時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

終わりの始まり(2):EU難民問題の行方

2015年09月23日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

 

 

  果てしなく続く線路を着の身着のまま歩く人たち、誰かが動けば一瞬にして転覆しそうなボートに救命具もつけずに満載された人たち。まだ幼い子供の姿もある。


世界の人々の目がシリアや北アフリカからの移民の実態に目を奪われて いた時、日本は安全保障法案をめぐる国会の動きに、騒然とした日々を送っていた。日本の政府・与党関係者は、EUのことなど考えていられなかったのだろう。菅義偉官房長官は9月11日午後の記者会見で、難民の受け入れについて「現時点において欧州連合(EU)から要請はない」と明らかにした。その上で「国際社会と連携しながら、わが国ができることはしっかりやっていきたい」との見解を示した[東京 11日 ロイター]*。 恐らく、他の時であっても日本はほぼ同じ見解表示であったに違いない。日本は難民に厳しい国という評価が定着している。

真に評価される国際協力とは、どこから要請がなくとも、こうした事態に自発的に支援の手を延べることではないか。対応の迅速性がその国の評価を定める。ヨーロッパで問題が深刻化するや、アメリカ、オーストラリアなどは、直ちに一定数のシリア難民受け入れを表明した。アメリカは難民受け入れ数を今の約7万人から2017会計年度(16年10月から17年9月)に10万人にまで拡大すると発表した。シリアからは最低1万人は受け入れる準備があるとしている。

 エクソダス(大脱出):その行く先は
このたびのヨーロッパでの難民問題のように、人の移動は実際に発生するときわめて対応が難しい。国際化に伴って、ヒト、モノ、カネの移動が拡大した。ヒトの移動はモノ、カネにはない難しさがある。移動する人自らが意志決定して行動する。そのため、モノ、カネとは異なった思いもかけない動きが生まれる。

 最近のヨーロッパ大陸に起きている難民の移動をEXODUS (旧約聖書「出エジプト記」にあるイスラエル人のエジプト脱出)にたとえる報道もある(The Economist September 12th-18th) 2015。激しい内戦の場と化したシリアに見切りをつけ、祖国を出て行く彼らに安住の地は告げられているのだろうか。

彼らの行く先は
The Economist, cover 


難民・移民問題が「外国人労働者」という形で注目を集めるようになった1980年代以降、日本人の考え方には大きな変化はないが、実態は大きく変化した。外国人労働者はもはや珍しい存在ではなくなった。過去40年近くにわたり、問題を観察してきたが、この分野で日本が世界で主導的あるいは積極的に動いたことはほとんどなかった。むしろ、世界から批判されるような制度を存続させてきた。

ヒト、モノ、カネの自由化の動きで、ヒトの移動が最も難しい問題を秘めている。現在進行している難民問題のように、突如としてEUなどの存立基盤を脅かしかねない動きが起きる。ヨーロッパ諸国のように、長い移民・難民にかかわる歴史を持っている国々でも、対応に苦慮する事態が突如として起きる。幸い,日本は経済成長にほぼ見合った人口増加などがあったことで、深刻な事態を経験することなく、今日までやってこられた。しかし、その基盤がいつまでも安定ではありえないことは、いうまでもない。

想像したくもない光景だが、中国大陸や北朝鮮などに万一政治的・経済的破綻が生じ、多数の難民が流出するような事態が、将来起きないとは誰も保証できない。実際、1949年、中国での共産党との内戦に敗れ、台湾に中華民国中央政府が移転した時、正確な数字は今もって不明のようだが、1945年から1950年前後までにおよそ100―250万人の人々(軍人・軍属、国民党・政府関係者、難民など)が台湾に流入したと推定されている。流入前の当時の台湾の人口は約600万人だった。戦後、中国と台湾が外交上の緊張関係にあった当時、台湾では、こうした事態が発生した場合の対応が真剣に議論されたことがあった。

EUのヒロイン、メルケル首相の今後
EUが難民問題への対応に騒然とし始めた頃、ドイツのメルケル首相は率先して矢継ぎ早に自国への受け入れに動き、フランス、イギリスなどの説得に奔走してきた。EUはシリア、イラクなどからの難民計16万人を、今後2年間で受け入れるよう各国別に割り当てる案を加盟国に示した。これに対して、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、バルト3国など中・東欧諸国は、割り当ての義務づけに強く反対した。英国、デンマーク、アイルランドはEUの移民政策の適用除外国になっていた。

ギリシャ問題など山積するEUの難問に果敢に挑戦するメルケル首相には、今回の対応では率先して動き、「人道主義のヒロイン」との讃辞が寄せられていた。ハンガリーから、オーストリアを経由してドイツへ到着する難民満載の列車を、市民が花束や食料を持って出迎える光景は、難民にとっては、やっと「安住の地」へたどり着けたという安堵感を生みだした。大規模な仮設テントと水、食料,衣服などが余るほど準備されていた。

ドイツだけでは解決できない!
ドイツが人道的で寛容な国というイメージは格段に高まった。しかし、ドイツがいくら寛容であっても、受け入れには限度がある。冬が近づけば、仮設テントの生活は続けられず、より恒久的な難民用アパートなどへの収用体制が求められる。難民申請を受理してから、審査には最低でも半年を要するといわれる。ドイツは想定を越えて急増する難民・移民に対応することが不可能になった。

今回はドイツといえども、受け入れにも限度があると感じたのだろう。メルケル首相は事態の急変に、厳しい姿勢に転換、オーストリアとの国境管理を再開すると声明、オーストリア、スロヴァキア、オランダなども独自に国境管理の強化に転換するとした。これらの措置は、加盟国間の自由な人の移動を認めるシェンゲン協定に違反するものではなく、一時的な暫定措置としているが、国境を以前のように自由な域内移動を認める方向で再開する目途はない。

メルケル首相はEU加盟国への協力を求め、EUは9月22日、緊急の内相理事会を開催、シリアなどからの難民のうち、すでに受け入れが決まっている4万人を除く計12万人を加盟国に人口や経済力の基づいて割り当てる案でいちおう合意に達した。

他方、EU内部では難民受け入れに強硬な態度をとる国もあり、たとえば、EUの東側でシリア難民などの最初の入国あるいは経由地になるハンガリーは、事態の急変とともにセルビアとの国境に有刺鉄線を張り巡らし、催涙ガスまで使用して難民の入国を拒んだ。ハンガリー政府は、さらに障壁をルーマニアとの国境にまで設置するとして周辺諸国からも反発を生んでいる。

EUの命運を定める難民・移民政策
難民の数にしておよそ16万人の規模までは、なんとか対応できるかもしれない。しかし、ポーランドのように国内世論が割り当ての受け入れに反対する動きなどがあり、予断を許さない。フランス、ドイツなど受け入れ数が多い国では、地域経済などへの影響もあり、反対が強まるかもしれない。

ITネットワークの発達などで、情報伝達が迅速になったことで、移民、難民など当事者の行動もかなり変化はしている。しかし、ひとたびドイツへ向かうことを決めた難民には、簡単に目的の国を変更する余裕はない。ドイツが当初ほど寛容な難民受け入れが難しくなっているということはすでに伝わっているだろう。しかし、彼らは少しでも入口が開いていると考えるドイツへ向けて歩き、入国を果たし、庇護申請をしようとする。ちなみにEUでは難民は、最初に到着した国で認定手続きを行うことになっている(ダブリン・ルール)。

後戻りするヨーロッパ?
2015年のEUの難民申請数は前年の3倍を越える200万人に達するとみられている。審査を難しくする要因のひとつは、難民と経済的移民の区別が実際上、きわめて困難なことにある。仮に祖国を追われた難民といえども、受け入れたからにはできるかぎり早く自立してもらわねばならない。ハンガリー、ポーランド、スロヴァキア、チェコなどの東欧・中欧諸国は自国民の雇用機会が難民によって奪われると危惧している。実際にはこうした国々は、人口減少が大きく、国内には看護・介護、建設あるいはIT分野で深刻な人手不足が生じている。しかし、仕事の機会についての情報はなかなか正確に当事者に伝わらない。

ヒトの移動の自由化は、モノ、カネの自由化以上にEUの最重要な理念である。しかし、このたびの難民流入で、再び強固な国境で分断されることになれば、EUが理想としてきた構図は事実上崩壊することになる。強靱な思考と迅速な行動で、これまで幾度もの危機を救ってきたメルケル首相だが、いかなる心境なのだろうか。


 

 

 9月15日法務省は今後5年間にわたる難民認定制度の運用方針を含む「第5次出入国管理基本計画」を公表した。紛争避難者の在留を認める内容だが、シリア難民などの受け入れを念頭に置いているわけではない。今後の受け入れ数は未知数のままである。(『朝日新聞』2015年9月15日夕刊。

Reference

"EXODUS"  The Economist September 12th-18tj 2015

 経済開発協力機構(OECD)は9月22日、ヨーロッパでの難民申請は最大で100万件に達するとの見通しを示した。(OECD. Migration Outlook, 2015)

Informateion

9月22日の臨時内相・法相理事会でほぼ内定した12万人の難民分担内訳:
振り分け先が決まった分: 66,000
ドイツ           17,036人
フランス          12,962
スペイン          8,113
ポーランド         5,082

反対した中東欧諸国への割り振り
ルーマニア        2,475
チェコ            1,591
ハンガリー         1,294
スロヴァキア         802 

残る54,000人は1年後に改めて割り当てる

 

★「すべてが終わるまでは、終わりではない」(It ain't over til it's over ヨギ・ベラの言葉と伝えられる。)
アメリカ野球史上に大きな足跡を残した捕手でニューヨーク・ヤンキースなどの監督もつとめたヨギ・ベラ Lawrence Peter "Berra" Lawrence さんが9月22日、90歳で亡くなったことを知った。ご自宅はニュー・ジャージー州モントクレアにあり、ご近所に住んでいた友人の縁で偶然にお会いした。現役を引退し、ヤンキーズの監督に就任された年であったと思う。今のように日本人選手の数は少なく、覚えているのはサンフランシスコ・ジャイアンツで活躍されていた村上雅則投手くらいだった。心からご冥福をお祈りしたい。
 

追記(2015/10/04)
The Economist October 3rd-9th 2015 が上記の言葉をタイトルとして、追悼録を掲載している。、 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終わりの始まり(1):EU難民問題の行方

2015年09月10日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

ハンガリーの鉄道線路にしがみつき、警官による強制送還を逃れようとする人たち
Source: Financial Times, September 4th 2015





 前回に紹介したマンガ(劇画)として描かれた17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの話は、フィクション(虚構)ではあるが、かなりの程度、確認された史実に即している。その一部分だけ種明かしをすると、物語は戦争、悪疫、天災、飢饉などが次々と襲ってきた17世紀「危機の時代」を、画家とその家族がいかに生き延びるかという話が描かれている。画家が生まれ育ったロレーヌは、この時代、30年戦争などの戦場となり、画家を含む住民たちは、そのたびに少しでも安全な場所へと避難を迫られた。マンガにも画家の一家が逃げ惑う光景が出てくる。言い換えると、この時代、ロレーヌの民は君主も含めて、現代の難民のような状況に追い込まれることが稀ではなかった。

実際、ロレーヌ公自身が亡命している。町が軍隊の侵攻で襲われ、略奪、暴行、火災などで脅かされることは、しばしば起きた。それらの光景はこのブログでもたびたび記したジャック・カロの『戦争の惨禍』に描かれている。住民の多くを占める農民などは逃げる場所さえなかった。少しでも安全な地へ避難するには、それなりの資金や伝手が必要だった。今日の移民、難民が多額の金をブローカーにとられながらも、少しでも安全な地へ逃れたいと思うのと同じである。ラ・トゥール一のように、裕福な家族は馬車を雇ったりして、公国の公都ナンシーの隠れ家などへなんとか避難した。しかし、その道は今日と異なり、山道といってよい難路であり、追いはぎ、強盗などが頻繁に出没した。ブログにもその光景を描いた資料(時代小説)を紹介したこともある。この時代のロレーヌの状況は現在のシリアや北アフリカとあまり変わらないともいえる。ラ・トゥールが護身用にピストルを自宅に所有していたことは記録に残っている。画家の自宅に徴税吏が来た時の光景がほうふつとする。

写真の力が訴えるもの
一枚の写真が閉塞した問題状況を切り開く力となることは、これまでの歴史の過程でも時々あった。東や南から押し寄せる難民に門戸を閉ざしていたEU諸国が、大きな衝撃を受けた写真が、メディアで話題になっている。

シリア難民の父親(家族で唯一の生存者)が、溺死して波打ち際に横たわっている光景、そして
幼い息子の遺体を抱いて、トルコの海岸に立ちつくしている写真は多くのメディアのトップに掲げられた。さらに、9月4日のEU諸国の新聞やTVは、ハンガリーの小さな鉄道駅Bicskeで幼児を抱き抱えた妻と夫が鉄道線路に横たわり、それを引き離して送還しようとする警官に抵抗する迫真力を持った写真(上掲)が掲載されたり、TV報道された。


これまで増え続ける難民に、頑なな対応を維持していたEU諸国も衝撃を受けたのだろう。人道的視点から態度を軟化し、難民受け入れ人数を増やす方向に動き出した。EU本部は、今週、難民受け入れ数をわずか2ヶ月の間に4倍に増やすことで各国との協議を始める予定だ。ドイツとフランスはなんとか協調できるようだ。そして、受け入れに抵抗していたイギリスも仕方なく方向を修正する。しかし、受け入れる数はドイツが際立って大きく、他は依然として付き合い程度という感がある。他の東欧諸国は国力もなく、最近までは移民の送り出し国だった。引き受ける態度を示していない。

今年、移民、難民の最前線、ギリシャ諸島からブダペストへの移動者数は、35万人に達した。彼らは生存のために、少しでも可能性の高い地域を求めてさらに移動する。IT技術の発達で、彼らは自分たちがいかなる状況に置かれており、どこへ行けば受け入れられるかを探索している。地中海をブローカーのボロ船で渡ることが危険であることが分かってくると、陸路を選択する難民、移民が増加する。まさに、グローバル・マイグレーションの本格化である。

鍵を握るドイツ
難民・移民の目指す先として、格段に突出しているのは、受け入れに寛容とみられるドイツである。すでに多くの難民がミュンヘンなどドイツ南部へ到着し、市民から歓迎される光景が報道された。 このドイツの寛容さを支えているのが、人道主義的観点から難民受け入れに対応するメルケル首相の指導力だ。そのメルケル首相でさえ、9月5日の週末は「息を呑むようだった」と述べたほどだった。

The Economist 誌(September 5th,-11th, 2015)は「勇敢なメルケル」Merkel the bold と強く賞賛している。すでに彼女の評伝は多数刊行されているが、際立つのはその目立たないが、果敢な決断力だ。ドイツは過去の歴史のこともあり、EUでは突出した経済力を擁しながらも、メルケル首相はできうるかぎり、他国との協調を図り、目立たないように行動しているといわれる。かの「鉄の女サッチャー首相」と比較しても、堅実で地味に、しかし、驚くほど巧みに行動してきた。東ドイツでの忍耐を強いられた日々の経験が生きているのだろうか。首相就任以来の彼女の服装は、もうおなじみのものとなった。 

メルケル首相はシェンゲン協定(パスポート・フリー・ゾーン)諸国も庇護申請者の受け入れをしないと破綻するとしている。しかし、ハンガリーなど、中・東欧には受け入れ反対の国が多い。確かに8月だけでもハンガリーには5万人が流入している。難民は最初に庇護申請をした国に留まるべきだとするダブリンIIIルールは機能しなくなっている。

厳しい試練
過去数年間、ヨーロッパはシリアや北アフリカの問題をほとんど真正面からとらえることを避けてきた。
シリアの破綻はアメリカがイラクに侵入した結果だと考えてきた。リビヤはカダフィを追い出したことで終わったと思っていたかもしれない。

ヨーロッパの主要国は、緊縮財政、不況、そして決して解決できないユーロ危機に頭を悩ませてきた。シリアのアサドの暴政あるいはISの犠牲者である難民についても、周辺的問題としてきた。しかし、いまやその周辺問題がE、Uの基盤、結束を揺るがし、分裂させかねないところにまでなっている。

近年、EU は中心的結束力を失い、空洞化している。唯一安定し、実質的基盤を維持しているドイツは、EUの崩れそうな土台を懸命に支える役割を負わされている。ベルリンは今年80万人近い庇護申請者を事務処理しなければならないかもしれない。フランス、イギリスなどの加盟国が及び腰であったことが、ドイツの負担を大きくした。

さらに、ハンガリーの首相ヴィクター・オルバンが175kmのレーザーワイヤーの壁を国境に張り巡らそうとしていることだ。さらにスロヴァキア政府はイスラムでない難民だけを受け入れ審査の対象にするとしている。旧共産圏の国々が誤った路線をとりつつある。自国がEU加盟を果たせば、後はシャットアウトするというのも、拙速な感じがする。新しい移民・難民システムの再構築の中で、考えてほしい。

元来、同じような発展段階、体制にない国々をEUの傘下に入れることは、いずれ自らの存立を脅かすことは、ほぼ予測されたことだ。難民、移民はいまやEUの域内外から基軸国を目指し押し寄せてくる。しかし、状況をグローバルな視点で見渡すと、EUだけでこの問題を解決することは、ほとんど不可能だ。すでに、オーストリラリアやスエーデン、、そしてアメリカが一定数の受け入れを表明している。厳しい人口減少に直面している日本は、相変わらず沈黙しているだけだ。いくら国際協力を標榜しても、苦難の時に手を差しのべてくれない国には信頼は生まれない。

EUの領域に限っても、加盟国の協調なしには、もはや解決の道はない。必要とされるのは、グローバルな視点に立って、EU全域に適用しうるよく考えられたシステムを再構築することだ。メルケル首相はまた働かねばならないだろう。そのためにも、移行措置となる最初の割り当てだけは、各国は受け入れるべきだろう。時間の浪費は事態の悪化をもたらし、解決を不可能にし、域内諸国の分裂を深めるばかりだ。それ以上に火急の急務は、難民の流れ出るシリアの内戦の停止など、火元の消火活動だ。燃えさかる火災を放置したままで、難民問題の解決は考えられない。




References

Financial Times September 4th 2015
The Wall Street Journal, September 8th 2015 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンガになったラ・トゥール

2015年09月01日 | 書棚の片隅から



Li-An & Laurence Croix, Georges de La Tour 
over

拡大は画面クリック


 

マンガにもなったラトゥール
 日本のマンガの影響力は、すでに世界的規模に及んでいるが、日本に次いで最も大きなマンガ文化圏を構成するまでになっているのは、フランスかもしれない。そのフランスで、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのマンガ(劇画)が出版された。「偉大な画家たち」 Le Grands Peintres というシリーズの1冊である。すでにヤン・ファン・アイク、ピーター・ブリューゲルなどを題材としたマンガが刊行されている。マンガにしうるほど、この画家はフランスそして英語圏でも知られており、小説や映画にもなっている。最近では研究が進み、断片的ではあるが、かなりの史実が明らかになっている。しかし、画家がいかなる容貌をしていたのか、プッサンやステラのような自画像も残っていない。したがって、マンガに出てくる画家の顔も、とりたてて根拠があるものではない。

日本では、ラトゥール(1593ー1652)という画家の名前も、作品、生涯も一部の愛好家の間でしか知られていない。今日に残る真作は50点近くにすぎないが、日本にも国立西洋美術館の『聖トマス』を含めて、2点が所蔵されている。

プッサン以上にフランス的画家
この画家については、名前が似ている18世紀の画家カンタン・ド・ラ・トゥール(1704ー1788)と取り違えている人に出会ったりして、がっかりしたことも少なくない。17世紀フランスの画家といえば、ニコラ・プッサン(1594ー1665)、クロード・ロラン(本名ジュレ、1600ー1682)などが知られているが、彼らはフランスあるいはロレーヌ生まれでありながら、その画家生活はすべてイタリア、とりわけローマであり、二人とも故国へ帰ることはなかった。

その意味ではラトゥール自身、ロレーヌ公国という小さな国で画業を続けていたが、ほとんどフランスの政治的、文化的な強い影響下にあった。ラトゥール自身、ロレーヌとフランス、とりわけパリの間を往復しながら、画業を続けた。ラ・トゥールは、ローマなどで有力なパトロンの庇護の下で、芸術的な環境にも恵まれて、豊かな画業生活を送っていた画家たちと比較して、いつ外国の軍隊が攻め入ってくるかも分からない不安に満ちた日々を過ごしながら、家族を守り、転々と避難を繰り返し、文字通り劇的な生涯を送った。パン屋の次男として生まれながら、不安定な画家への道を選び、その才能を買われて貴族の娘と結婚したり、貧困に苦しんだ農民などからはうらまれるような裕福な生活を送った。絵の才能以外にも、処世の術にもたけていた。しかし、このマンガが対象とした時期には、10人生まれた子供のうち6人は生きていなかった。

さて、このマンガ、フランス語であることは別として、大部分はフィクションである。それも画家の生涯のほんの一部に過ぎず、あらかじめ画家についてのかなりの知識がないと、最初のページからなんだか分からないという状況になるだろう。マンガの作者は、かなり工夫をして、それぞれの場面を描いているので、登場する人物が誰であるかを想像するのも楽しい。フィクションといっても、要所要所は、史実の裏付けがなされている。(文末には簡潔な画家と作品の紹介、位置づけが付されている)。

筋書きを記すわけにはゆかないが、たとえば第1ページ、最初の光景は次のような場面である。これがなにを意味しているか分かれば、お見事と申し上げたい。 



そして、下記のそれぞれの人物の名前あるいは位置づけは。フランス美術史専攻の方でも難しいでしょう。ヒントは当時ラ・トゥールが生活を共にしていた家族、使用人などです。研究が進み、今では作品だけ見ていたのでは分からない、この画家の意外な側面も明らかになっています。



Reference
Li-An & Laurence Croix, Georges de La Tour, Glenoble, Clenat, 2015.


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする