時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

謹賀新年 2023年

2022年12月31日 | 特別記事


新年おめでとうございます

激動の時代は2023年も続くことでしょう
今年こそ真に平和と健康の1年となりますようお祈り申し上げます


2023年元旦



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ウクライナの年:「戦争」が「コロナ・ウイルス」を上回った

これまで半世紀近く、この時期に読むことを楽しみにしてきたThe Economist誌が、2022年の世界のニュースを分析した記事があった。アナリスト企業が32のニュース・トピックスについて、650万のデータセットを使い分析したもので、各トピックスがいつ発生し、どれだけの記事が読まれたかを読者の時間数(readership)で測り、時系列で分析している。
その結果は、読者が記事を読むに費やした10億時間の中で「戦争」は2億7800万時間に相当し、(2021年に「covid-19」に読者が費やした時間にほぼ同じ)、ロシアがウクライナに侵攻開始した日には640万時間であった。これはイギリスのエリザベス女王 II の逝去、ウイル・スミスがオスカーでクリス・ロックを平手打ちした事件の当日の合計を上回った。ウクライナ侵攻記事の読者時間は漸減したが、その水準は今日の平均では55万時間相当で、ワールド・カップでアルゼンチンが優勝した日の水準にほぼ匹敵している。
「コロナ・ウイルス」への関心は今日まで途切れなく続いているが、人々が長引くコロナ禍に疲れ(pandemic fatigue)、それに「戦争」(ロシアのウクライナ侵攻)が取って代わった観がある。
「戦争」も「コロナ・ウイルス」も目にしたくない。しかし、それが多くの人々の命を奪っている限り、注視せざるを得ない。新年にはこの二つが消滅することを切に祈りたい。


Reference
’’The year of Ukraine, The Economist , CHRISTMAS DOUBLE ISSUE, December 24th 2022- January 6th 2023 



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額縁から作品を解き放つ(8):技能修得の仕組み

2022年12月26日 | 絵のある部屋

ヴィットーレ・カラパッチオ《書斎の聖アウグスティヌス》
Vittore Carapaccio
St Augustine in his Study
c. 1502
Tempera on canvas, 141 x 240cm
Venice, Scuola of San Giorgio
[説明は本文最下段]

イタリア・ルネサンスの時代、画家を志す者は工房に徒弟として入り、職人として必要な知識・技能を体得することが必要だったことはすでに述べた。石工、大工、鍛冶屋、パン屋などの伝統的職業は、それぞれ固有の熟練を体得せずには、社会的に職業として自立することはできなかった。それぞれの職業の技能水準の維持と平準化には、職業ごとに設立されたギルドが職人の技能の認定を行なっていた。

工房に入る
画家としての技能形成を達成するためには、かなり長い年月をかけた修業が必要とされた。工房によっては、自立するまでには10年近い修業年月が必要と主張する親方、マスターもいたが、普通は、それよりはるかに短い期間で親方になる以前の段階としての職人(遍歴職人: journeyman)となることができた。多くの職人はそのまま工房で働き、さらに経験を積んだ上で、独立した工房を開設することもあった。

徒弟はgarzoniと呼ばれ、親方の家に住み込み、寝食を共にし、家事を手伝い、ほとんどいつも家族と一緒だった。徒弟訓練は若いうち、時には10歳前から始まることもあったが、ほとんどの少年は13から14歳で徒弟入りした。ミケランジェロは例外で13歳まで学校へ行った。その後、ドメニコ・ギルランダイオの工房へ入った。

息子を徒弟にしたい親は息子の衣食住費を親方に支払ったが、親方が逆に徒弟に賃金を払った場合もあった。親方の評判や地域によって、親が支払う費用は異なった。これらは全て契約書に記された。

工房での修業期間は、職業や地域によって差異があった。ヴェニスでは画業を志す徒弟は2年間で、遍歴職人 に移行できた。パデュアでは最短の徒弟期間は3年間だった。その間、親方は他の若者を誘うことは禁じられていた。現在修業中の徒弟の教育をおろそかにしないための配慮だった。そして訓練期間がどうであれ、職人ならば、画家として要求される仕事を完璧にこなせなければならなかった。

徒弟は通常は親元を離れ、工房入りをしてから1年程度は、親方の家に住み込み、家事を手伝いながら、傍で画家になるために必要なさまざまな熟練の習得を目指した。

仕事を通して身につける
工房での徒弟の教育に決まった教程があるわけではなかった。しかし、長年の経験で、技能習得に関わる過程の概略はほぼ定まっていて、親方の判断と指示で、全て進行した。

例えば、最初の1年間は、小さなパネルでデッサンの仕方を学ぶ傍ら、画板に麻や亜麻の布地を張ったり、画布に下地 gessoesをひくことを学んだ。さらに、顔料の粉砕、絵の具の作り方なども必須の仕事だった。

さらに進んでは祭壇画などの背後の飾り anconas の制作などを修得、親方の判断で、限定された部分を担当した。こうした過程を経てようやく画家として画法、彩色などの基幹部分の技能を習得するのが例であった。

大壁面、天井画の制作などは、系統立って教えることはなく、そのつど親方や職人の仕事を見ながら、体得するという現代のOn-the-Job-Trainingに近かった。親方が仕事ぶりに満足すれば、画面の一定部分の描写を完全に任せることは、通例のことであった。

工房の徒弟や職人は、画家であれ彫刻家であれ、必要とあらば他の分野の仕事、例えば祭礼の準備なども臨機応変にこなさなければならなかった。ティティアンのようにガラス工芸のデザインまで手がけた場合もあった。

コピーは工房の宝
徒弟や職人が技能の熟達を目指す上で、工房での習作、名画の模写はきわめて大事なことと見做されていた。有名な工房には、多数の名作のコピーが保蔵されていた。徒弟にとって、これらは恰好な教材だった。

モデルが必要な場合は、工房の若者が務めることも多かったようだ。多数の画家志望者がイタリア行きを目指したのは、町中に溢れる芸術作品の数々と併せて、こうした工房が蓄えた美術習得のための有形・無形の財産だった。

イタリア・ルネサンス工房の作品は、ほとんどが共同作業の結果であり、中心人物、顔などの重要部分のみ親方が描き、残りの部分は工房職人が描くのが通例であった。その結果が、工房の基準に達していれば親方がサインをするという段取りであり、作品が全て親方の手になるという意味での真性さ authenthisity は、さほど問題にされなかった。

このように、イタリアの有名工房は多数の徒弟、職人を抱え、大規模な作品制作にも応えることができた。この点、大きな作品の制作依頼が稀にしかないイタリア以外の地域では、多数の職人や徒弟を抱えることはできなかった。ロレーヌなどの場合、工房の徒弟はほとんど一人か二人だったようだ。

私的な書斎の重要性
美術品の世代的な継承が行われる場所は、それらが描かれている教会や聖堂の壁面、祭壇画、工房や個人などの所蔵など、多数の場所に分散していたが、ルネサンス後のイタリアで長年にわたる美術の世代を経ての劣化、散逸が激しかった場所の一つが studioli と呼ばれる貴族、高位聖職者、知識人などの私的な書斎であったと言われている。最盛期には多くの絵画、彫刻、内装、家具、科学的な装置などあらゆるタイプの貴重な品々が、収集されてそこに置かれていた。これらは私的な収集、博物館的コレクションとして維持されてきたが、16世紀には骨董市での対象となったり、骨董品の展示場  Wunderkammer となっていった。

上掲の作品は、こうした良き時代の書斎の状況を描いた一枚であり、当時を偲ぶ貴重な一枚である。

続く
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額縁から作品を解き放つ(7):工房の働き

2022年12月11日 | 絵のある部屋


15世紀の工房

イタリアに限ったことではなく、どこの国でも画家は長らく、パン屋、大工などと同じ部類の「職人」’craftsmen’ として位置づけられていた。子供が職業選択をするに際しては、ほとんどの場合、父親の職業を継ぐか、親の考え次第で決まっていた。時代を下って、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやジョン・コンスタブルのように、パン屋や粉屋であった父親の仕事を継がなかった例などもあるが、画家は概して先が分からない、リスクの多い職業として考えられてきた。才能の評価は、多くの要因に依存しており、画家として成功できるかは容易に定め難かった。

ルネサンス期のイタリアにおいては、絵画などの美術作品は画家や彫刻家などが自らの創意で制作し、それを見た顧客が購入するという今日のような状況ではなかった。作品は概して高価であり、徹底して顧客による注文生産だった。顧客は典型的には領主などの支配者、貴族、銀行家、富裕な商人、名士、教会などであった。時には、結婚祝い、病気の治癒を感謝する印として、上層の市民からの注文もあった。画家に求められる芸術性などもあってか、彼らは次第に ’artists’と呼ばれるようになった。

イタリア・ルネサンス期の画家の工房 bottegaは、初期段階では、親方画家と職人一人くらいで運営されていたような状況もあったが、時代が進むとともに、教会、聖堂、修道院などからの壁画や天井画、祭壇画などの大規模な作品需要が増加し、ローマ、フローレンスやヴェネツィアなどでは、親方の下に助手として職人、徒弟などを集めた大きな工房が生まれるようになった。

厳しい顧客
こうした工房への作品の依頼主は、制作されるべき作品への要件が厳しく、主要点は契約に記載することを求めたばかりでなく、完成した作品が意に沿わないと、描き直しや契約破棄なども少なからず発生した。要件の内容も宗教画であれば人々の信仰心をかき立てるものであること、歴史画であれば、描かれる人物の容貌、衣装などに、厳しい内容が求められた。大聖堂など公共の場に描かれる作品には、しばしば独立の画家グループなどによる評価も行われた。大変著名な画家が新たな創意で制作した作品でも、伝統を重視する顧客側から不満足とのコメント、苦情などがあると、画家が自らの意思を貫徹できる場合は極めて少なく、その意味で画家は長年、顧客に従属する職人の地位に甘んじなければならなかった。

よく知られた例としては、バチカン宮殿にあるスィスティーナ礼拝堂のフレスコ画を描いたミケランジェロの場合、聖職者たちの間から裸体が多すぎるとの批判、苦情が出て、一時はフレスコ画の取り壊しまで議論された。この例はミケランジェロのような大画家といえども、長年に渡り蓄積された慣例、しきたりから離反することがいかに困難であったかを示している。

他方、フローレンス、ヴェニス、マントバ、シエナなどの都市間では強いライヴァル意識があり、それぞれの独自性を発揮させるために、他の都市から芸術家を引き抜いて新奇な試みをさせるなどの動きがあった。そのため、人気がある画家たちの中には、いくつかの都市を渡り歩いて制作し、多額の制作費を稼ぐ者も現れていた。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)のように、引き受けた作品を未完成のままに放置してしまうことで、評判の悪い画家も生まれた。

アーティストを育てる工房の役割
15世紀中頃から末にかけて、それまでの顧客、パトロンが絶対優位の関係は急速に変化した。画家に依頼される仕事も大きくなり、画家ひとりでは消化できなくなっていた。画家の工房は、次第に規模が大きくなり、画家の父親は息子を画家にすることに熱心だった。それでも、人手が不足し、徒弟という形で画家を志す若者にスキルを伝授する方法が足られた。幼い頃から優れた画才を示した若者は、有名な画家の工房に入るよう勧められた。

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N.B.
ルネサンス期の工房から育った有名画家たち
ロレンゾ・ギベルティ(1378-1455)は有名な彫刻家だったが、フローレンスの幼児洗礼堂の扉の前で長年働いたが、後年、市内に大きな工房を持った。ドナテロ、パオロ・ウッチェロ(1397-1475)など、多くのアーティストがここから育った。アンドレア・デル・ヴェロッキオ(c.1435-1488)の工房からは、ピエトロ・ペルギーノ(c.1450-1523)、サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)、レオナルド・ダ・ヴィンチなどが育った。ペルギーノはペルージアまで出向き、ラファエロ(1488-1520)を指導した。ルネサンス美術の世界は大きなものではなかったので、画家たちはライヴァルがどの程度の仕事をしているか、つぶさに知っていた。複数の工房を運営する画家もあり、ドナテロとミケランジェロのように、ピサ、フローレンスなどで工房をシェアしていた場合もあった。

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この時期の工房は、大小の違いはあったが、親方の下に職人、徒弟などの階層があった。徒弟は一般に男子(女子もいなかったわけではない)で、11歳くらいの若さで採用され、上達の具合などで3年から5年を費やした。徒弟は通常親方の家に住み込み、食費、衣料なども支給された。最初は工房の掃除など簡単な仕事から始まり、使い走り、刷毛の製作、画材の準備などを経て、親方の指示により簡単な部分の描画、彩色などの段階へと進んだ。さらに親方の認定次第で、職人などと呼ばれるようになると、作品のある部分の制作を担当したり、親方の素描に沿って、ほとんどひとりで作品を完成することもあった。

職業集団としての工房・ギルド
助手や職人にまでなると、工房所在地にあるギルドに加入し、会費を納め、一人前の画家として工房にいながらも制作することが認められた。熟達した職人は作品に自分の名前を入れることも認められた。初期のレオナルド・ダ・ヴィンチは、こうした過程を過ごした。工房を離れ、独り立ちする場合には、自らが制作した優れた作品をギルドに提示することが求められた。顧客が工房を選ぶ場合、職人や助手にどれだけの報酬が支払われているかも、ひとつの要因だったようだ。

イタリア・ルネサンスの栄光を支えた底辺には、こうした工房の働きがあった。工房ではギリシャ・ローマ時代の作品の模写、収集が行われていた。古代美術の流れを正確に継承するために、有名な工房はさまざまな内部蓄積を怠らなかった。ルネサンス期のイタリアは文化の中心地として、ヨーロッパ各地から多くの美術志願者を集めた。教会、大聖堂などの壁画、祭壇画などの大きな需要が少なかった他の地域では見られなかった、工房を中心とした独自の文化拠点が生まれていた。

続く




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