時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

遠く俗塵を離れて(2)

2010年02月27日 | 午後のティールーム

 

前回の答はここに

 熊野速玉大社の樹齢推定1000年といわれる、梛(なぎ)の大木です。日本で最大とのこと。それにしても、日常お目にかからない難しい字ですね。難読漢字テストに出題できそう(笑)。平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛(清盛の嫡男)の手植えと伝えられる熊野権現のご神木です。魔除けの力があるとされ、熊野詣での人たちの帰りの道中の安全を祈願し、その葉を笠などにつけたそうです。

 今回の旅では、かつて訪れたこともある熊野の山へ分け入りました。地元の人たちの話では、「世界遺産効果」も薄れたとのことで、観光客も少なく、大変静かな旅となりました。適度に暖かく、快適な旅でした。花粉症の私は、うっかり北山杉のことを忘れていましたが、熊野の神々のお助けか(?)、ほとんど支障なく過ごせました。帰宅すると、再発(笑)。
 
 日本の旅の楽しみのひとつは、温泉。日本最古ともいわれる湯の峰温泉、有名なつぼ湯の近くの光景。皇族方も多数訪れられた由。

 湯の峰温泉といえば、小栗判官伝説ですね。ストリーは、波乱万丈、そのまま小説や映画にできる面白さ。(小栗判官wiki)



明治22年まで熊野本宮大社がまつられていた大斎原の静謐な空気が印象的。



 本宮大社の梅も美しく開花していました。

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遠く俗塵を離れて

2010年02月24日 | 午後のティールーム

残照の時          photo: yk


  このところ、かなりの数の恩師、友人、知人が世を去られた。もう少しお話をうかがっておけばよかったという思いもある。寂寞の感が強まっている。こんな時は旅に出る。

 どうしても訪れたいと思う場所は少なくなった。幸い、これまでの人生でかなり多くのものを見ることができた。それでも行ってみようと思う所はある。すでに何度か訪れた場所であっても、磁力のように誘う場所がある。

 かなり衝動的に行き先だけを決めて出かける。出かける前はためらいがあっても、動き出してしまうと旅特有の楽しさが生まれる。何度訪れた所で、思いがけないことが待っている。海と山のある場所へ出かけた。今回も深い充足感が待っていてくれた。


遠く大洋を望む



山並み遙かに


俗塵?を眼下に  

梛の大樹


さて、ここはどこでしょう。

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画家と世俗の世界

2010年02月16日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

George de La Tour. The Payment of Dues. Lvov(Lemberg) Museum, oil on canvas, 99 x 152cm, Signed.
Source: Web Gallery of Arts
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『金の支払い』

Q:この作品で、金の請求者そして支払う者はどう区別できるでしょう?


  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品について、思い浮かぶことは多いのだが、この画家をどれだけ理解しえたのかは定かではない。いつになっても謎が残る画家である。とりわけ、この画家の作品と人間性の間に横たわる距離については、容易には理解しがたい大きな謎として残されてきた。作品の深い闇に沈んだ人物像から伝わってくる精神の高みと、他方で断片的に残る史料記録などから想像される画家の直情径行、強欲さ、特権への執着などにみられる乖離が、画家の実像、とりわけ精神世界についての理解を複雑なものとしてきた。
作品は画家の手になるものとしても、史料記録は本人以外の利害関係者の残したものであり、それぞれの立場を反映し客観的判断は難しい。

 興味の赴くままにこの時代に関わる資料を読んでいる時に、1642年、画家の家へ家畜保有にかかわる税を徴収に来た徴税吏(執達吏)を足で蹴るなど、たいへん厳しい対応で接している出来事を思い出した。この場合も1620年に妻の生地リュネヴィルへ移住するに際して、ロレーヌ公アンリII世から認められた権利を主張し、譲ることがなかった。この時にみられる徴税吏への憎悪ともいえる画家の態度が注目される。記録は徴税吏側の証言であるから、相手側に厳しいのは当然ではあるが、画家の激しい気性の表れが注目された。

 17世紀のこの時代、特に1630年代から60年代にかけて、戦争、飢饉、悪疫などの影響で、フランスそしてロレーヌ公国は、国土荒廃の極致にあった。戦費調達のための増税に次ぐ増税で、領民は疲弊のどん底にあった。不満は農民ばかりでなく、職人、貴族などを含めて、広い社会層に鬱積していた。 そのひとつの現れは、この時代、フランス全土に蔓延していた社会不安にかかわる現象である。そのいくつかはさまざまな暴動、一揆という形で爆発した(この暴動の発生因についても、諸説あるが、ここでは立ち入らない)。

 暴動の多くは、現在のフランスでいえば、西部および西南部で多く発生したことがその後の研究で明らかになっている。アルザス・ロレーヌに近い北東部は比較的少なかった。それでもトロワでは 1630年, 1641年, 1642年にかなりの暴動が勃発している。アミアン、ディジョンなどでも発生した。フランスとは政治的には一線を画していたロレーヌ公国にも、それらの不穏なうわさは当然伝わっていたことは疑いない。

 重税への不満は、長い経済停滞の間に社会のさまざまな分野へ広く深く浸透していた。とりわけ現在の納税方式とはまったく異なり、直接に、各種の税の取り立てに当たる徴税吏への反発は、憎しみの水準まで高まっていたといってよいだろう。今日と異なり、税の徴収は執達吏が直接出向いた。当然、厳しい緊迫感が漂った状況が多かったに違いない。こうした中で、ラ・トゥールはロレーヌ公から得た特権を最大限に行使する傍ら、作品は高値で売れる有名画家として生活に貧窮するようなことはなかったと思われる。しかし、この特権の持ち主にも納税・課税の要求は執拗に行われていたことは間違いない。時代も移り、画家とも親しく、いまだ若かった画家に特権を付与したアンリ二世もすでに世を去っていた。わずかに残る一枚の認可状を盾にしての特権の行使も一筋縄ではいかなかったのだろう。


 こうした背景で鬱積した感情が、画家生来の直情的性行と重なり、徴税吏などからの要求に爆発することもあったと思われる
。 画家の作品『金の支払い』は、こうした状況において金を請求する者と支払わされる者との緊迫した光景を描いていると思われる。かつては『税の支払い』という表題もつけられていた。徴税は当時の社会の大きな注目点だった。フランス王国においても、ロレーヌ公国においても、さまざまな名目で税の徴収が行われ、そのひとつひとつは大きな額でなくとも、総計すると重税となって領民を苦しめていた。

 画家ラ・トゥールは社交的な人物であったとは思いがたい。むしろ、かなり内向的で偏屈あるいは時に剛直に近い性格であったと思われる。それでも世俗の世界におけるさまざまな鬱屈をなんとか自制の力で押さえ込み、制作の世界での深い精神的沈潜に当てていたのだろう。その精神世界は、作品と同様に依然深い闇の中にある。


Reference
Robin Briggs. Early Modern France 1560-1715. second ed. OUP, 1998.
 

欄外の謎:この『金の支払い』の原画は、左右が逆になっています。

 

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塩がなくては車が動かない?

2010年02月13日 | 雑記帳の欄外

 立春が過ぎてから日本列島は寒波に見舞われ、各地でかなりの雪が降った。文字通り「春の雪」だ。今年は日本に限らず、世界の各地で異常気象のために大雪が降り、交通機関が麻痺するという状況が生まれた。ニューヨーク州の田舎に住む友人からのメールにも、年末からの大雪で道路が閉鎖され、退職後、町の消防団長でもある彼は雪に埋もれた消火栓の確保などの仕事に追われ、クリスマスカードもとりに行けなかったほどだったと記されていた。ニューヨーク市も国連本部が臨時休日になるなど、かなり大変らしい。

 イギリスでは融雪剤として使う砂塩が不足して、除雪ができないという事態が生まれたという。そういえば、かつてアメリカ生活を送っていた頃、豪雪地帯では一冬が終わると、自動車の品質が劣化するという話があった。除雪用に道路に撒かれた塩が車体に付着してしまい、そのつど良く洗車しておかないと、冬の終わりにパネルの裏などが腐食してボロボロになり蹴飛ばす程度で折れてしまう。事実、中古車などではよく見かけた。

 除雪用に使う粗塩は、アメリカやイギリスでは1トンあたり40-50ドルとのこと。化学産業で使われるもう少し精製された塩は150ドルくらい。さらに料理でグルメが好む高級な食塩「塩の華」fleur de selにいたっては1トン7万ドル以上もするらしい。いずれも突き詰めれば塩化ナトリウムなのだが、有害な夾雑物などを取り除くのに大変費用がかかる。今回の大雪で苦労しているワシントンD.C.などでは、雪を処理するため川へ捨てたいのだが、有害な塩分などが混入しているため、処理に困っているようだ。「雪害」過ぎて、「塩害」へということらしい。ちなみに、融雪効果を生むには1平方メートルあたり10-20グラムを散布する必要があるとのこと。

 意外なことに塩は、取引の範囲、市場の大きさなどがかなり限定されていて、除雪用塩が足りないといっても、簡単には生産拡大、不足地への輸送などができないという。美しい雪も生活に必要な塩も度を過ぎると、思いがけないことが起きることを知らされた。

 

Reference
”Salt sellers” The Economist January 16th 2010/01/24

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見えてこない「国民」のイメージ

2010年02月09日 | 移民政策を追って

見えない「国民の姿」

  移民(外国人)労働者問題は、とどのつまり彼らを自分たちの隣人として認めうるかというところに行き着く。隣人といっても、生い立ちの違いは当然のことだが、先住の国民とは生活の仕方、考えも異なる。信じる神も違うかもしれない。どこまでの違いなら、隣人としてやってゆくことができるだろうか。移民受け入れのあり方は、その国の身の丈を反映している。  

 日本でも定住外国人の参政権問題が議論に上ってはいるが、およそ国民的議論の次元には達していない。多くの国民は外国人の参政権付与にかかわる論点など、ほとんど知ることなく過ごしている。新政権成立後、政治家と金という低次な問題に多くの時間をとられ、景気回復・財政再建、雇用創出、社会保障など、山積する重要課題に割かれる時間はきわめて少なくなっている。

最も前を歩む国フランス:
 
移民問題を最も先鋭な形で国民的議論の場に提示してきた国のひとつはフランスだ。この国ではすでに200万人近い外国人がフランス国籍を取得して、国内に住んでいる。

 最近、サルコジ大統領が「フランス人とは何か」という問題提起をして大きな論争を引き起こしている。多くのメディアが論争を伝えている。支持率低迷が伝えられるサルコジ大統領が、ナショナリズムを高揚させ、国民の結束を強めることを狙った演出ともいわれているが、思わぬ逆効果も出ているようだ。

 フランスでは毎年10万人以上の外国人がフランス国籍を取得している。先進国の中ではかなり開放的なイメージがもたれる国だが、現実は厳しい。フランスにおける定住経験、2年以上にわたるさまざまな審査を経てのことである。フランスの理想である自由・平等・博愛の精神に沿って、この国の価値観の尊重が求められる。フランス語の習得もそのひとつだ。

イスラム文化との対決
 そして今日の移民問題の最大課題は、イスラム文化への対応だ。フランスはヨーロッパ・モスレムの拠点になっている。フランスでは1994年以降、世俗的な生活における宗教的シンボルを削りとる動きが強まってきた。最初はモスレム伝統のヘッドスカーフの公立学校での禁止から始まった。10年後には、公立校、公的建物でのこれみよがしにみえる宗教シンボルの誇示を禁止した。さらに、今年3月には、ブルカburqa(イスラム強国の女性が着る、頭から足首まで覆うゆるやかな外衣。目の部分だけをスリットで開けている)を街路などを含む公的な場所で着用することの禁止が提示されることになっている。抵抗すると罰金750ユーロ(1090ドル)が科せられる。

 ブルカについては、サルコジ大統領も昨年「フランスの土壌にそぐわない」と発言している。 フランスではおよそ2000人近いイスラム女性がブルカを着用しているといわれる。全体からみればその数は少ないが、なぜ問題にされるのか。ちなみに、フランスでは2004年法でブルカは公立学校、身分証明書では着用禁止となっている。

 それは、歴代フランス政府が目指している(1)国家と宗教の分離、(2)明白な宗教的シンボルの誇示を拒否する、という2点にかかわっていると思われる。とりわけサルコジ大統領は、宗教それ自体を禁止はしないが、慎ましく思慮分別をもって信仰に対せよと述べている。いいかえると、宗教を私的領域に限定しようとする動きともいえる。他方、世界にはロシアのように、国家とロシア正教の関係が復活する動きもある。

ブルカは牢獄?
 当然、イスラム教徒の側からはフランス政府の政策は宗教的弾圧ではないかとの反発も起きる。昨年、サルコジ大統領は「ブルカは宗教的サインとは考えない。そうではなくて女性の従属、蔑視のシンボルだ」との趣旨の発言もしている。サルコジ内閣でモスレムの大臣フェデラ・アマラは、ブルカは「牢獄」と発言したこともある。

 あるフランスのモスレム研究者によると、今日ブルカやニカブを着用している女性はほとんどが40歳以下の若い女性であり、そのうち3分の2は2世代あるいは3世代目だ。そして、4分の1ちかくは改宗者だ。いいかえると、彼女たちの母親たちはブルカを来ていなかった。

 西欧各国の首脳も宗教についての発言は微妙だ。2009年、オバマ大統領はカイロで西欧社会はモスレム市民への宗教的干渉を防がねばならないと発言している。たとえば、モスレム女性がなにを着用すべきかという点に国家は強制を加えるべきではないとしている。  

 このたびのサルコジ大統領の政策で、新たな移民論争が始まる気配もある。フランスには移民・同化・国家アイデンティティ省という、移民・外国人労働者問題に対処する省庁が設置され、問題の対応へ当たっている。

 他方、日本のように移民・外国人労働者問題を国民的議論にしないように、成り行き任せにしている国もある。難しい問題は先延ばしというのは、この国のお得意だ。しかし、世界における日本のイメージは改善されることはない。なにを考えているのか分からない、国としての存在感がない。

 確かに「フランス人とはなにか」という大命題を、サルコジ大統領のような形で国民に突きつけるのは乱暴で、イスラム文化への恐怖という「パンドラの箱」を開けてしまったという論評もある。しかし、フランスという国は、その手法の善し悪しは別として、こうした議論を繰り返し重ねることを通して、その革新性、独自性を誇示してきた。フランスという国がいかなる方向を目指し、国民として包括する対象がどのようなものであるかを、絶えず国民の議論の場にさらしている。

 他方、この国日本ではほとんど実のある議論はされることなく、いたずらに時間だけが過ぎて行く。国民の大多数が知らない間に、出入国管理などの法制も塗りかえられてゆく。黒白を争うことをできるだけ回避する国民性なのだろうか。国民にとっても「日本人とはなにか」が見えにくい国だ。外国からみると、頭巾で深く顔を覆った「顔の見えない国」であるのかもしれないと思う。50年後の日本「国民」とはいかなるものになっているか、彼方の世界で見ることになろう。


References

Economist.com/audiovideo/europe
2010年2月5日 衛星第2 「フランス人とは」
 “The war of French dressing” The Economist January 16th 2010

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扉は開かれるか

2010年02月03日 | 移民政策を追って

  9.11という象徴的な数字で世界に記憶されることになった同時多発テロが、アメリカなど先進諸国の移民受け入れ政策に決定的な影響を与えるだろうことはこれまでも記してきた。テロリストが地球上で活動しているかぎり、一時でも安心できない国がある。しかし、テロ行為が世界から消滅するという保証はどこにもない。ひとたび国家を揺るがす大惨劇を経験すると、いつ再びあの日が舞い戻ってくるか不安にさいなまれる。最も直接的な次元では、出入国管理の場で、テロリスト阻止のため、入国してくる外国人についての対応はこれまでになく厳しいものとなる。

  とりたてて旅行好きというわけでもないが、気づいてみるとかなりの旅をし、時に思いがけないことも経験した。

 印象に残ることのひとつは、空港の出入国管理の変化だ。テロ事件などが起きると、短期的にも突然壁が高くなる。成田空港で一度機内に積み込んだ荷物を、爆発物が入っている荷物が混入しているとの通報があったとのことで、乗客が積み込んだ荷物をすべて機上から地面に下ろして並べ、乗客がひとりひとり自分の荷物を確認し、鍵を開けて中身を調べる検査に立ち会わせられたことがあった。パリ、オルリー空港では爆発物処理班が実際に処理をする場面に出くわしたこともある。空港内に爆発物を処理した大震動が響き渡った。最近は気体・液体類は持ち込めないということで、薬剤のボンベやボトルなどもすべて持ち込み禁止、フランスの空港でいつも携行している気管支拡張剤の器具も取り上げられ困ったこともある。金属探知機だけでは発見できないのか、女性がブーツまで脱ぐようにいわれて、係官と大変な騒ぎになっていた。それでも一般乗客は安全の維持には抗しがたく、渋々従っている。 

 とりわけ、アメリカの国境管理についての印象は大きく変わった。指紋採取や写真撮影もやむなしという状況になってきた。ある旅行業界の委託による調査によると、アメリカを訪れた半数以上の旅行者が入国管理における対応を粗暴で不愉快と回答している。半数近くは世界で最悪の対応と評価している。かつては、開放的で友好的な最たる国とされていた。

 
オサマ・ビン・ラディンとその仲間の入国を阻止するために、多くの人々が入国を阻止される。その中には未来のエジソンやアインシュタインのような人も含まれるかもしれない。アメリカで学びたいという留学生の数も減少している。自由な国アメリカというイメージもかなり劣化したようだ。

 移民政策を含めて、社会政策の多くには「人参」と「鞭」の両面が備わっていることが多い。アメリカ、オバマ大統領は前政権のブッシュ大統領がなしえなかった包括的移民政策について見直すことを約してきた。しかし、すでに政権に就いてから1年以上を経過するが、新しい動きはほとんどなにも打ち出せずにいる。不法就労者が働いていると思われる事業所などを臨検することを禁じた程度である。しかし、改革努力がまったくなされていないわけではない。民主党ニューヨーク州選出上院議員チャック・シュマーと共和党サウス・カロライナ州選出上院議員リンゼー・グラハムは包括的移民法の構想を進めている。かつて故ケネディ上院議員とマッケイン上院議員などが超党派で構想した案の再編そして実現への試みだ。

 こうした動きの主たる問題点については、このブログでも再三記したことがあるが、その後少しずつ変化している部分もある。ひとつの問題は、すでにアメリカに居住している1200万人ともいわれる不法滞在者にいかなる形で救済の道を準備するかということである。そして、もうひとつは、現在はかなり硬直的な形で受け入れが制限されている各種の移民グループを、アメリカの需要に即応した形で再調整することだ。

 当初共和党の一部などが考えてきた不法移民の強制送還は、大きな禍根を残すという考えが強まっている。アメリカの生産部門の労働者は、メキシコからの移民労働者が彼らの仕事を奪うことを恐れてきた。不法就労者たちは摘発されて強制送還されることを恐れて、不当に低い労賃でも引き受けてしまう。しかし、彼らが合法化されると正当な賃率を要求するようになり、国内労働者の賃金を引き下げることはなくなる。さらに、アメリカに永住できるとの保証が得られるにつれて、新規のビジネスに着手するなど地に足がついた活動を始めるようになる。

 先進国の移民政策の中心は、すでにかなり以前から専門性や技能水準の高い労働力の確保へと移行している。グローバル・レベルのタレントの争奪戦が進行している。オバマ政権は、アフガニスタン増派にかけているようだが、混迷している現状が明るい未来につながる見通しは少ない。頭の片隅に不安がいつも影を落とす不安な日々が長く続きそうだ。アメリカの移民史上でも、今はその扉が閉ざされている時代とみられている。

 各国はこうした閉塞状態から脱却しようと、不熟練労働者への扉は閉ざしながらも、他方で専門性の高い人材を受け入れる二重政策を策定している。前者については、とりわけ活性化の源となる創造的な人材を求めている。しかし、これまでのところ、日本は世界的に高度な専門性、タレントを持った外国人にとって魅力ある国にはなりえていない。そればかりか、本来ならば、研修や留学の在留資格のない外国人が増加するという事態が生まれている。

 落日の感覆いがたい日本にとって、まさに国家戦略が必要な問題だ。一国の教育・研究の重要拠点たるべき大学をとってみても、世界から優れた学生、研究者などが競って来日したいと考える所は数少ない。人口減少の進む中で、この小さな列島に700を越える大学がひしめき合い、その半数以上が赤字という実態をどう考えるか。教育のグローバル化の中で、一国の運命がかかるこの重要な時に政治の劣化が進んでいることを残念に思う。


References

“Bin Laden’s Legacy.” The Economist January 16th 2010
Edward Alden. The Closing of the American Border.2009

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