物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

年に1回の検診

2023-02-16 12:26:36 | 健康・病気

年に1回の検診にこの後に出かけなくてはならない。腹部にある障害があり、これが大きくなると手術で取り去ることが必要である。これは数年前からわかっているのだが、ある大きさにならないと手術で取り除いてくれないのである。

その大きさを調べてもらうために午後にはほぼ1年ぶりに出かけなくてはならない。「昼食抜きで来なさい」と言われている。同じような病気になった人が数回手術して命を救われている人を知っている。

既にその人は2回手術をしていると思うが、3回は手術ができると聞いているので、まだその方も十分に寿命はあると思う。私はまだ1回目の手術もまだである。今年は手術ができるくらいになっているのかどうか今日の診断次第であろうか。


ニュートン

2023-02-16 11:17:18 | 物理学

             これは「力学の道草」という続きのエッセイの一つである。

 

アイザック・ニュートン (1642-1727)

 

 ニュートンはガリレオ・ガリレイが亡くなった年に生まれた。ニュートンは数学においては微積分学をつくり、物理学においては古典力学の体系を完成した天才である。もっとも微積分学はニュートンが力学をつくるのに必要として考案したのだから、無限小を取り扱う数学である微分積分学は力学の付属品と考えるべきかもしれない。最近では力学との関係において微積分を教えようとする試みもされているが、現状はむしろ力学との関連を考えずに教えられているのが実態であろう。

 ニュートンの伝記を読むと先駆者としてのデカルトの業績が大きく彼に影響を与えているように思われる。特に微積分学についてはデカルトの「座標幾何学」の影響はとても大きいのではないだろうか。力学の面から見るとすでにガリレオ・ガリレイだとかケプラーだとかの先駆者がいたし、その成果を受け継ぐといった面が彼には多分にある。ニュートンの、力学への進展への本質的な寄与は「加速度は力に比例する」ことをはっきりと認識したことにある。

 晩年になって「私は仮説をつくらない」といったとか「自分は海辺できれいな貝殻を拾って喜んでいる子供のようだ」といった謙虚に思えるような言動のみが巷間に伝えられているが、どうしてどうしてそんな一筋縄で捉えられるような人物ではない。

 普通の金属を金に変える錬金術の研究に没頭し、また神学に凝って聖書に出てくる事実がいつの年代であるかという研究を何十年もするなど性格的にも奇妙な側面をもっている。ちなみに言うといつかドイツで会ったオランダ人の若い神学者に初対面のとき「神学ってなんですか」と尋ねたら「神の歴史を研究することです」と答えてもらった。私の「神学」についての知識はそれ以上をいまだに越えていない。

 ニュートンは現代風に言えば造幣局の長官にあたる職を長年にわたって務めているし、万有引力(最近では重力という)の発見とか微積分学の発明とかにおけるプライオリティを強固に主張するなどと世俗的な名誉欲もけっこう強い人である。

 ニュートンといえばまず力学とか微分積分学とかを考えるが、光学をずいぶん長年にわたって研究し、太陽光はいろいろな色の光が混ざっていることを発見したのはニュートンであることは意外に知られていない。また、ニュートン-コーツ公式という数値積分法、ニュートン-ラフソン法といった高次方程式の解を求める方法やニュートンの冷却の法則といったところにもニュートンは名前を残している。(1995.3.16)

 

(2023.2.16付記)

このニュートンの記述でもって科学者のエッセイを書くことを終わる。昨日も書いたかもしれないが、他にも科学者の短い伝記めいたものを数編書いているが、このブログに掲載するには長すぎるということで、このニュートンで科学者の伝記めいたエッセイを終わりにする。科学に関心のない方にはちんぷんかんぷんであったかもしれない。その点はご寛恕をお願いしたい。


思い違い

2023-02-15 12:17:55 | 数学

森正武『数値解析』(共立出版)の直交多項式の漸化式のページをフォローしてそのメモをどこかにファイルしたはずだと思って一昨日と昨日探したがでて来ない。

だが、よく考えてみるとどうもそれは私の記憶まちがいである可能性が高い。確かにその漸化式を使ってクリストッフェル=ダルブーの恒等式の導出のフォローをしたので、それをこの漸化式の導出をしたと勘違いして覚えていたらしい。その部分をどうも漸化式の部分の導出だったと思っていたらしい。どこにもそのメモが見つからないのだから。

式を書いたという記憶があったのだが、どうも怪しいのではないかと思い至ったのはそのメモを2日もかけて探した後である。確かにその箇所も本で読んだのだが、どうも紙面上ではフォローしなかったらしい。本に書かれた式を目で追って読んだことは事実なのだが、手を動かさなかったらしい。

上述の『数値解析』では、ガウス数値積分の一般論を簡単に示しておられるので、私の長年の喉のつかえがとれた感じである。それにクリストッフェル=ダルブーの恒等式を用いて、私が『数学公式III』(岩波書店)で知って用いた関係式も証明できたので、このことを前に書いたエッセイ「歩行者のためのガウス積分」に付け加えておく必要ができた。こんなことは数値計算の専門家にはつまらないことであろうが、私のような非専門家には重要なことである。

これは単なる推測にしか過ぎないが、私にガウス数値積分のことを教えてくれたNさんは文献から重みを求める公式を証明しないで、そのまま使って私にプログラムをつくってくれたのだろう。それで私がその重みの式の求め方を知りたいと言ったときに、前に証明したが、忘れてしまったという言い訳をしたのだと思っている。その点は数値計算の専門家であったYさんとは違っている。Yさんはガウス数値積分の一般論も明らかに知っていると思う。もっとも、このYさんが著した数値計算の書からは私は「ガウス数値積分の一般論」を理解できなかった。

重みを与える数値はちょっとした数表には出ている。それで私の1年先輩のHさんなどもその数値を用いてガウス積分を行ったのではなかろうか。

Nさんは数年前に亡くなったが、Hさんの方はまだ存命であるので、彼に尋ねることもまだ可能である。

 

 

 


ガリレオ・ガリレイ

2023-02-15 11:24:57 | 物理学

    これは「力学の道草」というエッセイの一つである。

 

ガリレオ・ガリレイ

ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は近代科学の父と言われる。彼は哲学的・思弁的であった、それまでの科学に実験的な手法を導入して仮説を検証するという方法を意識的に導入したのであった。

フィクションなのか事実なのかははっきりしないが、ピサの斜塔から重い砲丸と軽い銃弾とを一緒に落として、それらがほとんど同時に落ちるということを実験的に示したといわれている。アリストテレス(B.C. 384-322)の力学体系では思い物体ほど速く落下すると考えられていたので、スコラ哲学者たちはその事実を認めることを拒否したという。

望遠鏡をつくり月面が凹凸していることを観測したり、木星に衛星が存在することを発見したり、コペルニクスの地動説を支持して宗教裁判にかけられ、ローマ法王庁からその説の撤回を迫られて、仕方なく自説を撤回したものの「それでも地球は動いている」とつぶやいたとか。

当時の宗教裁判の過酷さはその一端をたとえば、ウンベルト・エーコ原作でショーン・コネリー主演の「バラの名前」に見ることができよう。しかし、武谷三男か森毅だかによればガリレオ。ガリレイは論争術にも優れた自信満々の男で宗教裁判にかけられてへこむような男ではなかったともいわれる。ともかくエピーソドには事欠かない。少年のころ教会の天井からぶら下がっているランプも揺れる周期を自分の脈拍を用いて測り、振り子の等時性を発見したという。まさに天才の名に値しよう。

ガリレオ・ガリレイの一番大きな業績は地上の物体の運動学を樹立したことである。うまく斜面を用いて落下運動を研究し、現在知られている落体の運動法則を確立した。すなわち、自由落下運動は等加速度運動であり、重力は落下物体の速度に単位時間当たり一定の変化を引き起こすことを把握していた。また力が働かない物体は等速直線運動をするという「慣性の法則」をも認識していたのである。

ガリレイが実験を盛んに行ったというのは後世の人たちの創り出した虚像で本当は思考実験的な研究が主であったという説もあるが、最近亡くなったある学者の詳細な研究によれば、やはり実験を主にして仮説を検証するといったことは後世の人の創り出した虚像ではないらしい。(1995.3.3)

 

(2023.2.15付記)

これは『数学散歩』(国土社)にも収録された「力学の道草」というタイトルのエッセイの(2)である。これは工学部の材料工学科の力学演習を3人の教員グループで受け持っていたときに、同僚のK教授から演習資料の埋め草に書くことを勧められたものである。そういう事情を『数学散歩』にも書いていない。ここではじめて明かす事情である。このことを知っている人は私も含めて3人しかいない。


記事一覧を見たら、

2023-02-14 13:57:28 | 本と雑誌

記事一覧を見たら、私の記事の数が6501と出ていた。書きも書いたりですね。

一日に一つブログを書くとすると、一年のブログを書くことができる日数を300日としたら、21年くらいになる。書き続けた年数は実際にブログを始めたのは2005年の4月の終わりなので、実は18年くらいだろうか。

これも健康だから続けられることではある。

 

 

 

 


続けようと思ったが、

2023-02-14 13:25:50 | 本と雑誌

「ドイツ語圏世界の科学者」の記事を今まで書いてきた他に3人ほど書いていたので、続けてここに載せようと思ったが、ブログとしては長すぎるので、これをこのブログで続けるにはふさわしくないと判断した。

ミンコフスキーとマイヤーとネタ―のことを書いていたが、むしろ「数学・物理通信」の一つの記事にしてもいいくらいであった。したがって、そちらで後日に発表することにしたい。

「力学の道草」と題したコラムにガリレオ・ガリレイとニュートンのことを書いていたので、そちらは比較的短いので近日中にこのブログに載せたい。これは愛数協の「研究と実践」にも載せたが、もとは大学に在職中に力学の演習の学生に配布した資料に同僚のKさんの要請で書いたものの一部である。私の小著『数学散歩』(国土社)にも所収されたが、『数学散歩』は発行部数が500部の自費出版であったので、あまり普及してはいない。これらは『物理数学散歩』には収録していない。

ミンコフスキーのことはたぶん『数学散歩』に収録した、特殊相対性理論のエッセイを改訂したいと気持ちがあったので、書いたような気がするが、はっきりした記憶は残っていない。

 

 

 


Christoffel-Darbouxの恒等式

2023-02-13 17:36:29 | 数学

Christoffel-Darbouxの恒等式を使ってガウスの数値積分の一般論が導かれるとは森口繁一先生の『数値計算工学』(岩波書店)で読んで知っていたことだが、昔書いたエッセイの「歩行者のためのガウス積分」で用いたこの数値積分の重みをを出す式の基礎になる式を導いたことがなかった。これにあたるものが有名な岩波の「数学公式III」に出ていたのでそれを証明することなど一度も考えたことがなかった。

しかし、森口先生はこの式の基礎にはChristoffel-Darbouxの恒等式があることをご存じだったようだ。最近昔のエッセイを再度「数学・物理通信」に掲載しようかと考えてChristoffel-Darbouxの恒等式について調べたら、これが特殊関数の本には出ていない。

Abramowitz-Stegunの本には出ていたが、記号の説明が十分ではなくて、私にはわからなかった。それでお手上げかと思って森正武『数値解析』(共立出版)を見たら、詳しい説明があって私にも式のフォローができた。これは先週の金曜のことだったが、土曜、日曜と2日休んだので、今日、このChristoffel-Darbouxの恒等式を使ってガウス積分の重みを求められるかどうか調べたら、うまく導けた。

これは森さんの方式ではなくて、私風の方式での導出である。これで昔証明しないで使った公式集の恒等式は実はChristoffel-Darbouxの恒等式から導出できる式であることがわかった。

誰からも文句を言われたことはなかったのだが、公式集の式の導出をどうするかを考えるべきであった。そしてこれがやっとできたので、この証明を付録につけて「数学・物理通信」に掲載したいと思っている。

今回、森さんの本を読んだら、昔ガウスの数値積分の一般論が導かれるところが理解できなかったのが、わかるように書かれてあった。どうしてわからなかったのだろうと思うほどであった。

(2024.1.11付記)エッセイの「歩行者のためのガウス数値積分」は数学・物理通信13巻1号に書いてある。インターネットで検索したらすぐに見つかるはずだ。Christoffel-Darbouxの恒等式のことも書いてあるはずだ。もうこのことは記憶にはないのだが。

ローレンツ

2023-02-13 14:16:37 | 科学・技術

これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(14)である。

 

       (14)ローレンツ (K. Lorenz 1903-1989)

 今年(1989)の2月末に動物行動学者のローレンツが85歳で亡くなった。雑誌「科学朝日」の5月号で京都大学教授の日高敏隆さんが思い出を書いていたので、すぐにでもローレンツをとりあげるつもりでE大学法文学部のUさんにSpiegel(1988年11月7日号)での彼の最後となった対話の記事のコピーとかローレンツの対談「Leben ist lernen」(Piper)とかを借りたが、なにせドイツ語が十分読めないので、そのままになっていた。せめて日本語に訳された『攻撃』くらいは読んでから、ローレンツのことを書こうと思っていたが、それも果たせそうにない。雑誌「みすず」(1989.8月号)にSpiegelの対話の部分の訳が出たのでそれらを頼りにはなはだ不十分だが、ローレンツについて述べてみよう。

ローレンツの業績は一口に言って動物行動学とか行動生物学とか言われる学問分野を確立したことにある。『生物学辞典』(岩波書店)によれば、「放し飼いにした動物、特に鳥類(ガン、カモ類、カラス類)や魚類(シククリット類その他)の行動について、厳密な認識論に裏付けられた観察を行い、リリーサーの概念をはじめ、行動の生得的解発機構の認識を打ち出して、行動生物学を確立した」とある。「厳密認識論」というものがどんなものかも知りたいが、それはおいておくとしても、上の文章を読んですぐ何のことかわかるだろうか。専門家の方は別として、何を言おうとしているのかよくわからないのが本当だろう。

リリーサーという専門用語は別としても「解発」という語もいくらか専用用語的で普通の日常生活では使わない。例えば、カモメが危険を知らせるための鳴き声をあげれば、そのひなが逃げ隠れするといった行動をする。このような、その動物に特有の行動を引き起こすメカニズムを動物というものは生まれながらに持っているものだというのである。そして、そのような行動を引き起こすもとになる特性、上の例では、カモメの危険を知らせる鳴き声をリリーサー(releaser, Ausloeser)というらしい。

いつでも学問というものはしゃちこばってとっつきにくいものだ。日常の言葉で言ってもらえれば、すぐに了解できることでも改まって専門用語を用いて言われるとなんのことだかわからなくなることはしばしばある。市民運動等においてもいわゆる科学者でない市民はいつでも日常の言葉で科学者に言い直してもらう必要があろう。

ローレンツは上に述べたような業績によってフリシュ、ティンバーゲンとともに1973年ノーベル賞を受賞した。ローレンツが「私たち人間が行う行動は石器時代の人々が行った行動と同じように本能に縛られている」というとき、ほかならぬ人間自身もローレンツから見ればカモとかガンとかいう動物と同じ動物であると考えられていると言った点はひょっとしたら物議をかもすところだろう。しかし、私はローレンツのいうことの方が真実を衝いていると思われる。人間は地球というある種の生き物の中に巣食うがん細胞なのかもしれない。すなわち、自分たちを破滅に導くまで本能の赴くままに自己増殖し、環境を破壊するといった点で、

もう一つだけ触れておきたい点は、第2次世界大戦下でのローレンツとナチスとの関係である。ローレンツのいい方によれば、「自分の関心事に重点をおくあまりに政治的問題を避けてきた」とのことである。音楽界の巨匠フルトベングラーとか哲学者のハイデッガーとか対ナチ協力のかどで非難される学者や芸術家は多い。ローレンツは積極的ではなかったとしてもその点については非難されてもしかたがないようである。しかし、私自身が同じ状況におかれたらどうするだろうかと考えるとき答は簡単に見つかりそうにない。(1989.9.26)

 (2023.2.13付記)

 このローレンツをもってもともとの「ドイツ語圏世界の科学者」の再掲載は終わる。あと数人ドイツ語圏世界の科学者」について書いたことがあるので、その原稿が見つかればあと数人について述べることができるであろう。


コッホ

2023-02-10 16:20:47 | 科学・技術

これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(16)である。

 

       (16)コッホ (R. Koch 1843-1910)

 年も改まって1990年となった。ヨーロッパ、特に東欧世界の1989年の政治情勢の変動は、情報通の人々の予想をもはるかに上まわっていた。東欧世界の自由化の兆しを喜ぶ一方で、我々の「自由」世界がこれでいいのかと本当に疑問に思う。例えば、記録映画「核分裂過程(Kernspaltung)」に見られるような国家権力や地方政府当局の市民への抑圧や市民の抗議行動について報道をしないといったことは別に核廃棄物処理工場の建設を強行しようとした西ドイツのバッカスドルフについてだけ見られる現象ではなく日本においてもしばしば見られるものだからである。

 前置きが長くなったが、今月はコッホをとりあげよう。コッホは結核菌やコレラ菌、羊や牛の病気である炭疽病の病原菌を発見したこと、および、ツベルクリンの創薬等で知られている。これだけを聞いたら、コッホは大学とか研究所に勤める学者、いや現代風に言えば、研究者のように思えるだろう。しかし、彼の伝記によれば、炭疽菌や結核菌の発見は彼が一介の田舎医者だったり、保健省の役人だったりしたときに行われたものだという。数学者ワイヤストラウスが高校の教師をしながら、偉大な数学研究を行ったと同じように。その後、コッホはベルリン大学教授になり、伝染病研究所の所長となったが、彼の研究の方法はすでにそれ以前に彼の手によって独自に形成されたものであった。

 パスツールが発酵や腐敗は微生物の作用によることをすでに確立していた時代ではあったが、それでも病原菌についてのいろいろな研究方法はまったく確立していなかったし、それについての専門的教育も専門家も存在していなかったときだけに、このコッホの研究の独創性はいくら高く評価しても評価しすぎることはないだろう。低温殺菌法を意味するpasteurizationという用語に名を残したパスツールの方が「微生物の狩人」としてはわずかに先駆者であろうが、我々は非常に多くのものを医学の分野でコッホに負っている。

 パスツールと彼より約20歳も年下のコッホはライバルで、「犬猿の仲」であったという。これはいくつかの分野で二人の研究が交錯していたことによるらしい。それはともかく川喜田愛郎の『パスツール』(岩波新書)によれば、1880年代のはじめを境にして、病原微生物学の主流はパスツ-ル学派からコッホとその学派に移ったという。

 一医学生のころ遠い異国を旅する冒険旅行家となることを夢見たコッホは、妻からの贈物の顕微鏡によって人類の知らなかった微生物の世界を旅することとなった。彼の若いときの夢は形を変えてではあるが、実現したといえるだろう。(1990.1.4)

 

(2023.2.10付記)

 こういう伝記まがいのエッセイを書くためにはそれなりの読書が必要であり、執筆当時は数冊の本を読んだりしている。このシリーズ以外でもあまり長くではないが、数人の科学者について書いたことがある。

もう一人でこのシリーズ「ドイツ語圏世界の科学者」は終わるが、その後にもなお数人の科学者についてのエッセイを書くことができるだろう。その原稿がうまく残っていればの話ではあるが。


シュレディンガー

2023-02-09 13:54:18 | 物理学

 これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(18)である。

 

   (18)シュレディンガー (E. Schroedinger 1887-1961)

 一夜明ければ大スターになっていたとか大学者になっていたとかいうのは、映画スターとか学問を志す者の実際には果たすことのできない夢であろう。

 ちょっと見たところでは、シュレディンガーはそのような夢を実現した稀有な人と思われる。1925年、ゲッチンゲン大学のボルン、ハイゼンベルク、ヨルダンの三者による「行列力学」の創成によって量子力学の一つの正しい定式化が行われ世を賑わした。ゲッチンゲン、ミュンヘン、コペンハーゲンといった当時の学会の主流からすこしはずれたところのチューリッヒ大学の教授であったシュレディンガーの大活躍が1926年の年明けとともに始まる。

 「固有値問題としての量子化(Quantisirung als Eigenwertproblem)」と題する一連の論文が1926年の前半の半年ほどの短期間にあいついで、雑誌Annalen der Physikに現れる。ハイゼンベルク流の行列形式の量子力学の難解さに辟易していた当時の物理学者にとって、これは干天の慈雨にも似たものであった。さらには、やはりこの年にボルンたちの行列力学と彼の波動力学とが数学的に同等であることを彼は示した。これらの研究はもちろんド・ブローイの物質波の仮説やアインシュタインの論文に刺激されてできたものではあったが、だからといってシュレディンガーの天才を疑うべきではない。

 1926年にはシュレディンガーはすでに40歳近くでディラックやハイゼンベルクのような若者とはもう言えなかったが、それだけ力量も充実していたということだろう。ボルン、ハイゼンベルク、ヨルダンが共同して行列力学を創り上げたのと対照的に独力で波動力学を創り上げている。

 高林武彦は『量子論の発展史』(中央公論社)において彼の仕事はまさに横綱相撲にふさわしいと述べている。もっともシュレディンガーが提案した波動方程式(彼の名にちなんでシュレディンガー方程式と呼ぶのが普通だが)を彼は最初解くことができなかったそうだ。その解き方については当時チューリッヒ工科大学(ETH)にいた優れた数学者ワイルの手を煩わせたという(注  2023.2.9)。

 私たち凡人は数学を学んで、それを用いて何か研究しようとするが、天才たちはそんなことをする必要がない。必要とあれば、自分で数学だってなんだって創り出してしまうのだから。例えば、ハイゼンベルクが量子力学のために考案した妙なかけ算はボルンによってそれが行列のかけ算だとわかったし、ディラックは量子力学のためにデルタ関数を創り上げた。シュレディンガー方程式の解法も、現在では境界値問題として知られている、その当時としては新しい解法を必要としたのであった。また、アインシュタインの一般相対性理論の構想は、数学者にとってはすでに知られていた、テンソル解析とリーマン幾何学にもとづいたものといわれ、アインシュタインは数学者にすでに知られてはいたが、彼には未知のものであったリーマン幾何学のいくつかの定理を再発見したという。

 思わぬ方向に話がそれてしまった。シュレディンガーに話を戻そう。1933年シュレディンガーはベルリン大学教授の職をなげうってオックスフォード大学へと移っていく。彼はユダヤ人ではなかったが、ナチスの行ったユダヤ人同僚に対する教授職の解任や追放等に対する抗議の気持を強く持っていたためという。その後、紆余曲折を経て結局はアイルランドの首都ダブリンの高等科学研究所に落ち着き、1956年に故国オーストリアのウィーンに帰るまで、そこで研究生活をおくる。

 シュレディンガーは哲学的傾向の強い学者で、それも素朴な実在論者であり、波の重ね合わせとして粒子をつくりあげるという基本的なアイディアを抱いていた。また、波動関数ψは粒子の電荷密度を表すものとして素朴にイメージしていたらしい。

 このイメージはボルンが1926年に初めて提唱し、ボーア等の綿密な吟味を経て、その後はコペンハーゲン解釈と呼ばれるようになった波動関数の確率解釈という学会の正統的見解とは根本的に相容れない見解であった。シュレディンガーは波動力学と呼ばれた量子力学の一つの形式の生みの親ではあったが、この波動関数の確率的解釈は彼にとっては生み落とした鬼子のようでもあったろうか。

(1990.11.22)

 

(注 2023. 2.9)波動幾何学の創始者である、三村剛昂先生は私の学生時代に定年退職されたが、シュレディンガーは彼の方程式をワイルに解いてもらったという話を彼からじかに聞いたような気がするが定かではない。これは彼の講演を聞いたときに彼の話に出たのか、それとも竹原市にあったH大付属の理論物理学研究所に私が行ったときに個人的に三村先生から直に伺った話であったかはいまではわからない。

 

(2023.2.9付記)

このシュレディンガーをもって「ドイツ語圏世界の科学者」の数学者と物理学者、化学者の記は終わる。まだ残っているのは生物学者のローレンツと医学者のコッホである。明日以降にはこれらの人についての記を述べよう。

 いずれにしても物理学者を中心とした「ドイツ語圏世界の科学者」は実質的には終わった。


ヨルダン

2023-02-08 13:26:17 | 物理学

これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(11)である。

 

       (11) ヨルダン (E. P. Jordan 1902-1980)

 後年ワインの当たり年として知られるようになった1976年の5, 6, 7月はドイツ、いや、ヨーロッパではカンカン照りの日照り続きであった。私たちの住んでいたマインツ郊外のWohnungの前庭の芝もこのときほとんど枯れてしまった。雨が降らないため、渇水で庭に水を撒くことも自制するようにとテレビ、ラジオで放送されていたらしい。何日も何日もほとんど雨らしい雨も降らないために空気が乾燥しているせいか喉がからからに乾く。一般にヨーロッパでは5月、6月は一年で一番よい季節で晴れたよい天気が続くのが普通だ。しかし、この年は少し異常だったようだ。あくまで澄んだ空をジェット機のつくる飛行機雲のみが幾条もの白い直線となって残り、やがて消えていく。私たちの町からフランクフルト空港へは車で30分くらいのせいか、この飛行機雲の絶えることがない。

 このころのある日、私たちのWohnungのブザーが鳴った。誰だろうと玄関口に降りて行ってみるとE大学の素粒子論の研究仲間である、Eさんであった。彼は7月8日からアーヘンで開かれる「ニュートリノ国際会議」に出席するために昨日ブラッセルに着き、すぐに飛行機を乗り継いでフランクフルトからマインツにやって来たという。

 私たちは数か月ぶりの再会を喜び合った。数日して彼はアーヘンに汽車で行き、私は家族と一緒に車でアーヘンへと出かけた。学会本部で郊外に宿を斡旋してもらい、そこからアーヘン工科大学の講堂で開かれている学会へと通った。

 何日目かの朝、会場の方へ歩いて行くとマインツ大学のKretzschimar教授が大急ぎでやってくるのに出会った。「どうかしましたか」とたずねると、「ヨルダン教授の講演があるのです。ヨルダン教授を知っていますか」という。「もちろん知っています。私もその講演を聞きに行くところです」と答えると、「では急ぎなさい」と言い残して彼は足早に先に行ってしまった。後からふうふういいながら会場に入り、真ん中の少し前の方に席を見つけた。会場はすでにほぼ満員である。

 アーヘン工科大学のFaissner教授のヨルダン教授の紹介に引き続いて、ヨルダンの「ハイゼンベルクの思い出」と題する講演がドイツ語で行われた。内容はほとんどわからなかったが、「Drei-Maenner Arbeit(三者論文)呼ばれる著者である、ボルン、ハイゼンベルクと私は・・・」というところだけはなぜか耳に残っている。

 私たちのように量子力学をすでにできあがった学問として学んだ者はもうこの三者論文を勉強したりはしなかった。しかし、『量子論の発展史』(中央公論社)の著者である高林武彦氏によれば、この三者論文とシュレディンガーの一連の波動力学の論文とはまさに横綱相撲でまことに堂々としたものであるという。

 老齢のためだったのか、または、病後であったのかこのときヨルダンは椅子に腰を下ろして話をした。白髪でハイゼンベルクより長身に見えた。謹厳な風貌の人で、講演の後、聴衆の拍手に手をあげて応えられたのがいかにも印象的であった。それから数年してヨルダンは亡くなった。

 ヨルダンはハイゼンベルクより1歳年下で、パウリ、ハイゼンベルク、ヨルダンの3人は引き続いてボルンの助手をつとめた。ハイゼンベルクの量子力学の着想に触発されたボルンが量子力学の数学的定式化の研究にとりかかろうとしてパウリの協力は断られたが、すぐさま年は若いが俊秀のヨルダンを口説いて彼の協力をとりつけ最初の論文「量子力学について」を夏休みを返上して完成する。そして、9月には夏休みから帰ってきたハイゼンベルクも加わって三人で「量子論についてII」を11月には仕上げていた。それと前後してイギリスの天才物理学者ディラックの論文が現れる。年が明けて1926年はじめにはシュレディンガーの波動力学と呼ばれるようになった一連の論文が出現し、量子力学の数学的形式は完成するのである。

 ヨルダンの業績は他に量子力学の変換理論、星の生成、宇宙の進化等があり、また量子生物学を提唱したという。(1989.6.17)

 

(2023.2.8付記)

明日はシュレディンガーについての記事を載せるつもりだが、これでほぼ物理学者の連載エッセイは終わるが、あと生物学者とか医学者が一人二人残っている。さらにこの連載のエッセイではないが、他のところに書いたエッセイが2編ほどある。それがどこかにあるので、探すつもりである。


 パウリ

2023-02-07 13:23:47 | 物理学

これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(10)である。

 

            (10) パウリ (W. Pauli 1900-1958)

 

 ハイゼンベルクといえば、すぐにペアとなって思い出される科学者として今月はパウリを紹介しよう。パウリはハイゼンベルクの一つ年上でミュンヘン大学のゾンマーフェルトの学生としてはハイゼンベルクの先輩である。ハイゼンベルクが野や山やWanderungを好み、「太陽の子」と呼ばれたのとは対照的に都会を好み夜毎に酒場に姿を現したという。性格的にも正反対のこの二人は終生深い友情で結ばれていた。

 パウリはウィーンの出身でゾンマーフェルトのもとで20歳になるかならぬで相対性理論についての論文を書いた。その理解の深さ、透徹した論理や鋭い批判によってこれを読んだ人は誰もこれが20歳の若者の作とは信じなかったという。日本でもゲージ理論の先駆的な研究で有名な内山龍雄氏を驚嘆させている。

 パウリはまた「パウリの排他原理」の名で知られる事実を雑多な実験事実の中から本能的にかぎだした。現在では、「排他原理」は美しい数学的形式で表され、このことから「排他原理」はこの方式ではじめて定式化されたのかと思いがちなだが、実はそうではない。

 パウリはあまりに批判的でありすぎたために、彼によって事前につぶされたいくつかの発見があり、その中でとりわけ有名なのはクロニッヒによる電子のスピンの概念の提唱がある。クロニッヒはパウリがこのスピンの考えに賛成しなかったために、電子のスピンについての自己の考えを発表するのを見合わせた。その直後にオランダのライデン大学のエーレンフェストの学生であったウーレンベックとハウトシミットが電子のスピンの考えを提唱し、このときは何故かパウリはそれほど反対しなかったために、電子のスピンの概念の提唱は彼らによるものとなった。

 しかし、意外に決定的なところでパウリは彼の肯定的な裁可を与えている。それはハイゼンベルクの量子力学の着想に関してである。ヘルゴランド島から休暇の帰途、当時ハンブルクにいたパウリを訪ねたハイゼンベルクは彼の量子力学の着想をパウリに話したが、ここでパウリはそれについて彼の支持を与えたのであった。ハイゼンベルクにとってパウリの支持は他の誰の支持よりも心強く感じたにちがいない。

 パウリはもちろんハイゼンベルクの才能をよく認識していたにちがいなかろうが、事毎にきびしい批判的言辞を披露してはばからぬパウリが認可を与えたというのはやはり彼の天才的な直観によるものであろうか。その直後パウリは水素原子の問題をハイゼンベルク流の行列力学の手法で解いてみせ、世間をあっと言わせた。そしてこれが行列力学の信用をつとに高めたのであった。しかし、この方法はとても複雑をきわめるために私たちが水素原子の問題を大学で教える際には、よりやさしい波動力学的手法によることがほとんどである。

 その後、ハイゼンベルクと組んでの「波動場の量子論」の論文はその当時の場の量子論の集大成でもあった。さらにベータ崩壊に関してエネルギー保存則が確率的にしか成立しないのではないかと言われたときに、「ニュートリノ」という未知の粒子を導入してこの困難を救ったのもこのパウリであった。そして、この粒子は数十年後であったが、実験的に発見された。

 彼の著した量子力学のテクスト『波動力学の一般的原理(Die Allgemeinen Prinzipien der Wellenmechanik)』はディラックおよび朝永の量子力学のテクストと共に量子力学の三大名著と言われている。

 パウリは第2次世界大戦中はアメリカやスイスにいて、純粋な物理の研究に従事し、他の大多数の物理学者とは異なり、軍事研究には関係しなかった。その点で、ナチス治下のドイツで原子力研究に従事したハイゼンベルクやその周りの人々について彼がどのように感じていたかはとても興味のあるところである。

 死の直前になって、パウリはハイゼンベルクと再び一つの共同研究を行っていた。これが世にいう「宇宙方程式」である。しかし、あるときパウリはハイゼンベルクと意見を異にし、ある学会において厳しい口調で彼を非難し始める。その批判は遠慮会釈もなく猛烈を極めたものであったという。その場に同席した物理学者でノーベル賞受賞者のC. N. Yangは、激昂しているパウリに対してそんなときでも冷静さを保っているハイゼンベルクの姿に感銘を覚えたと語っている。

 「物理学の法王」といわれたパウリは59歳で世を去った。日本でも湯川、朝永、坂田、武谷といった素粒子物理学者の中で坂田が一人、59歳の若さで世を去ったが、人の良い点をみて、悪い点をあげつらわなかったという点で坂田とパウリはまったく正反対の極致にあると思われる。しかし、政治的、学問的信条において自分の信じる点を譲らなかった点では坂田とパウリは相通じるものを案外持っているのかもしれない。(1989.6.6)

 

(2023.2.7付記)

この「ドイツ語圏世界の科学者」も残りが少なくなってきた。昨日のハイゼンベルクと今日のパウリはそのハイライトであろうか。同じ物理関係のブログのkouzouさんと同じ人を取りあげることになっているかもしれないが、視点はまったくちがうはずである。もともとこれらの記事は雑誌「燧」に掲載される前にパンフレット”Zeitung der deutschen Gruppe in Ehime”に毎月掲載したものである。

これはNさんという方が始められた松山でドイツ語を学ぶ小さなグループがdeutsche Gruppe in Ehimeであった。それに関係していたドイツ人の友人R氏がNさんに共鳴して出されていた、小冊子が”Zeitung der deutschen Gruppe in Ehime”である。別にR氏から特に強く勧められたというわけでもなかったが、彼に協力するということもあって書き続けたと思う。それをまとめて、その後に雑誌「燧」に掲載したといういきさつがある。これまでこれらのエッセイが読者を十分に得たとは思わない。

このブログでの発表によって何回目かの発表したことになるが、これを読んでまったくの的外れのエッセイだとかいうような批評はどこからもまだもらったことがない。


小出昭一郎『量子力学』

2023-02-06 13:19:36 | 物理学

小出昭一郎『量子力学』(I) , (II) 改訂版(裳華房)のいま(I)を読んでいる。なかなかイメージがはっきりと提示されたいいテクストである。それに旧版と比べても活字が大きくなっており、読みやすい。

 

なかなかいい本だとか元同僚から聞いたことがあったが、つい最近までじぶんで読もうと思ったことがなかった。第7章の摂動論のこところを読んでいて、なかなか徹底して議論をしていてわかりやすかった。それで第6章の「行列と状態ベクトル」のところを昨夜眠れなかったので朝方までかけてほぼ読んだ。とはいってもこれは話の筋を追っただけで計算をフローしたわけではない。

 

東京大学の教養学部には物理には太田浩一さんとかもおられたし、数学でも金子晃さんとかいわゆる定評ある数学のテクストを書かれていた人がおられた。京都大学の教養にも数学では笠原こうじ先生とかがおられた。


ハイゼンベルク

2023-02-06 12:50:09 | 物理学

 これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(9)である。

 

         (9) ハイゼンベルク (W. K. Heisenberg 1901-1976)

 5月にふさわしいドイツ語圏世界の科学者としてハイゼンベルクを紹介しよう。一般に天才というものは早熟である。ハイゼンベルクもこの例外ではない。彼が量子力学への正しい一歩を踏み出したときまだ23歳であった。

 量子力学はパウリによって少年の物理学(Knabenphysik)とまさしく呼ばれたように、ボルンやシュレディンガーのような例外はあるが、若者のための、若者によって創られた物理学であった。このときハイゼンベルク、パウリ、ディラックらの天才はすべて20歳を少しでたばかりであった。

 ボルンがパウリに会ってハイゼンベルクの量子力学の構想をはっきりと数学的に定式化するのに協力してほしいと申し出たとき、パウリは毅然としてこれを断ったという。当時すでに40歳を越えていたボルンのような「老人」は量子力学のような若者の物理学に首を突っ込むべきではないというのがパウリの考えであったという。パウリの強烈な個性に辟易するボルンの姿が目に見えるようだ。

 それはともかく、ハイゼンベルクが彼の正しい量子力学、すなわち行列力学へのきっかけをつかんだのは1925年5月のことであった。彼はひどい枯草熱にかかったためにそれを避けるために休暇を申し出てヘルゴランド島に出かける。ここで彼は自分の研究を仕上げたのであった。

 枯草熱(Heufieber)とはどんな病気なんだろうと私は長年疑問に思ってきた。山崎和夫訳のハイゼンベルクの自伝『部分と全体』(みすず書房)にもユンクの『千の太陽よりも明るく』(文芸春秋新社)の訳にも枯草熱と訳されているが、枯草熱とは花粉症のことらしい。天才ハイゼンベルクも我々と同じ花粉症に悩まされていたと聞いて、ぐっと身近に感じるのは私だけではあるまい。

 彼が1967年に日本にやって来たとき、私も彼の英語での講演を聞いたが、内容はよくわからなかった。プラトンとかイデアとかそんな言葉のみが頭に残っている。がっしりした体格で頭の前の方が禿げ上がっていたのを記憶している。晩年の写真としてよく見かけるあの風貌であった。伝記等にある写真でよく見かける、あのさっそうとした若者の姿はどこにもなかった。

 その講演のつぎの日は雨で私は大学に行かなったが、ハイゼンベルクは宮島への観光をキャンセルして、私の先生のO教授と物理の話をしたらしい。O教授の部屋からニコニコと上機嫌(in guter Laune)で出てくるハイゼンベルクを見たと友人の小林正典君(故人、岐阜大学名誉教授)から後日聞いた。

 1976年4月から1年間ドイツで研究生活をすることとなった私はモスクワ、コペンハーゲンを経由して、この年2月1日にフランクフルトに着いた。後で知ったことによると正にこの日にハイゼンベルクは死去したのであった。そのことをその後、知ったとき、なんだかドイツの科学のロマンの時代が終わってしまったと感じたものだ。

 ハイゼンベルクの業績は多岐にわたっている。量子力学の創設は彼の一番大きな業績であろうが、その他に不確定性関係(不確定性原理と普通呼ばれている)や場の量子論、原子核の構造、強磁性体の理論、非線形場による素粒子の統一理論等どれ一つとってもすばらしいものである。(1989.5.5)

 (2023.2.6付記)

 北海の島でリゾート地のヘルゴラント島はいつだったかテレビで見たところでは海岸の崖が赤くてそれが印象的な島であった。岩がごつごつしていてあまり草花が咲かないので枯草熱が悪化しない理由であるとか聞いた。

枯草熱とは、春先の草花とか木の花とかが咲くころに40度近い熱が出て体調が不調になるのだということをアメリカに長く留学していたことのある、元同僚から教えてもらった。

この方も春先には鼻の頭を赤くされるほどの花粉症であった。日本では花粉症は鼻汁がすごく出るのが普通かと思うが、枯草熱は鼻汁が出るとはあまり聞かなかったような気がする。むしろ高熱が出て気分がとてもわるいのだという。

 私も花粉症なので、花粉症の悩ましさはわかっているつもりだが、私の花粉症は高熱が出ることはない。2月のいまごろから4月終わりまでの花粉症は毎年悩ましい。

(2024.4.1付記)
Heisenbergの行列力学を知るには朝永振一郎の名著『量子力学 I』(みすず書房)を読まれるといいだろう。促成栽培的に量子力学を学ぶためにはこの書はちょっと遠回り的なので、はばかられるが、それでも読んでわくわくする書である。

純粋の科学書でこういうわくわく感を他の書では残念ながら、感じたことがない。こういうわくわく感を読者に感じさせる本を書ける人はどんな方なのであろうか。

(2024.9.4付記) 現在のNHKのラジオのドイツ語講座「まいにちドイツ語」で今月にはHelgolandが舞台となっている。またNordseeのWattenmeerが先月だったか話題として出てきた。私のブログではHeisenbergに関係してHelgolandについて述べたことがあるし、NordseeのWattenmeerについても述べたことがあった。

もっとも私自身はHelgolandに行ったこともないし、NordseeのWattenmeerも見たことがないのだが。

(2024.11.4付記) このブログではNordseeのWattenmeerについてもどこかに書いてあるのだが、読者にそれを検索して探せというのも不親切なので付言する。Wattenmeerは引き潮のときにずっと何キロメートルも干潟のできる海のことをいう。Nordseeはそういう海らしい。

フランスの有名な観光地であるモン・サンミシェルも北海に面しており、ここも干潟が沖合に向かって引き潮のときに干潟ができるらしい。そしていまではそういう人もいないだろうが、満ち潮のときには馬車で駆けてくるくらいの速さで潮が満ちてくると聞いている。昔はそれで引き潮のときに沖合まで歩いて出てしまって潮の満ちるのが早くて溺れて亡くなった方がいるとか噂で聞いている。

Wattemeerという語は私のドイツ語の教師でもあるドイツ人のR.R.氏から教わった語である。日本で普通にドイツ語を学ぶ学生なら、こういう語は中級にならないと知らない語であろう。


ミュラー、べドノルツ

2023-02-04 10:13:29 | 物理学

これは以前に「燧」という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載されたものの(2)である。

 

(2)ミュラー (K. Alex Mueller 1920- )

   べドノルツ (J. Georg. Bednortz 1950- )

 

 ミュラー、べドノルツと聞いても一般の人はもちろん超電導を専門にしない物理学者は何をした人たちだったんだろうと思うかもしれない。かく申す私もそのうちの一人である。しかし、高温超電導体研究の端緒を与える研究を行った学者だといえば、物理学者ならずとも「ああ、あの超伝導フィーバーを引き起こす研究をした人たちだな」と思い及ぶに違いない。これほど世界を賑わせた画期的な研究は最近あまりなかった。超伝導研究に世間の関心を集めたせいか、マスコミでは物理学の主流は高エネルギー物理学から固体物理学に移ったとまで述べるものが多くなった。

 液化窒素の温度(零下196度)で冷却することによって超伝導現象を呈するセラミック超伝導体はいままで高価な液化ヘリウムによって冷却しなければならなかった超伝導の世界を大きく拡げてしまった。特にその工学的応用が大きく期待されている。

 「電力貯蔵」「超伝導磁石による核融合発電」「損失のない超伝導送電」「超伝導磁石による高速モノレールカー」等々。これらは、実際には21世紀以降の技術的課題となるであろうが、だからといってミュラー、べドノルツの発見の価値が低くなりはしない。

 ミュラーはバーゼル(Basel)生まれのスイス人でチューッリヒ連邦工科大学(ETH Zuercrich)の出身、またべドノルツはミュンスター生まれのドイツ人でミュンスター大学からETHに学んだという。

 両人とも現在IBM チューリッヒ研究所所属、1987年度のノーベル物理学賞を受賞した。(1988.9.28)

 

(参考文献)

1.科学 58巻1号(1988)(岩波書店)

2.中嶋貞雄、『超伝導』(岩波新書)