物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Rosenmontag ローゼンモンターク(バラの月曜日)

2018-02-16 15:30:54 | 日記

とはカーニバルの前日の「ばらの月曜日」という名の祝日のことである。今年は2月13日がカーニバル(私の馴染んだ言葉だとファスナハト)であったので、その前日にはRosenmontagの行列がライン川中流の町、マインツ市でもあった。ライン河下りの出発点としてもマインツは有名である。それにラインワインの集積地でもある。だから飲兵衛にはまたとない街でもある。

これは R 氏に勧められて、ドイツのテレビ局 ARD の Mediathek をインターネット見たのだが、その行列とか市中で行われた祝祭の行事とかの放送を動画で見ることができて懐かしかった。

     Mainz bleibt Mainz, es singt und lacht.  マインツ ブライプト マインツ、エス ジンクト ウント ラハット 

    (マインツはマインツのまま、歌ったり笑ったり) 

というスローガンがシティ・ホールの舞台の上に掲げてあり、そこに市会議長が出て来てファスナハトのお祝いのあいさつをしていた。着飾ったお大勢の市民の参列者がいた。子どもも着飾っている。議長のあいさつがどういうあいさつなのかはところどころ単語が聞き取れるくらいでなかなか話の内容はわからなかった。歌手が何か歌を歌う。これはファスナハトの歌なのであろう。

数時間は続く、市中のファスナハトの行列はいまでも盛んなようである。「ファスナハトが終わるとマインツ人はみんな貧乏になる」と言われる。それくらいファスナハトにかける費用が多額であることを示している。だって見物人に雨のごとくまきちらす、ボンボンやショコラーデ(チョコレート)の量だけでも生半可ではない。

昨夜、ドイツ語のクラスでそういうことを言ったら、R 氏からそのことはケルンでもジュッセルドルフでも同じだと言われた。R 氏はジュッセルドルフ大学の出身である。この三つの町がライン河畔の町で、特にカーニバルの行列が盛んなところである。もちろんその見物に大勢の観光客が訪れる。その数は百万人ともいう。

もちろん、ファスナハトが盛んな町としてミュンヘンを挙げおかなければならない。ミュンヘンのファスナハトを見たことはないが、ミュンヘンではファスナハトとはいわずファシングという名前でよばれる。

だが、Fasching, Fastnacht, Karnevalはすべて同じ祭りである。これらすべてカトリック信者の多い地方であり、このファスナハトが宗教的な意味を持つのではないかと推測する人もおられようが直接に宗教とは関係がない。

Rosennmontag, Fastnacht, Aschermittwochでファスナハトは終わりである。先日このブログにも書いた

       Am Aschermittwoch ist alles vorbei. (灰の水曜日にすべてが過ぎ去る)

である。そして、それからは Ostern オースタン(イースター)のお祭り(休暇)までの40日が始まる。

 


『数学史のすすめ』を購入

2018-02-16 13:11:53 | 数学

した。高瀬正仁『数学史のすすめ』(日本評論社)を購入した。高瀬さんと物理学科出身の山本義隆さんとはちょっとスケールが大きくて私たち凡人がおよびもつかないところがある。二人とも古い文献を読むためにラテン語を修得したという努力もしている。

山本さんのことは今回は触れないが、今日、たまたま E 大学の生協書籍部に行く機会があったので、以前に見かけていた『数学史のすすめ』を購入した。

2014年11月に『四元数の発見』(海鳴社)を上梓したときに、その印税で購入を希望していたのが、高瀬さんの『オイラーの無限解析』と『オイラーの解析幾何』』(海鳴社)であった。そしてそれは手に入れた。だが、岡潔の評伝は「星の章」はすでに読んだことがあったので、購入の対象とはしなかった。

高瀬さんが昨年九州大学を退職して書いたのが、この『数学史のすすめ』であろう。だから、彼の数学史を追求するようになったいきさつが詳しく述べられている。

私は高瀬さんほど根源的な追及心がないので、単に複素解析での解析接続だとか無限級数の収束条件だとか分岐点だとかそういう概念を納得できるように知りたいという、あまり夢のない現実的な動機をもっているだけである。

だが、高瀬さんはきわめてスケールが大きな動機をもっていることを感じる。ただ、それでも上にあげたような現実的な私の疑問が解ければと思っているのだが。

今後、時間をかけて高瀬さんの書いた、巻末にあげられた彼の著作になる、いくつかの数学史書を読む機会があればいいと考えている。


パンは焼き立てがうまいか

2018-02-16 11:19:28 | 日記

どうかが昨夜のドイツ語のクラスで問題となった。「新しい焼き立てのパンがうまい」というふうに普通の日本人は感じるであろう。だが、そうではないという国の人もいる。

あまりたくさんの国のことは知らないが、ドイツでは「パンは焼き立てではなく、すこしおいてから食べる方がうまい」と聞いている。これが事実かどうかは私にはわからない。

だが、ドイツに長く住んでいた人は焼き立てのパンを食べることはあまり胃によくないのだという人もある。本当のところはわからない。ただ、ここでこの点が決着がつくのかどうか。いずれにしても「新しい焼き立てのパンがうまい」という考えは日本人の考えであって、そう考えない人もいるという事実を知ることは事実がどうかということよりも興味深い。

日本の米飯でだったら、これは炊き立てが少しおいて冷えたものよりもうまいであろう。これは多分にどこの人であっても食べ比べてみれば、異口同音に言われることだと思う。だが、パンは米飯とは違うということであろう。


前立腺の検査

2018-02-16 10:50:53 | 日記

を水曜にしたら、数値が横ばいで悪化はしていないので、1年ごとの検査でよかろうということとなった。それで1年後の2月13日に予約してくれた。

しかし、驚いたのは支払いが窓口ではなくて、端末になっていることだった。いままで、経理で受け付けていた人はどうしたのだろう。まだ切り替えして間がないので、端末の近くに係りの人がいて指示してくれるが、その人もいずれはいなくても済むようになるであろう。そうすると、経理の人は用なしということになって職を失うかもしれない。

AIが人から職を奪うというが、これはAIではないが、電子機器が仕事を奪うのは事実であろう。これは松山赤十字病院だけのことではない。近くのスーパーでもそうであろうし、いたるところでそういう事実があろう。

こういう事態に対処するためにはそれに適応していくという「人間の賢さ」が必要になってくる。妻などは「私たちの時代は若いときに技術を学んでそれを一生使って済んだ時代だが、これからは自分を常にup-to-dateする自己研修が必要な時代になっている」という。そしてその覚悟がないとこれからは生きていけないとも言う。

人生の間に数回自分の能力向上させたり、up-to-dateする機会をもつことが必要になっている時代だと感じる。早い話が私の子どもなどでもそういう絶えざる自己の革新が迫られているのを感じる。そうでないと同じ会社にずっと続けて勤めていくことなどできない。

もっとも私の子どもの場合にはある程度新しいものが好きないい性質をもっているので、いまのところは何とかきり抜けているのだが。


古在由秀さんの死

2018-02-15 11:59:09 | 物理学

今日の朝日新聞の天声人語で天文学者の古在由秀さんが亡くなっていたことを知った。

人工衛星が上がるようになってから、急に古在さんの名前が挙がったのは私が大学生のころだったと思うので、もう50年以上も前のことである。アメリカに呼ばれて人工衛星の軌道とかをきちんと計算できたので、アメリカ人が眼をみはったとか。

いま慌てて、書棚を探したら、古在さんの書いた『地球をはかる』(岩波書店)という本を見つけた。これは私が購入して持っていた本ではなく、中学校の理科の先生をしていた、亡くなった長兄の蔵書である。彼の家が雨漏りがするようになったので、破壊して撤去するにあたり、兄の本の幾分かを私が引き継いで現在では私の蔵書となっている。

この本には古在さんが結局は引き込まれることになった人工衛星のことを取り扱った章もある。第4章「人工衛星ではかる」である。この冒頭に当時のソ連の人工衛星が上がったのが1957年10月5日だったとある。このとき私は高校3年生である。1時限目の数学の時間に数学の池内先生が教室に入って来るなり、「ソビエトが人工衛星を上げたね」と言われたのを今でもよく覚えている。それくらいのショックであった。

その当時あまり数学が達者ではない、私のような者でも人類が「人工衛星を上げたこと」はやはり大きな感銘を受けた。その後の大学の理工系学生の増募が始まったきっかけでもあった。私の目指していた大学の物理学科でも学生の入学定員が5人か10人定員が急に増えた。

それはともかく人工衛星の軌道から、地球の形を決めるという仕事へと発展していく。これはジオイドと専門用語で呼ばれているものである。これが元々は天体力学の研究者であった、古在さんがその後に手掛けるようになった研究分野である。

古在さんの本によると古在さんがアメリカに出かけたころ、アメリカにはほとんど天体力学の研究者はいなかったという。天文学はかなり以前は天体力学で惑星や衛星の位置を計算で算出するのが仕事であったが、分光学の進歩で天文学の主な分野は天体力学から分光学による研究に重心が移ったと学生のころに天文学の講義で聞いた。

私たちに天文学の講義をしてくれた 村上忠敬先生は京都大学の出身で、天体力学の専門家は数学がとてもよくできなければならなかったのだが、それが分光学のお蔭でその数学が天文学にそれほど必須ではなくなったので、よかったと漏らされておられた。

 (付記)哲学者の古在由重さんは、天文学者の古在さんの叔父である。天文学者の古在さんは1928年生まれというから私と比べれば、11歳年上である。


弁証法

2018-02-14 17:21:50 | 日記

に私も昔は関心を抱いて少し本を読んだことがあった。国語学を修めていた高校の先輩Hさんから勧められたのが、三浦つとむの『弁証法とはどういう科学か』であった。

だが、あまり三浦つとむに傾倒することもなく、来ている。板倉聖宣(きよのぶ)さんが弁証法というのは科学ではなく、発想法みたいなものだという割り切り方は私には心地がよい。これは「対話とモノローグ」という S さんのブログで知った。

対話がまた発想の源になるという、板倉の考え方はそれでいいと思うが、私自身はなかなか対話でものごとを進めたという経験がない。本を読んでいろいろ考えたことはあるが、私は頭が悪いのでなかなか人と対話をしながら、論を進めるというふうにはいかない。

大学院の学生のころには指導教官が午後に回って来られて、対話というよりモノローグのような私の話を根気よく聞いてくれて的確なアドバイスをもらったことはあるけれども、これなど対話ではないであろう。むしろ、自分のいろいろのアイディアをなかなか論理としても無茶と思えるものを拾い上げてくれた指導教官の力量の方がほめられるべきであろう。

武谷三男は対話を重視したし、彼はまた論争上手でもある。そういう人と論争したら、自分ではなんだかまだしっくりこないのに口争いで、いい負かされてしまうという気がする。いい負かされると結局は本当は、自分の足で真実に一歩近づいていきそうだったのにかえって遠ざかるような気がする。

広重徹などが武谷三男といるところで、もちろん他の人もいたのだが、やはり口の上の論争では言い負かされてというか、返答をできないのに遭遇したとか私の先生のOさんから聞いたことがある。

広重徹はそれでも文章の上では我を張って、武谷三段階論を科学史の観点からは根も葉もないものだというふうに言ったと思う。直かにはなかなか論争できなかったかもしれないけれども。

これは武谷が広重の大学の先輩であるということもあって、広重が遠慮したという見方もできようが、そういう遠慮をしなければならないということではもう口頭での論争では負けている。もちろん、信念としてとなると何とも言えないが。

三浦つとむに関しては、鶴見俊輔さんが「思想の科学」の関連で生前に語っているところでは、「思想の科学」に三浦つとむを推薦したのは武谷だったという。ただ、その後、思想の科学の一派の中では三浦つとむを除名せよとの声があったそうだが、その声には鶴見さんは最後まで賛成しなかったという。ただ、三浦つとむはいろいろ「思想の科学の会」の中で問題を引き起こした人だったので、自然と思想の科学の中では活動はできなくなったらしい。

三浦つとむは鶴見さんに対してゴシップのタネをまいたりして、悪さをしたらしいが、それでも三浦の除名には最後まで反対したというから、鶴見さんはなかなかの人物である。

 


無限級数の収束条件

2018-02-14 12:48:48 | 数学

の直観的な説明を先日から読んでいる、山本直樹『複素関数論の基礎』(裳華房)に見つけた。もっとも、それらは最近になって私も同じようなことを本に書かれてあることを見つけたりしていることではある。しかし、世の中の多くがあまり直観的には書かれていない。

その点でもこの『複素関数論の基礎』はなかなかわかりやすい書き方がなされていて、感心した。これはこのブログでも何回か述べたことがある、Cauchy-Hadamardの収束判定条件とd'Almbertの収束判定条件についてである。これは友人の数学者 N さんがすでに知っていることだと思う。彼にそのことをまとめてほしと頼んだが、断られたとこのブログでも書いた。

これはこのブログではなかなか式を書きにくいので、具体的にはやはり『複素関数論の基礎』を図書館でか、本屋さんで見てほしい。私もこれだけではなく、これは数学ではなく、エッセイとしてどこかに記録に留めておきたいと思っている。

 


フィシャー・ディスカウ

2018-02-14 11:45:36 | 日記

とはドイツ歌曲を歌う歌手である。もう存命ではない。私がラジオでのドイツ語の講座を聞き始めたころ(これはもう半世紀以上も前のことだが)には、音楽の好きなドイツ語の講師の先生がおられて、ときどき15分の短い時間の中で、ドイツ歌曲を聞かせてくれた。そのときにレコードの歌手の名として男性歌手としてフィシャー・ディスカウの名前をたびたび聞いた。

テレビのドイツ語の講座でもそういう機会があったのだろうが、覚えていない。ところが先日NHKのEテレの日曜日の夜のN響コンサートの後のコンサートプラスのときだったかどうだったか、昔のコンサートの再放送があった。それにフィシャー・ディスカウが出て歌っていた。

コンサートではなく、テレビであるにしろ、はじめて、ディスカウを見たわけである。なかなか渋い感じの紳士であった。

フィシャー・ディスカウの歌を聞いたはじめはもう覚えてはいないが、多分、シューベルトの「冬の旅」の中の歌曲であったと思う。私自身は音楽にはとても弱い者であるが、それでもその声には魅せられた。冬の旅の歌詞もセンチメンタルなところがあるのと相まって、印象に残っている。

 


夢の内容

2018-02-13 12:36:01 | 日記

が少し変わってきたのだろうか。前はどこかに行こうとしているのだが、道に迷ったのかいろいろなことで目的地に着かないという感じの夢ばかり見た気がする。

それがすこし変わって来ているのではないかという気がする。どういうふうに変わっているかはよくわからない。というのはあまり夢の記憶が確かではないからである。頭が老化してきて、記憶する力が弱くなっているのかもしれない。

いまでもやっておきたいことは累積する一方だのに、課題はほとんど片づかない。そういう時期があるのだとある意味で達観している。それは一つには自分のものではないことに時間を割いているからである。

ところがこれがなかなかの難題で簡単にことが片づきそうにない。そういう時期もあるのだろう。それでという訳でもないのだが、気晴らしがてらの複素解析の勉強である。こういうのは普通は学生のときにしっかりやっておくべきことだったのだが、私はうっかりとして時を過ごしてきた。それでも今からでもおそくはなかろう。

それともう一つは複素解析に入るきっかけとなったのは無限級数の収束とかの話からである。いまはちょっと無限級数の話は私の意識の背景に退いてはいるのだが、もう一度それが前面に出て来なければならない。

大体、実数の範囲で級数の収束の円だの収束半径だのという語はなかなかピンとこないが、複素級数であれば、その2次元性から収束半径と収束円とかが意味をはっきりともつ。無限級数の収束ということがはっきり問題になってきたころに多分複素関数の研究がなされるようになってきているのではあるまいか。

こういう点が数学史家として著名な高瀬正仁さんがどう捉えておられるのか知りたい。もっとも私はいままでそういう観点から高瀬さんの本を読んだことがなかった。そういう視点から読んで見たらどうなるのであろう。


帯状疱疹

2018-02-13 11:48:30 | 日記

にかかったことはないのだが、もう少しで帯状疱疹にかかりそうだったことがある。

もう何時のことだったか覚えていないが、前に日に宮崎市に飛んで、次の日朝早くそこで行われていた、物理学会の分科会で15分のの話をしてその後すぐにタクシーでJRの駅まで帰り、JRで松山に帰ったという強行の旅行をしたことがあった、その猛烈さに体が悲鳴を上げて、脇腹とかお腹の前に2つ3つ疱疹がでたことがある。

そこが痛いので、行きつけの病院に行ったら、あなたこれは帯状疱疹の初期です。2週間ほど痛いですよと言われて対症療法的に注射か何かされたような気がする。

幸いなことにそれ以上に疱疹は増えず、帯状疱疹となることは避けられた。そのときに医師から言われたことは人間の骨髄かどこかに普通いるウイルスが出て来て悪さをするのだという。

私はそのときはじめて学科の主任をしていたので、出張でも1日くらいですぐに帰省するとかいうような生活であった。これが普段はあまり忙しくはしていない私に警報を出したのであった。

だが、その後注意してあまり忙しさが来ないように努力をしたので、帯状疱疹になったことは幸いなことにない。

(2018.2.15付記) このブログを書いたら、昨日の朝日新聞に帯状疱疹の記事が出ていた。偶然のときの一致である。こういうことが起こるものである。記事だって数日で情報を収集できるかどうかわからないので、以前から用意をしているのであろう。ただ、私の方は新聞の記事とは独立である。だから、同じようなことを考えたということはおもしろい。


Whittacker and Watson

2018-02-12 13:00:01 | 日記

の "Modern Analysisi" (Cambridge University Press) をほとんど開けて調べたことはないが、ペーパーバンドの本をもっている。ところが私の上司のA教授が定年のときに, それの大きな版形の本をを私に記念にくださった。恐縮する私にこの本は本当の版ではなくて、戦争中の上海版かなにか海賊版だと明かしてくれた。

それで私は二つの"Modern Analysis"をもつことになった。実際にはいままであまり参照したことはないが、このWhittacker and Watsonの本をもっていることはSchiffの量子力学の中で参考文献として挙げられていたからである。

大学の学部4年生のときにこSchiffの本の輪講を研究室でしてもらったが、それからあまりこのSchiffの本を参照したことはない。私が工学部に勤めたので、あまり正統な量子力学を講義する機会がなかったからである。

大学時代の友人でその後に原子力関係の会社に入った I 君などはSchiffの本をなめるように徹底的に勉強したなどと称していたのだけれども。

 


本の書き方

2018-02-12 12:27:49 | 日記

ここでいう本とは理系の本のことで、文学関係の本のことではない。ひとことお断りしておく。

(1)対話型の本の書き方がある。それと(2)誰かが読者の側に立って質問をしてもらいそれを受けて、それに答えるというふうな書き方もあろう。また、これは私などが書く文章の書き方だが、(3)脚注をたくさん入れるという文章の書き方もある。

最近読んだテクストでは(2)型の書き方をしているのが、小野寺嘉孝『なっとくする複素関数』(講談社)であり、(3)型の書き方をしているのはいま読んでいる、山本直樹『複素関数論の基礎』(裳華房)である。山本さんの本にはかなり脚注が多い。

私も『四元数の発見』(海鳴社)でこの(3)型の本の書き方をしたのだが、あまり人からはほめられたことはない。まあ、数式が多い本だから人から、褒められると思ったこともないけれど。

それとは別の話だが、小野寺さんの本の中で「定義、定理、証明」という数学の本でよく見られる書き方を数学を使う側の人で好きな人はあまりいないだろうと書いてあって、なるほどそうだろうなとうなづいてしまった。

小野寺さんは私よりも1歳年下らしいが、なかなか数学もよくできる人だと思う。それでもこういうふうに書かれているから、急に親しみを覚えた。私も本を買ってもっているけれどもなかなか読むことができない、『応用群論』(裳華房)の3人の著者の一人でもある。

(2018.2.14付記) 

疲れて、2月号の「数学セミナー」を見ていたら、作家の円城塔さんが対話形式の数学の本を書くことは難しいと書いてあった。私が読んだ対話形式の本は遠山啓さんの本とか志賀浩二さんの本とかがある。二人とも数学教育に関心のある人たちなので、興味深く書けていると思う。ただ、上極限のことを志賀浩二さんの本で読んでもよくわからなかったが、昨日、山本直樹さんの『複素関数論の基礎』(裳華房)を読んでいたら、説明があった。これはある級数の収束の話で説明があってそれはよくわかった。あまり志賀さんの本では例の挙げ方があまり適切でなく、話がわからなかった。

円城塔さんはもともと物理学をやっていたのだと思うので、私は小説は書かないが、むしろ円城塔さんを私たちと同類の人だと思っている。


複素関数の微分可能性

2018-02-12 12:10:36 | 日記

は普通にはCauchy-Riemannの関係式が成り立つことだとは知っていたが、これが複素数zの関数ではあるが、その複素共役z*の関数ではないことだとは知らなかった。すなわち、df/dz*=0が成り立っていることだという。(ここの微分記号は実は偏微分記号で書くべきだが、普通の微分記号で代用されていることを了承してほしい)。

これは昨日に山本直樹『複素関数論の基礎』(裳華房)を読んでいて知ったことである。なるほどこういうふうに深くきちんと理解をする人がいるのだなと感心をした。

続いてまだ読むべき箇所はまだたくさん残っているが、これからも楽しみだと思える。関数論のテクストを読んでいて1,2思いついたこともある。実関数の積分をできるために複素関数論を展開したのだとも言われるが、どういう関数なら複素積分できるのかはやはり制限があるのであろう。だから、その特徴をまとめておくとかやはりやるべきことはまだ残っているのではないか。

それにここですでに何回か述べたように分岐点の記述とか、解析接続の手段にどういうモノがあるのかをある程度体系的にまとめておくとかがまだこれからのテキストに改善の余地があるものとして残されていると考える。


板倉聖宣氏の死去

2018-02-10 12:42:56 | 日記

板倉聖宣氏の死去が朝日新聞で報じられていた。この人がどれくらい大きな影響を与えた人であったかは、本人が有名になることをできるだけ避けていたとも言われるので、なかなかジャーナリスティックにはなりにくいが、とても大きな影響を与えた人であることはまちがいがなかろう。

世間的には「仮説実験授業」という名の理科教育のやり方で一世を風靡した方である。水道方式で有名な数学者の遠山啓先生が文部省と闘うことを余儀なくされたこと等に鑑みて、できるだけ叩かれることを避けておられたとも聞く。これは東京大学名誉教授の西村肇氏の書かれた記事から知ったのだが、そういう用心深い生き方をされていたらしい。

それにしても狭い意味の理科教育にとどまらず、社会科とか歴史とかの教育書もたくさん書かれたりしておられる。世間的な評価はどうなのであろうか。さすがに武谷三男さんが亡くなったときに、朝日新聞も無視はしなかった。が、その門下生とも目されていた、星野芳郎さんが亡くなったときには朝日新聞はまったく取り上げなかったから、板倉さんも無視されるのかもしれない。

しかし、朝日新聞が彼の死を無視するかどうかはともかくとして、大きな業績を教育界で上げた人であることは異論がなかろう。晩年は科学史学会会長を務めておられたとも聞く。まったくの面識はない方だが、ご冥福をお祈りする。

(2018.2.12付記) 板倉さんは老衰で死亡とあったので、そんなことが現在でもあるのだと以外に思ったが、それは脳梗塞をされていたので、栄養を十分にとることができなかったことに起因するのかもしれないと思いついた。


火山活動が原発を

2018-02-10 12:31:03 | 日記

阻害するという画期的な判決を伊方原発について広島高等裁判所が出した。阿蘇火山が伊方原発に与える影響は小さくはないという判断らしい。その解説が2月3日の朝日新聞の紙面にあった。その紙面についていた地図によれば一度阿蘇火山が噴火し、火砕流を発生させれば、佐田岬にある伊方原発も影響を受けるという範囲にそばにある。

いままで、原発を火山の噴火という観点からはあまり見ることはなかったと思うが、火山の活動がなかなか予知できないのは最近の御岳山の蒸気噴火だとか草津の本白根山の噴火等でも予期できることである。

妻はこの記事を見る前に東京に出かけて不在であるが、伊方原発差し止め訴訟を行っている K 弁護士にその話をしてもらったらどうかと提案をしている。まだ、K 弁護士に連絡はしていないが、してみた方がいいのかもしれない。もっとも K さんはとても忙しい方でなかなか時間をとってもらえない可能性もある。

いずれにしても日本は火山国でもあるので、火山と原発との共存は難しいのであろう。