物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Wehwehchen

2018-06-11 11:23:39 | 日記

とはたいしこともない病気を示すドイツ語である。ヴェヴェヘンと発音する。

Es tut weh.というと「痛い」という意味である。この他に痛みにはSchmerzenという言葉もあり、これもよく使う。

Ich habe Bauchschmerzen.

というと「お腹が痛い」とか

Ich habe Kopfschmerzen.

というと「頭が痛い」ということである。

もっともこのwehは痛いという意味ではなく、悲しいという意味もある。文献で読んだことがあるが、広島と長崎に原爆が落とされたことを聞いたときに、アインシュタインは  Oh, weh ! と言ってしばらく口がきけなかったとか。これはもちろん痛いという意味ではなく、悲しいという意味であろう。悲しいという語はtraurigという語もあるが、ich bin traurig とはいわなくて Oh, weh ! とすぐに言葉を発したというのはほとんど即座に出たのであろうと推測する。

アインシュタインはドイツ語が母語であるから、基本的にドイツ語で考えたり、話したりをしていたと思われる。物理とか数学の議論したりするのはアメリカでは英語で話していたかもしれないが、生活用語はドイツ語であったろう。

アインシュタインの英語のボキャブラリーは数百語であったとも言われる。これはもちろん話すときに使われる英語の単語だと思うからもっと多くの英語を読んだり、書いたりするのに使うことができたであろう。

岩波新書に『物理学はいかにしてつくられたか』という書があるが、この英語は基本的にポーランド人であったインフェルトが書いたと言われている。インフェルトがアインシュタインと何語で話をしていたかはわからかないが、多分ドイツ語で議論していたのだろうと推測する。

いつものようにWehwehchenから話が思わぬ方向に飛んでしまった。


「数学・物理通信」8巻4号、5号の発行

2018-06-09 17:58:56 | 日記

長い間、発行ができなかった「数学・物理通信」8巻4号と5号を先刻ようやく発行した。

今回はどういうものか発行がすんなりとはできなかったので、どうもイライラがつのった。だが、それも今日で肩の荷が降りた。今回も2つの号とも30頁前後のフルの頁数になった。

30頁を超えないようにと思っているが、なかなか短かったり、長かったりすることもある。今回は表紙の頁を除いて31頁にうまくおさまった。こんなに計ったようになることは珍しい。

自分の都合で発行が遅れるのなら仕方がないが、どうも他の理由で発行が遅れるときにはなんだかストレスがたまる。でも今日は6月9日なので特別に発行が遅れたわけではないのだが。

しかし、本来6月のはじめに発行できてもよかったはずである。それが1週間ほど遅れたのはしかたがないのだが、仕事が片づかない感じがして困った。

やはりかなりの時間を5月中に使っているので、6月が来ればすぐに発行したいという気持ちが強いのである。つまりはそれまでにどれくらいの時間を使っているかが、問題となるのであろうと考える。そこらあたりが自分一人でやっているわけではないので、他人との間で調整が上手くいかないことがあるのが原因である。


唯物史観

2018-06-09 12:29:23 | 日記

唯物史観とは何か。いままで調べたこともなかった。

辞書を引いてみると、「社会の進化、歴史の展開の原動力を、物質的、特に経済的生活関係の中に求める立場」(岩波国語辞典第3版)とある。広辞苑の第5版には「マルクス主義の歴史観。物質的・経済的生活関係をもって、歴史的発展の究極の原動力と考える立場。これによれば、社会的、政治的および精神的生活一般は、究極において物質的・経済的生活の生産様式によって規定され、しかもこの物質的基盤そのものは、それ自身の弁証法的発展の必然性に従って展開されるものとされる」とある。

こんなことが気になったのは今日の朝日新聞に載っていた、柄谷行人さんの「カール・マルクス」という書評欄の記事が発端である。柄谷さんはマルクスの『資本論』(岩波文庫)とか、宇野弘蔵『社会科学としての経済学』(ちくま学芸文庫)とかマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリューメル18日』(平凡社ライブラリー)を上げておられる。

宇野弘蔵は「唯物史観も社会主義もイデオロギーであるが、『資本論』は科学である」という考えであったという。その説明として柄谷さんは書いている。宇野は「資本主義経済が決して避けることができない欠陥をもつことだけは承知しておけ、という。すなわち、産業資本が「労働力商品」という、必要だからといっても増やすこともできず、不必要だからといって減らすこともできない、特異な商品に依拠している」という。

マルクスは「生産に対して交換を重視する。交換は共同体と共同体の間で生じた。それは見知らぬ不気味な相手に交換を強いる「力」なしにはありえない。マルクスは商品の価値を、それに付着した物神、つまり、一種の霊的な力だと考えた。貨幣や資本はそれが発展したものである。資本主義経済は宗教的な世界である」

と柄谷さんは書いている。そしてそのマルクスの思考の発展であるような「ものの見方」を柄谷さんは見出したと書く。


自分が自分の足で立つ

2018-06-08 12:20:18 | 科学・技術

私の年齢になると自分が自分の足で立つことなど当然とも思えようが、若いときにそういうことはとても難しいと思われた。

「そんなおかしなことを言うなあ」とお思いの方、ちょっと話を聞いてください。昨晩、ドイツ人の R 氏からドイツでは学位(博士号)をとるには自分で論文についての仕事ができなければならないと突き放される、という話を聞いた。

日本でそれもいい時期のある大学の大学院で学んだ、私などはちょっと思いもつかない厳しさであるらしい。確かに、博士号をとるということは他人任せでは取れないことはこれは日本でも同じだろうが、しかし、私など議論してくれる指導者もいたし、そしてそれにつけてもいいタイミングでのアドバイスももらった。もちろん、自分が努力しなければ何も達成できはしないのは博士号くらいになれば当然ではあろう。

ところがドイツではもっと厳しそうである。そのアイディアからそれを達成する手続きまで、すべて自分でやれないと博士号など認められないという雰囲気であるという。いかにも冷たいという感じがする。だが、そうらしい。

日本ではいろいろであろう。冷たい雰囲気の大学もあれば、学生に比較的やさしい大学もある。もっとも東京工業大学の科学史のコースにおられる知人から伺った話では日本科学史学会発行の雑誌にその論文の掲載が認められるのはなかなからしいから、博士号の修得は簡単な話ではない。知人も数回この科学史研究への論文の掲載に挑戦しているが、なかなか掲載にならないらしい。

ちょっと、学会の基準が厳しすぎるのではないのかと私などには思われるのだが、どうもその掲載の基準は科学史学会で暗黙に決められたものなので、外野の私がとやかく言うことはできない。ただ、はた目にはもうちょっと幅広い判定基準をもたせられないのだろうかと疑問に思わないでもない。


もう6月

2018-06-08 11:22:40 | 日記

もう6月になったが、まだ本当の夏モードではない。夏モードになるともう T シャツ一枚になり、下は短パンである。まだそこまではいっていないが、だいぶん夏モードになってきた。

まだ、エアコンのお世話にはなっていない。暑いから、窓を開け放つと騒音が大きい。仕事をしているときにはあまり騒音は気にならないが、ラジオを聞くときにはちょっと差しさわりがる。

ラジオ体操をするときとかドイツ語やフランス語の講座を聞くときにはよく聞こえないことが起こるので、近くの戸だけは閉めておく。

 


すこし前へ進めるか

2018-06-07 11:16:38 | 日記

すこし前へ進めるかどうか。昨日「数学・物理通信」の共同編集者の N さんに会いに行った。編集後記がどうなったか聞くためである。どうも N さんこのところ病院に通院のために時間がとれなかったらしい。

彼はなかなかユニ―クな数学者だと思うのだが、持病のためにその活動が少しペースダウンされている。自分自身が一番歯がゆいのだろうと思う。それでも気力のほうはなお意気盛んではあるので、そのうちに興味深い論文を投稿してくれると期待をしている。

昨日、N さんと話し合って8巻4号の編集後記を私が書くことになった。8巻4号の原稿が集まったのが、6月に近かったので、今回は4号が発行できるのかどうかはあまり私にもはっきり予定が立たなかった。とはいうものの、この編集後記が書ければ、8巻4号と5号とは数日後には発行するつもりである。5号はすでに用意をしていたのですぐにでも発行できるのだが、ちょっとした手直しが必要になっている。

このブログでも数日前に弱音を吐いたのだが、まあ前へ進めそうになった。発行まで数日を待つことを読者の皆様にお願いしたい。


雨の季節

2018-06-06 12:11:15 | 日記

Rainy Seasonですね。梅雨というのですが、雨季といういいかたに味があるような感じがする。

ドナルド・キーンさんが雨が好きだと6月の岩波の『図書』に書いていました。中学校だったと思うのですが、国語の教科書に仏文学者の辰野隆さんが雨が好きだと書いており、あまり雨の好きではない私などはこの人はどうなっているんだろうと思っていました。

外で働く人はあまり雨が好きではないのではないかと思いますが、どうでしょうか。ドナルド・キーンさんは50年ほど前の雨の季節だったかに吉田兼好の『徒然草』の英語への翻訳をしたとか書いておられ、そのときのいい思い出があるようです。そしてそのときはご自分が吉田兼好になったような気がしたとか。

そういういい思い出をお持ちの方には雨の季節もわるくはないのでしょう。残念ながら、雨でびしょぬれ (get wet to the skin) になったわるい思いでしかありません(注)。雨でしっとり濡れた、どこかのお寺を訪ねるなどという風流な経験などはあまりないのだからしかたがありません。

(注)びしょぬれ get wet to the skin はもうはるかに私の中学生時代に覚えた英語表現です。私にも10歳代のときがあったなんていまでは自分でも信じられない思いです。


おもしろくないのは

2018-06-06 10:51:45 | 日記

私だけではないのだろう。政治の世界を見ても一番トップにいる総理や副総理があまり正直ではない。なにについて正直ではないのかなどは、ここでいうこともはばかられるくらい恥ずかしいことである。自分の胸にておいてじっくり考えたらよい。これでこの人たちが言うような道徳教育などできるのだろうか。

武谷三男は「権力のないものがうそを言う権利を奪うべきではない」というのが、持論であったが、これはまた「権力者のうそを見ぬく眼力を養わねばならない」ということがその裏にはある。

権力者は嘘を平気でつく。またその一方で道徳教育では嘘をつくのはいけないと教えるというのは大きな自己矛盾である。しかし、そのことに自ら気がつかない。

 


最近

2018-06-05 15:38:54 | 物理学

はどうも浮足立っている感じである。「数学・物理通信」の発行ができずにいるので、仕事がなんだか片づかない感じがする。それに今日と昨日の徳島科学史会の会場探しの件でも浮足立っている。もっともこちらの方はかたがついた。

私の先生の一人の小川修三さんの「量子力学講義ノート2」の検討に入っている。それがどうも落ち着かない。講義ノートは図もまだ入られてはいないが、それだけではなく、どうも私の理解を越えたと思われることが書かれているのではないか。

それもあまり複雑だとは思われない、調和振動の話のところに出てくる。広島大学での講義ではなかった部分が名古屋大学での講義で付け加えられたのだが、それが理解できない。誰かに尋ねることにしたいのだが、何をたずねたらよいかもなかなかわからないから困っている。

もう2か月ほど前にこの第2部の一応の入力は済ませたのだが、それから困っているのである。どうも話の筋がわからなくなっている。これは長年にわたって講義がされているために追加補充の部分があり、それと元々の話の筋との関連がわからなくなる感じがする。本人が生きていてその意図を聞けたら、なあんだというようなことだろうとは思う。

だが、もうすでに亡くなってから13年ほどたっているし、講義ノートのコピーも薄れてきている。だから、自分の判断がつく範囲内でつじつまを合わせる必要がある。


日本科学史学会四国大会

2018-06-05 14:53:57 | 日記

というたいそうな名称の研究会というか学会というかを8月25日に松山市のコミニュティセンターで開くために会場を借用申し込みに行った。

毎年、高知を除いた四国三県が回り持ちでやっているのが、今年は愛媛に回ってきた。それで昨日からうろうろしている。午前に電話をかけて仮予約をしておいたが、その本当の申し込みに行ったのだ。

これまではE 大学で会場を借りていたのだが、だんだん知り合いが少なくなってきたので、今回は松山市の施設を借りることにした。もっとも交通の便宜があまりよくない。それと今日行ってみると、確かに駐車場はあるのだが、あまり空いていない感じがした。駐車料金が1時間100円なので安いから駐車する人が多いのかもしれない。

こういう学会とか研究会の世話をする人が少ないのは問題である。


交通三悪

2018-06-04 12:11:30 | 日記

とは「飲酒運転」「信号無視」「速度制限20キロ以上オーバー」だと昔聞いた。これは大学に在職中に学生が交通事故を起こしてその処罰の件が教授会にかかったときにこういう話が出たと記憶する。

このときは学外の一般人を交通事故で死なせたのであったかどうだったかはよく覚えてはいない。やはり死亡事故を起こしたときにはしかるべき処置をしなくてはならないという話であったと思う。

示談にできたとしても大学も何もしないわけにはいかなったろう。そのときに人身事故が起これば、ある程度、当該の学生の処置はしかたないとしても退学にするのはやはり忍びない。それで無期停学ということになったと思う。よくは覚えていないが、実際には1年半くらいした後で停学処置を解いたのではなかったかと思う。

このときは被害にあった一般人は横断歩道ではないところを横断していたのではなかったかと思う。だが、それでもそこの車道は横断禁止とまではされていなかったとかでやはり当該学生の注意義務が問われたのは言うまでもない。

十分車の運転に注意しているとしても事故は起こる可能性がある。それも私自身の経験ではあわてているときに起こる可能性がたかい。できるだけあわててどこかに出かけようとしないように時間の余裕をもっていつでも出かけたいものである。


90秒で人生をダメにしますか

2018-06-04 11:56:53 | 日記

とは私の言葉ではない。ある弁護士さんの主張だという。どういうことかというと信号無視で交差点に入ったりしないで約90秒待ちましょうという。その90秒が待てないで赤信号だのに交差点に進入して事故を起こす愚をいさめたものだという。

どういうことかというと信号で待つ時間はながいところもあるかもしれないが、大体1分30秒くらいだという、だから、信号が赤になりかけたら無理に交差点に進入しないで1分半を気長に待ちましょうという趣旨らしい。

これは交差点で信号待ちをするときにはイライラして無限に長い時間が続くように思うが、そうではないということを教えてくれる。あなたも私もこころしたいと思う。


監督、コーチ、選手

2018-06-02 11:15:15 | 日記

日大のアメリカン・フットボール部のルールに違反した不正タックル事件で、日本中がコーチとか監督に憤激したのはまだ記憶に新しい。

だが、ドイツ人である R 氏のものの見方はまったく違っていて、これはヨーロッパと日本の文化の差を感じさせられた。彼は言う。ラグビーとかサッカーでは地域ごとにチームが編成されており、その地方ごとに「相手をやっつけろ」とかの激越な言葉が常に、コーチや監督からは発せられるのだという。

ただ、違うのはそういうふうに監督とかコーチからけしかけられてもルール違反の不正な攻撃をすれば、選手個人がその違反の責任を問われるということは確実なので、どういうふうに激越な言葉をきいても、自己の責任において、ルールに従った攻撃をするのだという。

その辺が個人としての自己がしっかり確立しているヨーロッパでは個人の責任を自覚している。また小さいときからそういうふうに育てられている。日本ではそういうふうに育つとちょっと取り扱いが難しい、こどもという評価がその子に定着してしまってあまりすなおないい子だとは判断されないかもしれない。

そこら辺がまったく子どもも育ち方がちがうし、社会からの個人としての期待のされかたというか、教育のされ方が異なっている。

このことを知ってなるほどやはり社会がちがうと、考え方がまったく違うのだなと思った。これは日本でのコーチや監督のバッシングが悪いということだととると、これはまちがっているだろう。それは個人の確立を厳しく要求されるヨーロッパとそこまでは厳しく要求されてはいないし、むしろ目上の人とか、コーチや監督のいうことを素直に守ることが期待される日本社会との違いである。

選手もコーチや監督に対等な立場で意見を言える雰囲気ができなくてはいけないということだろうが、そういう時代がいつ日本にやってくるのだろうか。パワハラだとかセクハラだとか言われる雰囲気は日本ではなかなかなくなりそうにはない。


編集後記がまだ来ない

2018-06-02 11:00:00 | 数学

共同編集者の N さんに頼んだ「数学・物理通信」の編集後記がまだ私のところへ届かない。今日は6月2日であり、昨日から6月に入った。

私もタンスの引き出しに少し前からあった、半そでのシャツに着替えた。いわゆる衣替えのシーズンである。それだから心身を新たにして、編集後記を心待ちにしているが、N さんに編集後記を頼んでからほぼ1週間が過ぎた。あまりイライラしても仕方がないので、まあじっくり編集後記が来るのを待つとしよう。

その前に自分の書いたエッセイのチェックをもう一度しておこう。今月はとくに原稿が集まらなければ、8巻4号と5号とで発行はおしまいである。6号を発行するには原稿料がたらない。

潜在的には原稿を用意している人は数人はいるのだが、それぞれがまだ十分に準備ができていないというふうに感じている。この中にはもちろん私も含まれる。ずっと以前荷か書き始めたエッセイをそろそろ完結させようと思って見直したりもしているのだが、まだ十分に完成をしていない。

これは他のいくつかの人にも同じことがいえる。そういう潜在的な可能性をもっているから、「数学・物理通信」がつづいているともいえる。


Herausgeber, Vorwort, Verlag

2018-06-01 17:31:25 | 科学・技術

Herausgeber(ヘラウスゲーバー), Vorwort(フォアヴォルト), Verlag(フェアラーク)はすべてドイツ語です。前から「編集者、まえがき、出版社」という意味です。しかし、ちょっと説明がいります(注)。

私が昨晩のドイツ語のクラスで「数学・物理通信」が現在までのところ通算して68号まで出版しており、近々2号を発行するから70号に到達するとドイツ語で話そうとして編集者という言葉としてRedakteur(レダクテューア)という語をつかったら、「RedakteurじゃあなくてHerausgeberだよ」と R 氏に教えられたのです。「発行する」という語もherausgeben(ヘラウスゲーベン) です。

Vorwortは思いつかなかったので「編集後記」と日本語で言ったら、これは前にも聞いたことがあったのですが、編集後記にあたるものはドイツではないとのことで、はしがきとして本や雑誌の前にVorwortが書かれるというのです。

さらに、私は「数学・物理通信」という雑誌を発行しているVerlagだというのです。まさか、いままで自分が出版社または出版者Verlagだとは思わなかったのですが、やはり出版社または出版者にあたるというのが正しい考え方のようです。びっくりしました。

独和辞典をみるとHerausgeberには編集者とか発行人とかいう意味もあります。編集と発行とは別の仕事だと思っていたのがどうもそうではないようです。私が「数学・物理通信」編集発行人という名でメールを出したりしているわけですが、どうもこれらが一つの名詞のHerausgeberでまとめられるというのは驚きでした。

それに個人で出版しているサーキュラーという概念がないらしくて、Zirkularという語をつかったら、理解されなかったので仕方なく雑誌Zeitschriftだというと理解されました。もちろん雑誌といってもいいのですが、ちょっと形式が雑誌よりもくだけたインフォーマルなものだという気がしていたので、これも驚きです。

いま独和辞典を引いてみると、Zirkularは回状という意味で出てはいますが、これは古語であるとされており、R 氏はZirkularはどこかの地方の周辺という意味にしか取れないというようなことをいいます。

そういえば、Bezirkという語がドイツ語にはあります。これは行政用語としても使われる語で自分ではあまり使ったことはありませんが、聞いたら意味は分かるドイツ語の一つです。

上に挙げた三つの語はもちろん書いたものを見たら、私の理解できる語でしたが、自分がHerausgeberであり、雑誌を発行しているVerlagであるとは思いもしませんでした。Verlagといえば、なにかドイツの有名な出版社である、Springer-Verlagのような有名な出版社を想像していました。日本で言えば、Springer-Verlagとは岩波書店のような重厚な本を出版する出版社です。

ともあれ、ようやくVerlagとしての自分の使命を自覚した次第です。しかし、よく考えてみると私のやっている「機能」はやはり出版社Verlagなのだと思います。

(注)ドイツ語ではすべての名詞は固有名詞でなくても、すべて大文字で書き始められる。