時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

歴史の軸を遡る:「ヨーロッパの操縦席」の淵源

2021年02月13日 | ロレーヌ探訪

Simon Winder, LOTHARINGIA, Picador: London, 2019, cover

新型コロナウイルスがもたらした危機と混迷の世界を離れて、しばらく歴史の軸を遡ってみる。手がかりとしたのは、友人の紹介で知った上掲の一冊である。ヨーロッパの歴史と個人的な旅の経験を組み合わせたユニークな構成である。

ちなみに、本書はEdward Stanford Travel Writing Award 2020 を受賞している。

前回の記事(「世界の仕組みを理解する」)で提示した近代の始点となる17世紀ヨーロッパは、美術の世界では画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、レンブラント、プッサン、フェルメールなどが生まれ、活動した時代であった。それぞれ活動の地点は異なっていたが、このブログの中心テーマであるラ・トゥールについてみると、画家が生きたロレーヌといわれる地域は、17世紀当時フランスと神聖ローマ帝国に挟まれ、かなり複雑な政治地理的状況に置かれていた。その淵源を求めてさらに遡ってみる。

ロタリンギアが生まれるまで
非常に遠い昔、そして長い間、ヨーロッパに現在のフランスとドイツを含んだロタリンギアという今ではあまり知られなくなった地域があった。現在はフランス領であるロレーヌはその一部であった。ロタリンギアは、現在のヨーロッパでみると、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス東部、ドイツ西部、スイスなどいくつかの国からなっていた。この地域の一部は「バーガンディ」Burgundy (ブルゴーニュ)の名でも知られていた。

AD843年、シャルルマーニュ大帝の曽孫3人がヴェルダンに集まった。大帝の死後に残された広大な領地をめぐり、誰がそれを継承するか激しい争いが続いていた。ようやく決着がついたのは、領地を3つに分け、それぞれに統治するという解決だった。簡単に言えば、その後のフランス、ドイツに分割し、残されたのは両者の間にあるロタリンギアという第三の地域だった。その後のヨーロッパの歴史は、概して言えばこの大きな領地分配とその後の統治のあり方でそれぞれの運命が微妙に定まったといえるほどだった。



「ヨーロッパの操縦室」
とりわけ、この第三の地域は、現在のフランス東部、ソーヌ川流域を中心とする地方にほぼ相当し、9世紀に一時王国となったが、10~17世紀には公国、革命前にはフランス国内の一部であった。かつての支配者であったシャルルマーニュ Charlemagneの子孫に敬意を表して「ロタールの地」’Land of Lothar’として知られ、「ロタリンギア」LOTHARINGIA (ドイツ語でLothringen, フランス語でLorraine)と呼ばれていた。現代史では時に「ヨーロッパの操縦室」’cockpit of Europe’とも言われる重要な地域である。しかし、その背景を知る人は意外に少ない。

本書は著者サイモン・ウインダーの3部作 GERMANIA, DANUBIAに続く著作である。ゲルマニア GERMANIA, ダニュービア DANUBIAは実在しないが、ロタリンギア LOTHARINGIAは実在した地域である。著者が各地をめぐり蓄積した個人的な見聞資料を歴史の中に埋め込んだ本書はあまり例がなく、極めて興味深い。東西から虎視眈々と領地を狙う勢力に対抗した ロタリンギアの人々 Lotharingians は、究極的にはオランダ、ドイツ、ベルギー、フランス、ルクセンブルグ、そしてスイス人になっていった。数世紀にわたり、ロタリンギアはヨーロッパ屈指の美術家、発明家、 思想家などを生み出すとともに、多くの貧しく救いのない人たちの征服者に対抗してきたともいわれる。

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シャルルマーニュ(フランク王国カロリング朝の王。768年即位、800年ローマ皇帝から(西)ローマ皇帝の冠を受けた。カール大帝、チャールズ大帝(742~814年)

シャルルマーニュが支配した広大な領地は、West Francia (後のフランスの中心部分)、East Francia (神聖ローマ帝国の中心部分)、そしてMiddle Francia (中部フランシア)という地域に分かれていた。この中部フランシアは、最初はロタール I世に割り当てられ、後にロタールII世の支配下に置かれた。その後、中部フランシアは単なる地理的な名称となった。この地域は複雑な歴史があり、近代的な国家の概念で定義することはできなかったこともあって、しばしばロタリンギアの名で呼ばれてきた。このMiddle Franciaにはアーヘン Aachen (シャールマニュの居住地)や パヴィア Paviaなどの都市があったが、地理的にも、政治的にも重きをなさなかった。

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今日のフランスとドイツという顕著な国民性の差異がある両国が、厳しい分断、対決と協調を経験してきた歴史適時事情、多数の国の密接しての存在、地域共同体としてのEUの成立と今後など、多くのテーマを考える鍵がロタリンギアの誕生と歴史の中に秘められている。

ロタリンギアは、国際的な紛争、戦争が極めて激しかったことでも知られていた。問題山積で大変厄介な操縦室となっていた。時代は異なるが、ロンドン、パリ、ベルリン、マドリッド、ウイーンなどの都市は、相互に抗争する勢力の中核であったが、興味深いことに別の時期においては、さまざまに連帯、協力する関係が生まれていた。例えば、ルイXIV世、ナポレオンあるいはウイルヘルムII世、ヒトラーなど専制君主や独裁者でも、完全にこの地域を支配することはできなかった。

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N.B.
上記の「ロタリンギア」「ロートリンゲン」「ロレーヌ」と呼ばれるようになった領邦は、1766年まで存続した。

ロタリンギア分裂後、帰属を巡って抗争が起き、 10世紀に高(上)ロレーヌと低(下)ロレーヌの南北2公国に二分され、後者がやがて ブラバント公に帰属したため、前者が 11世紀以降は単にロレーヌと呼ばれるようになった。

13世紀前半まで 神聖ローマ帝国 の勢力下にあったが、13世紀後半より フランス王 の勢力が浸透し、 三十年戦争の際には事実上 フランス が占領していた。

その後も ロレーヌは17世紀末までフランスの支配下にあり、 ロレーヌ公国の公位は名目上にすぎなかったが、 1697年のレイスウェイク条約 で再び神聖ローマ帝国に帰属が戻り、 1736年まで ロートリンゲン公国 として 神聖ローマ帝国 の 領邦国家となっていた。

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EUの母体となったロタリンギア
ロタリンギアは多数言語、多数エスニックな地域でもあった。その形成、持続、そして消滅は、今日のEUの形成にもつながるものと考えられる。EUの最初のメンバー、ベルギー、ルクセンブルグ、ドイツ、フランス、オランダ、そしてイタリア(部分)は、元来ロタリンギアを構成した地域だった。

「ヨーロッパの操縦室」と言われたロタリンギア地域は、その後多くの変遷を経て今日に至っている。BREXITという大きな出来事も進行中であり、問題が解決したわけではない。EUの今後も波乱含みで予断を許さない。ロタリンギアというかつての「ヨーロッパの操縦室」の役割は、今はブラッセルのEU、そしてフランス、ドイツが担っている形だが、しばらく目を離せない。



追記:
この記事をアップしようと思っていた時(2月13日午後11時8分頃)、突如大きな地震があった。震源は福島沖でM7.3というかなり大きな規模であった。原発関連が現時点では大きなダメージを受けていないとのニュースにはやや安堵したが、建物など災害にあわれた方々には、心からお見舞い申し上げたい。図らずもこのブログの初めの頃に書いた寺田寅彦の随筆を思い出した。今回は2011年の東北大震災の余震とのこと。災害はコロナ禍の下でも待ってくれず、容赦なくやってくる。「日本の操縦室」は大丈夫だろうか。

参考追記:
本書と類似した試みとしては、先行して刊行されている。この作品も大変興味深い。
Graham Robb, The Discovery of Framce.Picador, London, 2007



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