田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

コテングコウモリの雪中冬眠

2013-12-21 21:54:04 | 講演・講義・フォーラム等
 手のひらに乗せると隠れてしまいそうなほど小さなコテングコウモリが雪中で冬眠するらしい。そのことを学会で報告した講師の平川氏から話を聴いた。 

 「札幌大学・森林研究所合同公開講座」の後半の講師は、森林研究所北海道支所の平川浩文主任研究員だった。平川氏はさまざまな野生生物の観察研究を続ける中で、コテングコウモリの冬期間の不思議な過ごし方に遭遇したとのことだった。

 コテングコウモリは日本各地で生息しているようだが、体重がわずか4~7gととても小さなコウモリで、明るい茶色の長い体毛をもっているのが特徴だという。
 翼手類(コウモリ)の特徴である、超音波を出して空間把握や餌探索をすること、逆さにぶら下がること、体温を変えられる(異温動物)ことなどの特徴は、コテングコウモリももちろん有しているという。

          
     ※ 残雪期に雪上で発見されたコテングコウモリです。横の赤い色のものは携帯電話のケースだそうです。

 コテングコウモリは通常は樹の枯れ葉の中を棲家にしているそうだ。夏期間などは地上から離れた樹間部に棲む場合もあるが、10月くらいになると枯れ葉の中に移動するらしい。
 そのコテングコウモリが多雪地の残雪期に雪上で眠った状態で発見される例が2005年までに7例報告されたそうだ。それが2007~2010年の4年間に6例の目撃例があったという。
 残雪期に多くの目撃例が報告された(もちろん平川氏も何度も目撃したようだ)ことから、平川氏はコテングコウモリが冬期間雪中において冬眠しているのではとの推測するに至った。
 つまり、雪中で冬眠していたコテングコウモリが融雪期となって雪上に現れたところを発見されたと考えたのである。
 平川氏は雪中冬眠の利点を次のように挙げる。(1) 安定した温度 (2) 高い湿度 (3) 少ない撹乱 (4) エネルギー消費が最小 (5) 安全 等々…。

          
          ※ コテングコウモリを手のひらに乗せたところどす。まだ丸くなって冬眠中(?)です。

 平川氏は数々の報告事例や科学的知見から自信を得て、2010年の哺乳類学会において「コテングコウモリの雪中冬眠説」を発表したという。
 学会として承認はまだされていないようであるが、平川氏の言は自信に満ちているようだった。帰宅してネット上であたってみたところ、平川氏の説はかなり支持されているように感じられた。
 正式な承認には、冬期間に雪中で冬眠している実例を発見し、提示することのようだ。何の痕跡もない中での発見は相当に難しいと思われるが、何かの偶然が重なり発見されることを願いたい。

          
     ※ 手のひらの上で目を覚ましたコテングコウモリです。(と云っても目はつぶったままのようです)

 私のような部外者、凡人にとっては「ふ~ん、素晴らしい発見なんだろうなぁ…」と思うくらいであるが、観察・研究を続ける科学者にとって未知なるものの発見は大きな興奮を伴うものなのだろうと想像される。
 こうした地道な観察・研究によって自然界の謎を解き明かし、科学者たちは私たちに次々と新しい事実を説明してくれていることを改めて認識させられた平川氏の講義だった。

シマフクロウの生態を聴く

2013-12-20 21:34:39 | 大学公開講座
堂々たる体躯(全長約70Cm、翼開帳約180Cm)、そして鋭い眼光、アイヌ民族からは「集落の守り神」として崇められたシマフクロウ。開発による生息地の破壊によって今や希少野生動植物種に指定されたシマフクロウの生態を研究者から聴いた。 

          

 12月19日(木)午後、札幌大学において「札幌大学・森林研究所合同公開講座」が開催され、二人の研究者から「シマフクロウ」と「コテングコウモリ」の生態について話を聴くことができた。そこで2日間にわたって、二人の話をレポートする。

 札幌大学の早矢仕(はやし)有子教授はシマフクロウを知床のフィールドで25年間にわたり観察・研究と保護活動をしているという。その早矢仕教授からシマフクロウの生態を聴いた。
 話を伺い、メモすることができたことを羅列的にレポートする。

 ◆フクロウの仲間では世界最大級であり、長生きの鳥である。(動物園では43年の生存記録があり、野生でも30年くらいは生きる)
 ◆目が大きくて、その目が顔の前面あるのが特徴。夜行性である。
 ◆北海道、ロシア(樺太、大陸南東部)、中国北東部などに生息する。
 ◆北海道では河川や森林の改変により生息数は激減し、現在は道東地方を中心に約140羽の生息を確認するだけの状況。
 ◆大陸でもこの50年間に1/4まで減少し、樺太では絶滅状態である。
 ◆営巣するのは太い広葉樹で、繁殖するには大きな洞(うろ)が必要。

                  
 
 ◆シマフクロウの繁殖スケジュールは、2月に交尾、3月は抱卵、3~4月に産卵(抱卵35日)、4~6月は巣内育雛(50~60日)、その後巣立ちするというのが繁殖スケジュールである。
 ◆観察記録では、59日間の巣内育雛期間中、総給餌回数は470回を数えたという。
 ◆早矢仕教授たちが把握している範囲では、1987~2013年までの間に442羽の雛が巣立っていることが確認されている。
 
             
           
 ◆シマフクロウの保護、個体数の回復のために、行政とも連携しさまざまな活動に取り組んでいる。
 ◆給餌池を12カ所設けたり、FRP製の巣箱を延べ283個取付けたりしている。
 ◆北海道の森林が天然林から人工林に変わったが、この人工林に広葉樹を意図的に植樹して針広混交林を広げていくことがシマフクロウの保護に繋がることを理解してほしい。

               
               ※ 講義をされた札幌大学の早矢仕有子教授です。

 早矢仕教授のお話はスライドを交えながら概略以上のような内容だった。

 開発行為により野生生物の生育環境が悪化していることはさまざまな方面から聞かれる言葉である。
 人間(ひと)として開発行為を無下に否定することはできないのかもしれない。
 ただ、野生生物にとって生育環境が悪化するということは、生物である人間(ひと)にとっても環境が悪化することに繋がることだという視点は忘れてはならないように思う。

人は今、なぜ「聖地」へ向かうのか

2013-12-19 23:08:40 | 講演・講義・フォーラム等
 講師は云う。現代になって、人が「聖地」へ向かう理由(わけ)に変容が見えてきたと…。人はそこに聖性よりも、他者との交流を求めているというのだが…。 

 8回に渡って続いた北大の公開講座「現代の『聖地巡礼』考」もいよいよ最終回を迎えた。その最終回が12月16日(月)夜、 「人は今、なぜ『聖地』へ向かうのか ~聖地巡礼から聖地ツーリズムへ~」と題して、北大大学院メディア・コミュニケーション研究院の山田義裕教授によって行われた。

 山田教授はこれまでの7回の講義を概観したうえで、最近になって顕著に見られるある聖地巡礼ツーリズムの現象を取り上げられた。
 それはスペイン北西部にあるサンティアゴ・デ・コンポステラの大聖堂への巡礼である。ここの大聖堂には聖ヤコブの遺骸が祭られているということでローマ、エルサレムと並ぶカトリック教徒の三大巡礼地になっているということだ。

          
          ※ 巡礼者が目ざすサンティアゴ・デ・コンポステラの大聖堂です。

 歴史を辿ると、サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼は11~14世紀にかけては大変盛んであったらしい。(最盛期は年間50万人もの巡礼者があった)それが15世以降はさまざまな理由から巡礼者が激減してしまい、1980年代には年間2500人にも届かぬほどだったという。
 それが1993年に世界遺産に登録されたことなども手伝い、目に見えて巡礼者が増えだしたそうだ。山田教授は2010年に巡礼者のことを描いた映画「星の旅人たち」の影響も大きいという。巡礼者数の推移をみると、2010年は聖ヤコブ年とも重なったこともあり25万人を超える巡礼者で溢れたという。

 サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の特徴は非常に長い距離を歩き続けることにある。サンティアゴ・デ・コンポステラへ至る道はさまざまなルートがあるが、「フランスの道」というルートが主要なルートで約800Kmの行程を30~40日かけて歩くそうである。
 自転車や馬によるものもあるようだが、80%を超える巡礼者が歩いてサンティアゴ・デ・コンポステラを目ざすそうだ。

            
            ※ スペイン国内に引かれた赤い線が「フランスの道」です。

 何十日も歩くとなると、当然ルート上には宿が必要となる。ルート上には巡礼者のための格安の宿アルベルゲが提供され、その宿にはオスビタレロという巡礼経験者が巡礼者をお世話するボランティアが存在するという。
 宿では巡礼者同士、あるいはオスビタレロと巡礼者の交流が頻繁に行われるようだ。そして今、巡礼者はそのこと自体(他者との交流)により大きな意義を見出していると山田教授は云う。

 そして山田教授がサンティアゴ巡礼者にとっての『聖性』について、巡礼者は神聖を感ずるのはサンティアゴではなくて、そこへの道程を通じて「聖化された自己」を見出そうとしていると指摘します。つまり現代人は「神から自己」へ向かっていると…。
 さらに長距離を歩くという危険で過酷な体験そのものに巡礼の意味を見出し、自分の「身体的・精神的苦痛は他の巡礼者にも共有されている」はず、という「他者とつながり」を巡礼者は感じているという。そこには「神から自己」、そして「自己から関係へ」と昇華し、「他者との出会いの場としてのサンティアゴ巡礼路」となっていると山田教授は結論付けた。

        
        ※ 巡礼路「フランスの道」を巡礼者が歩いています。

 山田教授の「聖地」についての解説はなお続いたが、本論との関係性はそれほど深くないと判断し、省略する。
 今回のサンティアゴ巡礼についてのお話を伺い、あるいは私と同じ思いを抱いた方もいるかと思われるが、日本における四国八十八カ所を巡るお遍路さんのことが思い浮かんだ。
 果たしてお遍路さんにもサンティアゴ巡礼者と同じような傾向が見られるのだろうか? そのことには残念ながら一切触れられることがなかった。本講座は質問コーナーもなく、そのことを質す機会もなかったのは残念である。

 10月21日から始まった本講座は8回にわたって8人の先生方がさまざまな角度から現代の「聖地巡礼」について語ってくれた。話が私にとっては難解を極めることもあったが、知的好奇心をおおいにくすぐられた講座だった

映画 111 南極物語

2013-12-18 22:33:38 | 映画観賞・感想

 極寒の地南極でタロ、ジロの二頭の犬が一年間生き抜いていた! ニュースが伝えられた1959(昭和34)年1月には日本中が感動の渦に包まれたものだが(そのニュースは私も記憶している…)、映画はその実話をもとに創られたものである。 

               

 12月17日(火)午後、札幌コンベンションセンターで「ウォームシェア・ウィンターフェスティバル2013」のイベントの一つとして映画会が催された。そこで取り上げられたのが1983(昭和58)年に制作され大ヒットとなった「南極物語」だった。

 私と同様、年配の方にはご記憶されている方が多いと思われるが、1956(昭和31)年に日本は初めて南極観測隊を派遣し、同時に南極で1年間継続観測する越冬隊が組織された。そのときの観測の移動手段として連れられて行ったのが寒さに強い樺太犬19頭だった。
 観測におおいに役立った樺太犬だったが、越冬隊が日本に帰還する際に観測船宗谷が南極の氷に閉じ込められそうになるトラブルに見舞われ、止む無く15頭の樺太犬たちを置き去りにしなければならなかった。樺太犬たちが鎖に繋がれていたこともあり、生存は絶望視されていた。
 しかし、一年後に再び観測隊が南極を訪れたとき奇跡的にも2頭の犬(タロ、ジロ)が生き残っていて、そのニュースが日本に伝わり、日本中が感動の渦に包まれたのだった。

 当時のことについて私もおぼろげながらに記憶しているが、敗戦の痛手から立ち直りかけていた日本にとって、南極観測は世界に伍していこうとする日本の代表のように思われ、その一挙手一投足が報道され、国民の関心もとても高いものだった。
  そうした中での事故であり、生存のニュースだったから、それがどれだけのニュースバリューを持ったものであったか、当時を知らない人にも想像していただけるのではと思う。

 映画はその史実を27年後に映画化したことになる。その映画も当時の動員記録を更新するほどの大ヒットだったという。27年前の感動がその要因の一つと思われる。
 私も当時見ていたと記憶していたのだが、どうやら映画の記憶は飛んでしまっていたようだ。私の記憶にあった「南極物語」とは違い、南極に残された15頭の樺太犬たちが主人公の映画だった。
 映画はフィクションなのだが、犬たちの性格、行動、食性などあらゆる見地から科学的に推察することによって信憑性の高いストーリーとして結実している。
 映画には第一次越冬隊の犬係として高倉健、渡瀬恒彦が存在感のある演技をしているが、それとて映画の一部分での出演であり、主役はあくまで15頭の犬たちだった。また、映画では健在だった夏目雅子、少女役だった荻野目慶子が出演しているのが懐かしい。

          

 南極という大自然をバックに(実際は北極での撮影が多かったらしい)動物が主役の映画制作は相当の困難が伴ったと想像されるが、まったく不自然さを感じさせない見事な仕上がりとなった映画だった。

 それにしても観覧者が少ないのか気になった。せいぜい30名程度だったのではないだろうか? 「ウォームシェアで寒い冬を乗り切ろう!」という趣旨で開催されているのだが、あまりに参加者が少ないと継続が心配される。私は20日に開催される桂枝光師匠の落語独演会も楽しみにしている。多くの人が参加して、来年以降の開催に繋げてほしいと思っているのだが…。


フルートの優しい音色に魅せられて

2013-12-17 22:08:23 | ステージ & エンターテイメント
 これぞレクチャーコンサート! 適度な解説を交えた講座 & コンサートは優しいフルートの音色と共に曲の特徴を良く理解することができ、心地良いひと時を過ごすことができた。 

 12月16日(月)午後、北海道生涯学習協会が主催する「ほっかいどう学」かでる講座の11月講座が開催され参加した。
 今回のテーマは「無伴奏曲からみるフルートの歴史について」と題して、札幌市内で大学や講座の講師を務める傍ら、演奏活動も展開している安保奈苗(あんぼ ななえ)氏が務められた。

               
               ※ フルート曲を演奏する安保奈苗氏です。

 安保氏はまず、フルート演奏の場合はピアノ伴奏を伴った曲が多く、フルートだけの楽曲は比較的少ないということを話された。その少ない中から選んだ曲を紹介してくれた。
 また安保氏の次の言葉が新鮮だった。「クラシックといっても案外歴史は浅く、初期の作曲家のバッハやヘンデルが活躍した1700年代は日本では江戸中期にあたる。その前にも活躍していた音楽家がいたかもしれないが、印刷技術が発達していなかったため楽譜が遺されていない」そうだ。音楽の発展と印刷技術の発展がリンクしていたとは面白い話である。

 安保氏は「日本の出来事」、「日本の文化」、「日本のフルート・音楽界」、「世界の出来事」、「世界の文化」、「世界のフルート・音楽界」の六つの項目を時系列的に並べて提示してくれたために、時代と音楽(フルート)の変遷が良く理解できた。

 時代背景や曲の特徴を解説しながら安保氏は次の9曲を演奏した。
 (1) テレマンの「12のファンタジー」
 (2) C.P.Eバッハの「無伴奏フルートソナタ」    ※以上2曲は古典派の曲
 (3) ベームの「24のカプリス(奇想練習曲)」
 (4) アンデルセンの「24のエチュード(練習曲)   ※以上2曲はロマン派の曲
 (5) ドビッシーの「シランクス」
 (6) オネゲルの「雄山羊の踊り」
 (7) フェルーの「3つの小品」          ※以上3曲は印象派の曲
 (8) ジョリヴェの「5つの呪文」
 (9) 武満徹の「巡り~イサム・ノグチの追憶に~」  ※以上2曲は現代の作品

          
          ※ 曲などの解説をしている安保氏です。

 私が興味深かったのは、(6)の「雄山羊の踊り」である。演奏前に安保氏が「この曲は暗闇から夜が明けて、羊が目を覚まし活動を始めて、ちょっと休憩し…」と曲が辿る経過を解説した後で演奏したのだが、本当にその情景が浮かんでくるような演奏だった。
 また(4)の「24のエチュード」はフルート奏者が必ず練習しなければならない練習曲のようで、彼女も修業時代に泣かされた曲ということだったが、息もつかせぬほどに速い指の運びを求められる曲で、その超絶技巧が見事で、演奏が終わった時には会場全体に「ホーッ」というため息が出たほどだった。
 最後に披露してくれた10曲目の曲は題名をメモするのを忘れてしまい、紹介することができない。

 私のブログで1 2月12日付けで札幌大学の高橋教授のレクチャーコンサートのことについてレポートした。そのときは演奏する曲を詰め込み過ぎたのではと記したが、今回は演奏する曲の数も適度で、解説も壺を心得たかのような説明だったように思われた。
 説明の途中でフルート曲では有名なビゼーの「アルルの女」のさわりを演奏してくれたことも嬉しかった。
 私は来春にももう一度レクチャーコンサートを聴く機会がある。今度はどのようなレクチャーコンサートになるのだろうか? 楽しみである。

間宮林蔵の樺太探検余話

2013-12-16 21:39:46 | 講演・講義・フォーラム等
 樺太とユーラシア大陸の間に横たわる「間宮海峡」を発見したことで知られる間宮林蔵の樺太探検のことについて話をうかがった。それにしてもなぜ「余話」なのか? 話を聴いていてなんとなく納得するものがあった。 

                 
                 ※ 間宮林蔵の肖像画(のようである)

 12月12日(木)午後、私の住居の近くにある中央区の社会福祉総合センターで「高齢者市民講座」が開講することを知った。高齢者の資格十分の私であるが、これまで「高齢者」と名の付くイベント等はできるだけ避けてきた。誰にでも多少はそうしたところがあると思うのだが、どこかに自分はまだ高齢者じゃない、という心理が働いているようだ。
 ところが今回の講座は「間宮林蔵の樺太探検余話」という興味をそそられるタイトル名だったこともあり思い切って参加してみることにした。
 会場に行ってみると、高齢者がわんさかといるではないか! それもみなさん元気いっぱいの様子である。 広い会場は若々しい高齢者で一杯になった。その数200人は下らなかったのではないか?

 講師は札幌市社会教育協会の会員であり、北海道開拓の村のボランティアを務めている渡辺博之氏という70歳のお年寄りだった。渡辺氏はご自身が樺太生まれのうえ、歴史好きということもあって樺太探検に情熱を傾けた間宮林蔵に興味を抱いたようだ。

 渡辺氏が用意した資料は、間宮の樺太探検の様子や、大陸へ渡った経緯などを時系列的にまとめたり、間宮が樺太が島であり樺太と大陸の間が繋がっていないことを確認したりしたことをコンパクトにまとめていた。
 渡辺氏は話の初めは資料に沿って海峡発見の経緯ついて多少触れたが、その後は資料にはない「間宮林蔵記念館」(茨城県つくばみらい市)を訪れたときの様子とか、宗谷岬に発つ「間宮林蔵渡樺出航の地」碑の話など、いわゆる間宮林蔵に関わるよもやま話的なことに終始した感じだった。これぞ「余話」と表現した理由だったようだ。「資料は帰ってから読みたまえ!」と渡辺氏から言われているような気がして、帰宅してからじっくりと読ませてもらった。

               
               ※ 間宮(タタール)海峡の位置図です。

 それによると、「間宮海峡」と名が付いたのは、間宮が樺太から帰り樺太と大陸が地続きになっていないことを幕府に報告したものがシーボルトの耳に入り、シーボルトが著した著書「日本」の中で「間宮海峡(まみやのせと)」と表記したことにより世界に知られることになったらしい。なお、現在「間宮海峡」と表記するのは日本だけのようで、国際的には「タタール海峡」と呼ぶのが一般的らしい。

 「高齢者じゃない」などと自分を偽ることもないだろう。(「立派に高齢者じゃ」という声がどこかから聞こえてくる)これからも興味のあるテーマが行われるときは積極的に参加してみようと思った「高齢者市民講座」初体験だった。

今年も年末は第九で

2013-12-15 21:34:30 | ステージ & エンターテイメント
 すっかり恒例となった感のある年末の「札響の第九」を今年も昨日キタラで楽しんできた。4年目となる今年、私はこれまでと少し違う形で「札響の第九」に耳を傾けた。 

               

 今年の「札響の第九」は12月16日(土)と17日(日)の両日にわたって演奏され、私はいつもの友人と一緒に、昨日16日の分のチケットを手配した。今年は格安のステージ後方の席に陣取って開演を待った。私の席は会場全体を見渡せる席なのだが、客席の入りは7~8割程度といったところだろうか?

 今回はきわめて素人っぽい感想を書き綴ろうと思う。(あっ! 今回は、ではなくいつものことなのだが…)
 オーケストラといったらやはりその華はヴァイオリンである。私は今回、そのヴァイオリンに注目してベートーベンの交響曲第9番を聴いてみることにした。
 ベートーベンの第九はそのヴァイオリンの囁くような繊細な音色から始まった。この囁くような音色が私は大好きである。この音色を耳にすると背筋がゾクゾクっとするような感覚をいつも覚える。

 そのヴァイオリンの人数を数えてみた。いただいたパンフでは22名となっていたが、私が数えたところでは確か24名いたように思った。その男女比が興味深かった。男性が8名に対して、女性は16名と女性が倍の数である。ヴァイオリン以外は全て男性の方が多数を占めているのだが、ヴァイオリンは器が小さいことや、音が繊細なことで女性向きの楽器ということなのだろうか?あるいはこの構成は札響の特徴なのだろうか?

 さて、ヴァイオリンに注目して聴いた第九だが、四つの楽章それぞれに大きな特徴のあることに気づいた。私の印象では四つの楽章がまるで文章でいうところの起・承・転・結そのものという印象だったことだ。そしてそれはまた山登りにも似ているようにも聞こえてきた。

 第1楽章はまったく緩やかなところから登山が始まり、徐々に斜度を増していく感じだか、全体としてはまだまだ山麓の緩やかなところを登っている感じだった。

 第2楽章に入ると、山の様相は一変し、かなり斜度のきついところも現れ、本格的な登山が始まり激しい登りが続くという印象だった。

 第3楽章はきつい登りも一段落して馬の背にでも出たのだろうか、斜度は緩くなり平坦なところを歩きながら来たるべき最後の難所に備えているといった感じに聴こえてきた。

 そして第4楽章である。ここには最大の難関が待っていて、オーケストラだけでなく、合唱団の後押しも受け全力で岩壁に立ち向かい山頂を目ざす様子に思えた。楽器も合唱も最大限の力(音)を出して登り続け、頂上が今か今かと思っていたところ突然頂上が現れたといった印象だった。そして演奏も終了の時を迎えた。

 といった感じで「札響の第九」を聴いたのだが、クラシックに詳しい人に言わせたら噴飯物の印象記かもしれない。しかし、音楽をどう聴くかということは人それぞれでいいのだと思う。音楽を聴いてその音に酔い、心が充たされればどのような聴き方も許されるはずである。
 「札響の第九」に酔った私たち三人は、これも恒例の忘年会へと移行して、酒にも酔った夜だった。

北海道は映画ロケ地の宝庫!?

2013-12-14 13:13:13 | 大学公開講座
北海道は映画ロケ地の宝庫だと講師はいう。しかし、それは日本の辺境にあるが故の蔑視的な視点で映画人が北海道を見ているからだと…。その言に素直には賛成しかねるのだが…。 

 道民カレッジの単位修得にこのところ熱が入ってきた。
 今秋、10月から11月にかけて「道民カレッジ ほっかいどう学大学放送講座」がHBCテレビを通じて放映された。
 カレッジ生はその番組を視聴してA4版一枚程度のレポートを提出すると1単位取得できる仕組みになっている。私はこのほど放映された7本の番組のレポートを提出して7単位を取得することができた。
 本日はそのレポートの一つを投稿することにする。
 視聴した番組は、北海道学園大学の大石和久教授が講義した「スクリーンの中の北海道~映画が描いた北の大地~」という講座だった。それでは私のレポートを…。

               
       ※ 小樽を舞台にした「Love Letter」は韓国で大ブームとなり、多くの韓国人が小樽を訪れた。

《‘13道民カレッジほっかいどう学大学放送講座レポート№3》 
     第3回 スクリーンの中の北海道 ~映画が描いた北の大地
                                              受講生 №00000 ○○○○

 今回の講座はことのほか興味を持ちながら拝聴することができた。というのも、映画観賞は私の趣味の一つであり、講座で紹介された映画の大部分を既に観ていたことにもよる。
 北海道が多くの映画のロケ地として取り上げられる理由として、他の地域には見られない《隠喩性》が見られるという。講義を聴いていると確かに大石教授の分析には納得できるものがある。
 そしてそうなる要因を大石氏は三つ挙げられた。それは①地理的・風土的特殊性、②歴史的特殊性、③欧米への憧憬、を挙げられた。この分析にも納得することができた。
 ところが、その根本には北海道が中央から離れた周縁の地にあり、いわば辺境の地として蔑視的な視点で映画人は北海道ロケを多用するという解説には少なからずショックを受けたのは私一人ではあるまい。
 しかし、そのことを嘆いてみても何も始まらない。それはある意味北海道の宿命でもあると考えるからだ。嘆くよりは、その特徴を逆手にとって今後さらに北海道が有する他にない特殊性をおおいにアピールすることではないだろうか。
 大石氏は北海道の特殊性を描くのではなく、日常的でリアルな北海道を描くべきではないかと主張された。私はそれはそれで結構だが、これまでどおり特殊性=優位点と考えて北海道をおおいに売り込んでもらいたいと思う。
 小樽を舞台にした「Love Letter」が韓国で大ヒットして韓国人の北海道詣でが現出したように、道東を舞台にした中国映画「狙った恋の落とし方」によって中国人の間に北海道ブームが起こったように、北海道というコンテンツは映画の舞台としてのポテンシャルは相当に高いと信じている。
 北海道がその特殊性ゆえこれからも映画ロケ地として多用され、多くの人にとって憧れの地となり、おおい北海道を訪れてほしいと思うのである。

              
     ※ 道東を舞台にした中国映画「狙った恋の落とし方」は中国人の間に北海道ブームを巻き起こした映画だった。

芭蕉と始皇帝にとっての『聖地巡礼』

2013-12-13 21:14:07 | 講演・講義・フォーラム等
 松尾芭蕉にとっての「奥の細道」、秦の始皇帝にとっての「泰山」、それはそれぞれにとっては紛れのない『聖地』であったのだが…。 

 12月9日(月)夜、北大の公開講座「現代の『聖地巡礼』考 ~人はなぜ聖地を目指すのか~ 」の第7講が開催された。長かった講座もいよいよ残り1回となった。
 第7講は「古代中国の聖地巡礼 VS 近世日本の聖地巡礼」と題してメディア・コミュニケーション研究院の清水賢一郎准教授が講師を務めた。

 今回の講座は講義題が表すように、時代は異なるが日本と中国の「聖地」に対する考え方を対比するように解説された講座だった。

              

 中国においては紀元前221年に初めて中国統一を成し遂げた始皇帝が「泰山」において「封禅の儀(帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀) 」を行ったところとして知られ、その後の皇帝もそれに倣い「泰山」は中国にとって特別な山となっていったようである。
 さらに始皇帝は「泰山」を聖地化するためだろうか、泰山を中心として幾何学模様を描くように各地の山を登ったことを日本の研究者(上野美代子氏)は喝破したと清水氏は紹介された。
 こうして聖地化された「泰山」は現代の中国人にとっても一生に一度は訪れたい「聖地」となっているという。

                 

 対して「奥の細道」である。松尾芭蕉は自らの老境を迎え(46歳だが当時では十分老境だろう)漂白の思いが強く、さらには敬愛する西行や能因らが詠う東北地方への憧れが彼を旅立たせたという。ちなみに、そのときの芭蕉の旅姿は西行を真似たものといわれている。
 芭蕉にとっては西行や能因が詠った地(座)が聖地であり、そこを巡っていく旅だったという。その座は芭蕉にとっての「聖地」ではあるが、一般にとってはあまり関心をもたれた地とはいえなかったのではないだろうか。つまりそれはあくまで個としての「聖地」と云えないか?
 したがって「奥の細道」は現代において俳句を詠む人たちにとっては「聖地」かもしれないが、一般にはそれほど関心を持たれている地とはなっているとは言い難い。

 日本と中国の「聖地」に対する対比ということでもう一点興味深かったのが「自然」に対する考え方の相違である。
 日本においては「自然」は人の手を入れずあるがままの姿こそ尊いものとする考え方が主流であるが、中国においては「文化が自然を聖化する」という考え方があり、自然に積極的に手を入れることを良しとする考え方が主流のようである。
 例えば中国にとって最も早く世界遺産の一つとなった「泰山」であるが、登山道のいたるところの岩肌を削って碑文が刻まれていたり、宗教的な建造物が乱立していたりと、同じ「聖地」といえども様相が違っているようだ。
 このことについて清水准教授は《自然の聖性》VS《文化の聖化》と表現した。

 そういえばテレビのドキュメンタリーなどで深山の岩肌に赤色のペンキで描かれた碑文を何度か目にし違和感を覚えたものだが、中国人にとってはそうすることが聖性を高めることだという感性は日本人には持ち合わせないものである。
 う~ん。今回のレポートはかなり苦労した産物である。


レクチャーコンサートっていいなぁ!

2013-12-12 20:25:52 | ステージ & エンターテイメント
 演奏の前後に、曲の解説をうかがいながら演奏を聴けるのはとても興趣をそそられる。特にクラシックに疎い私などには嬉しいコンサートである。そんなレクチャーコンサートを初体験した。 

 12月8日(日)夜、札幌大学が主催する公開講座「時計台フォーラム」が札幌時計台で開催された参加した。フォーラムは「ロシアのピアノ音楽の歴史」と題して同大学の高橋健一郎教授が演奏曲を解説しながらピアノ演奏を披露してくれた。

 高橋教授は教育、研究活動と並行してピアノの演奏活動も同時にこなしている方のようである。教授の履歴を見ると、普通の演奏家とは違って道を歩んでこられたことが分かる。大学は東京大学教養学部で学び、大学院修了後ロシア国立人文大学に留学してロシアの言語と音楽を専攻したという。つまり言語、音楽両方に卓越した方のようである。

          
          ※ プロジェクターも使いながらレクチャーする高橋氏です。

 レクチャーコンサート…、つまり講義を伴いながらのコンサートである。
 高橋氏によると、ロシアのピアノ音楽は18世紀後半から盛んになったそうだが、今やロシアのピアノ音楽は世界でも最も豊かな地位を築いているのではないかと話された。
 そのロシアのピアノ音楽の歴史を約90分にわたって解説を交えた演奏を披露してくれた。

          
          ※ 曲のレクチャーを終え、ピアノ演奏をする高橋氏です。

 レクチャーを受けながらのコンサートは興味深かったのだが、紹介された作曲家が38人、演奏されたピアノ作品は18曲と、90分のフォーラムにしてはやや詰め込みすぎかな?と思われたのが残念だった。そのため一つ一つの曲についての解説をもう少し聴きたかったなぁ、というのが偽らざる感想である。
 それでも現在のロシアの前身、ソ連のスターリンが実権を握っていた当時、自由な発想で作曲活動ができなかった苦難の音楽家たちがいたことを知ることができたのは収穫だった。また、ロシアのピアノ音楽の初期から19世紀前半にかけては上流階級の子弟が音楽界を席巻していたようで、法律家や官僚、科学者などと兼務で音楽活動をしていた人が目立っていることも興味深い。

 演奏家としてもかなりの実力の持ち主である高橋氏の演奏は私にはどれも素晴らしく聴こえてきた。ただピアノという単一楽器による演奏のためか、一つ一つの曲の違いを明確に聴き分けることができなかったのは素人ゆえの悲しさである。
 ではあるが、美しいピアノの調べに酔うことができた豊かな夜だった。