時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

僅差が生む大きな衝撃:アメリカ連邦最高裁移民判決

2016年06月29日 | 移民政策を追って

 

アメリカ連邦最高裁判所

 
 英国のEUからの離脱の衝撃で 、かすんでしまったような
ニュースがある。これも移民に関連している。アメリカの連邦最高裁の判決である。オバマ大統領がショックで頭を抱える光景がTVに写っていた。大統領在任期間中で最も厳しい最高裁判決といわれている。6月23日、連邦最高裁は提出されていた「移民制度改革」についての提訴について、判事の見解が4対4の同数となり、ひとつの明確な結論が下せなかったことを明らかにした。このため、下級審の判決が維持され、オバマ大統領が企図した移民制度改革は少なくも大統領に残された任期の間は事実上凍結されることになった(ここに到る経緯はかなり複雑だが、主要点のみ記しておこう)。

 いわゆる「包括的移民法改革」は、オバマ大統領が大統領選のころから公約として掲げていた政策の柱だった。しかし、議会共和党の反対などで改革は遅々として進まず、ようやく2014年11月、大統領権限で、「移民制度改革」(Deferred Action for Parents of Americans and Lawful Permanent Residents(DAPA) and expanded Deferred Action for Childhood Arrivals(DACA):アメリカ国籍や合法的な滞在資格がある子供を持つ親などの不法移民(undocumented)に、一定の条件を充足すれば強制送還を一時的に猶予し、就労資格を与えたり、子供の呼び寄せなど家族の結合を支援する内容)の実現を企図した。しかし、テキサス州など共和党州知事の一部が反対し、テキサス州連邦地裁が執行の差し止め命令を出し、連邦高裁も差し止め命令を維持したため、オバマ政権が連邦最高裁に上告していた(United States, et al. v. Texas, et al.)。

このたびの連邦最高裁の声明は、「判事の見解は同数に分かれ、承認された」。わずかに9語(”The judgement is affirmed by an equally divided court")の一文にすぎない。

連邦最高裁の声明は、最終判決でどの判事がいかなる主旨の判断を下したかは明らかにしていないが、すでに今春の口頭弁論の段階で、保守とリベラルと、イデオロギーの異なる立場に立つ8人の判事が4対4で対立していた。通常ならば、9人の判事での審理が行われるはずだったが、今年2月にアントニン・スカリア判事 Judge Antonin Scaliaが死去したことで、空席になっていた。スカリア判事は最高齢できわめて保守的な考えの判事だった。

判事9人の時は、保守派5人、リベラル派4人の判事構成となっていた。スカリア判事の後任に、オバマ大統領は民主党の路線に近いリベラルなメリック・B・ガーランド判事 を後任に指名していたが、上院の共和党議員が強硬に反対し、空席の状態が続いてきた。ホワイトハウスの記者会見で、オバマ大統領はここにまで至った共和党の行動を強く批判した。

 問題はまったく異なる領域なのだが、このたびの英国のEU離脱と、この米国連邦最高裁の僅差の結論という決定プロセスについては、共通する問題がある。いずれの場合も、2-3%の差あるいは一人の判事の考え次第で、大げさに表現すると、全体の結論が白と黒のようにまったく逆転してしまう可能性がきわめて高いことだ。長い間踏襲されてきた「民主的意志決定プロセス」なのだから、結果は尊重しなければならない。しかし、その結果への対応はしばしばまったく異なるものとなる。僅差で決定が下された以上、否定あるいは却下されたグループには不満が累積することになる。僅かな差で勝利したグループのその後の政策実施がさまざまに阻害されるという問題も生まれがちだ。イデオロギーの異なる判事の見解の差で、数百万人の運命が決まってしまうという意志決定プロセスも現代の時代環境では再考の余地があるかもしれない。裁判所という司法の城郭の中で長い職業生活を過ごしている人たちの考え方や感覚が、一般市民のそれと乖離してくる可能性もきわめて高い。ブログで議論するには重すぎる課題なので、これ以上は入り込まないでおこう。

 さて、議論の詳細が今の時点では判明しないが、このたびの連邦最高裁の下した結論は、「大統領権限で進めた政策が憲法違反かどうか」についての判例が確定したことも意味している。その意義については、これから法曹、政治の領域で、長い論争が続きそうだ。法律は専門ではないが、いくつかのテーマはすぐに浮かんでくる。

 現実にかなり確かなことは、オバマ大統領としては在任期間中で最も期待した移民法改正でみるべき次世代への遺産 legacyを残せなくなったことだ。オバマ大統領は筆者かこれまでの人生で見聞したかぎり、アメリカの歴史においてきわめて優れた大統領のひとりと思うが、歴史家はどんな評価を下すのだろうか。

  さらに、もし次の大統領に民主党のクリントン氏が当選することになれば、彼女はこの連邦最高裁の結論の路線で、対応しなければならない。しかし、そのことを考える余裕はまだないようだ。

ホワイトハウスで大統領は、「今日の決定はこの国で生活し、家族を養い、働く機会を望み、税金を払い、軍務にもつき、心からこの国を愛し、さらに貢献しようとしている数百万人を悲しませるものだ」と判決を批判した。


References

”Supreme Court Tie Blocks Obama Immigration Plan", by Adam Liptak and Michael D. Shear, The New York times, June 23, 2016 http://nyti.ms/28zFmeF

TV programs, CNN, PBS



 

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英国EU離脱: ご破算の後に来るものは

2016年06月25日 | 特別トピックス

16世紀末のヨーロッパ寓意画

この1592年のヨーロッパは、国境が絶えず変化し見定められない世界とみて、聖母マリアの姿で描かれている。'Wandering Borders' by Norman Davies, TIME Special Issue, Winter 1998-1999, PP29-31. 

 一度ご破算にしよう。6月24日、国民投票で過半数を獲得したイギリスの「離脱」派の投票行動の裏には、明言しないまでも、どこかにそうした思いがこもっていたのではないか。1970年代、イギリスは、デンマーク、アイルランドと並び、欧州共同体(EC)へ加盟(1973年)した。その後、サッチャー首相の時代(1979-90年)に見られるように、一時はヨーロッパの政治外交を主導する国であった。1990年になって英国は、ERM(欧州為替相場メカニズム、1979年設置)にかなり遅れて加入したが、92年ポンド危機をきっかけに脱退してしまった。その後、1993年にはマーストリヒト条約の発効により、ECを基盤に欧州連合(EU)が12カ国で発足した。そして、加盟国も大きく拡大、発展はしたが、同時にさまざまな、しばしば煩瑣な規制や負担が、あたかもしがらみのように、ブラッセル(EU)からEU域内諸国に浸透していった。2002年には、ユーロ紙幣、硬貨の流通が開始されたが、イギリス、スエーデン、デンマークの3カ国は、導入しなかった(導入は12カ国)。

 EUのその後の拡大(2013年クロアチア加盟で28カ国体制)に伴い、金融、財政、労働、社会生活など、多くの面でイギリスを含む加盟国の主権や自主性が、じわじわと規制されてきたような雰囲気が生まれていた。最終的には政治的統合を目指すEUとしては、いつかは通らねばならない過程ではある。

イギリスでは経済の好調さもあって、域内諸国からの移民労働者の流入も増加した。国内の低熟練労働者の間には、自分たちの仕事が移民に奪われているという思いもあるだろう。しかし、その裏には
一部地域への移民・難民の集中・集積による人種感情の軋轢、増加した移民などに対する「見えない壁」の形成、それらを主導したEU(ブラッセル)や中央政府への反発などもあった。こうした感情の鬱積、不満はイギリスに限らず、大陸諸国にも見られることだが、従来からの経緯もあって、島国のイギリスにとっては、EUからの「離脱」は、大陸支配からの「自立」の試みを思わせるところもあった。とりわけ「古き良き時代」を知るイギリス人には、自国の伝統、主権が侵食されているというやりきれない思いもあったかもしれない。これらの点に関わる議論はかなり以前からあったのだが、政治的に整理しきれていなかった。

 国民投票の結果、「離脱」派が勝利したが、株式市場、金融市場は狼狽し、直ちに反応、ポンドは1985年以来の大幅な下落となった。世界同時株安も瞬時に発生した。英国の「離脱」が現実のものになると、EU諸国はかなり動揺し、最大の危機を迎えている。

キャメロン首相に代表される政治家は「残留」優位と、やや甘く踏んでいた感がある。人間の心情として、進んで乱を求め、冷水に入ることは避けるからだ。EUに残留すれば、さまざまな不満は残るが、離脱に伴う混乱の収拾、制度その他を新しく設計、改編するなどのマイナス面と比べれば、はるかによいというのは、比較的中道(たとえば、The Economist, June 11th 2016)の人たちの考えだった

それが、「想定外」の結果となった背景には、さらに加えて最近の政治のわかりにくさ、エリート主導、理念先行型の地域統合への不満などもあったと思われる。地域から見ると、押し付け型の印象がある英政府や議會、「専門家」たちへの不信も累積していた。かつて滞在したことのあるイングランド東部地域の住民感情などを思い浮かべると、住民の意図や思いが届かない、ブラッセルなど自分たちの住む所から遠く離れたところへ政治の中心が移ってしまっているという感じ方も分かる気もする。

このところ、EU諸国のかなり多くで、反エリート主義、ポピュリズム、極右政党の台頭などが注目されてきた。今回の大打撃で、ブラッセル(EU官僚)も少なからず冷水を浴びた。EU官僚、移民の増加などが共通の敵として、加盟国の国民からみなされていると、EUユンケル委員長は述懐する。しかし、気がつくのが、あまりに遅すぎた。こうしたことはすでにかなり前から指摘されていたからだ。ひとつ指摘しておきたいのは、このたびの政治的混乱に乗じた極右政党、過激派などの台頭を許してはならないことだろう。もっとも、これはヨーロッパに限ったことではない。

他方、ボリス・ジョンソン前ロンドン市長のように、ナショナリズムに訴え、明るい未来を説いて、中下層の士気を鼓舞するという動きは「離脱」派を後押しした。確かに、「離脱」することで、過大な規制、制度の制約から脱し、創造的な活動基盤が期待しうるという考えは、ある面では望ましいことでもある。しかし、そのための基盤創生、再整備のために多大な時間と資金を要することも事実だ。選挙戦の終盤に入るとそうした不透明さや不安を予想した「残留」派がやや優勢という空気が漂いつつあった。

 政治的混迷の中で、「離脱」派勝利が決定した時のキャメロン首相の表情は悲痛に満ちていた。こんな形でダウニング街10番地を去ることになるとは予想していなかったのだろう。しかし、わが東京都知事の無様な退任と比較すれば、毅然として凛とした退場だ。

 これでひとつの時代が終わったが、続く収束の過程は長い。「離脱」のためにはさらに2年間のさまざまな作業が予定されている。その間には、フランス大統領選挙、ドイツ連邦共和国総選挙も行われる。EUは激浪の中での舵取りを迫られる。

 事態は、さらに複雑で混迷した流れへと巻き込まれることは避けがたい。「離脱」、「残留」が僅差で決まったことで、結果に不満を持つ層が多数生まれ、今後あらゆる分野で議論がまとまらず、手間取り、錯綜するだろう。EU離脱後の英国が、実際にいかなることになるか、説得力のある構想・議論が少なかったことも懸念される。
「離脱派」の弱点は、離脱した後に自立して発展してゆけるかという点で、政策的裏付けに迫力を欠き、国民への説得性が弱いことにある。「構想なき離脱」だった。

 「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」 United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland は、かくして激震を体験した。今後に予想される余震もかなりのものとなりそうだ。理論と現実の差異は大きい。衝撃を体験してみて初めて分かることもある。難民問題の焦点だったトルコのEU加盟など、いまやほとんど忘れられている。ひとつの時代の終わりが、いかなる始まりにつながるか、世界はまさにドラマの舞台である。

 

 *第一パラグラフ、説明不足のため加筆(2016/06/26)。

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『帰ってきたヒトラー』はどこへ行く

2016年06月22日 | 書棚の片隅から

  


  新聞広告で、ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー』(Timur Vermes, ER IST WIEDER DA, 2011) が映画化され、日本でも上映されるというニュースが目に入ってきた。実は、この作品、映画化されることはうっかり見過ごしていたが、すでに読んでいた。最初、この衝撃的的な書籍のタイトルを見たとき、一瞬、ドイツ、フランス、オーストリアなど、ヨーロッパ諸国に近年台頭しつつあるネオナチなど極右勢力の動きを題材としたものかと思ったほどであった。しかし、そうではなかった。

この作品、邦訳の出版、そして映画として上映されれば、日本のジャーナリズムでも、さまざまに評判となると思われる。しかし、いまやヒトラー(Adolf Hitler 1889-1945)のことは歴史の授業などを通して知っていても、ひとつの歴史上の出来事としてしか理解できない世代が、過半数に達している。事実とフィクション(虚構)の区別がつかず、こうした工夫を凝らした作品に接すると、重要な含意を読み取れない。ヒトラーとナチズムが生んだ人類への恐るべき挑戦の真の意味を誤って理解しかねない。

 ストーリーは、『ヒトラー最後の12日』から、スタートする。実際はベルリンの総統府塹壕の近辺で、愛人エヴァとともに自殺したと思われていたヒトラーが、2011年8月30日、突如として当時のままの姿で、現代のベルリンの市民生活の真っ只中に、蘇ったという書き出しである。読者の意表を突いた奇想天外ともいえる発想だ。しかし、いったい、ヒトラーのどこが笑いを生む材料になるのだろうか。その疑問は最初のパラグラフを読むうちに急速に消滅し、ストーリーに惹きつけられてしまった。その後は一気呵成に読んでしまった。パロディという触れ込みであったが、読み進めるうちに新機軸のホラー小説ではないかと思うこともあった。受け取り方は世代によっても、かなり異なるようだ。今日のドイツ連邦共和国でいかなる評価をされているのか、250万部を越えるベストセラーとなったことは知ったが、客観的な評価は難しい。ネオナチなどの勢力に、目に見える影響を与えたのだろうか。

作品はフィクションではありながらも、巧みなプロットで、ヒトラーという20世紀の世界を大きく揺るがした恐るべき人物にかかわる多数の事実、疑問が巧みに散りばめられている。タイムトラヴェラーという視点が巧みに生かされている。そして、著者の綿密な下調べの周到さが伝わってくる。あのローラン・ビネ Laurent Binet のHHhH』も、同様だった。近年のナチズム、ヒトラー研究の成果がいかんなく取り込まれている。ちなみに本書に付された原注は、きわめて興味深く、本文だけでは気づかない多くのことを教えてくれる。

 ヒトラーという一時は人類を滅亡の淵にまで追い込んだ人物が現代に存在した事実が、時代の経過に伴い、急速に風化し、人々の記憶の底に沈んでいくことは怖ろしいが、避けがたい。ドイツと並び「枢軸国」の名の下に、第2次世界大戦の勃発に加担した日本の軍部についての国民の記憶喪失はさらに激しい。

これまでの人生で、ドイツという国や歴史、あるいはその国民性については、おもいがけずもかなり長いつき合いをしてきた。学生時代、素晴らしい教師に出会い、一時は、ドイツ文学を専攻しようかと思ったこともあった。しかし、文学で一生を貫けるほどの自信はなく、他の専門領域に進んだ。しかし、周囲には多数のドイツやオーストリアなどの友人たちがいた。最初、大学院生として過ごしたアメリカという国で、不思議と最も気の合ったのは、ドイツ人やイタリアからの留学生たちであった。アメリカ人は大変おおらかで、わだかまりなく受け入れてくれた。しかし、いつとはなく、ドイツ人やイタリア人とのサークルもできていた。彼らの側にも、日本人に対する親近感のようなものがあったようにも思われる。

 ドイツ人の中には、自らその思いを語ることは少なかったが、心の奥底に深い傷を負っていたようにみえた友人もいた。ドイツ人であることの心の痛みに耐えかねて、国籍をオーストリアに移した友人もいた。しかし、それがどれほどの意味を持つことなのか、突き詰めて聞くことはなんとなくためらわれた。

閑話休題。

ベルリン・オリンピックとヒトラー 
 さて、このパロディとなった書籍の表紙(上掲)を見たとき、ふと脳裏に浮かんだのは、どういうわけか、あのコピー問題で幻のように浮かんで消え、再募集になった東京オリンピックの最初のシンボルマークだった。

ベルリン・オリンピックは、1936年8月に開催された。およそ80年前のことだ。その具体的イメージを植え付けることになったのは、金メダル6個を含む18個のメダルを獲得した日本人選手のさまざまなエピソードが、その後教科書その他で繰り返し語られてきたことを通してであった。そして、ナチス党のお抱え監督ともいわれた女性映画監督レニ・リーフェンシュタールの手になった映画『オリンピア』(正式には『民族の祭典』『美の祭典』の二部作)の映像は未だに眼底に残っている。すでに断片的なセピア色の世界になっているとはいえ、女子平泳ぎの前畑秀子の金メダル、棒高跳びの西田修平、大江季雄のメダル分割の話など、名前を聞けば直ちに浮かんでくるイメージがある。

 他方、1964年、東京で開催されたオリンピックについては、筆者にはどういうわけか、開会式当日の澄み渡った青空くらいしか印象に残っていない
日本は記録によると、開催国として、金16個を含む29個のメダルを獲得し、金メダルだけの数では参加国中第3位の座を獲得した(合計では東西ドイツが50個を獲得して上回っている)。

 エムブレム、都知事問題と、すでに今の段階から薄汚れた感のある2020年「東京オリンピック」だが、果たして、かつてのような青空を期待できるだろうか。


英訳 'Look Who's Back:邦訳森内薫、河出書房新社、2011年、その後河出文庫、上、下、2016)。


 

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山の彼方の空遠く

2016年06月12日 | 午後のティールーム

 

 

 

 ここはどこでしょうか(画面クリック拡大)。IT時代の今日、訪れたことのない方でもTV画面上などで見て、網膜に刻まれているかもしれません。

 梅雨前の晴天のある日、思い立って東北への旅に出た。

 ひとつのお目当ては久しぶりに磐越西線に乗ることだった。東日本大震災・福島原発事故から5年余りを経過したが、車窓から見る山々は緑がかぎりなく美しい。かつて、福島市から土湯峠、一切経山、吾妻山、白布高湯、米沢などを毎夏のように訪れたことがあった。磐梯スカイラインができる前からのことだから、現在は景色も交通事情もかなり様変わりしている。土湯峠からは檜原湖、磐梯山が良く見えた。湖面が輝いていたように記憶している。吾妻連邦(西吾妻山、東大嶺、家形山)、磐梯山に近い安達太良山、鬼面山など近くの山々も歩きまわった。とりわけ、野地温泉から近い鬼面山などは、何度登ったことか。日本列島でも際だって自然に恵まれたこの地を、人が安心して住めない場所にしてはならない。短い旅で立ち寄れなかったが、今はどうなっているのだろうと改めて思った。

今回は猪苗代側から磐梯山を望んだことになる。快晴に恵まれ、山はなにごともなかったかのように、美しく、そこにあった。あの特徴ある山容の向こう側には、懐かしい場所が数多くある。

 磐越西線車窓から見た磐梯山

 会津鶴ヶ城も補修が進み、美しい城の輪郭が再現されていた。戊辰戦争(1868年)の後、1874年に一度は取り壊しになった城が、地元を始めとする多くの人々の要請で再建され、1984年には築城600年記念式典が行われた。2015年には天守閣再建(1965年)50周年を迎え、内部もリニューアルされ、以前と比較すると、大変アクセスしやすくなった。これまで内外のかなりの数の城郭に旅したが、鶴ヶ城は5層から成り、最上階の展望層から望む城下町と山嶺は素晴らしい眺望であり、この町の栄枯盛衰をさまざまに思わせる。

 千利休の子、小庵を匿っていた蒲生氏郷が造ったといわれる茶室麟閣も、市内の茶人、森川善兵衛が自邸に移築・保存していたが、1990年に、元あった場所へ移築復元され、美しく整備されてあった。人影も少なく、静かに心安まる空間であった。

 会津若松は、以前に2度ほど訪れているのだが、震災後の環境の整備も進み、見違えるようになっていた。筆者はTVの長編・大河ドラマのたぐいはほとんど見たことがないが、この地を舞台としたドラマが一定の地域活性化効果を挙げたであろうことは予想できた。土産品その他に、TVドラマの影響が残っていた。しかし、ブームも去った今、訪れる人影は少なく、目に付くのは小中学校などの修学旅行の団体が多い。無理にこの時期に、ここに決められて来ているという印象だ。それでも、団体が行き過ぎてしまえば、静かさが戻り、この地の歴史の跡をたどるには絶好の季節だ。

 

福島県立博物館の光景

 閉展間際(6月12日まで)に滑り込んだ感があったが、会津若松市で今回、大変興味深かったのは、福島県立博物館で開館30周年記念企画展として開催されていた『大須賀清光の屏風絵と番付』と題する特別展だった。この幕末に会津を調べ尽くしたといわれる一人の男、大須賀喜知松(1809-75)、名清光号皎齋なる絵師のことである。会津若松にかかわる人、物、風景などあらゆるものに関心を抱き、絵画、書籍、刷り物などに仕上げていた。とりわけ興味深いのは、『若松城下絵図屏風』と題する福島県内でも初公開の大屏風だった。当時の若松城下の全貌を収め、さらに遠景には磐梯山までも描き込んだ作品である。しかも、その壮大で精緻なことは、現代のドローンをもってしてもと思わせるほどの大きな、しかも詳細な鳥瞰図である。この画家がこの屏風を制作するまでに費やした多大な努力のほどが知れる。鳥の目、人の目のかぎりを尽くした労作だ。展覧会図録に含まれる現代の空中写真と比較しても、遜色がないほどの広がりを持っている。清光の作品の数は多く、会津藩上屋敷付近から大名の登城風景を描いたと思われる『江戸城登城風景図屏風』(国立歴史民俗博物館蔵)などもあり、きわめて興味深い特別展であった。

 

大須賀清光 『若松城下絵図屏風』 福島県立博物館蔵(高瀬家旧蔵)、右側部分

 

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終わりの始まり:EU難民問題の行方(23)

2016年06月10日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

シリア内戦に関わる各利害グループの支配地域(2016年5月16日現在)地中海(西)側の青色で塗られた地域はシリア政府支配、東側上部の赤色部分はISIS支配、緑色部分はクルド勢力地域と推定。クリックで拡大。
'Never-ending horror' The Economist  June 4th 2016 


 中東屈指のシリア、パルミラ遺跡が奪還され、シリア国旗がはためく映像の光景を見て、この地の未来に小さな光が見えた気がした。あのタリバンがバーミヤンの巨大な石窟像を無残にも破壊した衝撃の瞬間は、脳膜から未だに消え去っていない。筆者はパルミラの地を訪れたことはない。しかし、イギリス、ケンブリッジに滞在していた折、友人となった中東遺跡保存を仕事とし、バグダッドなどの博物館再生に従事していた考古学者からかなりのレクチュアを受け、多くの啓発を受けた。ちなみに彼は日本の三笠宮崇仁親王(オリエント研究者でもあり、その国際的発展に大きく寄与された)、そしてオリエント学者へ多大な尊敬の念を抱いていたことを憶えている。家にはボール箱やむき出しの遺跡の断片、ほとんど石のかけらとしかみえない石像の一部などが所狭しと置かれてあった。あの華麗なアフガンの輝きとは異なる、東西文化交流の道に展開する壮大な遺跡群の存在を知り、驚き、圧倒された。パルミラ Palmyraは、シリア中央部のホムス県タドモル(アラビア語タドムル、Tadmor)にあるローマ帝国支配当時の都市遺跡でシリアを代表する遺跡の1つである。1980年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。ローマ様式の建造物が多数残っており、ローマ式の円形劇場や、浴場、四面門が代表的建造物だ。残念ながら映像だけで、自分の目で見る機会は逸してしまった。

 現実に立ち返ると、シリアの実態は映像で見る限り、目を覆うばかりの荒廃状況だ。EUとトルコの難民に関する大筋の合意が成立したことで、確かにギリシャなどへ流れ込む難民、移民の数は減少したが、アフリカなどからイタリアなどを目指す「地中海ルート」が復活し、ボート転覆などの痛ましい海難事故が、すでに多数の犠牲者を出している。他方、シリアなどの中東難民は、隣国トルコや国内で、終わりの見えない内戦の行く末を見つめながら苦難の日々を過ごしている。シリア、アフガニスタンあるいはトルコでは、連日のように爆弾テロなどのニュースが報じられている。

 難民問題への対策は、送り出し国、受け入れ国、移動の経路など、それぞれの次元で対応が異なるが、最重要な政策は難民が発生する源において、その原因を絶つことにある。シリアの内戦は今年で6年目に入る。さらに悪化する兆しは見えないが、戦争自体は絶えることなく続いている。本来、今年2月27日をもって休戦の段階に入るはずであった。依然として爆撃、砲撃を続けている政府軍およびロシア空軍は、対象を過激派 extremists に限定しているとしながらも、一般市民などが死傷する被害が絶えない。

正義を見極める困難さ
 状況は第三者の介入をほとんど拒むような、複雑な内戦状態であり、外交経路での休戦、停戦への努力も入る余地がなくなっているといわれる。反体制派の交渉代表が、休戦の話し合いは「失敗した」と述べている。当初の見通しとは大きく異なり、アサド政権は息を吹き返し、廃墟と化したシリアで 、あたかも自ら王冠を戴いているかにみえる(The Economist June 4th 2016)。この状況で、どのグループが正義の保持者かを見極めることは、かなり難しくなった。

  アラブ世界を代表するといわれる詩人アドニス Adonis は、今はパリに亡命しているが、2011年以来、シリア内戦について積極的に関与してきた。ノーベル文学賞候補にもあげられてきた著名人だ。多くの人々は、彼の詩人として、さらにアサド家と宗教上の流れを同じくするアラウイット 派 Alwaite のつながりに期待してきた。内戦初期にはアサド大統領に平和的な内政移管を促す書簡を送ってもいる。


今年春、パリでのインタビューに、アドニスはこう答えている。
何も変わらなかった。それどころか、問題は悪化した。40カ国もの国がISISに2年間も対しながら、なにもできなかったとはどういうことなのか。政治と宗教が切り離されねばなにも変わらないのだ。なにが宗教的で、どれが政治的、文化的、社会的なものであるかを区別しなければ、なにも変わらないし、アラブの没落は悪化するばかりだ。宗教はもはや問題への答えにはなりえない。宗教は問題の原因ではある。それゆえに、両者は区分されねばならない。自由な個人なら誰もが、望むことを信じ、他人はそれを尊重する。しかし、宗教を社会の基盤にすることなどできるのか。否だ。
(NYRB April 16 2016)。

 イスラーム教徒でもなければ、その文化についてもわずかな知識しか持たない者にとって、この地の戦争を支配する考え、根底に流れる真理を理解することは到底できない。しかし、日本を含め、西欧の多くの人々にとって、現在の段階では、イスラームはこれまでの先入観や感情で、反応している存在ではないか。新たな時代の文脈でイスラームの存在と意義を世界史の次元に位置づけるという試みは少ない。イスラームの世界が簡単に理解できるような表題を付した書籍がいまや山積しているが、数少ない傑出した思想家や研究者の作品を別にして、その多くは見るからにかなり怪しげな内容だ。アラビア語の習得を含め、イスラーム世界についての講座は大学でも少ない。イスラームは西欧以上に、日本にとっては遠い存在であったがために、研究・教育面でも立ち後れが目立つ。正確な判断ができるのは、おそらく数十年というような長い時間の試練を経てのことだろう。

「内なる戦い」をいかに理解するか
 現在起きているシリア内戦の重要な側面のひとつは、アサド政権対反体制派の戦いだけではない。イスラームというひとつの文明の内部での対決という視角もある。近刊のThe Economist 誌は、これを「内なる戦い」The war within と形容した。

"The war within" special report The Arab World, May 14th 2016

たとえば、アサド政権の家系は アラウイット Alawites という九世紀頃の創始で、主としてシリアを本拠地とするシーア派のひとつに含まれるといわれる。しかし、その歴史を垣間見ただけだが、現在にいたるまでシーア派からは異教徒、異端と見なされ、激しい抗争、迫害が繰り返されてもいる。

アラウイットは予言者ムハンマドのいとこにあたる Imam Ali bin Talib の教えに従う流れを継承するとされ、スンニ派の権威は受け入れない。政教分離の考えはアラウイットの独自の伝統とされる。九世紀以前はさまざまな名前で呼ばれていたようだが、Bashar al-Asad の父親であるHafez al-Asadが権力を掌握するようになって以来、シリアのアラウイットはこの地域を掌握、彼らに忠誠を誓わせてきた。アラウイットの間でも、多くの反抗者がいて、投獄、弾圧などの対象になってきた。現在のアサド大統領になっても、その姿勢は変わらずに今日の内戦につながってきた。このたびのシリア内戦の過程でもアラウイットは概してBashar al-Asad を支持してきた(Samar Yazbek 2015)。

しかし、イスラームが今や世界の文明の行方を定める重要な決定的勢力となっていることは確かである。それだけに、今後の世界を生きる人々、とりわけ若い世代の人々には、イスラームについての関心と正確な理解の深化を期待したい。

 

References

'Never-ending horror' The Economist  June 4th 2016 

"Now the Writing Starts": An Interview with Adonis, Jinathan Guyer, The New York Review of Books, April 2016

Semar Yazbek, The Crossing: My Journey to the Shattered Heart of Syria, London: Rider, 2015
 

 *
偶然の一致だが、バーミヤン遺跡の再現についてのレポート『アフガン秘宝半世紀』が放映(2015年6月13日BS1)された。チェコのプラハで開催されているアフガニスタンの遺跡展についても報じられた。アフガニスタンの美術については、本ブログでも何度か記してきた。

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