時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

記憶の底から高まる時代の緊張

2013年06月23日 | 書棚の片隅から

 




Bernhard Schlink. Der Vortleser.
Zurich:Roman・Diogenes, 1995.

本書の表紙に著者がキルヒナーのこの作品を採用したのはいかなる意味があるのだろうか。


 

 文学座『ガリレイの生涯』を観た帰りの道すがら、時々立ち寄るカフェに入った。充実した観劇で少し疲れた頭を癒したいと思った。カフェの片隅にしばらく座って、いくつかの感想をメモしていたところ、思考の行方は思いがけない方向へ展開していった。舞台の感想については、前回に少し記したし、ガリレオ・ガリレイやベルトルト・ブレヒトについては、かなり前のブログに何回か記したこともある。例のごとく、「17世紀画家シリーズ」からは再三の横道入りだ。


 記憶の仕組みは複雑にもつれてしまった糸玉のようなところがある。しかも、その糸は多くの個所で切れている。一本の糸から次々と思いもかけない事柄が現れてくる。しかし、それは決して連続的ではなく、濃霧の切れ間にふと見える風景のようでもある。論理的にはなにも語ってくれない。そして、この頃は思いついた時に糸口を記しておかないと、再び忘却の深い海に沈んでしまい、ほとんど浮上してこない。

浮かんできた2つの作品

 カフェで観劇の記憶をメモにとり始めた時、急に相前後していくつかの小説や映画のシーンが脳裏に浮かんできた。とりわけ二つの小説、いずれも映画化された。15年から30年くらい前に読んだ作品であった。しかし、これまでほとんど忘れていた。このところ、ブレヒト時代のベルリンやアメリカについて多少考えていたことが、トリガーになったのだろうか。

 それらが突然ほとんど脈絡なしによみがえってきたのは、驚きでもあった。「ガリレイの生涯」の舞台が脳細胞のどこを刺激したのだろう。

 そのひとつはブログでも記したことのあるごひいきの作家ウイリアム・スタイロンの『ソフィーの選択』(1789年刊行)であり、もうひとつはベルンハルト・シュリングによる小説 『朗読をする男、日本語訳:『朗読者』 Der Vorleser、(1995年刊行)、のシーンだった。前者は映画も小説も見た。後者は小説だけだが、著者のアドヴァイスに従い何度か読んだ。いずれも200ページ足らず、文庫版に容易に収まる程度で、決して大きな作品ではない。しかし、そこで問われていることはきわめて重い。だからきっと脳細胞の底に沈んでいたのだろう。愛読書の類ではないが、どこかに強い衝撃が残っていた。

 なぜ、このふたつの異なる小説のことを突然思い出したのか。色々なことが考えられる。後で考えてみると両者には相通じる部分もある。共に主人公ともいうべき女性が、ナチスの収容所における厳しい選択に関わっている。主人公のいずれもが精神の奥深く鋭く刻み込まれた傷を負っている。

 前者では女性ソフィーはナチス収容所収監中、自分の幼い息子か娘のいずれかをガス室へ送る選択を強いられ、残酷な選択をしたトラウマがその後の人生から消え去らない。

 後者では女主人公ハンナ・シュミッツは、ナチス収容所の女看守であった。その時に発生した火災で死亡したユダヤ人の責任を問われている。そして、裁判の被告となり、ある事情で真の犯人の責任を代わって負うような形で長く服役する。

 このふたつの作品ともに、主役あるいは舞台まわしの役割を担うのは、いずれも少年から青年期へ移り変わる年頃の男性である。前者ではスティンゴ、後者ではミヒャエル、そして二人の相手側となった女性は友人の妻ソフィーであり、後者では独身で市電車掌をしながら貧しい日々を過ごすハンナである(とりわけ、ハンナは最初2人が出会った時は40歳近く、少年は15歳だった)。ソフィーの故国はポーランドであり、ハンナはルーマニアだ。さらに二人とも最後には自ら命を絶ってしまうほど、生きて語ることのできない暗い闇の時代を抱えて生きてきた。


朗読をする男
 さて、後者『朗読をする男』のかつての少年ミヒャエル・ベルグは、過去の時代の罪をめぐる裁判で無期懲役となった女囚ハンナの裁判過程にも加わる。自らは裁判官にも弁護士にもなれないと、法学部で法制史の教師として生きる道を選択する。

 ミヒャエルは自らはなにもナチスとは関係がない存在であるにもかかわらず、その後ずっと女囚となった彼女の生涯にかかわる。ミヒャエルが服役して8年も経った時、なにを思ったか、彼が読んだ文学作品や彼女と知り合った頃に読んだ「ホメロス」「ヘミングウエイ」などを朗読し、テープに吹き込み、10年間、飽くことなく送り届ける。読者はなぜ彼女が自分で作品を読まなかったのかと思うだろう。そこにこの作品の秘密のひとつがある。そしてほぼ4年経過した時、短いメッセージが届く。「坊や、この前のお話は特に良かった。ありがとう。ハンナ」。

 そして服役18年で恩赦になり、ハンナは出獄することになる。身よりのないハンナをミヒャエルは訪ねる。かつての中年女性はすでに老女となっていた。そして、なにが起きたか。出所の朝、彼女は自殺していた。彼女の部屋には、ミヒャエルが朗読して送り続けたカセットテープや彼についての小さな新聞記事が、きちんと整理されて残されていた。それからほぼ10年後、大学教授となったミヒャエルはこの幸い薄い女との物語を書いた。

 二つの小説の主人公、ソフィーとスティンゴ、ハンナとミヒャエルの間には、かつて男と女の関係があった。どちらから始まったともいえない年上の女との愛(といえようか)であった。しかし、女の側には贖罪の意識があったのかもしれない。

 この二つの小説を通していえることは、いずれもが単なる男と女の物語ではないことだ。それを突き抜ける暗く深い秘密がある。いずれにも厳しく、残酷に、そして魂の奥をえぐるようななにかがある。ナチスにかかわり、自らが犯した罪。そして、それを裁く仕組みの不条理さ。こうした結末を描く以外に救いの道はなかったのだろうか。

 小説を離れて考える。ある民族の祖先が犯した犯罪は、いったい誰がどこまで責任を負うものなのか。

 ストーリーを記すこと自体、気が重くなる小説である。人間の世界には、いかに多くの不合理、不条理、非正義、悪徳が充ちていることか。「ガリレイの生涯」への思いは、予想もしなかった方向へ広がっていた。



ベルンハルト・シュリンク(松永美穂訳)『朗読者』 新潮文庫、2000年。
映画は『愛を読むひと』(2008年、監督:スティーヴン・ダルドリー)
著者は本書を理解するためには、2度読むことが必要と語っている。

ベルリン、ノーレンドルフ広場での電車の衝突は、1910年に起きた。キルヒナーはこの惨事を描いた。来たるべき時代を暗示するような暗いなんとなく不気味な配色の作品である。


筆者の友人でまったく別の動機で、他人のために本を朗読することを始めた人がいる。この小説と併せて、朗読することの意味を深く考えさせられている。
 

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『ガリレイの生涯』(文学座)を観て

2013年06月17日 | 午後のティールーム



ガリレオ・ガリレイの墓
Source: The Galireo Project



 
列島に熱波が襲来していた一日、文学座『ガリレイの生涯』(ベルトルト・ブレヒト)を観た。演劇や文学とはまったく異なる分野で生きてきたのだが、いつの間にか過ぎた長い人生の幕間に、かなり多くのブレヒト劇や作品に出会ってきた。結果として、時にブレヒト研究者が見なかったものまで見てしまった。


 その源を考えてみると、ブレヒトを専門とされた先生に偶然師事したこと、両親の影響、ドイツやイギリスのブレヒト好きな友人たちなど、いくつかの要因が重なり合っている。ガリレオ・ガリレイと同時代のロレーヌの画家の世界(ガリレオとラ・トゥールはまったくの同時代人)、ブレヒトのアメリカ亡命に関わる資料などなど、予想外に多くの断片がいつの間にか私の周囲や脳細胞に堆積してしまっていた。興味に惹かれて自分の専門とはおよそかけ離れた資料まで手にしていた結果でもある。あるブレヒト専門家とブレヒトの周辺文献について雑談をしていて、その本、私に貸してくれませんかと頼まれ、一寸驚いたこともあった。

 文学座公演の幕間に、ブレヒト研究者が少なくなってしまってという劇団の方のお話があった。そういえばそうだなあと思う。演劇が専門ではないので正確には分からないが、思い起こすと、日本では千田是也、岩淵達治、栗山民也、串田和美、松本修などの演出家の方々による舞台をその時々の興味にまかせて観てきた。しかし、それほど多いわけではない。今回も岩淵達治氏の訳による上演と聞いて、久しぶりに観てみようかと思い立ったのだが、残念にも氏は上演を目前にお亡くなりになった。ただ、ご冥福をお祈りするばかりである。

 文学座がブレヒトの『ガリレイの生涯』を上演するのは今回が初めてと聞いたが、舞台装置もシンプルで全体が見やすく、俳優さんたちも生き生きとして大変素晴らしかった。多少生硬な台詞も次第にこなれて行くだろう。演劇の題名だけを聞くと、なにか堅苦しく、惹かれないかもしれないが、とりわけ若い世代の人たちにぜひ観て欲しい作品と思う。

 このブログを訪れてくださっている方にはある程度伝わっているかもしれないが、この作品はきわめて大きな広がりを持っている。主人公ガリレオ・ガリレイが生きた17世紀は「危機の時代」として知られてきた。最近の研究では危機の範囲は単にヨーロッパにとどまらず、地球規模のものであった。ガリレオ・ガリレイの舞台はイタリアであったが、瞬く間に問題は広くヨーロッパに拡大した。そしてグローバルな次元へと。  

 ベルトルト・ブレヒトが生きた時代は、世界大戦という人類を破滅に導きかねない危機の時代だった。管理人もそのある部分を体験共有した世代だ。今でもどういうわけか時々目に浮かぶのは、ベルリンのカフェで外国人の私に、頼みもしなかったのに、わざわざベルリンの置かれた現状、そして彼の個人的事情までも訴えるように話してくれた隣席のドイツ人の若者の姿だ。その話は彼の置かれた状況自体がきわめて切迫していたことを感じさせた。私自身も20代と若かったのだが、彼は内にこもってどうにもならなくなった心の苦しみを外国人である私に話すことで、少しでも重荷から離れたいと思ったのだろう。後になって、そうとしか考えられないきわめて異様な体験だった。

 そして、別の時、西ベルリンの展望台から壁越しに見た東ベルリンの荒涼とした光景。監視塔にいる東ドイツの守備兵があくびをするのまで見えた。壁のそばにはそれを越えようとして射殺された人々への花輪が並んでいた。

 そして、現代が地球規模のさまざまな危機的状況にあることは、ここで述べるまでもない。このほぼ4世紀を貫いて波状的にわき上がる危機の根源への注視と探索は、この時代を生きる人々、とりわけ若い世代にはどうしても訴えておきたいことだ。現代の日本では、こういうと直ちに3.11に議論が向かってしまうことはいたしかたないが、危機の根源はそれだけではない。この意味では『ガリレイの生涯』のシナリオで異端審問の場が全体として比重が小さかったのが惜しまれた。ガリレオの運命を決めた生涯最大の転機でもあり、とりわけ日本人には多少分かりがたい部分であるからだ。現代世界においても、さまざまな異端審問がうごめいていると私は考えている。

 実はガリレオ・ガリレイについては、思い浮かぶことが多すぎる。熱暑が去って、頭が冷えてから少しずつ書いてみたいこともある。


イタリアとロレーヌ地方、天文学者と画家と、場所、職業は異なるが、ガリオ・ガリレイ(1564-1642)、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)、ジャック・カロ(1592-1635)は、まったくの同時代人であった。とりわけ、ブログにも記したが、ガリレオ・ガリレイとジャック・カロは、トスカーナ大公の庇護の下に活動していた時期があり、お互いに知っていた可能性はきわめて高い。

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画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(10):ジャック・カロの世界

2013年06月12日 | ジャック・カロの世界

 

ジャック・カロ
クロード・ドゥリュ Claude Deruet (1588 Nancy-1660 Nancy) と息子アンリ・ニコラの肖像画
1632年

画像拡大はクリック(以下同様)



フランスの郵便切手にも採用されたカロの作品

 ガリレオ・ガリレイの世界については、考え出すと思い浮かぶことが多く、とてもまとまらない。文学座の公演を見れば、脳細胞も刺激され、雑念も整理されてさらに新たな発想が思い浮かぶような気もしている。ひとまずこのテーマの路線へ戻ることにしよう。

 ガリレオ・ガリレイも17世紀ヨーロッパ階級社会の一員であった。彼は天文学者で大学教授ではあったが、イタリアでの社会階層での位置づけは決して高いものではなかった。優れた銅版画家のジャック・カロがトスカーナ大公の庇護の下でしか、十分な仕事ができなかったように、彼らは時代を支配していた貴族層のパトロンを後ろ盾として、物心両面の支援なしには自分の持つ能力を十分に発揮することはできなかった。自らの力だけでその才能を開花させることはきわめて困難な時代であった。

17世紀貴族の実態

 他方、イタリアでも、フランスでもあるいはイギリスでも貴族たちの多くは、自分たちが属する貴族という階級のなかでの昇進を目標にして生きていた。そのためには、自分たちの存在、そして仕事ぶりを他者に認めさせることが必要だった。いわば公的な人間ペルソナとしての社会的な誇示をしていないと、支配者が代わると、貴族の称号やそれにまつわる特権さらには社会的評価も消滅し、認められなくなることも頻繁に起きた。そのため、貴族は「貴族らしく」、衣装、礼法、言葉使い、同僚や上位の貴族層とのつきあい方などに大きな努力をしていた。ひとたび獲得した貴族的特権はそれらを行使しなければ、社会的に次第に認知されなくなり、形骸化、風化してしまう。さらに、その時代の「貴族」のイメージに合致しない人物は良かれ悪しかれ隅に追いやられてしまう。

 パン屋の息子ではあったが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが貴族の娘と結婚し、それを契機に貴族的特権の請求をロレーヌ公に行い、それらが認められた後は、ことあるごとにその行使を行っていたのは、下級貴族として生きるために、それなりの理由があったのだ。現代社会の尺度で、それらを傲慢とか、強欲の結果と断定するのは、やや早計と思われる。ラ・トゥールのように、天賦の画才に秀でた功績で貴族となった者は、多くは一代かぎりであった。しかし、できることならば息子たちなど次の世代へも継承させたいと思うことも人の常であった。ラ・トゥールも例外ではなかったと思われる。

 近世初期のフランスなどでは、生まれた子供の大部分は成人に達することなく死んでしまった時代でもあり、貴族あるいはそれに伴う特権・地位を確保し、家系の次の世代にまで継承させることは容易なことではなかった。

 この時代における貴族に関する研究や文献はきわめて多いが、それでも貴族層の実態は不明な部分が多く残されている。いったい貴族が何人くらいいたのかも諸説あって定かではない。その種類、授与の内容も複雑多岐にわたる。

 すでにブログに記したこともあるが、祖父や曾祖父などの代で功績と忠誠を認められて、所領や家紋を授与されながらも、時代とともにいつの間にか風化し、それに気づいた孫や曾孫の世代になって、かつての地位・特権の復権、名誉回復などを求める動きは多数存在した。

 中世以来、先祖の武勲などで貴族となり、名門の誉れ高い家系では、さほどの努力をすることなく、子孫代々までその地位と特権を享受することができた。しかし、中・下層の貴族たちは、彼らの特権がどこに由来するのか、きわめて不確実であり、しばしば一代かぎりでもあった。

 ブログに登場するジョルジュ・ド・ラ・トゥールの家系についても、母方には貴族の血筋があったかもしれないという研究もある。また、常連の読者の方は、ご存知の通り、ジョルジュの息子エティエンヌが画家としての資質や向上意欲?に欠けていたがために、親の七光りで授与された貴族の称号・地位に固執し、最終的には領主への道を選択し、画家としての家系を意図的に?消し去っていったという指摘もなされている。

貴族の条件

 トスカーナ大公にその画家としての力量を認められたジャック・カロのような宮廷画家の仕事は、貴族たちの注文に応じて、自画像・ポートレイトを作成することも重要な仕事に含められていた。その場合、画家は画像に描かれる人物の地位、知識・教養、職業などが見る者に分かるようにしなければならない。描かれる者の社会的地位が誇示されることになる。当時は、そのための決まりがすでに定着していた。情報伝達手段が限られていた時代、肖像画は描かれた者の社会的存在意義を世の中に知らしめるきわめて重要な方法だった。

 カロが描いた肖像画は、実際には自画像を含み15枚程度と以外に少ない。その中には、ロレーヌ公シャルルII世、メディチ家コジモII世なども含まれる。

 こうした時代環境であったから、「貴族はどうあるべきか」という話題は大きな注目を集めた。そのための条件を記した下記のガイドブック、カスティリオーネの『宮廷人必携』(Castiglione's The Book of the Courtier) は当時いわば国際的ベストセラーとなった。今日読んでもなかなか興味深い本だが、とりわけ貴族たるものは「優雅さ」(grase, grazia)、「(貴族であることを意識させない)無関心さ」(nonchalance, sprezzatura) があげられていることが興味深い。社会の指導者の人格、力量などが話題にされることが多い現代にもつながる記述も多く、時代を超えて人間社会の機微の複雑さを思わせる。

  さらに一挙手一投足、日常の振る舞い、習慣、装いなども必要な条件であった。自らの相対的な立場を認識していない者は、ひどく軽蔑された。貴族もそれぞれのたっている状況を認識して身なりなども整えることが要求されていた。

 画家のClaude Deruet, Jacques Callotなどは貴族に任じられ、一般の貴族よりはランクが上であったが、
 長い家系上の血統を保持する「(真に純粋な)貴族」とは遇せられなかった。文筆に優れた人々、学者、画家などの芸術家に授与された貴族のタイトルであった(彼らは、Letters of Noblementを贈られてはいる。しかし、”正統貴族”との間にはさまざまな壁があった)しかし、この時代においても評価の重点が置かれたのは、遠い祖先たちの成果ではなく、その時代に生きる貴族自身の徳と行動とされていたことは、興味深い。

 クロード・ドゥリュの場合は、ロレーヌ公から貴族の称号を授与された後、ほぼ10年後には、gentilhomme (紳士・貴族)という稀な称号も得て、階層中における地位を高めている。やや後年になるが、モリエールの『町人貴族』 Le Bourgeois Getilhomme のコメディ・バレ(1670年初演)で取り上げられているのは、貴族(gentilhomme)になんとかなりたい愚かな金持ちの商人(bourgeois)を取り上げている。当時の貴族のイメージ、他方金銭的には裕福だがなにか欠けているとされるブルジョワのイメージが興味深く描かれている。


 この問題は深入りするときりがない。ひとまず棚上げにする。

 さて、上掲の画像は、カロが恐らく1632年の記念すべき年に友人の姿を描いたものである。描かれた人物ドゥリュにとっては、得意絶頂の時と思われる。カロは当時のマナーに従って、ドゥリュ家に授与された家紋も適切な場所にしかるべく描きこんでいる。ロレーヌ公ばかりでなく、フランス王ルイXIII世も、ドゥリュ
に1645年に貴族の称号を授与している。人物の背景にはナンシーの市街、とりわけドゥリュの当時著名であった豪邸も描かれている。ルイXIII世がナンシー入りした時、宮殿よりもドゥリュの邸宅に滞在することを望んだほどの豪華な邸宅だ。そして、得意満面の父親の傍らに、息子アンリ・ニコラは小さなマスケット銃と銃架を持って描き込まれている。恐らく、そうしてほしいとのドゥリュの希望の反映であろう。

 ドゥリュはその画業生活を通して、カロのように社会の貧民層を描くことはなかった。生涯を通して、豪華絢爛たる宮廷などにかかわる社会的上層の有様しか取り上げていない。その生き方は、当時の宮廷社会の上層部にはおそらく好まれたのだろう。カロのように社会の下層部に位置する貧民層に目を受けることはなかった。しかし、カロはこうした社会観の異なる友人にも画家として適切な敬意を払って友人の晴れ姿をしっかりと残している。

 




ジャック・カロ自画像

 

 名門貴族のように、所領などの財産が十分ではない貴族・ブルジョワにとっては、裕福な家から妻を娶ることも、この時代しばしばみられた処世術であった。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが貴族の妻と結婚したように、ジャック・カロも1623年ナンシーの富裕な家で、貴族層とつながりもあったクッティンガー家から妻カトリーヌを娶った。
 
 イタリアではすでに十分認められた銅販画家であったが、トスカーナ公の死後、故郷ナンシーへ戻ったカロにしばらく大きな仕事は来なかった。しかし、この結婚を契機に、カロの画業は急速に上昇・発展への道をたどった。17世紀、内助の功といえようか。

 




ジャック・カロ
妻カトリーヌと子供肖像

 

 

 

続く

 

 

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