時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

浅田真央を支えたラフマニノフの力

2014年02月25日 | 午後のティールーム

 


セルゲイ・ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』
アレクシス・ワイセンベルク(P) ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1972年

 TVも新聞もオリンピックの記事ばかりで、いささか食傷気味な1ヶ月ではあった。他方、多くの感動的で印象に残る場面があった。人間の強さ、弱さ、プレーヤーそれぞれの人生の来し方が鮮烈に示され、見る人たちにさまざまな感動を与えた。

 日本選手の活躍ぶりには、多くの人たちが日頃の生活の労苦を忘れて、一喜一憂し、プレーヤーの心を共有した。後世に語り継がれる名場面も多かった。国民の期待とプレッシャーが高すぎて、気の毒と思われた若い選手もいた。とりわけ、フィギュア・スケートの浅田真央選手の予想もしなかった挫折とめざましい再生もそのひとつだ。前半は信じられない場面の連続だった。本人はいうまでもなく、見ていた多くの人たちの面前で舞台が暗転した。しかし、驚いたことに、わずかな時間をはさんで、舞台は大きな感動に溢れる場に変わっていた。その過程は、メディアで子細に報じられていて、ここに改めてとりあげることなどない。

 ただ、管理人にとっても思いがけない感動を与えてくれた。小さなことだが記してみよう。それはテーマ曲に選ばれていた音楽、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番にかかわっている。ラフマニノフは、まだ筆者が学生時代、レコード音楽に少しばかり深入りしていたころ、最初に手にしたLP盤の一枚であった。それらの中には、今も時々聴くディヌ・リパッティの『ショパンピアノ曲集』なども入っていた。

 いずれも作曲家や演奏家自らが歩んだ厳しい人生を背景に、多くの感動を与える名演奏であった。しかし、ラフマニノフについては、その後ながらくLP盤は、お蔵入りして目前から去り、自分で選んで聴くことはほとんどなかった。わずかにその後生まれたCD盤を時々かけるくらいであった。最近では高音質CD,SACD、BDオーディオなど、ディスク・メディアも多様化し、レコード店に出かけても、どれを選ぶべきか、選択も難しくなった。

  そうした中、オリンピックの開会に先立つ今年初め、あるきっかけでこの曲を聴くことになった。それは近年音楽愛好家の間で話題になっているハイレゾ(High Resolution)ヴァージョンにかかわっている。人間の可聴域は一般に2万(20k)ヘルツまでといわれているのに、なぜそれを上回る音域が必要となり、人気を集めているのかという素朴な疑問が生まれた。

 たまたまハイレゾ・ヴァージョンに接する環境ができたこともあって、一度聴いてみたいと思い、ダウンロード可能な音源を探してみた。しかし、クラシック分野では、ハイレゾ・ヴァージョンで入手できる作品は意外に少ない。配信サイトは国内外にかなりあるようだが、専門家ではないので評価が難しい。手始めに国内サイトを当たっていると、ラフマニノフ(カラヤン指揮、ピアノ、ヴァイセンベルグ、ベルリン・フィル)に行き当たった。直ぐにダウンロードし、聴いてみた。

 かなりの時間をおいて聴いたこともあるが、ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』の新しい音源はさわやかで力強い感動を与えてくれた。加齢とともに高音域が聞き取りにくくなるといわれるが、金管が美しく鳴り、全体に厚みと迫真力が出て、音楽としての深みが増したような感じがした。いずれCD盤と聞き比べてみたい。

 そして、TVで見た浅田選手のスケーティング、目で見る演技よりも前にラフマニノフの方が耳から入ってきた。前日は極度の落胆の境地にあっただろうと思わせる人とは、まるで別人のごとく、浅田真央は本来あるべき美しい演技に戻っていた。ラフマニノフのテーマ曲は、そのすべてをしっかりと支え、これ以外の曲は選びがたいと思わせるほどであった、振り付けも素晴らしかった。とりわけ観客の多数を占めたと思われるロシアの人々には、かつては連邦の一翼でもあったウクライナの悲惨を一時忘れ、古き良き時代?を偲ばせる、ノスタルジックに心を揺さぶる響きであっただろう。それは、同じ曲が閉会式にも選ばれるという主催者の心配りにも現れていた。

 2月の別名「きさらぎ」は、草木の更生する(いきかえること)ことを意味する(広辞苑第6版)。

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扉を閉ざす国々:移民受け入れの限度を計る

2014年02月16日 | 移民政策を追って

 


々介護の行く末
  高齢者が高齢者を介護(老々介護)することが、
日常の光景となった日本だが、いつまでこの状態も維持できるだろうか。破綻した悲惨な事例をすでに多数、見聞きしてきた。高齢化に関連する看護・介護の劣化は、全国いたるところで陰鬱に進行している。高齢者の多い地域の実態を体験してみると、明日は今日よりは良くならないことを肌身で感じる。デイケア・センターなどの建物は出来ても、介護に当たる人が集まらない、人材の定着が期待できないなどの話もよく聞く。それでも都市の施設はなんとかやっているが、地方へ行くほど実態は厳しい。

 当選した東京都知事が、自ら母親の介護をした経験を選挙戦での武器としてきたが、国全体としてどこまでやっていけるのだろうか。人口自体が減少する過程で、高齢化はとどまることなく進行する。急速に高齢化する団塊の世代を誰が介護するのだろうか。そこに明るいイメージを描くことはきわめて難しい。

 景気が上向き、有効求人倍率が上がっているということが報じられているが、手放しで喜べない。需要があっても人材の供給ができず、人手不足になっているだけの分野も多い。仕事はあっても、労働条件が厳しく、劣悪で応募者がいない。

 すでに遅きに失したが、近未来の人材バランスのあり方を現実的に再設計する必要がある。最近の雇用制度をめぐる論議は、破綻を繕う程度にとどまっている。以前より状況が改善されるとはとても考えられない。

生きる喜びを感じうる社会は?
 広く深いヴィジョンが政策立案者にないと、激動の未来を生き抜く構想は生まれない。医学や生命科学の進歩で、寿命だけが伸びても、人が生きる喜びを感じられない社会であってはならないはずだ。科学のあり方も問われている。これからの時代には、先を見通す洞察力と今までとは異なった視野が求められる。

 問題の深刻化に伴い、医療、介護の一体改革、年金制度の再設計、外国人の受け入れ拡大など
、いまさらのようなフレーズがメディアに上っているが、ここまできた以上、問題の本質を見据えた、そして少なくも次世代までは土台を変えないですむ制度設計が必要ではないか。外国人の受け入れ拡大についても、これまで成功しているとはいえないだけに、急速に変化しつつある世界の動向を見定めての慎重な検討が必要だ。

 
今回取り上げるのは、グローバル化と言われる時代にあって、まさに国境の扉を閉ざそうとするいくつかの国のいわばスナップショットである。日本はそこからなにを学ぶことができるだろうか。

影響大きいスイスの決定
 ヨーロッパのほぼ中心に位置するスイスでは、2月9日、国が受け入れる移民数を制限するかを問う国民投票が実施された。結果は制限に賛成が50.3%と、わずかに反対を上回って可決された。およそ49.7%が反対投票した。スイスはEUにもEEAにも加盟していない。しかし、労働力の自由な移動を認める協定をEUと結んでいる。EU諸国の間ではシェンゲン協定というほぼ同様な取り決めがある。100を越えるEUや国別の協定を結び、なんとか財、サーヴィス、人、資本の移動に関して、EUの単一市場の方向をフォローしている。今回の国民投票は右派の国民党Swiss People's Party が主導したものだが、国民投票の結果を受け、政府には3年以内に移民制限を法制化する義務が生じている。

 
スイスの人の動きを制限する動きには、EUは強い反対の意を表明しており、なんらかの対抗措置に出る可能性もある。スイス建国にまつわる伝説の英雄ウィリアム・テルがオーストリアの悪代官にとらえられ、息子の頭上に置かれた林檎を射落ぬくことを命じられ、見事に射抜いて悪代官に勝ったように、今回の国民投票は、図らずもEU本部を射抜いてしまったところがある。人の移動の自由化を高く掲げてきたEU本部にとっては、足下が揺らぎ始めた思いだろう。
 
 


 

  スイスの人口は800万人、年間の純受け入れ移民はおよそ7万人である。人口に占める外国人比率は23%と、ヨーロッパではルクセンブルグに次ぐ高さである。スイス国内では近年移民の増加によって、家賃の上昇や交通渋滞、犯罪増加などがもたらされたとの反対が強まっていた。

 スイスの経済は好調で、労働力不足が生じ、国外から精密工学など高度な技能を持つ労働者やスイス国民が働きたがらない土木、介護などの分野で働く労働者が増えていた。スイス人の仕事が外国人に取って代わられているとの指摘もある。スイスにある国際的企業は、外国人がいなかったら経営ができないと国外移転をほのめかし、外国人受け入れ反対派を牽制してきた。しかし、受け入れ反対派が急速に増えたのは、大量移民によってスイスとしての国のアイデンティティが失われるを怖れる人たちが増えたことが原因とされる。

 今回の国民投票の結果はスイスのみならず、EU諸国へも影響を与えている。イギリス、フランスなどの移民反対を掲げる右翼政党は、スイスの結果を評価する声明を出している。移民受け入れ反対派は、かなり支持者を増やした。今後の動きには、十分な注意が必要だ。

不法移民を雇っていたイギリス移民担当相
 スイスのこの動きと前後して、イギリスでは2月8日、移民担当相マーク・ハーパー氏が辞任した。イギリスではキャメロン首相が、同国はこれ以上移民を受け入れることはできないと、再三表明してきた。皮肉なことにハーパー氏は自宅で、不法移民をお手伝いに雇っていたということだった。内務大臣テレサ・メイは、ハーパー氏が閣内から去るのは残念だが「マーク(ハーパー)は素晴らしい閣僚でイギリスへの移民を大きく減らしたことは賞賛に値する」と、同僚を支持している。

 ブログに記したこともあるが、ハーパー氏は昨年移民の多い地区で、不法滞在者に向けて「国へ帰れ、さもないと逮捕される」 'go home or face arrest' という看板を掲げた車を走らせ、物議を醸した人物である。彼は労働者や使用人の採用に際しては、不法移民でないことを書類で十分チェックするようにと述べていただけに、「上手の手から水が漏れた
」というべきだろうか。

 同じような出来事は、これまでアメリカやイギリスでは、ローカル・レヴェルではたびたび起きており、そのつど当事者が釈明や辞任に追い込まれていた。こうした出来事は、不法滞在者を判別することがいかに難しいかということを示している。不法移民の側も、書類偽造、手術による指紋抹消、出身地など本人に関わる証拠を一切抹消してしまうなど、さまざまな対抗手段をとる。かつてアメリカ・メキシコ国境を越えて、入国した者の多くは、入国に必要な書類のみならず、自分や家族にかかわる公的書類などを一切保持していなかった。

手詰まりのオバマ移民対策
 
アメリカでは移民法改革が滞る中で、明らかになったことはオバマ政権の下では、不法移民の強制送還がきわめて多いというやや意外な事実である。昨年アメリカは入国に必要な書類を所持していない移民、369千人を強制送還したが、その数は20年前の数字の9倍にあたる。オバマ政権になってから、およそ200万人が強制送還された。昨年強制送還された者のおよそ3分の2は国境で摘発された者で、残りは国内で不法滞在者として摘発された者といわれる。こうした事実を反映してか、アメリカに不法入国を試みる者の数は減少している

 人権擁護、民主化などの旗を高く掲げて当選したオバマ大統領だが、移民政策についてみると、共和党の反対でほとんど進行していない。とりわけ、国内に居住する1,170万人ともいわれる不法滞在者については、ほとんど対応できていない。共和党の強い反対もある。残された手段として、国境付近での取り締まりを強化し、不法入国を試みた者を次々と強制送還するということになっている。正確な統計数値がないが、不法移民が話題にされるようになってから、初めて流入が流出を下回った。

 オバマ政権下で送還された不法移民の数は、政権発足以来すでに200万人近くに達していることが明らかにされている。農業、ホテル、レストランなどは、こうした不法移民の存在で支えられてきた。以前は国境パトロールは、ただパトロールするだけと揶揄されてきたこともあったが、最近では不法入国者を積極的に摘発し、強制送還するようになった。アメリカに両親に連れられ、不法入国した子供が成人して故国メキシコの親戚などに会いに出かけたが、アメリカへの再入国はできなくなったなどの例が多数報じられている。こうなると、人道的観点から寛容に扱われてきた家族の結合どころか切断になってしまう。

 大統領が強制送還を決めているのではないかとの記者団の質問に、オバマ大統領は「自分はできない」と苦しい答弁を強いられている。


拘留センターのベッド数に比例?
 オバマ政権が特に国境付近での不法移民の強制送還に重点を置きだしたのは、さまざまな理由がある。そのひとつに、不法に入国してきた外国人を一時拘留する施設 detention center が満杯で、収容する余裕がなくなったことも挙げられている。こうして拘留されている者の中には、犯罪者や母国を立証する資料がなにもなく、審査も送還も出来ないという者も多い。

 アメリカでは、こうした拘留施設の一部を民間の経営に任せているが、その運営予算も限度があり、強制送還が増加しているのは、収容センターの状況を反映しているともいわれている。拘留センターは刑務所並みとはいわないまでも、高い塀と有刺鉄線などで拘留者が逃亡できないようになっている。

 他方、野党の共和党は相変わらず国内に居住する1200万人ともいわれる不法移民への市民権付与には反対しており、オバマ政権は当初大きな公約としていた移民法改革を未だに実現できずにいる。

日本の選択は
 さて、再び日本に戻る。中国、韓国など近隣諸国との関係が緊迫度を増し、最近では「鮫に囲まれた国」とまでいわれるようになった。難しい状況で国境管理は格段に厳しさを求められている。今の段階で国境の扉を開く政策はとりにくい。

 他方、中国、韓国など周辺諸国では、人口圧力は高まり、大気汚染や格差拡大など生活環境も急速に悪化している。生活水準が相対的に高く、住みやすいといわれる日本に居住先を求める者も増えている。中国などの富裕者の資本逃避先にもなりつつあり、オリンピックを当て込んでの不動産投資なども増えてきたようだ。中国国内で巨富を蓄積するのは危ういとなれば、反日の国でも投資するというしたたかさだ。


 他方、高齢化の加速で看護・介護などの人材への需要は高まるばかりだ。国内で充足できない以上、外国からの受け入れ拡大は選択肢としてあっても、現在の状況では欧米諸国とは違った意味で、国境管理は難しい課題を抱える。受け入れる対象国も厳しく限定される。やれることはなんでもやるというのは、政治家の決まり文句だが、国境管理の成否は、国の盛衰に関わる。移民受け入れをめぐる国民的議論を極力回避してきた日本だが、そのツケを払う時が近づいている。


References

"Europe watches Swiss immigration vote." BBC News, 8 February 2014. 

’Immigration minister resigns for employing illegal immigrant' The Guardian February 8 2014.

’Barack Obama, deproter-in-chief' , 'The great expulsion' The Ecomonist February 8 2014.

 




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「春闘」?への尽きない疑問

2014年02月08日 | 労働の新次元

 



 「春闘」という文字が、久しぶりに新聞などメディアのトップに散見されるようになった。日本に特有な労使慣行でもあり、英語では spring wage offensive などと訳されることが多い。しかし、背景を知らない外国人にとっては、なんのことか全く分からないだろう。アメリカなどでも、かつて「パターン・バーゲニング」と呼ばれた産業別の独特な賃金交渉が、自動車、鉄鋼、鉱業などで行われたことがあったが、今はほとんど消滅した。労働組合自体が衰退し、雇用労働者10人のうち組合員はひとりくらいしかいない。

 この言葉、少し考えてみると日本人にとっても、分からないことが多々ある。とりわけ、非正規雇用の多い若い世代の人たちには、今頃「春闘」などといわれても、それなあにという感じではないか。その概念にしても、辞書によると、「春季闘争の略であり、1955年以来、毎年春に、賃上げ要求と中心として労働組合が全国規模で一斉に行う日本独特の共同闘争」(『広辞苑』第6版)とされてきた。元来、「闘争」としてみられてきたのだ。

遠い存在になった「春闘」
 この言葉に接して人々が抱くイメージも、そして実体も大きく変わってしまった。かつてはしばしば交渉過程でストライキなどの争議行為もあり、私鉄などが運行停止したこともあった。春闘という賃金交渉は、労使という当事者ではない一般の市民にとっても、その存在を身近かに感じるものであった。

 こうして春闘は、一時は華々しく新聞などの紙面を飾ったこともあったが、1990年代のバブル崩壊後、急速に存在感が薄れ、当事者の意向などもあってか、「春季賃金交渉」など、より分かりやすいがインパクトの小さな用語に変わってきた。

 長く続いた不況の過程に、賃金引き上げなどの恩恵を受けたことがない若い世代の労働者にとっては、いまさら春闘といわれても、自分たちには関係ないことと受けとっている人たちも多いかもしれない。業績好調の企業の従業員だけが、企業の利益増加に応じた報酬、処遇を求めているだけのことと考える労働者もいるようだ。

 賃金交渉であるからには、当事者は経営者と労働者あるいはその組織であることは予想されるのだが、その当事者の実体はどう考えるべきなのか。経営者側としてメディアに登場するのは、概して経団連などに加盟している有名大企業である。中小企業はどう位置づけられているのか、よく分からない。

 他方、労働者側は、概して連合加盟の主として大企業の正社員の組合であり、パートタイマー、派遣社員、契約社員、などの非正規で未組織の労働者は交渉の当事者となりえないばかりか、春闘の影響範囲に含まれるのかも定かではない。

 こうしてみると、春闘の当事者となりえて、交渉のカバーする範囲に含まれるのは、主として大企業の正社員(組合員)に限られるとも考えられる。業績好調な大企業の正社員はベアが期待できても、利益の出ていない中小零細企業で働く労働者や労働組合のない多くの派遣社員や契約社員は傘の外になる。

組合(正社員)にとっての緩衝装置?
 本来、労働組合は組合のメンバーの地位や利益を擁護する組織であり、組合に加入していない労働者は、対象外であるばかりでなく、同一企業内では、正社員でもある組合員の地位を擁護する上での安全弁のような存在になっている。分かりやすい例をあげれば、雇用調整を行う場合には、最初に削減対象となるのは、組織されていない非正規社員である。かくして、組合員である正社員の地位は、組織されていない非正規といわれる労働者の存在によって守られてきた。

 日本が高度成長を続けていた時期には、こうした組織の外に置かれた労働者も、組織された大企業などの組合が獲得した賃上げの余波を、いわば「おこぼれ」(スピルオーバー、spillover)として恩恵に与ってきた。

 このたび、
ようやくめぐってきた賃上げの機会に、連合などの指導者は、(多くは未組織である)中小企業や非正規の労働者へも応分の配慮をしてほしいと述べているが、単なるリップサービス以上の意味が込められているのか、真意はほとんど伝わってこない。労働組合を組合員以外の非正規労働者の利害をも代表する者と考えることは、長い歴史的事実の蓄積からも危うい解釈となる。現代の民主制、とりわけ職場民主制論の再構築につながる課題でもある。

 労働組合の連合体などが、未組織の労働者への賃金引き上げの波及に言及することは、他の国でもみられるが、実質的に行動が起こされ、組織化などが顕著に進んだことはきわめて少ない。労働組合が未組織労働者をバッファー(緩衝材)のように、位置づけてきたことに原因がある。

 こうしてみると、、日本の労働者の5人にひとりしか組合員でない労働組合が、労働者全体の利益を代表しているとは、とてもいえない状況にある。冷静に考えれば、未組織である労働者の方が、日本の労働者の大多数であり、主流なのだ。この意味でも、筆者は「正社員」(企業に正規に採用されフルタイムで働く労働者。また、長期の勤続を前提とする常用労働者。「広辞苑」第6版)という用語と使い方に強い違和感を抱いてきた。

 デンマーク、スウェーデン、フィンランド、ノルウエーあるいはベルギーなどのように、ヨーロッパで労働組合の組織率(通常、雇用者全体に占める組合員の比率)が50%を越えるような国では、たしかに労働者の主流は組織労働者なのだが、そうした国は数少なくなった。日本(2012年推定17.9%)やアメリカ(推定11.9%)のように組織率が低い国の場合は、主流は明らかに未組織労働者なのだ。

 
「日本的雇用」なる特徴の構成にも、かねがね違和感を抱いてきたが、もし「日本的」なる要素を見出すとすれば、多数部分のサンプルから抽出されたものであるべきだろう。少数部分のサンプルから抽出した特徴をもって、多数部分(未組織、中小企業など)を概念化、一般化するのは、本末転倒に近い。

鏡に映るものは?
 さて、今回久しぶりに巡ってきた賃上げの機会も、環境を含め内実ともに、以前とはまったく異なったものに変容している。「春闘」は紙面に出てきても、「ストライキ」や「争議行為」の文字は出てくる可能性もない。ほとんど「死語」のようになってしまった。一時は年間5千件を越えていた争議件数も、近年は50件以下である。

 日本の労使関係の理解について、疑問は尽きないのだが、筆者はそれでも、あるいはこうした状況だからこそ、労働組合の存在とその活動の必要性を強く主張したい。このままでは絶滅種の運命をたどること必至だ。そのためには、思考の大きな革新が欠かせない。現代の組合はなにか大切なものを失ってしまったように思われる。もう一度、原点に立ち戻り、自己否定をするほどの覚悟と距離を置いて、自らを時代の鏡に映してみる必要があると思うのだが。


「春闘:期待と苦悩」『朝日新聞』夕刊 2014年2月5日1面

 平成24 年労働組合基礎調査(上掲グラフ出所)
   http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/toukei/

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