風がぴたりと止まってしまう。夜の10時頃になるまで風は吹かず、蒸し暑い。10時を過ぎる頃になると山の方からの山風が吹き、日中の海風とは反対方向から風が吹いてくる。

最近はあまり時期が明確ではないが、昔大学の宿舎に住んでいたときは8月5日を過ぎると吹く風が乾燥してきて湿度が下がり、堀江の海岸の方から吹いてくる風が秋の季節の当来を予感させてくれた。

もっともそれまでの湿度は生半可なものではなく、毎年汗で腕にあせもができて、皮膚科で赤外線をあてて乾燥させ、かつ薬をもらって塗らないとかゆくてたまらなかった。

松山市の東部の方に転居してからはそういう年中行事の疾病に悩むことがなくなったのは幸いだった。昔はエアコンもなく各家庭にある扇風機もあまり台数がなかった。


There is no rule without exception

2011-08-12 12:19:40 | 日記・エッセイ・コラム

「例外のない規則はない」という。それが表題の英語である。

これは中学生の頃に覚えた英文だと思うので正しい文なのかどうかわからない。これは複数では言わないのだろうかという疑問がある。これをドイツ語でいうとEs gibt keine Regel ohne Ausnahmeとでもいっただろうか。

別にここでことわざ談義をしたい訳ではない。今週の火曜の夜のテニスの後で来週はお盆だがどうするのという話が出た。私の反応はいつものことながら、例外をつくらないということであった。

お盆だからといって毎週やっているテニスは休まない。東温市の公営のコートなので、お正月を挿んで12月28日から1月5日までの施設全体が休みになる。そのときは仕方なしに休みにするが、それ以外は基本的にテニスを休まないというのが基本の姿勢である。

もちろん、個人的には休む人があるのは当然であるが、それでもこういう事業をやっているクラブの全体としては例外をできるだけつくらない。

テニスのボールは基本的に私が管理していて、私に支障がなければ私がもって行く。だが、別に私は鉄人ではないので、病気になったり、旅行したり、支障ができたりする。そのときは誰かそのときに行くであろう人にボールを託する。

こうしてやっていると飛び入りでやって来ても誰も仲間のメンバーがテニスをやっていないということは避けられる。だから、飛び入りでやって来られる方がときどきおられる。

雨が降ってどうしてもテニスができないとき以外はテニスコートで誰かはテニスをやっている。いや、少々の小雨くらいならテニスをやることもある。

とても簡単なことだが、守るのは普通はとても難しいことなのであろう。だが、こうやってテニスクラブは続いている。


斜陽

2011-08-11 11:01:26 | 本と雑誌

「斜陽」とは太宰治の小説の題目である。

昨夜のNHKのJ文学で、ロバート・キャンベルさんが「斜陽の本来の意味は西日とか夕日だが、現在では没落というような意味に使われますね」といわれていた。

これには驚いた。私には斜陽は西日とか夕日という感覚はまったくなかったからである。よくドイツ語のクラスで私たちが使ったドイツ語の単語の意味が少なくともドイツ人の小学生には通じないだろうとR氏に指摘されることが少くなくないが、それと反対のことが現実にあったということである。

もちろん、日本でも少し年配の学のある方は斜陽の本来の意味は「夕日とか西日である」ことを知っているのであろうが、少なくとも私はそれを知らなかった。

日本語を教えてくれるのは日本人だとは限らない。そういえば、哲学者の鶴見俊輔さんはアメリカで日本語をまったく忘れてしまい、彼の日本語の先生はアメリカ人の日本学者のライシャワー氏だったという。

ライシャワー氏は日本生まれで、奥様は日本人であり、アメリカ大使をされていたときに私の在学していたH大学にも講演に来られたことがあった。そのとき英語で講演をされたが、通訳の日本語を修正させていたというくらい日本語が達者であった。


アルファルファ

2011-08-11 10:48:08 | 日記・エッセイ・コラム

先日無料塾を5日にわたって開いたことはこのブログで述べたが、そのときに中学生の社会の宿題か何かでアルファルファというのが出ていた。これは日本ではきゅうりとかナスのような野菜として食されているということであった。

そのときに私は小学生のときに、市の児童図書館で読んだ地理の本の中に出ていたアルファルファはアルゼンチンの牧草であるという知識を披露した。その知識は主婦である妻には珍しかったのであろう。昨晩の夕食にアルファルファが生で出されていた。

ところがこれは私には生臭くて食べられなかった。それで、今朝の朝食にはそれを炒めたものが出されていてこれはもちろん問題なく食べることができた。

アルゼンチンではアルファルファが牧草として牛や羊の飼料として使われているとは小学校での地理の本の知識である。もう60年以上も前のことを覚えているというので妻に感心されたが、それほど感心してもらうほどのことでもない。

昔の知識で確かではないが、アルファルファは繁殖力が強く、牧草に適しているということであったように思う。

それで試しに広辞苑を引いてみるともちろん牧草とあったが、もやしは生食用とあった。人はこれを生で食べるのが普通なのであろうか。私には大豆のもやしも生では到底生臭くて食べることができない。もちろんゆでたり、または炒めて食べるのは好きである。

アルファルファは西南アジアが原産と広辞苑にはあった。N先生からまた、Wikipediaで調べたらと、コメントが入りそうな気がするが、まだWikipediaでは調べていない。


Detmar Cramer

2011-08-10 11:00:59 | スポーツ

Detmar Cramerはドイツ人のサッカーのコーチである。東京オリンピックの前に日本のサッカーの強化を依頼されて、ドイツから日本へとやって来た。35歳のときだという。

東京オリンピックでは南米の強豪チームのアルゼンチンを3-2で破るという業績をあげた。その次のメキシコのオリンピック大会ではDetmar Cramerが指揮はしていなかったが、日本は銅メダルを獲得した。私のようにスポーツに暗いものでも、そのときのエースストライカーの釜本の名は覚えている。

昨夜のEテレのドイツ語講座ではこのDetmar Cramerのことを取り上げていた。曰くWegbereiterだという。これをいま辞書で引いてみると草分け、先達とある。Bereiterは調教師との訳がある。bereitenは調整するとか、支度するという訳がある。Sind Sie bereit ?というと「準備ができたか」という意味だと思うので、bereitenの意味が推測できようか。

ところで、もう名前は忘れてしまっていたのだが、釜本と並んで杉山という優れたプレーヤーもいた。彼らの切磋琢磨でメキシコのオリンピックでの銅メダルがあった。そういう切磋琢磨をCramerは

Durch Reibung entsteht aber auch Energie. (摩擦によってエネルギーが生まれる)と言ったという。

この文章は印象的であるが、ドイツ語の特徴をよく表している。というのはこの文の主語は文の一番最後のEnergieであり、動詞はentstehtは文の2番目の位置に来ている。

ところで、スペイン語でメキシコはメヒコと発音され、またアルゼンチンはアルヘンチーナと発音される。昔、ドイツのフライブルクで出会ったあるアルゼンチン人にアルヘンチーナの出身だったのですかとドイツ語で言ったら、お前はスペイン語を話すのかと聞かれたが、もちろんただこの発音を知っていただけのことにすぎない。ちなみに言うと日本でも有名なペルーの藤森元大統領はフジモリではなくて、スペイン語ではフヘモリである。

このアルゼンチン人はたまたまこのとき脚を骨折していて、Sie m''ussen zum Arzt gehen(医者に行かなければなりませんね)と私がいうとIch bin selber Arzt (私自身が医者なんです)という受け答えがあったことを覚えている。


アセトアルデヒド

2011-08-09 12:37:26 | 健康・病気

胃の中だかにアセトアルデヒドがつくられるそうだが、口の中でつくられているという。そして口の中でつくられたアセトアルデヒドは食道ガンの原因になるという。

そして、歯をよく磨く人は磨かない人よりも食道ガンになる割合が少ないという。だから、食道ガンにかかりたくないなら、しばしば歯を磨くといいらしい。

朝起きたときなどに口の中がネバネバした感じがするが、これを歯ブラシなどで除いてから朝食をとる方がよいとは医者のKさんのアドバイスである。このときに歯磨きを使う必要はない。

私は歯をよく磨く方だし、タバコもすわないので、食道ガンにはかかる割合は低いとは思うが、それでもアセトアルデヒドは口の中でできていることは確かなので最近は朝起きたら歯ブラシで口の中を簡単に軽く磨くことにした。

いろいろな知識を生きている内には得るものである。それらが実際に生活で役立つかどうかはわからない。だが、日本は女性は世界一の長寿だし、男性も世界第4位の長寿となっている。

ただ、少子高齢化が社会を不活性にするという言い方にはひっかかるものを感じる。これは単に高齢者をもうまく活かす社会ができていないことを示しているに過ぎないと思うからだ。

また、女性を十分に活かしていないとも思う。さらにいうと若者も十分に活かせていないと思う。これは資本主義の限界を示している。


8.6の66年

2011-08-08 14:52:00 | 日記・エッセイ・コラム

9.11とか3.11と同じように8.6とか8.9はもう私ぐらいの年齢の方なら思い出もあろう。64年目の平和記念式典には広島の平和公園の片隅で参加したのだが、それからでももう2年が経った。

もっとも数年前からテレビでこの平和記念式典を見ることが多く、実際に式典に参加するよりも様子がよく分かる。だから、式典に参加すると、あの暑さの感じとかを直に感じるという臨場感はあるが、式典で何が行われているのかはテレビで見る方がよくわかるのでいい。

私は平和公園から徒歩で20分くらいの広島市内にあったH大学の出身である。だが、足掛け10年の在学中には1回もこの式典に参加したことはなかった。8月6日に広島にいたことはあり、当日の早朝5時ごろに原爆記念碑までお参りに行ったことはある。

そこで、私の物理の先生の一人である、M教授が原爆記念碑に早朝にお参りにきているのを見かけた。このM教授はまったく原爆の被爆とは関係がなかったと思うが、知り合いの人が原爆にあわれていたのだと思う。

8月6日の深夜(すなわち8月7日の早朝)にNHKで「ヒバクシャからの手紙」の朗読があり、2時間の放送だった。途中で居眠りをしたかもしれないが、最後まで見た。

いつかはヒバクシャは死に絶えるのだが、まだ手紙を遺言のつもりで書いて送ってこられた人が居られるということである。

私がH大学に在学したのは1958年から1968年までの10年間である。だから、1958年はいまから考えるとまだ原爆投下からはまだ13年しか経っていなかったことになる。原爆投下はもうずいぶん昔の過去のことだとそのころは思っていたのだが、そうではなかった。


今治西高校の初戦敗退

2011-08-06 14:48:12 | スポーツ

甲子園球場での初戦敗退である。五回に5点取ったときには一時勝てたかなと思ったが、なかなか甲子園では勝てるものではないことがわかった。

こういうこともあろうかと今治西高校からの寄付の要請に昨日振り込んでおいたら、案の定の結果となった。私ども夫婦二人とも今西の出身である。私はもう愛校心も失せてしまっているが、妻が私の分と自分の分というつもりで私の名前で寄付を振り込めという。

妻は私にはポケットマネーをくれないくせにと陰口を叩きながらも、仕方なく昨日銀行振り込みをした。しかし、それは正解だった。

以前に、母校の野球チームが甲子園に出るといつも寄付が回ってきて困るとか妻が知り合いの弁護士さんに言ったら、その弁護士さんは松山東高の出身だったが、「寄付を言ってきてもいいから、甲子園にいって欲しいものだ」とかいわれて「やはりそういうものかな」と夫婦で笑いあった。

今年は県大会ではシードもされていなかったので、期待をしていなかったのに県大会で一つづつ勝って優勝をして、甲子園に出場となった。だから、チームのメンバーには悪いが、あまり期待していなかったのに5回に5点も取って一時は逆転したものだから、甲子園で1勝はできるかもしれないと淡い期待をしばらくだが持ったのに残念である。これはチームのメンバーにはもっと残念であろうが、また来年以降に期待しよう。


無料塾終了

2011-08-05 14:33:09 | 受験・学校

第3回の無料塾は今日の午前の習字塾をもって終わった。今年は疲れた。どうしてなのかは分からない。今日は5人の参加だったが、一人だけ絵を描いて後は習字をして学校に提出する字を書いた。

これで、今回は終わり。もしつぎやるとしても年末の書初め塾である。そのうちに本格的な無料塾が週一回の頻度で開かれることになるかもしれない。

昨日は「重信川の岸辺から」というブログを見つけて、かなり昔のブログまで読んだが、知っている人かなと思われたが、なかなか心当たりが思いつかなかった。この方は私の倍ぐらいの回数の2800回を越えるブログを書いておられた。

文章もなかなかのもので、かなりのインテリと思われる。政治的な意見は厳しい方で、現在の大多数の政党にはご賛成ではないみたいである。


なんでもやりはじめると

2011-08-04 14:30:18 | インポート

なんでもやりはじめるとなんとかなることが多い。今日が4日目の無料塾だが、いつも言うように今回が第3回である。

それが反響を得たとは言うことはまだできないが、「退職教員の会」の有志の方が関心をもって高校受験の中学生に対して無料塾を開きたいというので、参観に来られた。私などだったら、勉強に来る中学生がいるのかが心配だが、この退職教員の会の有志はむしろ教える先生が十分に集まらないことを嘆いていたらしい。

そこらへんの詳しい事情はわからないが、先生方自身があまり前向きでなかったということだろう。私は自分の親しい友人に先生をお願いしている。

私の妻はなんでもすぐ取り掛かるという経験をもっている。誰かがやってくれなくとも最低自分が動いてやる。それで、アイディア倒れになるはずだった、無料塾は少なくとも第3回までにこぎつけた。

サーキュラー「数学・物理通信」にしてもその成立と継続に成算があったわけではないが、それをはじめてみると二人のNさん等の常連の投稿者を得て、サーキュラーは別に原稿に困ることはなさそうである。むしろ投稿頂いた原稿をあまり遅滞なしに発行できるか、どうかの方に現在では問題点がある。

7号で積み残した原稿は8号を同じ月に発行するということでなんとかこなしたが、それを何回もできるかはわからない。そうするといずれかの号で積み残しが生じるかもしれない。嬉しい悲鳴である。

月1回開催している雑談会にしても、参加者は出入りがあるが、大体月1回の開催を保っている。8月は私の都合で開催ができないが、いままでこんなことはなかった。大体例外をつくらないというのが、会を続ける条件である。

週1回の火曜日のテニスも雨でできないことももちろんあるが、これが20年以上も続いていることは単に偶然続いているというわけではない。もちろんいつも、いつも同じメンバーという訳にはいかないが、少しづつメンバーが変りながらも続いている。それはこの会でテニスを楽しんでおられる方が常にいるからである。

天候等が許せば、いつ来ても誰かがテニスをやっているということは誰か一人や二人の努力ではできることではない。それも毎回8人以上の方が来られるためには10数人の方々がメンバーであることがどうしても必要であり、そのメンバーの数の維持に努力をしておられる方々がいる。

一度このテニスのメンバーが解散してしまうと、それを再編成することはとても難しいだろう。