物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

無料塾第3日

2011-08-03 14:29:51 | 受験・学校

今年の無料塾は子どもたちから、聞かれない限り教えないことにしているのに、どうしたものか疲れる。これは私の妻も同様である。1日目には教えて帰って後に、私は仕事場に出てきたのだが、妻は疲れで午後しばし昼寝をしないと元気を取り戻せなかったという。

これは私たちがすでにかなりの老境に入っているということを示すものであろう。毎日、中学生と小学生合わせて6人の子どもたちが来ている。先生の方も私たち夫婦も含めて5人がいるのだが、今年はあまりわからないことを聞かれないので手持ち無沙汰気味である。それでも終わったあとはどっと疲れている。

それでも今日は3日目なので大分体が慣れてきた感じがする。習字をしたいという希望が出ているので、明日か明後日に習字をもするといっている。

昨日の夜のテニスは湿度が高かったせいもあり、汗をいっぱいかいただけでなく終わった後は脚がほとんど動かず、帰宅してからの入浴でも体がなかなかスローもションでか動けなかった。

Eテレのドイツ語の放送も再放送であったが、これは大分ホステスを勤める内田恭子さんが大分放送に慣れてきて進行をうまくすることができるようになって安心して見ることができるようになった。

それを見てから、私としてはかなり早く寝たのだが、今朝はなかなか眼が覚めなかった。疲れていたからだろう。


孫歌さんの感じたこと

2011-08-02 17:03:07 | 本と雑誌

岩波書店のPR誌「図書」に北京のなんとかいう研究機関に属する孫歌さんが書いていた。

彼女は東京都立大学で学位をとった人らしいが、彼女が都立大学で学んでいたときにはもういなかった竹内好のまなざしを感じたという。

それは竹内好がもう都立大学を辞めており、そこに彼がいたというのではないが、あたかもそこにいるような雰囲気を感じたという。

これはいうまでもなく竹内好の教え子かどうかは知らないが、その学風が言わずとも残っていたということであろう。

私自身は竹内好がどんな中国学者だったのかはよくはしらない。ただ、鶴見俊輔さんの書いた文章からその人柄をほのかに推量するのみである。だが、そのような学風なり、影響を与えた方の存在を好ましく思う。

そして、広い意味でその影響を間接ではあろうが、その影響を受けた孫歌さんをうらやましく思う。

また、中国人の学者にそういう思いを感じさせた、竹内好を生んだ日本をある意味で誇らしく思う。いや、現今の変な日本の雰囲気でもそれに影響されずにすっくとたつ竹内好の姿勢をほめるべきであろうか。

もっとも先日のドイツ語のクラスで聞いた話ではこの誇らしいにあたるstolz auf et. という表現はむしろドイツ語では自慢すると言う意味にとられてnegativeなのだそうである。別に自慢するというつもりではないのだが。

(2014.8.30付記) 先日の朝日新聞に孫歌(そん ぐう)のインタビュー記事がでていた。(そん ぐう)とフリガナがつけてあったが、本当はソン クウとでも発音するのだろう。なかなか美人の女性研究者である。

中国の国家としての政策もあろうが、中国の市民のもっている感情とか思想とかは日本に対して必ずしもかたくなでも反日でもないというような趣旨であった。

そしてそこを重視すべきであろうとも述べていた。それは日本国民も中国に対して同様であろう。


無料塾第1日

2011-08-01 13:45:07 | 日記・エッセイ・コラム

今日は無料塾の第1日であった。朝方、夢を見るのにどうも午後2時から大学かどこかで授業をしなくてはならなかったのに、気がついてみると午後3時になっていたという夢だった。

いままで、大学の英語の単位が足らなくて、卒業できそうにないとかそういう夢は見たことは何度もあるが、自分が授業をしなくてはいけないのに時間に遅れたなどという夢は今まで見たことがなかった。

10時からはじめるのだが、10時10分前くらいにようやく「あったか拓南」についた。直前になって名簿をつくった方がいいと思いつき、かろうじて一枚のプリントをつくって持って行った。

参加者は6名で小5生の3名と中1生の3名の6人だった。中学生は主に英語を教えてもらった。小学校生は宿題のプリントを自分でやってもらった。「わからないことがあれば、聞いてね」と言ってあるので、あまり手取り足取り教えるということはしなかった。

途中で、思いがけない参観者があった。これはE大学のY先生のご夫妻であった。彼らの話では退職教員の会の有志が無料塾をやりたいと思っているのだが、教える先生が確保できるかどうかに不安を抱いているとのことであった。

私は何でもまずやってみることではないかという意見である。