私のように右と左がわからない人がときどきいる。
笑い話に「こんなに真っ暗だったら、右と左とが区別がつかない」とかいうのがあるが、右と左とがちゃんと区別がつく人にはこれは笑い話のタネである。
さて、岩波『国語辞典』には左は「東を向いたとき、北の方」「また、この辞典を開いて読むとき、奇数ページのある側」とある。そしてその通りにこの辞書ではなっている。右は「東を向いたとき、南の方」」「また、この辞典を開いて読むとき、偶数ページのある側」となっている。もちろんこれらの説明に齟齬はない。
私のように右と左がわからない人がときどきいる。
笑い話に「こんなに真っ暗だったら、右と左とが区別がつかない」とかいうのがあるが、右と左とがちゃんと区別がつく人にはこれは笑い話のタネである。
さて、岩波『国語辞典』には左は「東を向いたとき、北の方」「また、この辞典を開いて読むとき、奇数ページのある側」とある。そしてその通りにこの辞書ではなっている。右は「東を向いたとき、南の方」」「また、この辞典を開いて読むとき、偶数ページのある側」となっている。もちろんこれらの説明に齟齬はない。
がどうも私にはコトバとしてごっちゃになっているのではないかと日頃思っている。これらをきちんと理解して使っているかどうかわからない。
いまバルコニーを国語辞典で引いてみたら、「西洋建築で、外に張り出してつくった、屋根のない手すりのついた台」とある。ベランダとは「洋式の建物で外側に張り出した縁。和風住宅で庭などに面して広くとった縁側や廊下をもさす」とある。
バルコニーは2階以上のときにつかうが、ベランダは地上階にしか使わないというのが私の現在の理解である。これはドイツ人のR氏のこれらの言葉の使い方から学んだことであり、日本語として正しいのかどうかはわからない。
ついでだから広辞苑も引いてみよう。もっとも最近この第7版が出たが、私の参照しようとするのは第5版である。ちなみに私がもっているのは一番古いのは第2版と、一番新しいのは、ある方から譲り受けた第6版である。
バルコニーは上の国語辞典(これは岩波の「国語辞典」第3版)と同じである。ベランダも「家屋に沿って外側に張り出した縁」とあり、ほとんど同じ意味である。
量子力学史での大アイディアとして高林武彦さんが『量子論の発展史』(中央公論社)p.130に書いてある。それらは
1.プランクの量子
2.アインシュタインの光量子
3.ボーアの水素原子の量子論
4.ド・ブロイの物質波
5.ハイゼンベルクの理論
の5つのアイディアを挙げている。この中で5つの中で1~4はあまりに大胆なアイディアであったためか、理論の展開が出るまでには数年の年数がかかった。だが、5のハイゼンベルクの理論だけはほとんど直ちに理論の展開が行われた。
高林さんのこの評価が興味深い。私が好きなのは4のド・ブロイの物質波であることはいつかこのブログでも述べた記憶がある。
このほかにもちろんシュレディンガーの波動力学とボルン・ハイゼンベルク・ジョルダンの行列力学とかディラックの変換理論なども量子力学の体系への貢献としてある。しかし、アイディアとしては上記の5つにしたのはさすがに高林さんの見識なのであろう。
別に、シュレディンガーの波動力学とボルン・ハイゼンベルク・ジョルダンの行列力学とは横綱相撲だと、直接的にこういう言葉だったかどうかは覚えていないが、高林さんが書いていたと思う。
行列力学へと導かれたハイゼンベルクの理論の推論をたどりたくて上記の『量子論の発展史』をとり出してきて、読み返している。とはいうものの以前に読んだときには大体が飛ばし読みというか拾い読みというかあまり数式を追うということはしなかった。だが、今度はちょっと部分読みではあるが、式を追うつもりで読んでいる。
インターネットのサイトで「物理とか」というサイトがあって、そこに行列力学の部分も書かれているのだが、もうちょっときちんとしたものが読みたくなったのである。
もっとしっかり読むのならば、朝永振一郎『量子力学』I (みすず書房)を読むのがいいのだが、いまはそこまで時間がない。確かに朝永の『量子力学』I ほど読んで興味深い本はない。だが、それはまた別に機会にしたい。
多分、朝永さんのこの第1巻は3回くらいは読んだと思う。そしていつもそのたびに興味深く感心をさせられる。だから、何かのために読みたくはない。純粋にそのためにだけ読みたい気がする。
もっとも高林さんの『量子論の発展史』には朝永『量子力学』I とは別の興味深さがある。
とについて書こうと思ってインターネットを調べたら、補数というのがなかなか難しそうなので、とてもすぐに書けそうにないことがわかってこのことは断念した。
補数というのがなにかコンピュータ用語であるらしい。あるサイトによるとKnuthの翻訳した本が参考文献になっていた。この本の第2巻である。この本はコピーをもっていると思うが、どこにあるかちょっと探さないとわからない。
Knuthといえば、有名なコンピュータ学者であり、latexのシステムのもととなる、texを考案したことで知られている。だから私たち数式を入力した論文やエッセイを書く人は感謝の念を忘れてはいけない人である。
補数とは普通ではaとbとあれば、a+bとしたときに、桁が上がるような数のことをいう。たとえば、8に2をたすと10になるので、2は8の補数である。
これはいまは10進法の数で示したのだが、n進法に数についていうらしい。余数というのはあまり定義がはっきりしないがa+bが5になるという場合に使うとかいうが、これはかなり融通無碍である。
に手間取っている。8巻1号と2号の発行の秒読み段階に入っているのだが、それがなかなか決まらない。これは投稿者からの変更の申し出があるためである。
発行の準備はできているのだが、ここにきて原稿の修正をしたいとの申し出があった。本来なら拒否すべきことかもしれないが、いつまでに発行しなければならないという日時はそれほど厳密ではないので、数日の猶予はある。
だが、今回はどうもいろいろのところから修正とか何かがたくさん入った。共同編集者の N さんからも編集後記の修正の申し出があった。これは本来の原因は編集後記の文章が十分に練られていなかったためである。
今回の投稿に10人の人までは係ってはないが、一人が一つのエラーを申し出ても10個くらいの修正になる。それを根気よく直していくわけであるから、編集者はなかなか大変である。大きなエラーは生じてはいないが、今回はかなり細かなエラーの修正等で手間をとった。
こういうことをブログで書くとこのブログを読んで恐縮される方が出てくるかもしれないので、その気遣いはご無用にお願いしたいのだが、それでもちょっと疲れたと感じたのは今回がはじめてである。
あくまでちょっとした愚痴として聞き流してほしい。愚痴を述べるくらいなら、そんなサーキュラーを発行するなと言われてもしかたがないだから。今回のようなことも編集者の楽しみの一つであると考えた方がよいのであろう。
2月の中旬だったか、知人の女性が娘さんとハイデルベルクとウィーンを中心にした旅行をしてきて、おみやげにドイツ語のウィーン方言Wienerisch Deutchを標準ドイツ語 (hoch Deutsch) と対照させてある絵葉書をおみやげにもらった。
i stehe auf di が ich liebe dich だというのはまったくわからない。もちろん ich liebe dich がわからないのではなくて、i stehe auf diである。i stehe auf di は私などが読むと「私は君の上に立つ」というふうに思える。
「ムシデンムシデン」の歌に知られているように i はミュンヘンあたりでも 英語の I の意味に使われることは南ドイツ語の方言ではあるが、一般的に知られていよう。
Erdapfel が Kartofffel(じゃがいも)というのはフランス語を知っている人なら、およそ判断がつくだろう。pomme de terreとフランス語でいうから。直訳すると「大地のリンゴ」である。pommes fritesとかPommesとかドイツ語でもいうのはフレンチフライという、ジャガイモを細かく切って油で揚げたものである。これは私の好物の一つである。
Palatschinken(パラチンケン)は Pfannkuchen だというが、これは意味をわかっていたということはないが、音としてはパラチンケンをすでに聞いたことがある。いま辞書を引いてみたら、Palatschinken(パラチンケン)はルーマニア語が起源だとあった。
Paradeiser(パラダイザー)が Tomaten というのもどこかでパラダイザーというのは聞いたことがあるような気がする。
Melausch が Kaffee mit Milch(ミルクの入ったコーヒー)というのもなんだかフランス語の m’elanger と音が近いようでもある。
は他の物理学のブログでも大きく取り上げれているので、私は個人的な思い出を書こう。
京都であったと思うが、マルセル・グロースマンの名を冠した一般相対論か宇宙論かなにかの国際会議があったときに、ホーキング博士が出席されて、講演をされた。その後のバンケットだったか何かでも見かけた。
多くの方(もちろんみんな物理学者)が彼と一緒の写真に写ろうとされたのを覚えている。多分、数メートルの距離から彼を見た。親しみやすい感じの人であった。
ホーキングが勤めていた教授職はニュートンとか量子力学の創始者の一人である、Diracとかが以前に占めていた有名な職であった。彼の前任者はDiracであったと思う。
彼は亡くなったときには76歳だったというから私よりも2歳下だと聞いて驚いた。私よりも若かったことに。20歳の中ごろにALSに発病して76歳までよく生きたと思う。
私はホーキングの論文や本をまったく読んだことがない。だからその業績を評価する立場にない。
「かたい」を英語ではどういうか。NHKのEテレの仕事の基礎英語の会話に「そばがかたい」というのが出てきたが、その「かたい」というのを英語ではどういうかと講師の大西先生が6つか7つのかたいという英語を示していた。
それらはどれも私の知らない英語ではなかったが、それは英語の方を見て意味がわかるという意味であって、「かたい」という日本語を見て思い出すという種類の英語ではなかった。
一番普通にはhardを思いつくが、「そばがかたい」というときにはfirmという語だという。さらにsolidだとかrigidだとかtoughだとかstiffだとかたくさん出てきた。
ここで一覧のために書いておくと
hard, firm, solid, tough, rigid, stiff
ほかにもあったかもしれないが、ちょっと思い出せない。
物理屋さんなら、solid-state physics (固体物理学)はよくご存じだろうし、剛体(rigid body)もよくご存じだろう。
stiffというのは五十肩で肩が動かなくなったというふうに、動いていたものが動かなくなったというときに使うという。toughはたとえば肉の焼き具合かなにかによって歯が通らないというようなときに使うという。firmもヌードルがかたいとかいう場合に使うという。
だから「かたい」と言ってもいろいろあるということを知った。
普通の英語の学習者にとって、rigidとかsolidとかはなかなか思いつかないだろう。toughとかhardとかfirmは日常生活でも使う。toughはtough negotiator(手ごわい交渉相手)とかいうときなどに使うだろうか。
数学・物理通信8-1, 8-2の発行のめどが立ってきた。来週早々にも発行できそうである。続いて8-3も発行したいと考えている。だが、どうも内容が薄くなりそうである。今月には8-3は発行しないつもりであった。
だが、8巻2号の目次がつまって1頁では収まらないとわかったのでページ数は薄いが8巻3号の発行に踏み切ることにした。これは私としては意外である。大体、ページ数が薄いので、ちょっといやだが、そんなこともあるだろう。
なんてこともないサーキュラーだが、それでもそこに発表したいという人が少しづつ増えて来ている。もっともなかなか認知されないという恐れはあるが、それでもなにか頑張っているものがいるというのが大切なのではないか。
マトリックス力学を朝永の『量子力学』I(みすず書房)で学んだと思うのだが、それから遠ざかっていたので、もう今では全くわからない。そういう状態であるので、現在ちょっと新鮮な思いで学ぼうとしている。
もっともなかなかマトリックス力学がどういう話だったか思い出さない。ということはまったく昔もわかっていなかったのだろう。もっとも以前につくったノートもあってそれをカードに記録をとっている。梅棹忠夫さんが岩波新書『知的生産の技術』で京大型カードと呼んだカードである。
ということで現在まだマトリックス力学を真剣に学ぶところまではいっていないが、角運動量の理論と合わせて再度見直す時期だと思っている。数学に関心をもっている人のサイトとかブログでこれに関心を寄せている人があり、その人がもうマトリックス力学が一つすっきりしないと書いてあるところがどういうことなのかわかりたいと思ったが、昨日チラッと見たところではわからなかった。
この人は多分女性だと思うのだが、その性別は明らかではない。別にこういう疑問を女性がもっても男性がもっても性別には関係ないが、そういう人も居られるということである。
について生まれ始めてというわけではないが、意識的に読み始めた。手始めに学部4年生のころに輪講で読んだSchiffの量子力学の本の該当箇所を読み始めた。
もっとわかりやすい本があればいいのだが、あまりいい説明を書いた書は意外とない。もちろん、長々と書いた本はある。学生のころに推選された書はRoseの``Elementary Theory of Angular Momentum"である。この本は日本語訳もその後出版されている。
このRoseの本と一緒に推奨された本が山内恭彦『回転群とその表現』(岩波書店)であった。そのとき力学の演習を担当していた Y さんが山内さんの本よりもRoseの本の方がより物理的だと言われた。
そういうことがあったので、大学に勤務するようになったときに、山内さんの上記の書を読み始めたが、あまり読み進まないうちに放棄してしまった。
角運動量に関しては梅沢、小谷編の『大学演習 量子力学』(裳華房)の角運動量の章を読むことで代替してしまったと思う。しかし、これを読んだのは多分大学院でも博士課程に入ってからであったと思う。非相対論的量子力学がある程度分かったと思えるようになったのは角運動量の章をきちんと読んでからであると思う。そのことはすでに Y さんが学部2年生の私たちに言われていたことでもあった。
世の中にはなかなか賢い人達がいて、インターネット上で量子力学の解説のサイトを開いている。そしてその中には角運動量の解説があったりする。私などはそういうことの必要性を先生方とか先輩から聞いてようやくそのことに気がついたのに、そういう教育を受けたのか、あるいは受けたことがないのにもかかわらず角運動量の重要性を知るようになる独学の人がいるのは驚きである。
(2018.3.14付記) Schiffの本の角運動量の定差方程式をどうやって解くところが長いことわからないままだった。昨日、またそれが気になったので、広田良吾著『差分方程式』(培風館)をとり出してきてその真似して解こうとしたら、別に真似するまでもなく解けてしまった。こういうところが学生のころには分からなかった。私だけがわからないだけで普通の人はわかっていたのだろうと思うと自分のばかさ加減が情けなくなる。もうちょっと真剣に考えてみるべきだった。私にはそういうところがたくさんある。
角運動量の理論の難しいところは角運動量の合成の法則が難しいことにあると思う。しかし、角運動量の合成はベクトルの合成に似ているのだが、ちょっと和が飛び飛びにしか取れないところに特徴がある。すなわち、連続なベクトルの合成ではない。それさえわかれば難しいところはない。きちんとした計算ではClebsch-Gordon係数を計算することを学べばよい。
大学院生のころ、私たちの先生の O さんが駆け出しの研究者だったころ、このスピンの合成を知らなかったとかで頭を丸刈りの坊主にしたことがあるのだとか冗談交じりに話されたことがあった。詳しいことは知らないが、多分重陽子のスピンの話ではなかったろうか。もちろん、重陽子の構成要素である、「陽子と中性子とがスピンをもっていることは知っていたのですがね」と言われたと思う。
文書を書き変えたのか改ざんしたのかという議論が財務省の文書に関して新聞とかテレビで問題となっている。これは公文書であるので、単に書き換えだとかですむ話ではない。
本来なら、財務大臣やその件に関係のある総理大臣までも責任があるという話だろう。どこまで話が広がって行くかはわからない。これが韓国とかであるなら、最終の行政責任者の総理大臣の退陣までも話が及ぶのだが、日本ではそこまではいかないだろう。
そういう意味では韓国の世論は厳しいところがあるが、日本ではなあなあのところがある。それがいいのかどうかはわしたち日本人にはわかりづらいところがある。
話は別だか、私のブログは過去のブログも私が読みなおして書き換えた方がいいと判断すると勝手に書き替えている。もっとも私のブログは政府の省庁の公文書ではないから、私が昔の自分のブログを読んで意が満たされていないと判断すれば、書き変えてより意味をはっきりさせておくことは必要であろうというのが、私の見解である。
だが、もしか自分のミスもありうる。その場合もわざと消去しないで残しておくこともしている。それは自分に正直にありたいということでもある。ただ、他人から削除要請があったりしたときで、他人に影響が及び可能性があるときにはこの限りではない。そのために削除要請におうじて削除したこともないわけではない。だが、それは数がとてもすくない。
いずれにしても文書を書き換えるにしても、書き替えないしても文書を書いた責任がないわけではない。
という映画を日曜日に見た。これは会員になっている松山マネキネマの例会で見たのである。
スノーデンはアメリカの情報機関に勤めていた人でコンピュータが好きで、情報を集める強力なソフトをつくったのだが、それが自分の意思に反してアメリカの一般人の情報をくまなく集めていたことから。その実情を告発することにしたのである。
このことはオバマ大統領の就任前から行われていたらしいが、オバマが就任しても変わらなかったらしい。そのことに失望して告発に踏み切ったらしい。そして彼のパスポートは失効させられてしまい、彼はロシアに行くしかなかったらしい。
この映画はドキュメントかと思ったが、そうではなく事実にもとづいたドラマである。監督はオリバー・ストーンである。オリバー・ストーンはアメリカのいろいろな不正義を告発している映画監督である。
告発に至るスノーデンの悩みも出ていてリアルな映画であった。だが、こういう映画はあまり映画館では見ることができないかもしれない。
「光速度不変の原理とはなにか説明せよ」とあるときに試験問題に出したら、いかなるときにも光の速さは変わらないことだとの解答が続出したことがある。講義の中でそういうことを述べた覚えはまったくなかったので、試験問題を出した私の方が当惑した。実はこれは点を取らせるつもりで出した問題だったから、まったく困った。
そういう説明を講義の中でしたことがあったかどうかははっきりとは覚えていないが、水中の光の速さは真空中の光の速さを水の屈折率で割るので、真空中の光の速さを c とすれば、水中の光の速さは c/n となる。水の光の屈折率 n はおよそ1.34くらいなので、これでわり算すれば、真空中の速さの75%くらいな速さになる。
もとに戻ると、光速度不変の原理とはある座標系に対して等速運動をしている、いかなる座標系に対しても光速度は不変、すなわち、いわゆる慣性系においては光の速度は不変であるという意味であった。
その説明を講義で私がしたと思うのだが、学生にはそのことがよく分からなかったということなのであろう。
1mをどう決めるのかという記事が今日の朝日新聞のBe欄に出ていた。歴史的な経緯を抜きにすると現在1mは光が真空中で1/299,724,589秒の時間に進む距離としたとある。
これは光が1秒間に299,724,589m進むということであろう。ということは光の速さとは299,724,589m/sである。こんな細かな数字を覚えていないのはいうまでもなく光の真空中の速さは秒速30万キロと覚えているのが普通だろう。
あるいは理系の人なら、3*10^{8}m/sと覚えているはずだ。いまはSI単位系が普通だからこれでいいのだが、私たちが高校時代はまだCGSの時代だったから3*10^{10}cm/sと覚えていたものだ。
光の速さが定義になったと江沢洋先生が雑誌「数理科学」に書かれていたのはいつだっただろうか。西條敏美先生の著書『単位の成り立ち』(恒星厚生閣)の一番初め記事がメ-トルとなっていて、その歴史も詳しい。
数学教育では速さとは連続量だが、内包量とよばれるものであり、なかなか単位が距離を時間で割ったものであるので難しい。が、その時間の方をちょっとわきにおいておけば、「速さとはまずは距離だ」と考えるというのも一つの理解のしかたである。というようなことを大学の共通教育の物理の講義で学んだ。