田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

冬期五輪の裏話をたくさん聞いた!

2013-12-11 10:43:19 | 講演・講義・フォーラム等
 マリリンの誕生秘話を、荒川静香のトリノオリンピックの優勝の瞬間を、そして今季オリンピックの派遣基準の内情を、などなど興味深い話をたくさん伺うことができたNHKウィンタースポーツトークだった。 

 12月7日(土)午後、NHK札幌放送局で行われた「北海道ウィンタースポーツトーク」に応募したところ運良く当選したので参加し、話を聴いた。
 トークはゲストとして現役のカーリングプレイヤーである本橋麻里選手と女子スキージャンプのナショナルコーチを務める山田いずみさんが招かれ、NHKのスポーツアナとして著名な刈屋富士夫さんが司会を務める形で進行された。

          
          ※ ゲストを務めた本橋麻里選手です。

 トークは刈屋アナの独壇場といっても過言でないほど、刈屋アナの話の内容、話術に惹きこまれた。
 本橋選手、山田コーチは刈屋アナからの質問に誠実に答えているのだが、いつかどこかのインタビューで答えていることとそれほど違っているとは思えず、聴いている私の方としてはそれほどの興味を覚えなかった。
 対して刈屋アナの方はNHKのアナらしくないくらい思い切った内幕的なことをぽんぽんと話をしてくれ大変に興味深かった。
 刈屋アナはアテネオリンピックの体操の中継で当時日本のエース富田選手が鉄棒の演技で着地する瞬間に、「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ!」という名言を産んだアナウンサーとして有名である。ちなみに「栄光の架け橋」という言葉は、アテネオリンピックのNHKのテーマソングとしてゆずが歌い大ヒットした曲の題名である。

          
          ※ 同じくゲストを務めた山田いずみコーチです。

 その刈屋アナはトリノオリンピックで女子フィギアの中継を担当した。トリノ五輪は荒川静香が女子フィギアで唯一の金メダルを獲得したことで記憶に残っている。この時も刈屋アナは名言を産み出していた。その名言を産んだ背景を語ってくれた。
 当時の世界のフィギアのランクでは、どう贔屓目に見ても荒川選手はロシアのスルツカヤ、アメリカのコーエンに続いて3番手として見られていたという。それがオリンピックの本番でスルツカヤ、コーエンともに信じられないミスをしたのに対して、荒川選手は自身最高の演技を披露して見事優勝をさらってしまったとき、刈屋アナは「トリノのオリンピックの女神は荒川静香にキスをした」と放送したそうだ。その言葉は大向う受けを狙った言葉ではなく、刈屋アナが長年フィギア競技を見続け、取材を続けてきたからこそ出てきた言葉だったようだ。

          
          ※ 司会を務めた刈屋富士夫アナウンサーです。

 また、同じトリノオリンピックでは女子のカーリング人気が盛り上がった大会だったが、この中継の中で刈屋アナは本橋麻里選手のことを「マリリン!」「マリリンショット!」という言葉を連発し、本橋人気を創出した一人として知られている。このことについても、内実は周到に準備した上で(本人やチームの了解を取り、関係者の同意を得たうえで)使った言葉だとの説明だった。

 さらに興味深かったのは、今回のソチオリンピックのフィギアの代表選手選出基準について触れた点だった。私には説明された選出基準が複雑すぎて理解できないほどだったが、
 刈屋アナによるとそれは浅田、高橋、羽生の三選手が間違っても落選しないような基準だと刈屋アナは見ているということだ。はたしてそのとおりになるのであろうか?興味深い。

 その他にもいろいろと興味深い話を伺ったが、さすがNHKのベテランアナ刈屋氏は落ち着きがある上に、話の内容がユーモアとウィットに富み、聴いている我々を魅了した。
 現在は解説委員を兼務しているらしいが、はたしてソチオリンピックでの出番はあるのだろうか?その点には触れていなかったのが気懸かりだが、ぜひともソチでも名言を残してほしいと期待するのだが…。


川は我々に何をもたらしたか?

2013-12-10 20:58:51 | 講演・講義・フォーラム等
人と川の関わりは密接である。川は時には我々に富をもたらし、時には我々は悲惨な害に遭わされてきた。我々にとって身近な川について改めて考え直す機会となった講座だった。 

 12月6日(金)夜、紀伊國屋インナーガーデンで「第12回石狩川フォーラム」が開催された。今回のテーマは「人と川の関わりの歴史と未来 ~石狩川のこれまでとこれから~」題して北大工学研究院河川流域工学研究室の泉典洋教授が務めた。
 泉氏は北海道以外の地における研究歴が長いこともあって、石狩川というよりは「人と変わり関わり」という部分に重点を置かれて話された。

               

 講座はまず文明の始まりと川の関係に触れた。
 高校(? 中学だった?)の地理に復習とまいりましょう。◇メソポタミア文明-チグリス川・ユーフラテス川 ◇エジプト文明-ナイル川 ◇インダス文明-インダス川 ◇黄河文明-黄河 と学びましたが、その歴史を辿ると、その初期は川の氾濫による肥沃な土の流入を利用する「氾濫農耕」だったものが、灌漑技術の発達により「灌漑農耕」に替わり生産性の向上が図られた。やがて余剰農産物を売買するようになり都市への定住が進み、そして都市への人口集中という現象を産み出したという。つまり「川を治める者は国を治める」ということだったという。う~ん、地理の復習ですなぁ。
 
 さて、それは日本についても言えることで、日本においては当初は行基とか空海という僧侶によって川の治水が図られたが、やがて治水技術の発達したことが各地に戦国武将を産み出すことに繋がっていった。つまり、治水技術が発達し、それが農業生産力を増大させ、国力の増大に繋がったということである。甲府盆地の武田信玄、新潟平野の上杉謙信、大阪平野の豊臣秀吉、熊本平野の加藤清正、仙台平野の伊達正宗といった具合である。

 治水が国の農地を守り、国を富ませるという、ある意味政治の重要課題であったのは徳川の世の中になっても変わりはなかった。
 徳川家康は江戸を度重なる洪水から守るため、そして新田開発を進めるため、利根川をそれまで現在の東京湾に注いでいたのを、太平洋に注ぐようにする大治水工事を命じたのである。この大工事は実に60年の歳月をかけて完成したという。
 このことなどは関東に住む者にとっては常識なのかもしれないが、私のように北海道を離れたことのない者にとっては関心外ということもあり初耳(勉強不足?)のことで興味深いことだった。

          
          ※ 紀伊国屋インナーガーデンで講義をする泉教授です。

 泉氏は最後に少しだけ石狩川のことについても触れた。
 石狩川も過去に何度かの洪水被害を出したが、明治になってからショートカット工法(捷水路)により氾濫が収まり、多くの水田を産み出し現在の豊かな稲作地帯となった。というのはこれまでの講義でも何度か伺ったところである。
 近年、石狩川だけのことではないのだろうが(豊平川でも同様のことを聞いた記憶がある)、上流からの土砂の流入が減って河床低下が問題になっているそうだ。川の流れによって河床が削られるが、そこに土砂が補填されない状況が続いているという。そのため橋の橋脚の土台部分が剥き出しになってしまっているところがあるそうだ。
 その原因と考えられるのが上流の森林が整備されることによって土砂の出る量が抑えられたことによるらしい。
 森林が整備されることは好ましいことと思われるのだが、河川管理の立場からするとそのことによる影響の対策が求められているということなのかもしれない。

 この他にもいろいろと興味深い話を伺うことができた。今回は内容が概論的だったこともあり私のような素人としては楽しめた講座だった。

くまモン 札幌に登場!

2013-12-09 16:05:01 | ステージ & エンターテイメント
 ご当地ゆるキャラの代表格 熊本県のアイドル「くまモン」が札幌に登場した!噂通りの軽快な動きでステージ狭しと動き回り、鮮やかなダンスを披露するなど、子どもたちを一気に虜にしたようだった。 

               
               ※ こちらはぬいぐるみのくまモンではなく、イメージ画像ですね。

 突然招待券が舞い込んで12月5日(木)夜、教育文化会館で行われた「~阿蘇からの風~ クリスマスファミリーコンサート」を妻と二人で楽しんできた。
 突然と書いたが、淡い記憶を辿ると、「MADURA」というウェブマガジンのプレゼントコーナーで「くまモンが来る」というので応募したような記憶があった。それに当選して招待券が舞い込んだようだ。

 コンサートは、その昔(1971年)NHKのみんなの歌で「小さな木の実」という歌がヒットしたが、その歌を歌っていた大庭照子さんと、そのお弟子さんというそがみまこさんという二人の童謡歌手のコンサートだった。
 大庭さんはご自身の年齢が75歳であることを盛んにアピールしていたが、アピールするだけのことはある。とても75歳には見えない若々しい表情と歌声は今も現役でステージに立っていることがその秘訣なのか?
 そがさんはまだ若い(年齢不詳 20代後半?)だけに声量も、表情も豊かでいかにも童謡歌手といった感じだった。

          
          ※ ステージ上の二人です。写真右が大庭照子さん、左がそがみまこさん。

 ステージで気になったのがカラオケをバックにしたコンサートだったことだ。例えカラオケを使うにしても、せめてメロディーラインとパーカッションくらいはバックバンドとして用意できなかったのだろうか? なんだかカラオケ店で歌の上手な人の歌を聞いている気分になってしまった。

 コンサートの中盤になっていよいよ真打「くまモン」が登場した。くまモンと一緒に登場したのが、言葉を発しないくまモンの気持ちを代弁する役みまこお姉さんである。
 そがさんとみまこお姉さんがやり取りする間にくまモンが立っているのだが、舞台はくまモンの独壇場、二人はまったく霞んだ存在になってしまった。(と思えるくらいだった)
 もうすっかりメディアを通して全国的人気を誇るくまモンだが、あの愛らしいような、見方によってちょっと不気味なような(失礼!)表情がなんともいえず、子どもたちからも大人気だった。

               
               ※ こちらが中に人間が入ったぬいぐるみのくまモンですね。

 
 また噂通りあの不格好な体型にもかかわらずダンスが上手で、ステージ狭しと警戒に踊る姿に子どたちもすっかり乗せられて、通路に飛び出して一緒に踊りだしていた。クマもんの威力たるや恐るべし、といった感であった。

 一説によるとくまモンが熊本県にもたらす経済効果は1,000億円以上とか…。こんな声を聞くと、他の自治体も二匹目のドジョウを狙いたくなるのは当然の心理だろう。各地に続々とご当地ゆるキャラが誕生しているようである。
 そこへいくと、北海道、あるいは札幌市のゆるキャラが誕生したというニュースは聞こえてこない。
 関係者は「そんなこと…」と冷ややか見ているのだろうか? それとも密かに戦略を練り、満を持してのデビューを狙っているのだろうか??


日本の『聖地』お伊勢さん参り

2013-12-08 16:37:11 | 講演・講義・フォーラム等
 日本の聖地巡礼の元祖ともいえる伊勢神宮の参詣について調べていくと「御師」(おしまたはおんし)と「講」(こう)にぶつかると講師は言う。「御師」と「講」を通して日本の聖地巡礼について学んだ。 

 12月2日(月)夜、北大の公開講座「現代の『聖地巡礼』考 ~人はなぜ聖地を目指すのか~ 」の第6講が開催された。
 第6講は「御師(おんしまたはおし)と講」と題して観光学高等研究センターの臼井冬彦特任教授が講師を務めた。

 臼井氏によると、伊勢信仰は平安貴族が始まりだったという。続いて、戦国時代の武将たちが参るようになったということだが、多くの一般庶民の伊勢参りが顕著になったのは江戸時代に入ってからだそうだ。
 特に60年を周期として大量の伊勢神宮参りの現象が起こったことを「お蔭参り」と呼んだという。そのお蔭参りの中でも、1650年、1705年、1771年、1830年のお蔭参りが有名だという。例えば、1705(宝永2)年の時には2カ月間で330~370万人の人がお伊勢さん参りをしたらしい。当時の日本の人口は2,769万人だったというから国民の10人に1人以上の人が伊勢神宮に参拝したというとんでもない数字である。

          

 当時の参拝がどれくらい大変だったかを想像してみると、江戸と伊勢の間は約460キロあるということだが、当時の交通機関はもちろん足である。すると、片道だけで14~5日かかったらしい。江戸と伊勢の往復だけで1カ月を要するという大変な旅だったわけだ。
 岩手の釜石からは100日を要したという記録もある。

 この大変な旅を実現するために自然発生的に生まれてきたのが「御師(おんし)」だった。
 ※臼井氏によると伊勢神宮参拝に関わるのが「御師(おんし)」、その他の寺社に関わるのは「御師(おし)」と区別されて呼ばれていたという。
 「御師」は神と人々とを結ぶ中継ぎ役を担っていたということだ。つまり、伊勢神宮の布教活動、地方から伊勢までの旅の助言をする、伊勢における宿を提供するなどの役割を担う存在だった。

          

 一方「講」は、ある種の相互扶助組織である。伊勢神宮の参拝に関しては「伊勢講」が組織され伊勢参りに出かける人の費用を多くの人で分担するような組織ができたそうである。そうした組織を各地に作るために、伊勢御師が全国各地に派遣されて、現地の「伊勢講」の組織化を支援したという。
 この「講」の考え方は寺社参拝の相互扶助ばかりではなく、さまざまな分野における相互扶助組織として日本各地に広く普及したようである。

          

 こうした人の存在(御師)や仕組み(講)があって、伊勢神宮は日本人にとって『聖地』となり、多くの「聖地巡礼者」を誕生させたようだ。
 その流れは現在に至っても続いており、式年遷宮にあたる今年の伊勢神宮参拝者の予想は実に1,300万人ということだ。現在の日本の人口が1億2700万人だから、やはり10人に1人の割合で参拝することになる。
 伊勢神宮は今の日本人にとっても紛れもなく『聖地』なのである。

《蛇足》
 もっとも、現在の日本で最も集客数が多いのは「東京ディズニーリゾート」だそうである。昨年2012年の入場者数は約2,700万人ということだから、日本人にとっては新たな現代の『聖地』と言えるのかもしれない…。



芸術・スポーツビジネス専攻とは?

2013-12-07 23:48:13 | 講演・講義・フォーラム等
 北海道教育大学岩見沢校が来年度から「芸術・スポーツ文化学科」として再編され、その中に「芸術・スポーツビジネス専攻」というコースが新設されるという。その新設を記念する公開フォーラムが開催された。

 
 12月1日(日)午後、北海道教育大学札幌駅前サテライトにおいて、 「ホンモノのもつ魅力を地域に伝える ~地域密着型!芸術・スポーツビジネスの可能性を探る~ 」と題する公開フォーラムが開催され、参加してきた。
 北海道教育大学岩見沢校は大学再編によって、音楽・美術・スポーツに関する教員や指導者・プレイヤーなどを育てる大学だったが、来年度からはそれらと共にそうした分野のマネジメント知識や能力を育て、新しい文化ビジネスを創造できる人材育成のためのコースを新設したという。
 その新設の意義について広く市民に理解を求めるために開催したフォーラムのようだった。

 フォーラムには、現在北海道内で芸術・スポーツに関する分野でビジネスを展開する三氏が招かれ、討論した。その招かれた方は…

  ◇宮澤 敏夫 氏(札幌交響楽団 事務局長)
        

  ◇久保 俊哉 氏(札幌国際短編映画祭 プロデューサー)
        

  ◇曽田 雄志 氏(コンサドーレ札幌 アドバイザリースタッフ)
        

の三人だった。
 三人はともに幾多の職業を経験されながら現職に就かれているとともに、宮澤氏を除いたお二人は掲載した肩書意外にも複数の肩書をもって活躍されている方だった。

 久保氏は紹介した肩書以上にメディアプロデューサーとして会社を起ち上げ、数多くのクリエーターを育成することがむしろ本業だということだ。
 曽田氏はコンサドーレ選手としての体験も踏まえ、スポーツ選手のセカンドキャリアの道を拓くため社団法人「A‐bank北海道」の代表理事など多くの顔を持つ方である。
 
 三人はコーディネーター役の宇田川耕一岩見沢校特任教授の質問に答える形でさまざまなことを語った。その主なことを記すと…、

 宮澤氏は札響が解散の危機に陥った時に招かれ、思い切った改革に次々と着手したようだ。自身大阪フィルのコントラバス奏者として活躍後、事務局長を経験されていて、それが札響の立て直しに役立ったようである。「札響は今日本において最も安定したオーケストラである」と言い切る宮澤氏の表情からオーケストラをプロデュースする醍醐味のようなものが伝わってきた。

               
 久保氏は小樽市生まれであるが、その後は東京で生活していたが30歳の時にふるさと意識が芽生え、転職して札幌に居を移したという。広告代理店などで働きながら北海道(札幌)の可能性を探るうちに短編映画祭開催のアイデアが出てきて、それを形にすべく奔走し、現在短編映画祭としては世界でも指折りの映画祭に育て上げたという。札幌は規模的・環境的にクリエーターを輩出するのに最適な街と言う久保氏には更なる企てがあるようにもうかがえた。
               

 曽田氏はサッカーファンにはよく知られた存在である。一時「ミスターコンサドーレ」と称され、コンサドーレの顔でもあった。選手を引退し、自身のセカンドキャリアを確立する必要もあり、スポーツ選手のセカンドキャリア支援のためにさまざまな活動を展開している。曽田氏自身の自己紹介によると実に九つの肩書を有し、あらゆる可能性を探っているようである。実質稼働4年目であるから成果が見えてくるのはこれからだろう。氏の活躍によって道内におけるアスリートの活躍の場が増えてくるのではないだろうか。

 北海道教育大学岩見沢校の「芸術・スポーツビジネス専攻」コースの新設が、道内の芸術分野やスポーツ分野にどのような影響を与える存在になるであろうか?
 現時点ではまだスタートもしていないが、今後の動向を注目していきたい。

倉本聰氏 戦後の教育を叱る

2013-12-06 19:49:56 | 講演・講義・フォーラム等
 倉本氏は叱る! 現代の日本に起こっているさまざまな偽装問題、隠ぺい問題は戦後の教育のひずみが露呈した結果ではないかと…。倉本氏は教育関係者を前に厳しく叱った。 

               

 11月30日(土)午後、プリンスホテル国際館において北海道教育大学が「演劇的手法による教師教育プログラム開発」事業シンポジウムなるなんだか難解そうなシンポジウムに参加した。難しそうと思いながらも参加したのは、脚本家・倉本聰氏の話を聴くことができるからという理由からだった。
 シンポジウムの前段、倉本氏は「教師に求めるもの-想像力の醸成と他人への感情移入-」と題して講演された。

 倉本氏はまず、「教育とは何か?」と問いを立て、「教育とは社会と結びつくものでなければならない」とした。
 教育の柱はよく「知・徳・体」と言われるが、戦後教育において著しく欠けたものが“徳育”であるという。
 倉本氏は自ら起ち上げた脚本家や俳優を養成する「富良野塾」に集まる若者の指導を通して、そのことを痛感したという。塾生として集まった若者たちが、教わる者としてのルールを会得していなく、無礼としか言いようのない若者の態度に何度も憤慨したらしい。
 義務教育においては、教師や親は人としての最低限のルールを教えるべきである、と倉本氏はいう。

          
          ※ 講演をする倉本氏です。このシンポでは珍しく写真はNGでなかった。

 そして話は演劇と教育論に移っていった。
 「演劇とは何か?」という自らの問いに対して、倉本氏は「人の心を打つ仕事」であり、「相手の感情に入っていくこと」だとした。
 倉本氏が育てた脚本家には「それぞれの感情の襞を描写する」ことを求め、俳優には「相手のセリフを聴くことの大切さ」を説き続けたという。
 演劇はコミュニケーションによって成り立つものだが、そのことはつまり相手の声を聞いてそれに反応していくことで舞台は成立しているとした。そしてコミュニケーションツールとしての目・耳・口・体について細かく具体的な説明があった。
 コミュニケーションを重視することは教育の世界にも応用できるのではないかと倉本氏は強調した。

 さらに話は現在倉本氏が運営している「自然塾」のことになった。
 倉本氏は地球科学を実物で理解させることに心を砕いているという。例えば、「地球の道」と題して地球の46億年の歴史を実感してもらうために460mの距離に置き換えた道を実際に造り、地球誕生から現在にいたるまでの地球の壮大なドラマを体感もらうなど、具体物を通して地球のことを学ばせようとしているという。
 どうしたら子どもが分かるようになるか、教える方法をうんと工夫することが大切ではないかと説いた。

 最後に倉本氏は、
 「教師を創るとは遊ぶこと」
 「教師を創るとは狂うこと」
と話された。
 なんだか私には禅問答めいた言葉に聞こえてきた。
 この言葉に対して私は今反応することができない。
 何度も反芻しながら、この言葉を噛みしめてみたいと思う。

 シンポジウムの後半は、倉本氏を交え、北海道教育大学、東京学芸大学、大阪教育大学、愛知教育大学のそれぞれの学長たちによるパネルディスカッションが行われた。しかし、時間も短かったせいもあり、深みのある議論には欠けたように思われたのでレポートは省略する。

          
          ※ 倉本氏と4学長によるパネルディスカッションの様子です。

またまた合田節に酔う

2013-12-05 16:30:00 | 講演・講義・フォーラム等
 緻密な取材を積み重ねた末に本として著してきた合田一道氏の話は他では聴くことのできない臨場感を伴って私の耳に届く。今回もまた、私は合田節に心地良く酔い続けたのだった…。 

                

 11月28日(木)午後、北海道生涯学習協会の公益財団移行記念として「ほっかいどう学」かでる講座の特別講演が行われた。その講師として私が敬愛してやまないノンフィクション作家の合田一道氏「記録に見る命の道」と題して講演された。今年になって合田氏の話を聴くは何度目だろう?いつ聴いても合田氏の話は心楽しい思いである。

 今回、合田氏は既に鬼籍に入られている5人の人たちが遺したもの、あるいは記録からそれぞれの生きざまを語った。その5人とは…、
 (1)戦前の実業団野球において一世を風靡した函館オーシャン倶楽部の久慈次郎捕手が昭和14年、野球試合の最中の事故で亡くなった事件
 (2)戦時中、特別攻撃隊の一員として若くして命を賭した攻撃で散った前田啓陸軍大尉の話
 (3)昭和18年末、羅臼沖で日本陸軍の船が座礁し、生き残った船長が餓死した他人の遺体を食し、そのことにより終生罪の意識にさいなまれ続けたという事件
 (4)昭和43年、美唄炭鉱爆発事故に遭遇した坑内員・坂口新八郎さんは地底で遺書を書いたが生還した。しかしその後遺症に悩まされ続けたという事件
 (5)昭和43~44年にかけて4人を射殺するという連続殺人事件を起こした永山則夫が獄中で書いた詩から彼の心中を推し量った

          
       ※ 陸軍に徴用された船長の船は根室から小樽へ回航中、ペキン岬(ペキンの鼻)付近で座礁してしまう。

 それぞれ聴き応えがあったのだが、ここでは(3)の俗に「ひかりごけ事件」と言われている船長の食人事件について触れてみたい。
 「ひかりごけ事件」とは、昭和18年12月4日、日本陸軍の徴用船が根室から小樽に回航する途中に知床岬の突端に近いペキン岬(ペキンの鼻)付近で座礁した。乗船していた船長と火夫の少年がかろうじて海岸にたどり着き、海岸にあった番屋に避難した。しかしマイナス30℃にもなる極寒の中、食料もなくひたすら死を待つだけの状況の中、遭難46日目に少年が衰弱死する。残された船長も意識朦朧の中、判断力に失い思わず少年の死体を食してしまう。そうして船長はかろうじて生き延びたのだが、やがて人に知れてしまうことになるという事件である。
 この事件が「ひかりごけ事件」と称されるのは、この事件をモデルとして作家・武田泰淳が「ひかりごけ」という小説を著したことで世に広く知られることになったことによるらしい。

          
 ※ 船長と少年はペキン岬にあった番屋で46日間過ごすがそこで事件は起こってしまった。事件後、船長はルシャまで歩き助けを求めたという。

 合田氏は小説という形ではなく、この事件の真相を探るために実に15年もの歳月を費やし、当事者である元船長からの聞き書きも加え、『裂けた岬:「ひかりごけ」事件の真相』と『知床にいまも吹く風:「裂けた岬」と「ひかりごけ」の狭間』という2冊のノンフィクション作品を上梓している。

 合田氏は取材した当時を回想し、悔悟の念を語った…。
 それは元船長が服役し、社会復帰を果たした後に彼の口から事件の真相を質そうとして「人が生きるためにやってはいけないことをした人の心の中にズカズカと入っていこうとした」自分に対して若かったとはいえ、人の気持ちを考えない取材方法だったと…。
 もちろん元船長は合田氏に対して何も語らなかったのだが、合田氏はそれを反省し、元船長の心が開くのをじっと待ち続ける姿勢を取り続けたことにより、彼の口からポツリポツリと当時の模様を聞き出すことができたという。

 合田氏がこの日紹介した5人の記録は、この話の元船長以外は当事者の遺書だったり、言葉であったりしたが、この話で提示されたのは元船長が裁きを受けた裁判所の判決記録だった。しかし、それも戦時下における特異な事件ということで事件記録は抹消されているという合田氏の話だった。

 合田氏はこの事件でも、元船長や彼が助けを求めたルシャ(北浜)の住民、あるいは関係者に地道な取材を続けた様子を臨場感たっぷりに語ってくれた。
 かなり高齢になられている合田氏であるが、まだまだ元気に語り続けていただきたいものだ。機会がある限り、これからも合田節を楽しみたいと思う。

知るぽると塾 in 札幌

2013-12-04 14:48:41 | 講演・講義・フォーラム等
 何? シニアは断捨離をせよと? 以前はできるだけ避けようとしていたが、最近は「シニア」というワードが入った講座には積極的に参加するようにしている。いつまでも若くありたいが、いつまでも若くはないのだ…。


                

 11月27日(水)午後、エルプラザにおいて北海道金融広報委員会というところが主催する「知るぽると塾 in 札幌」という講座があり参加した。
 「知るぽると」とは、「知るぽるとの“ぽると”は、「港」「入り口」。身近な金融情報の入り口としてご活用ください」と金融広報委員会のHPに記述があった。

 知るぽると塾は、(1)「シニアのライフプラン・断捨離と終活」と(2)「どう変わる? これからの暮らしと消費税」という2本立てだった。この構成をみると(1)はどうやら露払い的役割であって、(2)が本命のようであった。

 (1)「シニアのライフプラン・断捨離と終活」では、現役時代の勤務時間の総計がおよそ10万時間なのに対して、リタイア後の60~80歳までの自由時間もそれに相当する10時間あるということだ。どう計算したのかは知る由もないが、まあおおよそそのようになるということであろう。お話はこの10万時間を幸せに暮らすためには〔夢・希望・生きがい〕と〔健康な体と心〕と〔お金〕の三要素が必要であり、そのための留意点が紹介された。
 そして断捨離であるが、「使えるモノ」と「使うモノ」とは違うということ。「いつかは使えるモノ」と考え貯めておくとモノは際限なく増えていく。「使うモノ」だけにして身辺を整理することの大切さを説かれた。「モノを手放すと、不安もなくなる」という言葉が心に残った。
 そして最後に終活として「エンディングノート」についての話があったが、こちらは以前に別の講座で伺ったことでもありレポートは省略する。

          

 続いて(2)「どう変わる? これからの暮らしと消費税」であるが、大きな経済についても、家庭の経済についても、からっきし無知な私には「猫に小判」的講座だった。
 講師が早口にまくし立てることについてほとんど理解できなかった。いろいろと家庭経済の自己防衛策を述べられていたようだが、まったく頭に入ってこなかった。
 ただおぼろげながら感じたのは、我々庶民には世知辛い未来が待っているようだということだけは理解できた。消費税増税、復興増税に加え定率減税の廃止、そのうえアベノミクスの影響で毎年2%ずつの物価上昇が加わり、さらには年金の目減りも伝えられており、それはもうダブルパンチ、トリプルパンチ以上の痛手が我々庶民を襲うようだ。

 あゝ…、そんなことを聞くと私には暗~い未来しか見えてこない。何の生産手段も持ち合わせていない私の未来は忍従に徹するだけの未来なのか? そう考えると侘しくなるだけだ。いや、待てよ!そう考えるのは私の中にまだ物欲があるからではないのか?
 私に残された道は物欲からの解脱(あれっ?どこかで聞いたことがあるぞ)の道しかないのかもしれない?? とは言いながら仙人のような暮らしも今さらできないしなぁ…。

コンテクスト・ツーリズムと聖地巡礼

2013-12-03 23:32:27 | 講演・講義・フォーラム等
 何やらまたまた難しい言葉が登場してきた北大の公開講座「現代の『聖地巡礼』考」である。○○ツーリズムとは最近良く聞く言葉である。「聖地」と「コンテクスト」…、はたしてその関係は? 

 北大公開講座「現代の『聖地巡礼』考」も第5講目と中盤を迎えている。第5講目は11月25日(月)、 「コンテクスト・ツーリズムって何?」と題して観光高等研究センターの内田純一准教授が務めた。
 当初のテーマは「大好きなスターに『なりきり観光』 コンテクスト・ツーリズムって何?」というものだったのだが、内田氏が後になって変更したとのことだった。(ちょっとアカデミズムっぽさに欠けると判断した?)
 コンテクスト・ツーリズムとは、直訳すると「文脈に沿った観光」という意味になるそうだが、そこから発展して内田氏によると「なりきり観光」いう位置づけにしたそうだ。

            
            ※ コンテクスト・ツーリズムの典型として挙げられた「冬のソナタ」のポスターです。

 その「なりきり観光」とは、私なりに理解できたことは、例えば韓国ドラマ「冬のソナタ」で韓流ブームが起り、我が国の女性たちがこぞってロケ地を訪れ、ドラマの主人公になりきって観光していたということらしい。
 内田氏はそうした状態になって初めて「聖地」となり得ると説いた。

               
               ※ 強いコンピタンスを有する例として挙げられた「東京ディズニーランド」です。

 内田氏はまた「コンピタンス」という言葉を持ち出した。コンピタンスとは、「能力」という意味のようだが、映画とかドラマの舞台となったところが「聖地」となるためには訪れた人たちが「なりきる」だけの魅力(能力)を有しているか否かが分かれ目であるという。
 例えばとして内田氏はテーマパークの「東京ディズニーランド」と「ハウステンボス」を例に出した。そこで「東京ディズニーランド」には物語性とか、テーマの深さがあり観光客がなりきるだけの魅力(能力)があるが、「ハウステンボス」にはそこのところが欠けている、あるいは弱いのではと解説した。

          
          ※ コンピタンスがやや弱い例として挙げられた「ハウステンボス」です。

 内田氏はその他さまざまな事例を例にだし、自説を強調され、結論として次のようにまとめられた。
 ・人は「人気がある(好きな)映画・ドラマだから」という理由だけでは、聖地巡礼をしない。
 ・すなわち優れたコンテンツが即ツーリズム現象を起こすわけではない。
 ・コンテクストを共有でき、なりきるコンピタンスを与えてくれるコンテンツに強く反応している。

 ヒットした映画やドラマの舞台を訪れるという観光ブームは良く聞くことである。だから内田氏の2番目のまとめにはやや疑問も感ずるが、「聖地」と言われるほどの現象を起こすためには「なりきる」ほどのコアな人たちがいて、そうした人たちに引きずられるようにして多くの人が訪れ一大観光ブームが現出される、その現象こそが「聖地巡礼」の様相であるという点については「なるほど」と深く理解できた私だった。


ニッカウヰスキー余市蒸留所

2013-12-02 21:09:19 | 札幌(圏)探訪
 左党の私が今さら的な感じもするのだが、このほど余市にあるニッカウィスキー蒸留所を訪れる機会があった。敷地内を漂う芳香な匂いを感じつつ、文化的にも貴重な建物群を見て回った。 

          
          ※ ニッカウィスキー余市蒸留所の正面入り口です。

 オヤジの会の11月例会が、先日11月25日(月)余市まで足を伸ばして実施された。オヤジの会の例会としてはこれまでで最も遠くまで出かけての例会だった。
 〔札幌を知る〕という我々のコンセプトもいよいよネタ切れの感が出てきた。まあ〔札幌を知る〕ということは何も札幌市内に限定するということではなく、札幌市の周辺についての理解を深めることも〔札幌を知る〕ことに繋がることだという解釈のもと今後も例会は続けられていくことと思われる。

          
          ※ キルン塔の建物です。趣がありますね。人物は私たちの案内嬢です。

 さてウィスキー蒸留所だが、観光シーズンもオフとあって蒸留所内は閑散としていた。案内嬢も気合が入らないのか、早く案内を終えたいという雰囲気を醸し出していたのはいただけなかった。
 見学は①キルン塔、②醗酵棟、③蒸留棟、④混和棟、⑤1号貯蔵庫と、見学順路にしたがって進んだ。各見学個所については大きな器や樽が並んでいるだけで、特別感ずるものはなかったが、蒸留所内全体の環境の素晴らしさが何といっても印象に残った。古いレンガの建物群には独特の趣がある上、敷地内全体が落ち着いた雰囲気を醸し出しているのが良い。夏の緑が萌える時期などに訪れるのがベストのように思う。
 その後、ウィスキー博物館、そしてニッカ会館(試飲会場)へと進んだ。

          
          ※ 竹鶴正孝とリタ夫人の居宅を構内に移築したそうです。

 ウィスキー博物館では創業者の竹鶴正孝氏が留学先のスコットランドで見染めたリタ夫人に関する展示や、竹鶴氏の居室などの展示が目を惹いた。
 そして待望(?)の試飲会場のニッカ会館へ…。
 ここもシーズンオフとあって閑散としていたが、試飲にはシングルモルト10年物、鶴17年物、そしてアップルワインが用意されていた。
 3種類をしっかり試飲させていただいたところ、ホロっとする程度に酔いが回った。

         
       ※ 1号貯蔵庫に並ぶオーク材で造られたウィスキー樽です。中身は空とのことでした。

 奇しくも来年後半期のNHKの朝のドラマが竹鶴正孝とリタ夫人をモデルにした「日本人技術者と英国人の妻」による夫婦の奮闘記(タイトル名は「マッサン」)に決定したというニュースが流れていた。
 きっと来年は余市詣でがブームになるかもしれない。そういう意味では良い時に訪れることができたといえる。