時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロレーヌ魔女物語(12)

2009年08月29日 | ロレーヌ魔女物語

ヴィック・シュル・セイユ郊外  Photo YK





  ヨーロッパ、16世紀から17世紀への転換期は、実に不思議な時代だった。科学の面ではガリレオ・ガリレイの大発見などが行われていた反面で、人々は魔女や魔術の存在を信じ、名状しがたい恐れを感じていた。これは単に農民などの一般民衆にとどまらず、かなりの知識人の間にも広く見られた。

 この時期の魔術や犯罪にかかわる詳細な裁判記録はヨーロッパ全体を見渡しても、稀にしか存在しない。ところが、今日残る最も歴史的に価値ある記録は、ナンシーのArchives Departmentales of the Meurthe-et-Mosell at Nancy に保管されていた。当時魔女裁判にかけられたおよそ300例の完全な書類が残っている。時期としては、ほとんど1580-1630年に集中している。しかし、これらはロレーヌで行われた魔女審問のおよそ5-10%程度と推定されている。他の判例記録などから新たに魔女審問の記録として区分変えもなされた上での推定だ。同様に魔女裁判が行われたイングランドやフランスではこうした記録はほとんど残存していない。ヨーロッパ全域でみても、散発的にしか残っていない。いずれにしてもナンシー文書館所蔵の文書は、この時代の最も複雑怪奇な社会現象を探索するに、大変貴重な素晴らしい記録だ。

 ナンシーに保管されていた魔女審問記録は、ある一定のルールで構成されている。15-25人の証人、目撃者の確保、証人の証言、こうした証言に基づく容疑者の尋問、証人と被告の対決、そして普通は1-2回以上の拷問による尋問という手順を踏んでいる。

 これらの記録の性格はきわめて重要だ。なぜなら法律家や判事が編集する以前の第一段階での尋問、告発内容が含まれているからだ。審問の初期段階であり、拷問の下での強制された告白ではないことがきわめて重要な意味を持っている。告発が行われた当時の一般的な人々の考え、いいかえると時代の空気が感じられるからだ。判事などに強制された部分と自発的な告白部分の境界は、ほぼ判明している。たとえばsabbat (魔女の夜会)に行ったか、そこではどんなことが行われたかなどについて、当時人々がどう考え、いかに伝承されていたかを推定できる。

 ロレーヌはヨーロッパ史では、厳しい魔女裁判の舞台として描かれてきた。ロレーヌ公国の検事総長
ニコラ・レミNicolas Remy は、1580-90年代に900人の魔女を火刑にしたとして、その悪名をほしいままにしてきた。魔女の歴史が示すように、そこにはかなりの誇張が入っている。しかし、容疑がひとたび裁判所まで達すると、魔女としての告発率は90%近くなった。他方、この時期に合計3000例くらいの裁判が行われたという推定が妥当であるとすると、少なくも40万人の人口のロレーヌ公国で毎年60件近い裁判があったことになる。人口あたりの比率とすると、エリザベス朝のエセックスなどにおける、発生ピークの率とさほど変わるものではない。しかし、ロレーヌにおける死刑の比率はかなり大きかった。

 ロレーヌにおける一般民衆とエリートとの間で、魔女の存在、行為などについて、明瞭な区分があったかどうかは、きわめて難しい問題だ。大多数の裁判は地方の裁判所で行われた。裁判官といえども、ある者はまったく無学だった。裁判官としての職業的水準をほとんど充たしていない者も多数含まれていた。審問官レミにしても、彼の考えの中心を成していたものは、学者の伝統に基づいたものというよりは世俗のものだった。実際の審問を記述した部分は大変直裁で正確だ。しかし、一般化の段階では言葉だけが躍っている。

 こうした風土で、容疑者となったのは、コミュニティできわめて特別なグループだった。レミと他の裁判官の態度は、人々に裁判所を使うようにさせたかもしれない。そして容疑者を尋問の渦中に放り込んだ。典型的容疑者は20年近いローカルでの評判の持ち主が多かった。魔女とされた者の範囲はかなり広く、ばらつきがあり一般化は難しいが、魔術の行為で告発される容疑者の多くはコミュニティの片隅に生きた放浪者や乞食、そしてある意味で厄介者であり、村人などから受け取る謝礼や施しもので生きていた。

 彼(女)らが告発された契機は、隣人や彼らの家畜に何年にもわたり実害を与えたなどの容疑によることが多かった。村落の人々の思い込みは共同体や個人に加えられた現実の損害に強く根付いたものだった。そうした例*をひとつ紹介しよう。もちろん、魔女裁判の事例はひとつひとつ異なり、特異である。しかし、ヨーロッパの他の地域でも十分見出されるような事例だ。

 1584年、ロレーヌのカトリーヌ・ラ・ブランシェという60歳代の寡婦が魔女審問にかけられた。25人の証言者のひとり、クレロン・バルタールは次のように証言した。5年ほど前、彼女と夫が飼育していた牡牛に餌をやっていた。その時カトリーヌがやってきて、いつものように施しを願った。証言者クレロンは「カトリーヌ、もう私はお前にはなにもやらないことにしたから、他の人の所へ行って施しをもらいなさい。私たち家には幼い子供もいるし、夫の兄弟の子供も扶養しているからお前に与えるものなどないんだ。あんたより子供たちを養うことが、神にかけて大事なの。だからどこかへ行きなさい。」この証言にみるかぎり、そこには後に魔女審問の容疑者とされたカトリーヌから脅迫されたなどのしるしはなにもない。

 しかし、その後牡牛が死んでしまったことについて、クレロンは施しを断られたカトリーヌが呪いをかけたせいだと証言している。施し、慈善を拒否したことに対する報復を要素として作り上げられたひとつのタイプともいえる。カトリックの影響が強く、伝統的風土が色濃く根付いた地域では、こうしたタイプの出来事がかなりあったようだ。プロテスタントが浸透し、社会経済上の変化が激しい地域では見られないタイプとされている。しかし、こうした関係が生まれるには、時に20年間というような長い年月を要している。

 さらに魔女とされた容疑者は、いつの頃からか地域に対して強い憎しみの念を抱くにいたっていると考えられている。もちろん他方で、告発されることにまったく納得ができず、強く反発した者もいただろう。そうした事例も残っている。

 魔女狩りを生んだ風土と背景はきわめて複雑だが、審問の数が多少なりと指標になりうるとしたら、そのピークはおそらく16世紀末頃と思われる。その後審問数は少しずつ減少し30年戦争という悲惨な混乱の時期へ突入していった。30年戦争はそれまでの人々の普通の生活のあらゆる特徴に終止符を打った。魔女狩りも皮肉なことにその一部だったと考えられる。悲惨な戦争の前には、コミュニティの片隅の問題にかかわる余裕もなくなったのかもしれない。 (続く)



* Robin Briggs. Communities of Belief. Oxford: Clarendon Press, 1989, reprinted 2001. pp.69-70.

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追悼テッド・ケネディ

2009年08月27日 | 回想のアメリカ

 エドワード・ケネディ、Edward Moor "Ted" Kennedy 民主党上院議員が8月25日亡くなった。まもなく多数の追悼録や思い出話がメディアに溢れることだろう。  

 JFK、RFKに続いて、最後まで残っていたケネディ兄弟が世を去った。アメリカ切っての名門の家に生まれ、生前は波瀾万丈、多くの事件を積み重ね、毀誉褒貶の波風から逃れることはできなかった。自らの人生を暗転させるような事件も起こした。一時は掴みかけた大統領への道も失った。しかし、晩年のリベラルなスタンスは今日のオバマ大統領選出にも大きな貢献をした。今年、本来ならば自分が歩んだかもしれなかった大統領の就任式に出席した姿が目に浮かぶ。公民権法、医療改革などでの活躍も記憶される。時局の重大な岐路において、テッドの橋渡しはしばしば急場を救った。最近では、実現しなかったが、あのマケイン上院議員との協力による新移民法案への努力が目立った。

 JFKの劇的な登場と悲劇、ロバートの悲劇、そしてテッドの生涯もアメリカ史にさまざまな出来事を刻みこんで終わった。ほどんど考えられないような数々の事件が、ケネディ家を襲った。そのケネディ家の主も今はなく、アメリカのひとつの時代がついに幕を下ろしたという思いがする。心から哀悼の意を表したい。

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ニューディールを支えた女性

2009年08月24日 | 回想のアメリカ

Book Cover Photo: Mrs. Frances Perkins
Kirstin Downey. The Woman Behind the New Deal: The Life of Frances Perkins, FDR’s Secretary of Labour and His Moral Conscience. Non A. Talese; 458pp. 2009.

 


  今回のグローバル大不況と比較されることが多い1930年代の世界恐慌前後の時代には、かねてから大きな関心を抱いてきた。学生の頃、たまたま周囲に大恐慌を経験した人々がいて回想談を聞いたことが、興味を呼び起こすきっかけになったのかもしれない。しかし、そうした人々も次々と世を去り、今日メディアなどで大恐慌に言及する人々も、文献記録、伝聞などでしか、当時の状況を語るにすぎなくなってきた。他方、最近1930-40年代について、新たな資料による見直しも進んで、かなり興味深い新事実も明らかにされている。

忘れられていた人 
 今夏、一冊の本を手にした。1930年代、アメリカで大不況に対応を迫られた大統領フランクリン・デラノア・ローズヴェルト(略称FDR)の政権下で、女性初の労働長官 Secretary of Labor として働いたフランセス・パーキンス女史Frances Perkins (born Fannie Coralie Perkins, April 10, 1880 – May 14, 1965) の人物伝であるパーキンス自らの手になる回顧録パーキンスからみたFDRについては、このブログでも記したことがある。

 新著は自叙伝ではなく、パーキンス女史に近かった人々の証言や記録などからクローズアップされた歴史的人物伝といったほうがよいだろう。著者カースチン・ダウニーは女性のフリーライターであり、2008年のジョージア工科大学銃乱射事件の報道でピュリツアー賞を共同受賞している。本書はこれまで埋もれていた資料やインタビューなどを積極的に行い、十分知られることがなかったパーキンス像を見せている。新たな資料発見があり、同時代史としても興味深い点が多い。アメリカ人でFDRの時代を知る人は、大体彼女ののことも知っていたが、日本ではFDRはともかく、パーキンスのことを知る人は、研究者を含め厚生労働の分野でもきわめて少ない。


 今日のグローバル不況の下でも、各国政府にとって最大の課題は雇用そして社会保障問題である。景気は底を打ったという一部の観測にもかかわらず、主要国での失業率は上昇を続けており、改善の兆しはまだ見えない。他方、比較の対象になる1930年代大恐慌当時、いかなる背景の下に、どんな政策が実行されたかという点については、必ずしも正確に知られていない。FDRの時代に、いかなる歴史的文脈の中から個々の政策が構想され、実現したかを知ることは、現代的視点からもきわめて重要なことだ。 本書はパーキンスという一人の女性の人物伝としては決定版とはいえないが、当時のアメリカ政界や女史の周囲にいた人々、社会環境がつぶさにうかがわれて大変興味深い。

ニューディールを支えて 
 1930年代の大恐慌時、震源地となったアメリカでは雇用、労働にかかわる諸制度は、ほとんど未整備といった状況だった。資本主義最大の危機といわれた不況の拡大に伴い、失業、労災などの労働問題は最重要な社会経済問題として急速に浮上した。しかし、その問題に対処した人物は、当時はまったく重きを置かれなかった。パーキンス女史はまさにその人であり、閣僚の順位では自ら認めていた通り最下位だった。  

 アメリカ史上最初の女性の閣僚として、パーキンスは公共事業 Public Works Association (後にFederal Works Agency)による雇用創出、全国産業復興法(NIRA)、
失業保険、社会保障(公的年金)などの導入に努めた。さらに、労働法の大幅な改革、最低賃金制の導入、週40時間立法、児童労働の禁止などを実施した。FDRの政権はニューディールの時代として知られるが、組織勢力としては弱い立場にあった労働組合について、団体交渉権、組合組織化の権利の拡充も行われた。FDRの政権は12年間続いたが、彼女はほぼ一貫して労働長官として、大統領を助けて働いた。今日、ワシントンD.C.の労働省の建物の入り口には Frances Perkins Department of Labor と記されている。

リベラリストの働き 
 パーキンスの名前を知ったのは、アメリカで学び始めた頃に、トライアングル・ファイア事件に関する文献を読んでいる時に出会ったのが最初だったと思うが、ほぼ同時にファカルティの何人かから、ニューディール時代の体験談を数多く聞いた。ニューディール政策の実施のためには、実に多数の人たちが働いた。その中心として指導的立場にあった人の多くは、アメリカ社会でもかなり鮮明にリベラルな立場をとっていた。戦後、占領下の日本で、労働政策その他の立案過程に関与した人たちの中に、ニューディーラーが多かったことはよく知られている。  

 パーキンスは名門女子大マウント・ホリヨークを卒業後、婦人参政権が獲得される前から、ニューヨークで社会改革家として活動していた。彼女に決定的な転機をもたらしたのは、1911年ニューヨークのグリニッチヴィレッジで発生したトライアングル・シャツ工場の悲惨な火災事件だった。146人の若い移民の女子労働者などが火炎と煙に巻き込まれ命を落とした。この時、パーキンスは現場の近くの友人の家にいた。そして劣悪な労働条件で働かされていた多くの女子労働者が逃げ場を失い、12階建てのビルの上から飛び下りる惨劇を目のあたりにした。  

 若い社会活動家としてニューヨーク市で働いていたパーキンスは、こうした悲惨な事件を繰り返してはならないと心に誓い、当時の民主党と保守党に働きかけた。当時の民主党は政治的に大変腐敗していたことで知られていたが、パーキンスは臆せず、活動した。彼女がFDRに見出されたのは、FDRがニューヨーク州知事の時だった。

最下位の閣僚 
 FDRが大統領に当選後、労働長官として登用され、FDRの任期のほぼすべて12年間(1933―1945)にわたり同ポストを務めた。ちなみに、FDRの任期を通して閣僚を務めたのは、彼女と内務長官ハロルド・アィクス Harold Ickesの二人だけである。  

 今日と違って、女性差別が厳しかった時代で、彼女はさまざまな脅しや嫌がらせを受けた。パーキンスはしばしば嘲笑の的となったファニーFannie という名前をフランセスFrances に改名までした。30歳代には、男たちの母親のような野暮ったい格好をしているなら、男の政治家も競争相手とはみなさないだろうと考え、流行遅れの衣装を身につけることまでしたようだ。閣僚に任命された後も、男の政治家の妻たちとなるべく同じ席につくように心がけた。FDRの妻エレノアの発案で、閣僚の妻たちの昼食会が定期的に開催されていた。パーキンスは積極的に参加し、側面から自分の考えの浸透を図った。こうした努力にもかかわらずパーキンスに対する差別はひどく、とりわけ労働組合の指導者たちが問題だった。彼らは女性が労働政策を立案、実施するという考え自体をひどく嫌悪していた。

 当時のパーキンス女史の活動範囲は大変広く、現在のボーダー・パトロール(国境警備)もその指揮下だった。劣悪な労働条件にあった炭鉱や戦時下の防衛産業なども精力的に視察していた。  

 他方、彼女の家庭生活も複雑で問題山積だった。夫のポール・ウイルソンは鬱病状態が長く、その人生のほとんどを経費がかかるサナトリウムで過ごした。彼女はその費用を負担していた。一人娘のスザンナは結婚に失敗した後、同様に鬱状態になり、母親の支援が必要だった。パーキンスにとって、晩年までスザンナのことは大きな心ががりのことだった。もっとも二人の関係はその後、パーキンスの晩年には次第に疎遠となっていった。  

 パーキンスは、こうして女性が主たる家庭の稼ぎ手ではない時代に、自らその役割を負っていた。経済的な不安が常に彼女を駆り立てていたようだ。1945年労働長官退任後も、1965年に死ぬまで働いていたのはそのためだったのではないかと思われる。

不思議な縁 
 長官を退任した後、コーネル大学の講師として教壇に立ち、さらに男子だけのフラタニティ・ハウス Telluride House に住み込んだ。そこにいた学生の中には、保守的なインテリ、アラン・ブルームAllan Bloomやジョージ・ブッシュ政権の防衛次官補を勤め、その後世界銀行総裁となったパウロ・ウオルフォヴィッツPaulo Wolfowitz もいた。  

  本書を読んでいて驚いたのは、パーキンス女史に教職の道を開いたのは、たまたま私の指導教授のひとりだったMN. だったことだ。これらの関係者は、今はすべて故人となったが、MN教授(2004年没)夫妻(モーリスとヒンダ)は、パーキンス女史のニューディーラーとしての経験に感銘し、若い世代にその経験を伝えるために教職の道を提案したのだった。パーキンスは喜んでその申し出を受けた。

 180cmを越える長身で髪の毛がなく、眼光鋭いMN教授は
きわめて厳格な指導で知られ、文献の選択、論文の構成から句読点まで細部にわたり徹底して鍛えられた。自分でも meticulous (過度なくらい細心)と思うと冗談をいうくらい、専門領域の議論には厳しかった。英語が母国語でない私などは大分泣かされたが、得難い経験だった。容貌魁偉といってもよい一見人をたじろがせるようなこの人が、実はきわめて穏和で気配りに満ちた人であることを感じたのはまもなくのことだった。

 私的な面では大変親切で、どこで見ていたのか、苦労している留学生などに細かな心配りも怠らず、しばしば自宅に招いてくれた。その後もキャンパスを訪れると、親切に配慮をしてくれ、空港まで送迎してくれたりもした。後年、自分も同じ立場になったら、その何分の一かでも努力しなければと思った。

 当時は大学にもIBMの大型コンピューターしかなく、調査や計測データはすべてパンチカードで入力、PCもなく電動タイプライターが使われ始めた頃だった。MNはアメリカの労働史、国際比較に関する膨大な文献ファイルを作成するとともに、几帳面に日記を残しており、それが今回パーキンス女史の晩年の教職時代を伝える重要な資料になっていた。また、女史が亡くなった時、大学私室に残された多くの書簡などの資料が処分されることを密かに救い、議会図書館に委託し、MN教授が生存中(2004年死去)は公開しないようにしてあった。  
 
 思い起こすと、さまざまな折に大恐慌時代のエピソードを聞いていた。パーキンスを大学へ招いた本人であることは本人の口からは一言も話されなかったが、同僚は皆知っていたのだろう。ファカルティの多くは心情的にもニュー・ディーラーだったから。ファカルティ・ラウンジには、晩年の女史の肖像画が掲げられていた。女史は教室でもしばしば正装、帽子を被って教壇に立っていたようだ。

 ジョン・F・ケネディが民主党大統領に立候補した当時、妻であったジャクリーンが、支持者の女性たちを集めて、パーキンス女史をゲスト・スピーカーとして招いた1960年当時の写真などを見ると、よき時代のアメリカの断片が思い浮かぶ。FDRの妻エレノアとも親しかったようだ。

 話には聞いた大恐慌下の出来事を、当時よりも今の方がはるかに切迫感をもって考えられるのは不思議なことだ。歴史を真に理解するには、ワインのようにある熟成の期間が必要なのかとも感じる。現代史の面白さは、思いがけないことで急速に深まることもある。世界がますます小さくなる今日、相手の国のこともより深く知る必要がある。細部に入り込むことで格段に理解も増す。FDRそしてパーキンスとその時代については、興味深いことが多々あるが、もはやブログの域を超えてしまった。  


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楽園の花々から(3)

2009年08月23日 | 午後のティールーム

Photo 友人ER氏のご好意により掲載。


短かった夏を偲んで


ハクサンコザクラ(白山小桜)Primula cuneifolia Ledeb. var. hakusanensis Makino

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真夏の夜の夢

2009年08月21日 | 雑記帳の欄外

星空を眺めて 
 日本人宇宙飛行士の活躍などで、天空の仕組みは少し分かったような気がするが、宇宙の果てがどうなっているのか、全く想像できない。天文学は子供の頃から割合好きで、野尻抱影『日本の星』とか雑誌の付録の星座表などを片手に星空、星座は飽かず眺めてきたが、想像力が欠けているのか、未だ一番知りたいと思うことは理解できていない。国際宇宙学会 International Astronomical Union に関する記事*を読みながら、真夏の夜の夢?を見た。 

 ほぼ400年前、1609年8月25日、あのガリレオ・ガリレイは、ヴェニスの商人に新しく製作した望遠鏡を見せたといわれる。倍率はおよそ20倍だったらしい。そしてまもなく、ガリレオ・ガリレイは自分が作った望遠鏡で天空を観測した。そして、月に映る影などから文字通り足下が揺らぐような大発見をした。それはギリシャ人の想像に基づき、長くカトリック教会を支えてきた宇宙観をも揺るがせた。そればかりでなくガリレオはあまり注目されていないが、天の川 Milky Way が多数の星から成っていることを発見している。 

 天文学の最新の推定によると、宇宙の年齢はおよそ137億光年であり、地球の年齢の約3倍、現在の人類が存在する時間的長さの約10万倍に相当するそうだ。宇宙の真の大きさは未だ分からないらしい。宇宙の年齢、光の速さを考えると、どんな天文学者といえども137億光年を超える先は見通せないという。しかし、宇宙の果て?は、それよりもはるか先らしい。 

 さて、最近ガリレオ・ガリレイの評価が一段と高まっているようだ。人類が自らの相対的位置を認識する上での知識という意味で、ダーウインの自然淘汰による進化論と肩を並べると考える人もいる。ガリレオ・ガリレイが生まれた時代の世界は、当時の一般の人々にとっての知識は、地球の大きさ、月への距離など、なんとか理解できる範囲に収まっていたようだ。

 しかし、現代人にとって天文学者でもないかぎり、宇宙の大きさは想像するのさえ難しい。少なくも普通の人にとって宇宙の限界?は、見えがたい。幸いなことに現代は、ガリレオ・ガリレイの時代のように、世界観がひっくり返ってしまうようなことにはなっていないということのようだ。

 それにしても仰ぎ見れば満天の星というような天空は、久しく見ていない。あの輝くような星空はどこへ行ってしまったのだろう。


References

ジェームズ・マクラクラン(野本陽代訳)『ガリレオ・ガリレイ』大月書店、2007年
* Galileo, four centuries on: As important as Darwin” The Economist August 15th 2009.
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楽園の花々から(2)

2009年08月20日 | 午後のティールーム
友人ER氏のご好意により掲載。


暑さが戻ったとはいえ、日射しはすでに秋のやわらぎに。


みやましおがま (深山塩釜)
 Pedicularis apodochila
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楽園の花々から

2009年08月19日 | 午後のティールーム
Photo  友人ER氏のご好意により掲載


楽園の花々から  

岩桔梗(いわぎきょう)
Campanula lasiocarpa
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地上の楽園

2009年08月17日 | 午後のティールーム

Photo 友人ER氏のご好意による。


暑さしのぎに。 目を休める。

下界は酷暑が戻ってきたようですが。

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短かった夏

2009年08月14日 | 午後のティールーム
日没、雲海に浮かぶ立山連峰(白馬岳からの遠望) 友人ER氏のご好意による。


残暑お見舞い申し上げます。
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ガリレイの生涯(3)

2009年08月10日 | 書棚の片隅から

 ブレヒト『ガリレイの生涯』の舞台は見ることができなかったが、この卓越した劇作家の生き方、作品には強く惹かれてきた。とりわけ、『ガリレイの生涯』については、ブレヒトが自らの作品の制作態度について、詳細に覚え書を残していることもあって、彼がいかなる考えの下に、細部の演出を行ったかが迫真力を伴って伝わってくる。17世紀の歴史的事件を20世紀の激動の過程に身を置きながら、いかに解釈し、戯曲として提示するかというひとりの劇作家が立つ位置を知ることができる。

 劇作家でブレヒトの翻訳者でもある岩淵達治氏によると「ブレヒトの演劇の特徴は「異化効果」といわれる「われわれが無意識にもっている先入観を打ち壊すことから始まる。だが異化とは、そのようにして偏見を取り除かれたものが、もう一度偏見にとらわれない新しい目で、その現象を見直し、自らの判断を下すことを言うのである。」(291)とされる。

 こうした劇作家の意図を、意識して舞台を見たり、脚本を読んだりするかどうかは別として、ブレヒトの作品は多くのことに気づかせてくれる。ブレヒトは古典化したといわれているようだが、今日読んでも十分新鮮だ。

 『ガリレイの生涯』に関わる重要なテーマのひとつは、やはりガリレイの歴史的位置づけだろう。ブレヒトはこの点について、次のごときコメントを残している。やや複雑なニュアンスが込められており、読み手が勝手にパラフレーズしてしまうのは問題かもしれない。そこで、前回に引き続き、ブレヒトの言葉をできるだけそのままに以下に引用してみよう。

ガリレイを賞賛するか、弾劾するか?
 もしも私にむかって、――肯定的な調子で――ガリレイの学説撤回は、若干の「疑義」は残すにせよ、この撤回が彼に科学の研究を継続し、その仕事を後世に引き渡すことを可能にしてくれたという理由によって、理性的な行動だったと描かれていますね、と言った物理学者たちが正しいとすれば、それはこの作品の大きな欠陥ということになる。

現実にガリレイは、天文学と物理学を豊かにした、だが同時にこの両科学から社会的な意味を殆ど奪いとることによって豊かにしたのである。天文学と物理学は、聖書と教会への不信を示すことによって、一時期はすべての進歩陣営のバリケードに立っていたのである。それ以後の数世紀のあいだに、それでも大転換がなしとげられたことは事実である。そして両科学はその転換に一役買っていた。しかしそれは革命ではなくあくまでも転換であり、騒動といってもそれは退化して専門家だけの範囲内の討論に堕してしまった。教会と、それと結びついた全反動勢力は秩序整然たる退去を完了することができ、多少なりとも自分たちの権力を主張することもできた。このふたつの科学のほうはといえば、以後二度と社会において昔日の重要な地位に到達することはできず、民衆とあれほど接近することもできなかった。1947年、211

 ブレヒトは当時のカトリック教会、とりわけローマ教皇庁については、次のように述べている。

教会の描き方
 この戯曲のなかでは、教会は、自由な研究と対立するような場合でさえ、ただ権力当局という役割を果たしているだけである。科学はかつて神学の一部門であったのだから、教会は宗教的な権力当局であり、科学の最終決定機関でもあるのだ。しかし、教会はまた世俗的な権力当局であり、政治の最終決定機関でもあるのだ。この作品が示すのは、権力当局の一時的な勝利であって、教会の一時的な勝利を示すのではない。この作品中のガリレイが決して教会に直接に対決しようとしないのは、史実に即している。対決というような方向をもったガリレイの言葉はひとつもない。ひとつでもそんな言辞があったとしたら、異端審問所のような徹底的な調査期間がそれを暴きださぬはずはなかっただろう。214

 知識なしではひじょうにやっていきにくい時代は、まさに最も切り抜けにくい時代である。知識なしでやっていけるように見える時代には、貧困は極度に達している。もう計算できることが何もなくなり、尺度というものまで焼失してしまっている。手近な目的が遠くにある目的を覆い隠してしまう。手近な目的が遠くにある目的を覆い隠してしまう。こういうときは目先の幸福が決定を下してしまうのだ。1947年、222

[個々の場面についてのメモから]

[狡智と犯罪]
 この戯曲の初稿の最終場は今と違っていた。ガリレイは全く秘密裡に『新科学対話』を書き上げていた。彼は愛弟子アンドレアの来訪を契機に、この本を国境を越えて外国に密輸させた。彼の学説撤回が、決定的な書物を完成するチャンスを彼に与えたのだ。彼は賢かったことになっていた。 
 カリフォルニアの稿本では、ガリレイは彼の弟子の賛辞を拒み、彼の撤回は犯罪行為であったこと、どんなに重要な著作によっても、その罪は帳消しにされないこtを証明する。
 もし興味がある人がいたらいっておくが、これが台本作者の下した判決でもある。


 いうまでもないが、ベルトルト・ブレヒト自身のこと。

ベルトルト・ブレヒト作 岩淵達治訳『ガリレオの生涯』岩波文庫、1979年 

 

 

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ガリレイの生涯(2)

2009年08月08日 | 書棚の片隅から

  前回に続き、ベルトルト・ブレヒト「『ガリレイの生涯』の覚え書」から、印象に残るいくつかのフレーズを記してみたい:( )内は執筆年、数字は引用ページ

 朝のイメージも夜のイメージも誤りを招きやすい。幸福な時代というものは、ぐっすりと眠った夜のあとに朝がやってくるというような具合に簡単にはやってこないのだ。(1939年) 208

新時代の粉飾しない実像
アメリカ版への序文
 私が亡命時代の初期にデンマークで戯曲『ガリレイの生涯』を書いていた時、プトレマイオスの世界像を再構成する仕事を手伝ってくれたのは、ニールス・ボーアの助手たちであり、かれらは当時原子を破壊するという問題にとりくんでいた。わたしの意図は何よりもまず。新時代の粉飾しない実像を示すことだった―これは骨の折れる企てであった。208

 われわれが改作の仕事にかかっているまっさいちゅうに、ヒロシマで「原子時代」がデビューした。一夜にして、新しい物理学の創始者であるガリレイの伝記は違った読み方をされるようになった。巨大な原爆の地獄さながらの効果は、ガリレイと彼の時代の権力当局との葛藤にも、新たな、もっと鋭い照射をくわえることになった。われわれは、全体の構成は全く変えずに、ほんのわずかの変更を加えさえすればよかった。すでに原作(初稿)のなかでも、教会は世俗的権力として描かれており、教会のイデオロギーは他のいろいろな権力のイデオロギーと取り換えても、基本的には変わらないものに描いてあった。作品を書き始めたときからガリレイという巨大な人物のキーポイントとして、ガリレイの、民衆と結びついた科学という考え方が利用されていた。 208

 だいたい『学者』デア・ゲレルーデネという言葉には何となく滑稽な感じがつきまとう。何か「調教されたもの」というような受動的な感じがあるのだ。バイエルン地方では、人々がよく「ニュールンベルグの漏斗」ということを話の種にするが、これは一種の脳に注入する浣腸器みたいなもので、頭の弱い人間に、多少とも強制的に大量の知識を流しこむことを言う。知識を注入されても、この連中は賢くはならない。[中略]   

 「学者」は、不能で、血が通わず、つむじ曲がりの人間タイプで、「うぬぼれて」いるが、たいして生活能力のない人間だった。(1946年)

アメリカにおける上演の背景
 
知っておいてもらわなければならないのは、われわれの上演が行われた国、行われた時期が、原爆を製造してそれを軍事的に利用したばかりのところであり、、今や原子物理学が厚い秘密のヴェールに包まれてしまうという状況だったということである。原爆投下の日を合衆国で体験したすべての人にとって、この日は忘れ難い日になるだろう。[中略]

 この台本の作者は、バスの運転手や青果市場の女売子たちが、恐ろしいことだとしか話していないのを耳にした。それは勝利ではあったが、敗北のもつような恥辱をともなっていた。そのあと、軍部と政治家によって、この巨大なエネルギー源のことは極秘にされるようになり、そのことが知識人たちを怒らせた。[後略] (1947年) 210

~続く~

Reference
「渡辺謙アメリカを行く 星条旗の下で生きたヒバクシャたち」NHK 2009年8月7日

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ガリレイの生涯

2009年08月07日 | 書棚の片隅から

 
夏の読書
 
  ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』(岩淵達治訳、岩波文庫、1979年)を再読した。文庫版が出た頃に一度読んだのだが、気にかかる点が多く、もう一度ゆっくり読み直してみたいと思い、書庫の片隅へ別にしておいた。ガリレオ・ガリレイもさることながら、劇作家ブレヒトの生き方にも強く興味を惹かれていた。あの画家キルヒナーの人生遍歴とも重なるところがあった。

 しかし、今回気がついてみると、もう20年の年月が過ぎていた。かなり驚いたことがあった。前回読み切れていなかったのか、以前にも増して次々と新しい発見があった。いくつかは時間の熟成がもたらしたものだった。

 今回再び手にするについては、ひとつのきっかけがあった。
国立西洋美術館・京都市美術館『ルーヴル美術館展―17世紀ヨーロッパ美術』(2009)カタログに収録されているブレーズ・デュコスの『「レンブラントのヨーロッパ」における世界周航、庭園、科学革命』を読んだ時に触発された。特に、ガリレオ・ガリレイについて詳しく記されているわけではない。しかし、17世紀に遠洋航海の時代が生まれるについては、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)などの天文学の発達に負うところが大変大きかったのだ。そして、その結果として世界は大きく広がっていった。  

 レンブラント、フェルメールなどの作品と、ガリレオ・ガリレイ(以下、ガリレオと略)の間には、さまざまな意味で興味深い関係が見出される。最近の新しい発見もある。それについて、今は触れない。ただ、17世紀になるまで、すべての知識は哲学の範囲に含まれ、自然、社会、さらに宗教までも哲学の原理の次元で議論されてきた。実際、ガリレオも1610年トスカーナ大公の宮廷哲学者としての地位を得た。 ガリレオは科学の問題について教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を切り離し、「科学の父」と呼ばれることになる。イタリアは当時の先進国だけあって、ガリレオの生涯についてはかなり多くの記録が残っているようだ。

ガリレイの裁判
 ガリレオは地動説を発表した後、軟禁状態での1616年第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所)から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。この直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。そして、1633年 第2回異端審問所審査で、ガリレイはローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。  

 ブレヒトの戯曲『ガリレイの生涯』は、ガリレオの人生の後半を巧みに取り上げ、1637年著書『新科学対話』が密かにイタリア国境を越えるプロットで幕を閉じる。『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。知識の流れを国境は阻止できないという考えだ。なんとなくはるか時代を隔てたIT時代の到来を思わせるようなくだりだ。  

ブレヒトの時代
 ガリレオ以上に、ブレヒトについてもかなり関心を持ってきた。残念ながらブレヒト自身の演出『ガリレイの生涯』の舞台は見ることがなかった。しかし、その後、日本で何度か上演されたブレヒト劇はいくつか見る機会があった。

 この岩淵達治氏訳のブレヒトの戯曲台本に加えて、ブレヒト自身が残した詳細な「『ガリレイの生涯』の覚え書」、訳者岩淵達治氏の「訳者あとがき」で、ブレヒトがいかなる時代環境、精神的状況の下で、この作品を制作したか、ほうふつと目に浮かんでくる。 とりわけ、興味を覚えるのは、この作品の制作過程で、ヒロシマへアメリカが原子爆弾を投下している。アメリカ、西海岸へ亡命していたブレヒトは、当然大きな衝撃を受けている。ブレヒトが感じた当時のアメリカ側の原爆の受け取り方がとりわけ注目される。 

 『ガリレイの生涯』は、ブレヒト自身が残した制作過程での詳細な覚え書、そして、演出家岩淵達治氏の透徹した考察が加わって、戯曲の理解を深め、実に
多くのことを考えさせる。ガリレオの時代まで立ち戻れば、最大の問題は科学と宗教との関係であり、とりわけローマ教皇庁の対応が歴史上、大きな注目を集めてきた。

 1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレイに謝罪した。ガリレイの死去から実に350年後のことである。もちろん、この膨大な年月の間に科学の発展が阻止されていたわけではない。しかし、教皇のあり方について、改めて述べるまでもなくさまざまなことを考えさせる。  

 戯曲作家としてのブレヒト自身の生涯も波乱に富んでいた。ブレヒトは1940年、ナチスがデンマーク、スエーデンなどに侵攻したため、ヘルシンキへ逃れ、1941年にはアメリカへ亡命、カリフォルニア州サンタモニカに移住した。しかし、計画したハリウッドへの脚本の売り込みはうまくいかず、戯曲上演の計画も難航し経済的に困窮することになった。しかし、ブレヒトはロンドン、パリ、さらにニューヨークを旅行しながら作品の上演、戯曲制作などを続けてきた。

 戯曲『ガリレイの生涯』をめぐって 30年代初期に書いた戯曲『ガリレイの生涯』の原稿は三度も書き直された。ブレヒトの制作態度は、どれが最終稿というわけではなく、制作がプロセス(過程)としてとらえられている。いずれの段階も、それぞれ固有の意味を内蔵していると考えられている。この間のブレヒトの心の振幅が興味深い。

恐怖のアメリカ
 共産主義者であったブレヒトにとって、当時の米国は決して快適な国ではなかった。1947年10月30日、ブレヒトは非米活動委員会の審問を受ける。ニューヨークで『ガリレオ・ガリレイの生涯』の初公演中であったにもかかわらず、審問の翌日、ブレヒトはパリ経由でチューリヒに逃亡した。西ドイツへ入国が許されなかったためブレヒトはチューリヒに一年間滞在。オーストリア国籍を取得している。1949年東ベルリンに戻り、活動を再開した。  

 ブレヒトにとってナチス
以上に恐怖の場であった当時のアメリカの雰囲気は、特筆に値する。非米活動委員会については、かなり知られているが、とりわけ映画、演劇などのエンターテイメント関係者を目の敵にしていたので、共産主義者と目されたブレヒトにはナチスとは違った恐ろしさが感じられたのだろう。 このブログでもなんどか記したが、当時のアメリカの緊迫した恐怖感を共感・共有できる世代は、きわめて少なくなった。 

 暑さの中での読書にはやや重い読後感を与える作品だが、夜空の星で目を休めながら、17世紀、そして20世紀の大きな時代的転換を考えることは、興味深い。
 
 ブレヒトは自分の芝居の意味を観客に十分考えさせることに大変気を配ったようだ。これはブレヒトの長年にわたる主張だったようだ。この戯曲がアメリカで最初に上演された時の状況については、「覚え書」に次のように記されている。

 上演はベヴァリー・ヒルの小さな芝居小屋で行われた。そして、#1
のなにより心配したのは、ちょうどそのころ酣(たけなわ)だった暑さだった。彼は大氷塊を積んだトラックを劇場に沿って走らせ、そして通風機(ベンチレーター)をまわすように要求した。それは観客が考えることができるためだった#2

*1 俳優チャールズ・ロートンCharles Laughtonのこと、彼の協力でブレヒトが戯曲化。

*2 実際に戯曲作品を読んでみると分かるが、ブレヒトの戯曲には細部にかなり工夫が込められており、それらの含意をくみとるにはかなりの注意が必要だ。

出所:ベルトルト・ブレヒト「ガリレオの生涯」の覚え書。1947年 

 



国立西洋美術館・京都市美術館・日本テレビ放送網・読売テレビ・読売新聞社『ルーヴル美術館展―17世紀ヨーロッパ絵画』(カタログ) 9月27日まで京都市美術館で開催中。

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人はなんのために働くのか

2009年08月04日 | 労働の新次元

 
 「引退」「退職」 retirement というと、なにかネガティブな印象を持つ人が多いようだが、実はこれこそが人生の最も大切な時期なのだと思うようになった。以前にも記したように、人生の時間軸上には「教育」、「労働」という段階に続き、「引退」「余暇」の時期が直線的に並んでいると考えれば、前の二つの時期は、最後の段階を充実するための前段階とさえ考えられる。寿命が延びた結果、この時期は
もはや「余生」といわれる長さではなくなった(ちなみに、20世紀初頭、アメリカやヨーロッパの主要国の平均寿命は50歳くらいだった。日本でも人生わずかに50年といわれたことがあった)。

西欧的考えと変化
 もしある条件が充足されるならば、生活の労苦など、
さまざまなしがらみ、束縛から解放され、真に自分のやりたいことに時間が与えられてもよい段階のはずだ。そのためには、労働の時期からできるだけ早く離脱できることが望ましい。そして、この時期を支える体力・気力と経済的基盤が必要だ。退職時期が遅くなると、最も重要な体力・気力が衰えてくる。西欧諸国で、50歳代での退職を希望する人々が多いのは、このためだ。とりわけ西欧社会では労働している時間は、「苦役」   toil and trouble の時であり、それはできるだけ短くありたい。真に人間としての自分はそれから解放された時にあるのだという考えが、まだどこかにある。これまで労働時間短縮を支える力となってきた。長いヴァカンスへの渇望もこうしたところから生まれてくるのだろう。

 一時期、労働時間が傾向として短縮することで、人生のあらゆる段階に自分の時間、余暇を持つことができる時代が来るのではと思われた。 しかし、近年、こうした願望を制約する変化が強まってきた。

 アメリカの例を見ると、平均寿命の伸長と医療コストの急騰で、平均的な労働者にとって引退後に必要な生活費が大きく膨らんだ。他方、生活を支える社会保障と企業年金は、減少傾向がはっきりしてきた。企業は引退者に医療保険給付を支払えなくなっている。 

労働期間を延ばす
 このため、医療など社会保障システムの見直し、企業年金の財源支援、401(k)プランの再設計などが重要な課題となってきた。しかし、この方向には政策上も限界が見え、労働者の労働生活を長くする以外に有効な道がなくなっている。

 アメリカでは退職年を2-4年間延長すれば、2030年まではなんとか今日の水準を維持できるのではないかとの推定もある。いいかえると、現在のアメリカ人の平均退職年齢の63歳を66歳近くまで延長することを意味する。労働者の健康状態は全般としてみると改善されており、退職の先延ばしは非現実的ではないという見方だ。しかし、これまで50歳台の引退も多かったアメリカでは、退職年齢が引き延ばされることに反対も強い。(ちなみにアメリカでは、年齢差別禁止の立場から強制定年制はない。退職時の決定は、原則労働者個人の意志決定による)。

 この労働期間を延長する政策の実現のためには、使用者や政府が高齢者を雇用し続ける努力もしなければならない。そして、労働者が60歳台半ばまで働くためには、引退後の生活について、経済的な裏付けが保障される必要がある。使用者、労働者、政府などの大きな努力が必要だ。

 高齢化時代へ対処するため、労働者の労働生活を延長しようとの動きは日本やEUでも強まってきた。たとえば、フランスでは現在60歳の法定定年年齢を60歳代半ばまで引き上げ、高齢者の就労を促し、年金支給年齢を先延ばしにして年金財政を改善することが検討されている。フランス人の平均引退年齢は現在57歳前後であり、労働組合の反対も強く、導入には紆余曲折が予想されている。

自分で決める人生
  フランスの場合、経営側は定年を63歳まで引き上げるよう提案しているが、労組側は労働条件の悪化につながるとして反対している。年金財政の改善のために、長く働くという考えに拒否反応が強い。

 高齢化の進行に伴って、各国でこうした「年齢連関型公共政策」age-related public policy が増えてきている。 しかし、年金や社会保障制度維持のためにこれまで以上に長く働かされるという構想は、本末転倒だという批判も強い。

 日本人の間には、「仕事が生き甲斐」という考えも根強いが、すべての人がそう考えているわけではない。仕事は自分や家族の生活の糧を得るためで、自分のやりたいことは別にあると思っている人は多い。それが可能になる人生は設計できるのだろうか。人間はなんのために働くのかという根源的問いが、現在の政策思想に欠けているようだ。

 

 

☆ このブログもそろそろ夏休みに入ります。

コメント (2)
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