Bernhard Schlink. Der Vortleser.
Zurich:Roman・Diogenes, 1995.*
本書の表紙に著者がキルヒナーのこの作品を採用したのはいかなる意味があるのだろうか。
文学座『ガリレイの生涯』を観た帰りの道すがら、時々立ち寄るカフェに入った。充実した観劇で少し疲れた頭を癒したいと思った。カフェの片隅にしばらく座って、いくつかの感想をメモしていたところ、思考の行方は思いがけない方向へ展開していった。舞台の感想については、前回に少し記したし、ガリレオ・ガリレイやベルトルト・ブレヒトについては、かなり前のブログに何回か記したこともある。例のごとく、「17世紀画家シリーズ」からは再三の横道入りだ。
記憶の仕組みは複雑にもつれてしまった糸玉のようなところがある。しかも、その糸は多くの個所で切れている。一本の糸から次々と思いもかけない事柄が現れてくる。しかし、それは決して連続的ではなく、濃霧の切れ間にふと見える風景のようでもある。論理的にはなにも語ってくれない。そして、この頃は思いついた時に糸口を記しておかないと、再び忘却の深い海に沈んでしまい、ほとんど浮上してこない。
浮かんできた2つの作品
カフェで観劇の記憶をメモにとり始めた時、急に相前後していくつかの小説や映画のシーンが脳裏に浮かんできた。とりわけ二つの小説、いずれも映画化された。15年から30年くらい前に読んだ作品であった。しかし、これまでほとんど忘れていた。このところ、ブレヒト時代のベルリンやアメリカについて多少考えていたことが、トリガーになったのだろうか。
それらが突然ほとんど脈絡なしによみがえってきたのは、驚きでもあった。「ガリレイの生涯」の舞台が脳細胞のどこを刺激したのだろう。
そのひとつはブログでも記したことのあるごひいきの作家ウイリアム・スタイロンの『ソフィーの選択』(1789年刊行)であり、もうひとつはベルンハルト・シュリングによる小説 『朗読をする男、日本語訳:『朗読者』 Der Vorleser、(1995年刊行)、のシーンだった。前者は映画も小説も見た。後者は小説だけだが、著者のアドヴァイスに従い何度か読んだ*。いずれも200ページ足らず、文庫版に容易に収まる程度で、決して大きな作品ではない。しかし、そこで問われていることはきわめて重い。だからきっと脳細胞の底に沈んでいたのだろう。愛読書の類ではないが、どこかに強い衝撃が残っていた。
なぜ、このふたつの異なる小説のことを突然思い出したのか。色々なことが考えられる。後で考えてみると両者には相通じる部分もある。共に主人公ともいうべき女性が、ナチスの収容所における厳しい選択に関わっている。主人公のいずれもが精神の奥深く鋭く刻み込まれた傷を負っている。
前者では女性ソフィーはナチス収容所収監中、自分の幼い息子か娘のいずれかをガス室へ送る選択を強いられ、残酷な選択をしたトラウマがその後の人生から消え去らない。
後者では女主人公ハンナ・シュミッツは、ナチス収容所の女看守であった。その時に発生した火災で死亡したユダヤ人の責任を問われている。そして、裁判の被告となり、ある事情で真の犯人の責任を代わって負うような形で長く服役する。
このふたつの作品ともに、主役あるいは舞台まわしの役割を担うのは、いずれも少年から青年期へ移り変わる年頃の男性である。前者ではスティンゴ、後者ではミヒャエル、そして二人の相手側となった女性は友人の妻ソフィーであり、後者では独身で市電車掌をしながら貧しい日々を過ごすハンナである(とりわけ、ハンナは最初2人が出会った時は40歳近く、少年は15歳だった)。ソフィーの故国はポーランドであり、ハンナはルーマニアだ。さらに二人とも最後には自ら命を絶ってしまうほど、生きて語ることのできない暗い闇の時代を抱えて生きてきた。
朗読をする男
さて、後者『朗読をする男』のかつての少年ミヒャエル・ベルグは、過去の時代の罪をめぐる裁判で無期懲役となった女囚ハンナの裁判過程にも加わる。自らは裁判官にも弁護士にもなれないと、法学部で法制史の教師として生きる道を選択する。
ミヒャエルは自らはなにもナチスとは関係がない存在であるにもかかわらず、その後ずっと女囚となった彼女の生涯にかかわる。ミヒャエルが服役して8年も経った時、なにを思ったか、彼が読んだ文学作品や彼女と知り合った頃に読んだ「ホメロス」「ヘミングウエイ」などを朗読し、テープに吹き込み、10年間、飽くことなく送り届ける。読者はなぜ彼女が自分で作品を読まなかったのかと思うだろう。そこにこの作品の秘密のひとつがある。そしてほぼ4年経過した時、短いメッセージが届く。「坊や、この前のお話は特に良かった。ありがとう。ハンナ」。
そして服役18年で恩赦になり、ハンナは出獄することになる。身よりのないハンナをミヒャエルは訪ねる。かつての中年女性はすでに老女となっていた。そして、なにが起きたか。出所の朝、彼女は自殺していた。彼女の部屋には、ミヒャエルが朗読して送り続けたカセットテープや彼についての小さな新聞記事が、きちんと整理されて残されていた。それからほぼ10年後、大学教授となったミヒャエルはこの幸い薄い女との物語を書いた。
二つの小説の主人公、ソフィーとスティンゴ、ハンナとミヒャエルの間には、かつて男と女の関係があった。どちらから始まったともいえない年上の女との愛(といえようか)であった。しかし、女の側には贖罪の意識があったのかもしれない。
この二つの小説を通していえることは、いずれもが単なる男と女の物語ではないことだ。それを突き抜ける暗く深い秘密がある。いずれにも厳しく、残酷に、そして魂の奥をえぐるようななにかがある。ナチスにかかわり、自らが犯した罪。そして、それを裁く仕組みの不条理さ。こうした結末を描く以外に救いの道はなかったのだろうか。
小説を離れて考える。ある民族の祖先が犯した犯罪は、いったい誰がどこまで責任を負うものなのか。
ストーリーを記すこと自体、気が重くなる小説である。人間の世界には、いかに多くの不合理、不条理、非正義、悪徳が充ちていることか。「ガリレイの生涯」への思いは、予想もしなかった方向へ広がっていた。
*
ベルンハルト・シュリンク(松永美穂訳)『朗読者』 新潮文庫、2000年。
映画は『愛を読むひと』(2008年、監督:スティーヴン・ダルドリー)
著者は本書を理解するためには、2度読むことが必要と語っている。
ベルリン、ノーレンドルフ広場での電車の衝突は、1910年に起きた。キルヒナーはこの惨事を描いた。来たるべき時代を暗示するような暗いなんとなく不気味な配色の作品である。
★
筆者の友人でまったく別の動機で、他人のために本を朗読することを始めた人がいる。この小説と併せて、朗読することの意味を深く考えさせられている。