【初の岡田本は、意外!日本政治と岡田さんの「15年史」】
「岡田克也、初の著作」と聞いて、
「どうせ、インテリ好みの政策本だろ。言っていることは真っ当だろうけど、ちょっと堅そうで敬遠しちゃうな」という思っている人が多いでしょう、実は私も予約時はそう思っていましたが・・・(>_<)
ところが実際は、違う。政策本というより、自伝であり、日本近現代史の一級品です。岡田克也「政権交代 この国を変える」(講談社)は読まなくてもいいから、一冊お求めになって書棚に入れておくことをオススメします。
講談社は「中川秀某」の本ばかり宣伝してるし、新書で小池某、与謝野某の本も出ていますが、そんなのを読むのは、時間と金の浪費(waste)です。
夏の政治読書は「岡田克也」で決まり。
岡田克也が初の著作『政権交代』発売 宮澤解散から15年、あの日と変わらぬ志(6月17日付エントリ)
というわけで、抜き書き。
【第1章「15年前、宮澤内閣不信任案に賛成」】
この本は、「1993年6月18日午後8時」「その日のうちに衆議院解散が宣言された」「そして私は、衆議院議員として3年4ヶ月にわたって所属した自由民主党を離党した」(14頁)という書き出しで始まります。
私もあのとき、新生党学生部に参画しました。その15年間が同期化(synclonize)してきます。「あのときが改革の原点だったね」。古参の政治家秘書と話すといつもその認識で一致します。
読み進めます。
【父を追いかけて大阪へ 二人暮らしの父の背中】
第2章では岡田さんの生い立ちです。
「父はいまでこそイオングループの創業者として知られているが」「岡田屋7代目として、地元で呉服と日用衣料品を商う商人だった」(49頁)
「私が中学生の頃、父は(略)次第に事業を展開し」「歩いて会社に通っていたのが、自転車になり、やがて車に替わっていった」(50頁)と述懐。
「子どもの頃は東京や大阪にも一、二度しか行ったことはなく、新幹線に乗った記憶もない」(51頁)という岡田さん。
私は岡田さんの経歴で前々から不思議に思っていたのは、大阪の高校(大阪教育大学附属高校)を出ていることです。これも読んで納得。
岡田さんが中学生の頃、お父さんが大阪で2つの地域スーパーを買収し、ジャスコ(イオン)の拠点を大阪に置いていたんだそうです。
「都会の高校に行ってみたい、という気持ちもあったし、それまであまり話したことのない父といっしょに暮らしてみたい、という思いもあった」。
高校に通いながら、父と2人で生活して、「それまであまり会話のなかった父と、ぽつぽつと話すようになった」「当時圧倒的に強かったダイエーとの競争など、少しずつ語ってくれた」「その背中を見ながら、大変なんだな、と思ったものだ」。
この51頁は必見です。克也少年はおそらく15歳まで父に対して複雑な心境を持っていたのではないでしょうか?岡田さんがこういった話を披露するのは初めてでは? 地元の支援者の方々はご存じなんでしょうか?
岡田さんにとって、父の背中は最良の教科書だったようです。
【東大法学部・岡田克也の内定先は通産省、そして厚生省!】
56頁。東大法学部の克也青年は卒業後の進路を国家公務員に定めました。
「大蔵省は、役所を相手にする役所で、直接国民に接する役所と比べて具体的なやりがいが実感できないような気がした。それに、そもそも成績を考えると受かる自信もなかった。最終的に内定は厚生省と通産省の2つをもらった」。
これ知ってました? 私知りませんでした。
で、「どちらに行くべきだろうか。正直なところ、大変に迷った」そうです。
岡田さん、一歩間違えて厚生省に入っていたら、いまごろ厚労省医薬食品局長(岡田さんと同期=昭和51年入省)として、衆院厚労委員会で山井和則さんや菅直人さんに“フルボッコ”にされていたかも。
が、「省内が生き生きしているような実感があって、通産省に決めた」。
なんと見通しがいいことでしょうか、岡田さん。やはり“宰相の器”。
【「自民党の息の根を止めるべきだったのか」という岡田の苦悩】
さて、第4章で再びあの日(1993年6月18日)に話が戻ります。
第40回総選挙、細川・羽田内閣。あなたはどこで何をしていましたか?私は東京で政治学科の学生で、外では新生党学生塾で政治をかじっていました。一つ一つのシーンが走馬燈のように同期化(synclonize)してきました。
当時の幼稚園児がいまや有権者ですよ!私のような人間でなくても、およそ日本国有権者(主権者)なら、読んでください。これを欧米では「教養」といいます。
さて、抜き書き。101頁。
「あと1年――。あと1年、連立与党が協力して細川政権を維持できれば、自民党は崩壊をまぬがれなかっただろう。自民党をつぶすことで日本の政治を改革するという希有なチャンスをみすみす失ってしまった。そのために、日本の政治改革は十年以上遅れてしまったのだ。」
104頁、村山社会党の連立離脱騒動について。
「自民党の息の根を止めるまで堪えるという選択もあり得たのではないか。」
鉄面皮、笑わん殿下・岡田克也の芯の強さを感じました。
1994年6月24日の深夜、同僚議員と2人で羽田総理官邸に乗り込んだとのエピソード。秘書官室に小沢一郎さんがいて、「羽田さんが言うことを聞いてくれない」。岡田さんら2人は総理執務室に入って、羽田さんと1時間以上議論した。当選2回生と議論した。
この110頁でおそらく初めて明かされる第80代内閣総理大臣・羽田孜と青年代議士・岡田克也の会話。これもまた近現代史の一級資料といえるでしょう。
1994年6月25日付読売新聞の「首相動静」です。
【午前】8時46分、国会内で市場開放問題苦情処理対策本部。9時、閣議。同51分、閣議終了。同52分、加藤六月農相。10時3分、官邸で堀内巳次・長野県農協中央会長、北沢俊美農水政務次官ら。同31分、藤井威内閣内政審議室長。11時、熊谷弘官房長官。同7分、佐藤守良北海道・沖縄開発庁長官。
【午後】1時4分、国会内で政府・与党首脳会議。2時21分、官邸で社会党の上原康助衆院議員ら。3時、「アメリカン・フェスティバル」へのメッセージ収録。同15分、石井一自治相。4時36分、速水優・経済同友会代表幹事ら。5時7分、小沢新生党代表幹事。6時1分、熊谷長官、同48分、中野民社党書記長、同52分、松岡日本新党代表幹事、同58分、市川公明党書記長加わる。9時55分、石原信雄官房副長官。10時25分、柿沢弘治外相。11時20分、新生党の山岡賢次衆院議員。同50分、同党の岡田克也、石破茂両衆院議員。 〈読売からの引用おわり〉
この日の首相動静は、「午後11時50分、新生党の岡田克也、石破茂両衆院議員」で終わっています。
これは、最終版シメキリの午前1時過ぎ分まで、羽田総理、岡田、石破各氏がひとりも首相執務室から廊下に出てこなかったことを意味しています。
現職総理が当選2・3回生と日をまたいで、1時間半以上話し込んだことなど、憲政史上、これが最初で最後でしょう。
しかし、14年経ってみると、このときの岡田さんの進言と羽田さんの決定は間違いでした。やはり総辞職ではなく、解散すべきでした。
「歴史に“if”を問うことはナンセンスではあるが、私はいまも折にふれて、羽田さんに対して申し訳なかったという気持ちになる」(111頁)。
【政界再編に疲れ果てて・・・】
さて、ここから先は私にとっては日経新聞入社後の話が続きます。
私は学生時代、新進党員でしたが、入社の1ヶ月前に党籍を離れましたので、無所属。首相官邸で、小憎らしい自民党政治家を取材していました。まあ、勉強にはなりましたが。
でも、それから今日に至るまでの10年間、岡田克也には苦悩の日々だったようです。
「小沢さんに、初めて公然と異を唱えた瞬間だった。」(134頁)
「いままでやってきたことは、一体何だったのか。
――もう政治家を辞めようか。
気がつくと、そんなことを思う自分がいる。」(135頁)
そして、2008年、民主党副代表としての今。
「あれから十年が過ぎた。民主党になってから私がある種の充実感を感じてきたのは、党の分裂や離散を心配することなく、政権を担う政党をつくるという、本来の目的に向かって前進しているからだ。」
「近い将来、民主党政権が実現することを私は確信している。」(236頁)
「政治家となったあの日からいまに至るまでずっと、私は同じ志を抱きつつ、同じ道をひたすらに歩きつづけている」(238頁)
【岡田克也とぼくたち】
1993年夏、自民党学生部にいた僕たちは、改革派として、新生党学生塾を設立しました。同級生には石川知裕(民主党衆院議員・北海道11区)がいます。1学年上には森山浩行(民主党大阪16区総支部長、前大阪府議)がいます。森山は“僕のカリスマ”です。近くブログでご紹介します。そして新進党東京11総支部の同級生が玄素彰人は現役最年少35歳の和歌山県印南町長。
1993年夏、自民党を飛び出した新生党35人衆のうち、最年少が岡田克也さんでした。35人衆のうち、民主党の現職国会議員は、羽田さん、小沢さん、渡部恒三さん、石井一さん、藤井裕久さん、前田武志さん、そして岡田さんだけになってしまいました。このほか当時参院議員だった北澤俊美さんがいます。
石川、森山、玄素は強い男たちですが、私はもうヘロヘロですよ。1年3ヶ月以内にある第45回総選挙で自民党が勝ったら、本当に海外に移住する考えです。
9月に代表選がありますが、私は民主党政権はまず小沢首相、そして次かその次に岡田首相をのぞんでいます。
ああ、もう午前2時だ。
岡田さんがあの日の志を忘れていないことに感動して、長文のエントリを書いてしまった、2008年夏。15年目の夏。僕の青春、民主党の青春。