時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

大統領ご贔屓の画家サージェント

2024年07月14日 | 絵のある部屋

バイデン大統領の高齢不安の問題が、アメリカ、そして世界を駆け巡っている。本ブログで、2024年はアメリカが動乱状態になる可能性が高いことを記したが、その当時はトランプ候補が大統領に選ばれない場合が、動乱発生の最大のリスクであると考えられていた。その可能性は今になっても払拭されずに存続している。

7月13日にはトランプ候補暗殺未遂事件も勃発。本記事執筆時点では詳細不明。

他方、バイデン大統領の高齢に関わる不安という問題が急速に浮上している。バイデン大統領が再選されなかったり、トランプ大統領が復帰再選ということになれば、今度は反トランプ側の圧力が過熱することが懸念される。

いづれにせよ、代わりの候補の浮上の可能性を含め、バイデン、トランプ候補のいづれが当選しても、アメリカは大きな混乱、分裂の危機に直面する可能性は高まるばかりだ。2024年から2025年にかけて、アメリカの動乱突入、社会的分断の進行は、ほとんど不可避だろう。

他方、前回記事の流れで、画家ジョン・サージェントの作品カタログを見ていると、思いがけず脳裏に浮かんできたことがあった。アメリカ合衆国政治史上、最も若くして大統領の座に着いた人物の肖像画を制作した画家が、サージェントだったという事実である。

Q:さて、この若い大統領とは誰でしょう。アメリカ政治史に詳しい人でも、意外と答えられない。

大統領の高齢化
話が前後するが、2017年1月20日をもってドナルド・ジョン・トランプ氏は、第45代アメリカ合衆国大統領に就任した。就任時の年齢は70歳220日で、第40代大統領ロナルド・レーガンの69歳349日を上回り、歴代最高齢の大統領となった。後に現在大統領の地位にあるジョン・バイデン氏によりこの記録は更新された。

話を戻すと、今日の段階でアメリカ合衆国の歴史で、最も若くして大統領の座に就いたのは、セオドア・ローズベルト・ジュニア(Theodore Roosevelt Jr, 1858-1919)氏で、42歳10ヶ月でアメリカ合衆国第26代大統領となった(ルーズヴェルト、ルーズベルトとも表記)。愛称テディ(Teddy)、イニシャルT.R.でも知られる。N.B.

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N.B.
ここでは同大統領のことを詳しく記すことは目的ではないが、政治家としての業績、その過程での軍人、作家、探検家、自然主義者など、多彩な活動を精力的に行い、1901年、ウイリアム・マッキンリー大統領が暗殺された後、米国史上最年少の42歳10ヶ月で大統領に就任。日露戦争の停戦を仲介、ノーベル平和賞を授与され、ノーベル賞を受賞した初のアメリカ人となった。政治的には共和党だが、後に短命に終わった進歩党へ傾斜した。アメリカ政治史上、大変優れた大統領としてフランクリン・ローズヴェルト大統領(FDR)と並び、10指の中にはほとんど常に数えられるひとりである。
ちなみに、第32代大統領フランクリン・ローズヴェルト(FDR)は、5従弟(12親等)に当たり、フランクリンの妻エレノアは姪に当たる。
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前置きが長くなってしまったが、今日ホワイト・ハウスに残るセオドア・ローズベルト大統領の公式肖像画を制作したのは、ジョン・シンガー・サージェントであった。実はサージェントより前に大統領夫妻の肖像画を描いた画家がいたが、大統領自身が気に入らず、最終的に破棄されてしまったといわれる。

その後、大統領が期待した画家として登場したのが、サージェントであった。アメリカ生まれの医師の息子としてイタリア、フィレンツェに生まれたが、ロンドンを主な活動の舞台としていたサージェントは、アメリカ国籍を取得し、1905年頃からほぼ毎年アメリカに戻ることがあった。1903年2月、ホワイト・ハウスのゲストとして1週間滞在することが決まった。この間に大統領の肖像画制作に当たろうという計画だった。

二人が考えた大統領の肖像画のイメージはそれぞれ異なり、大統領側の多忙もあって制作途上はかなりギクシャクしたようだ。大統領がポーズをとった場所も、2階へ上がる階段の踊り場であった。多忙な大統領は、週数回昼食後の30分程度しか、落ち着いて画家の前に立つことなく、丁寧な仕事で知られるサージェントは大変不満だったようだ。しかし、大統領は作品を大変気に入り、終生、大事に扱ってきた。その結果、第1級のアングロ・アメリカンの肖像画として評価され、連邦政府の決定で、公式のホワイトハウスの肖像画となった。

作品は正確に大統領の風格、目の輝き、エネルギッシュな性格を捉えている。屈指の肖像画家としての地位を確保していたサージェントの的確な人物像の把握が素晴らしい。ブログ筆者もかつてホワイトハウス見学の際、作品に接する機会があったが、1週間という短期間によくこれだけの作品に仕上げたものだと感銘した。同時期の肖像写真と比較しても、その的確な人物イメージの把握が素晴らしい。

作品は見事に大統領の風格、目の輝き、エネルギッシュな性格を捉えていると思われる。屈指の肖像画家としての地位を確保していたサージェントの的確な人物像の把握が素晴らしい。実際に作品に接する機会を得て、1週間という短期間によくこれだけの作品に仕上げたものだと感嘆した。同時期の肖像写真と比較しても、その的確な人物イメージの把握が素晴らしい。



第26代アメリカ合衆国セオドア・ローズヴェルト大統領の公式肖像画、ジョン・シンガー・サージェント制作、油彩、カンヴァス、1903年。
The official White House portrait of President Thodore Roosevelt(1858–1919),twenty-sixth president of the United States. John Singer Sargent (1856-1925), oil on canvas, 1903, The White House, Washington, D.C.



REFERENCE
Stephanie L.Herdrich, The Sargent: Masterworks, Rizzoli Electa, 2018
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人生の一瞬にかけた画家:サージェントの試み

2024年06月28日 | 絵のある部屋


昼間の酷暑が和らいだ夕刻、付近の住宅街を歩いていると、庭に白い百合の花が開花している家を見かけるようになった。百合はヤマユリ、そしてカサブランカの名で知られる外来種が目につく。ブログ筆者の庭の片隅にも植えられているが、連日の炎暑にもかかわらず、未だ開花していない★(文末)

そして筆者の瞼に浮かんでくるのが、《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》(1885-1887年)の画題で知られる、サージェントの作品だ。百合と日本との関係も興味深い。



John Singer Sargent's Carnation, Lily, Lily, Rose 1885–6 – Tate Gallery

ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent, 1856年 - 1925年)という画家を知る日本人は、美術愛好者でも意外に少ない。本ブログ筆者は、元来17世紀のヨーロッパの画家に強い関心を抱いてきたが、それよりはるかに新しいサージェントについては、いくつかの作品に接して以来、かなりのめり込んで作品を見てきた。その一端は、本ブログにも記したことがある。夕暮れ迫る庭園の片隅で、花々に囲まれながら盆提灯に火を灯す二人の少女の姿が幻想的だ。ジャポニズムの影響も明らかで飽きることがない。

画家は多かれ少なかれ、自らの作品における光の効果に敏感である。例えば、印象派の成立に強く影響を与えた「外光派(バルビゾン派)」の画家ウジェーヌ・ブーダンの影響を受けたモネは屋外の自然風景を描くことを唱えた。

サージェントのこの作品も、その中に含まれるだろう。提灯が生み出す人工の光と、夕闇と共に次第に薄くなってゆく自然の光の混然とした幻想的な光景が描かれている。画家はこの作品の制作に関わったほぼ2年間、夏から秋(8月から10月)にかけての外光 en plein air の効果を考えていた。1年の間でも極めて限られた時間である。

特に筆者が惹かれたのは、この作品に限らずサージェントの極めて丁寧な制作態度であり、それを支える絶妙な光への感覚であった。その代表例は、すでに半世紀以上を遡る1967年、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツでの展示で見た《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》であった。その後、この作品は新装なったテート・ギャラリーが所蔵することになった。この経緯は本ブログでも記したことがある。

鋭い光への感覚
サージェントの作品についての筆者の印象は、光に対する感覚が極めて鋭敏で、それに支えられた制作過程が大変緻密で、丁寧という点にあった。最近の研究成果によると、この作品の制作には想像を超える時間とさまざまな努力が注入されたようだ。制作過程もかなり長く、画家が本作品に傾けたエネルギーは想像を超えるものだった。結局、完成まで2年以上かかってしまった。サージェントは、この作品を自ら「大きな作品」と考え、多大な努力とエネルギーを傾注したのだった。

近年、サージェントへの関心が高まるに伴い、カタログの出版、画家の作品制作の過程を発想から作品完成、評価まで、現存する資料に依拠し再検討する研究が進み、多くの成果をあげている。例えば、カタログ制作にも携わった レベッカ・ヘレン&イレーヌ・キルムレイ Rebecca Hellen and Elaine Kilmurray(April 2016)には、サージェントの屋外での制作画面の写真など興味深い資料も掲載されている。ここでは、それらに準拠し、本作品の簡単なレヴューを試みてみた。ブログ筆者にとっては、最初に作品に接してからすでに半世紀以上が経過している。

作品の発想と制作過程
1885年の夏、サージェントは友人のアメリカ人画家エドウィン・オースティン・アベイとテムズ川のバークシャーの村々を航行中、黄昏迫る農園で二人の女の子が提灯に火を灯している光景を見て、創作意欲を喚起された。そして、友人たちの協力を得て制作への具体的活動に着手した。筆者を含め、多くの人は画家が発想を得てから一気に描き上げるものと思ったようだが、サージェントは、自らの発想を大事にして、友人の力を借りさまざまな試み、準備を行った。

途中、画家の怪我など思わぬ出来事もあったが、サージェントは親切な友人に助けられ、コツワルドに友人ミラーが借りた家で制作を始めた。初めはミラーの娘ルシア、当時5歳を、ひとり描くつもりだったが、間もなく二人を描く構想が生まれ、より複雑な構図になった。友人フレデリック・バーナードの二人の娘、 Dorothy (‘Dolly’) 11歳と Marion (‘Polly’)7歳, をモデルに制作を開始した。制作途中で退屈してしまう少女を引き止めるために、画家はいつもポケットにスイーツを用意していた。


Carnation, Lily, Lily, Rose, Details

サージェントは、作品を黄昏時の外光 en plein airの中での光景として描きたいと考えたが、彼のイメージする時間は、一日で僅か十数分しかないという極めて厳しい条件だった。その時間が経過してしまうと、画家が想定する状況は消滅し、制作は翌日以降に持ち越しになった。画家が感じるこの短い時間は、描かれる少女たちにとっても人生で儚くも美しい時間なのだ。画家はカンヴァスの形状の選択を含め、さまざまな模索を試みた。

作品には、自然の光と人工の光の融合する時間、当時の庭園の植栽状況、花々の含意、「子供たちの世界」が、イギリスの農園を舞台に美しく描かれている。しかし、室内より外の光を基調とする作品の雰囲気は、決定的にフランス風であり、モダンである。


REFERENCES
Rebecca Hellen and Elaine Kilmurray, “One Object: Carnation, Lily, Lily, Rose and the process of painting”, British Art Studies
John Singer Sargent's Carnation, Lily, Lily, Rose 1885–6 – Tate
John Singer Sargent: The Early Portraits; The Complete Paintings: Volume I (The Complete Paintings , Vol 1)
John Singer Sargent: Portraits of the 1890s; Complete Paintings: Volume II (Paul Mellon Centre for Studies in Britis) 
John Singer Sargent: Figures and Landscapes, 1883-1899: The Complete Paintings, Volume V

*中野京子『名画が語る西洋史ー黄昏時の妖精ー』『文藝春秋』2024年7月号

★6月30日に大輪のカサブランカが開花しました。




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額縁から作品を解き放つ(12):精緻に守られた遠近法

2023年01月21日 | 絵のある部屋

フィリッポ・リッピ
《受胎告知》1450
Filippo Lippi(1406-1469)
The Annunciation,1450
Tempera on oil, 203 x 189cm
Munich Alte Pinakothek



今回取り上げる画家フィリッポ・リッピ Filippo Lippi(1406-1469)と『絵画論』『建築論』などで知られるレオン・バティスタ・アルベルティ Leon Battista Alberthi (1404-1472)とは、15世紀中期、全くの同時代人であった。アルベルティは、ルネサンス期の「万能の天才」(uomo universale) と呼ばれた。

アルベルティは15世紀イタリア美術の理論的構築に多大な功績を残したことはすでに記した。『絵画論』で展開された《遠近法》《消失点(焦点)》の理論化に際して、彼は基本的に絵画は窓のようなもので、そこから人々は描かれた対象を眺めるという考えだった。テンペラ画の場合、制作に際して、しばしば画材上の消失点(焦点)に小さな釘が打たれ、そこから画家に向かって放射線状に糸が張られていたという。消失点は通常、見る人の視線の高さに設定されていた。

今回取り上げるフィリッポ・リッピは ルネサンス中期の 画家であり、 ボッティチェリの師でもあった。フラ・アンジェリコとともに、 15世紀 前半の フィレンツェ派を代表する画家である。 フラ・アンジェリコが敬虔な修道士であったのとは対照的に 修道女と駆け落ちするなど奔放な生活を送ったことで知られるが、後に教皇から還俗を認められた。画家の性格を反映してか、華やかな作風である。

上掲の《受胎告知》も当時の様式を踏襲した作品だが、遠近法における消失点の位置が歴然と分かる作品である。聖書台のクッション上に置かれた書籍台や手紙などにも消失点の理論が反映されていることが分かる。《受胎告知》は、この時代に最も好まれ、描かれたテーマだが、今日に継承されている作品を渉猟してみると、実に様々な工夫が込められていることが分かる。

描かれた人物、家具などはほとんど全て想像の産物ではあるが、いずれも極めて精緻に描かれている。


フィリッポ・リッピ、《受胎告知》1450 部分


イタリアでは次の時代、極端なまでの写実主義と自然主義の作品で、ひとつの時代を画したカラヴァッジョの登場がある。

ミケランジェロのような古典的理想表現こそが絵画のあるべき姿だと認識されていた当時、カラヴァッジョの作風は大きな衝撃をもたらした。当時のイタリアで長期にわたって受け継がれてきたルネサンス様式を否定したところに大きな意義がある。時代は大きな転機に差しかかっていた。

主題が先にあり、それを裏付ける画法としての遠近法は、この時代の社会的環境、それを反映した作品と不可分の関係にあった。

続く

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額縁から作品を解き放つ(11):画家の思索の跡を追って

2023年01月14日 | 絵のある部屋


パオロ・ウッチェロ《森の中の狩》アシュモレアン博物館、オックスフォード


パオロ・ウッチェロの《森の中の狩》は、画家の最晩年の作品と考えられているが、しばしばいわれるような単に遠近法の技法を駆使しただけの作品ではない。そこには細部にわたり、画家の深慮が働いていることが分かる。前回に続き、画家の思考の跡を少し追ってみよう。


全体の構図を見ても、描かれている人物や動物などが、遠近法の消滅点(焦点)に向かって同じ行動をしているわけではない。画面の左側と右側では、描かれている人物や動物の視線、動きの行方も異なっている。右側の人物の視線は画面中心部の上方に向けられている。


上掲作品右側部分

この作品を仔細に検討したWhislterによると、ウッチェロは次のようないくつかの段階を追って、制作しているようだ。

制作に際して、画家の思考の推移の跡を辿ってみると、次のようになっている(以下のアルファベットは画材の板の該当部分を示す。Whistler 2010, pp.13-15)。


A. カンヴァスの小片を、画面中心、左上の画材(ポプラの板)の節(ふし)があった部分に接着する。

B. 石膏と膠を混ぜた下地(gesso)の層が、絵具を塗るために整えられる。

C. 遠近法の準備線と人物などの輪郭が描かれる。
D. 黒い下地の層が人物、動物、草花などのために塗られ、人物、動物などは白いシルエットとして残される。灰色の下地の層が空の下の空間部分に塗られる。遠方の人物などのために水平線が刻まれ、人物や樹木の幹などが描かれる。
E. 主要部分は卵白のテンペラが塗られている。
F. 人物と樹木のために絵の具がさらに塗られる:木々の葉が描かれる。木々の葉の光っている部分、あるいは陰影を表すために絵の具が加えられる。
G. 最終的に人物の顔など細部に筆が加えられる。画面手前の部分には光沢を維持するため緑色の銅の顔料が加えられる。
H. 木々の葉の形は全体に輪郭が不明瞭な集合として描かれ、金色の葉が画面の凹んだ部分付け加えられ、光を反射するように他の部分も同様に描かれる。




作品の部分、下地塗りの段階。Whistler p.14

現代の科学的な分析によると、この作品におけるウッチェロの顔料、絵具の選択は、当時の画家たちが採用していたものと同じだった。ウッチェロは、これ以前の作品《サン・ロマノの戦い》でも同様な選択をしている。

すなわち、黄色、赤、褐色の土性顔料(種々の酸化鉄)、鉛白、そしてウルトラマリン(粉砕したラピス・ラズリ)が空の部分に、その他の部分には安価なアズライトが使われている(高価なウルトラマリンを節約することが考えられている)。鉛・錫の黄色、ヴァーミリオン、赤色レーキ、カーボン・ブラックなども使われた跡がある。さらにマラカイト(孔雀石)を加工した緑色の絵具が木々の葉が集まった部分などの彩色に使われている。木の下の暗闇の部分などは、経年変化で暗褐色化して見える。

画面の多くの部分を占める部分は、一見すると変哲もない闇に覆われた森のように見えるが、ウッチェロは多くの顔料を用いて、濃淡、闇と光の複雑さを表現しようと努力したことが判明している。この時代、この作品のような木々の葉などに金色などを使うことは稀であったようだが、ウッチェロは大胆に使用して月光に光り輝く木々の葉の効果を上げている。

読者はもうお分かりと思うが、前回のQuizの答え(左上方をみる人物の視線の先)は、画面中央上部(ポプラ材)の節のあるところ(A)に小さく描かれた月なのだ。

《森の中の狩》は、月が上天に上った薄暮の下、月光が射しこむ《夜の森の狩》の光景であることが分かる。月光に輝く木々の葉には、大胆に金色が使われ、下方の地面を彩る草むらの緑との間でコントラストを見せている。




作品上部、月光に輝く木々の葉

画面に縦横に描かれた樹木と垣の中で、多くの人間や動物が活発に動き回る狩の興奮とざわめきが聞こえてくるようだ。そうした臨場感が、見事に計算された遠近法の仕組みの中に巧みに盛り込まれている。

人物や猟犬などの動きが、遠近法の消滅点へ向かっての単純化された印象を与えないよう配慮されている。そして、月光を求めて天を仰ぐ人物たちの配置と視線が、単調化しかねない画面に動と静のコントラストをもたらし、緊張感の中に森の静寂の漂う力作となっている。

作品はロジックとファンタジー、構図の明瞭さと装飾的な色づかいの中に描き出された傑作といえる。全体として、ウッチェロはヴァザーリが評したようなひたすら数学的な構図を追求した画家というよりは、「初期ルネサンスの数学的伝統を受け継ぎながらも、後期ゴシック美術の巧みに奇想を凝らした装飾的な伝統との間に生まれた稀有な画家」と考えるウイッスラーの評(Whistler p.30)は的を射たものと思われる。

続く
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額縁から作品を解き放つ(10):《森の中の狩》を探索する

2023年01月11日 | 絵のある部屋

Catherine Whiltler, Paolo Uccello’s THE HUNT IN THE FOREST (ASHMOLEAN, 2010, enlarged ed., 2011), cover


しばらく、遠近法のことから遠ざかっていたが、偶々今回のテーマで、再び記憶が呼び戻された。2005年の夏に、オックスフォードのアシュモレアン博物館でウッチェロの《森の中の狩》を見た時の印象については、ブログ上に当時短いメモを書き残していた。

パオロ・ウッチェロ《森の中の狩》c. 1470, 油彩・板、65cm x 165cm アシュモレアン博物館 オックスフォード

その後、しばらく雑事に取り紛れ、忘れていたが、同博物館が発行しているこの著名な作品についてのモノグラフの拡大版 enlarged edition(上掲)を友人が送ってきてくれていたことに思い当たった。enlarged といってもサイズがほぼ以前の版のほぼ正方形から横長になった程度で記載内容はほとんど同じなのだが、いくつか変更されていることにも気づいた。そこで、前回の記事では触れなかった点を2、3記してみたい。

この作品、前回アシュモレアンで見た時は、ウッチェロがクライアントの家の壁に架ける独立し額装された作品として制作したと、うっかり思い込んでいた。しかし、実際は1470年代頃まで、フィレンツェあるいは中央イタリアの富裕な豪邸 palazzoによく見られたcameraといわれた大きな応接間、居間に置かれた家具の一部になっていたようだ。そのひとつの例は、下に掲げるような家具である。


Biagio di Antonio Tucci and Jacopo del Sellaio, Cassone with Spalliera, Courtald Institute Gallery, London

その部屋にはしばしば大きなベッドも置かれ、さまざまな収納のための家具や、椅子がわりの家具が置かれていた。しばしば大きな丸天井が特徴の部屋で、家族や姻戚関係などの結婚や祝い事などの大事な集まりが開かれる場所でもあった。豪邸の中でも最も重要な部屋だ。

こうした部屋にはスパニエール spallieraと呼ばれる背板のある豪華な飾りがある上掲の箪笥のような収納家具が何対か置かれていた。そして、ちょうど目の高さくらいの位置に、さまざまな絵が描きこまれていた。《森の中の狩》もその一枚であったようだ。1470ー1520年くらいの時期に最も流行したらしい。時期的には、1475年、ウッチェロが亡くなる前、今日知られている絵画としてはおそらく最後の作品と考えられる。

描かれた絵画は多くの場合、家族の祖先の逸話などに関わる正義、勇敢、忍耐、知恵などを暗示するギリシャ・ローマ神話などの一コマ、あるいは風景、山や川、狩、などの一コマが描かれ、偉大な先祖について、子どもたちへの昔語りなどに役立てられていた。

ウッチェロの作品を所蔵するアシュモレアン博物館が誇る同様の作品:



The Flight of the Vestal Virgins, Biagio di Antonio Tucci, Ashmolean Museum, Oxford
ビアッジオ・ディ・アントニオ・トゥッシ《ヴェスタの処女の飛翔》アシュモレアン博物館、オックスフォード

ウッチェロの《森の中の狩》を画家に制作依頼したパトロン(クライアント)が誰であったかについては、多くの探索がなされたが、不明なままになっている。しかし、当時の流行であったリアリズムから離れたその斬新さ、現代人の目で見ても、アニメでも使えるくらいのモダーンさが感じられる。しかも、その構図はきわめて精緻な思考の上に成立している。

ウッチェロは、いかなる思考と模索の上で、この作品の制作に当たったのだろうか。作品自体を規制観念から離れ、眺めているだけでも、この画家がさまざまな思考の蓄積の上に、制作に当たったことに思い当たる。作品が遠近法 perspectiveという当時としては斬新な技法の具体化であることは既に知られている。しかし、作品を見てみると、登場人物、犬や馬などの動物の動きが、左右では対照的といえるほどに異なっていることに気づく。左側では人も動物もほぼ全てが消失点といわれる遠近法の中心点に向かって動いているかに見える。他方、右側半分では人も動物も行動の方向が異なっている。馬に乗っている人物(貴族たち)は、なにか上方に視線が向いており、進行する方向も異なるようだ。

N.B. 
1987年、本作品の保全のために、Hamilton  Kerr Instituteが行った調査の結果、作品に使われた画材、技法などについて、いくつかの興味深い発見があった(Whiltler 2011, p.11-17)。調査はX線などの透視を含めて、綿密に行われた。画材は2枚に分かれたポプラの厚板であり、木材特有の節目は丁寧に下地などで被覆されて平坦な表面になっている。さらに、2枚の板は分離しないように丁寧に接合されている。下地はgessoといわれる石膏を材料として、動物の油を含んだ上塗りが施され、滑らかに絵具が付着するよう配慮されている。乳白色の表面である。

ウッチェロは絵具で描写する前に、この画材の表面に全体の構図を描いたと思われるが、現在は確認できない。しかし、現代の光学的調査などで、画家が画面のどの辺りに人物や動物を配置し、樹木を描くなどの目処として、下地に目印を入れた跡がほぼ確認できるようだ。そして全体の画面を暗くした上で、下図のように人物、動物、樹木などを配置、彩色した痕跡が確認されている。


 Whiltler,2011, pp.11-13




さて、ここでQuizをひとつ。
画面右側の人物、動物などは、森の奥へと走り込んでゆく気配は感じられない。馬上の人物は画面左上の方向を仰ぎ見ているようだ。彼らは一体何を見ているのだろうか。

答は次回で。

続く
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額縁から作品を解き放つ(9):工房を支える理論〜アルベルティ〜

2023年01月06日 | 絵のある部屋


レオン・バティスタ・アルベルティ『絵画論』(1435)英語訳 2004表紙

15世紀、ルネサンス・イタリアでは、絵画の技法にとどまらず、作品制作の理論でも大きな進歩が見られた。その代表が、アーティスト、建築家、数学者、詩人、哲学者でもあったレオン・バティスタ・アルベルティ Leon Battista Alberthi (1404-1472)による絵画に関する遠近法理論で、美術の世界に大きな変革をもたらした。美術論ばかりでなくそのカヴァーする領域から、ルネサンスの「万能人間」universal man と呼ばれていた。

工房での作品制作の技法が中心となっていた環境で、こうした理論的支えがあったことはイタリアの文化的地位を大きく高めたといえる。ルネサンス期フィレンツェでは遠近法を利用した絵画が急速に花開いたが、ブルネレスキなどの試みの後、アルベルティの『絵画論』は透視図法での詳細な形式化と理論化を果たした作品として燦然と今日に残る。

アルベルティは『絵画論(De pictura)』において、西洋絵画を確立したと言っても過言ではない。彼は遠近法の手法を構築し、絵画は遠近法と構成と物語の三つの要素が調和したものであると考え、これによって絵画の空間を秩序づけた。彼は、芸術作品について常に調和を重んじ、それを文法化することに腐心した。そのため、彼の芸術論は非常に優れたテキストであり、優れた工房を支える理論的柱でもあった。

西洋絵画理論の柱に
『絵画論』はイタリア・ルネサンス期の画家に多大な影響を及ぼし、その範囲はロレンツォ・ギベルティ、フラ・アンジェリコ、ドメニコ・ヴェネツィアーノ、さらに後年ではレオナルド・ダ・ヴィンチなどの大画家にも及んだ。西洋絵画理論を確立した作品といわれる。

 Leon Battista Alberti, On Painting, Translated by Cecil Grayson, With and introduction and Notes by Martin Kemp, (1972), 2004, Penguin Press
L.B.アルベルティ『絵画論』(三輪福松訳) 中央公論美術出版、1992年


ブログ筆者は、英語訳で読んだが、小著でありながら、絵画の真髄についてのきわめて濃密なテキストとも言える。解説を含めても100ページ足らずなのだが、かなり難解ではある。

たまたま英語訳の表紙には、パウロ・ウッチェロ(1397-1475)の『森の中の狩』が採用されている。同時代人のアルベルティとはいかなる関係にあったのかも推測するに興味深い。

専門化が進んだ現代社会では、ともすれば人々は強制的に視野を制約され、狭窄した次元で物事を判断することになるが、その結果、世界の真の姿を見通せなくなる。イタリア・ルネサンスの時代にあっては、アルベルティのような天才「万能人間」には、世界がすべて見渡せたのだろう。

続く

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額縁から作品を解き放つ(8):技能修得の仕組み

2022年12月26日 | 絵のある部屋

ヴィットーレ・カラパッチオ《書斎の聖アウグスティヌス》
Vittore Carapaccio
St Augustine in his Study
c. 1502
Tempera on canvas, 141 x 240cm
Venice, Scuola of San Giorgio
[説明は本文最下段]

イタリア・ルネサンスの時代、画家を志す者は工房に徒弟として入り、職人として必要な知識・技能を体得することが必要だったことはすでに述べた。石工、大工、鍛冶屋、パン屋などの伝統的職業は、それぞれ固有の熟練を体得せずには、社会的に職業として自立することはできなかった。それぞれの職業の技能水準の維持と平準化には、職業ごとに設立されたギルドが職人の技能の認定を行なっていた。

工房に入る
画家としての技能形成を達成するためには、かなり長い年月をかけた修業が必要とされた。工房によっては、自立するまでには10年近い修業年月が必要と主張する親方、マスターもいたが、普通は、それよりはるかに短い期間で親方になる以前の段階としての職人(遍歴職人: journeyman)となることができた。多くの職人はそのまま工房で働き、さらに経験を積んだ上で、独立した工房を開設することもあった。

徒弟はgarzoniと呼ばれ、親方の家に住み込み、寝食を共にし、家事を手伝い、ほとんどいつも家族と一緒だった。徒弟訓練は若いうち、時には10歳前から始まることもあったが、ほとんどの少年は13から14歳で徒弟入りした。ミケランジェロは例外で13歳まで学校へ行った。その後、ドメニコ・ギルランダイオの工房へ入った。

息子を徒弟にしたい親は息子の衣食住費を親方に支払ったが、親方が逆に徒弟に賃金を払った場合もあった。親方の評判や地域によって、親が支払う費用は異なった。これらは全て契約書に記された。

工房での修業期間は、職業や地域によって差異があった。ヴェニスでは画業を志す徒弟は2年間で、遍歴職人 に移行できた。パデュアでは最短の徒弟期間は3年間だった。その間、親方は他の若者を誘うことは禁じられていた。現在修業中の徒弟の教育をおろそかにしないための配慮だった。そして訓練期間がどうであれ、職人ならば、画家として要求される仕事を完璧にこなせなければならなかった。

徒弟は通常は親元を離れ、工房入りをしてから1年程度は、親方の家に住み込み、家事を手伝いながら、傍で画家になるために必要なさまざまな熟練の習得を目指した。

仕事を通して身につける
工房での徒弟の教育に決まった教程があるわけではなかった。しかし、長年の経験で、技能習得に関わる過程の概略はほぼ定まっていて、親方の判断と指示で、全て進行した。

例えば、最初の1年間は、小さなパネルでデッサンの仕方を学ぶ傍ら、画板に麻や亜麻の布地を張ったり、画布に下地 gessoesをひくことを学んだ。さらに、顔料の粉砕、絵の具の作り方なども必須の仕事だった。

さらに進んでは祭壇画などの背後の飾り anconas の制作などを修得、親方の判断で、限定された部分を担当した。こうした過程を経てようやく画家として画法、彩色などの基幹部分の技能を習得するのが例であった。

大壁面、天井画の制作などは、系統立って教えることはなく、そのつど親方や職人の仕事を見ながら、体得するという現代のOn-the-Job-Trainingに近かった。親方が仕事ぶりに満足すれば、画面の一定部分の描写を完全に任せることは、通例のことであった。

工房の徒弟や職人は、画家であれ彫刻家であれ、必要とあらば他の分野の仕事、例えば祭礼の準備なども臨機応変にこなさなければならなかった。ティティアンのようにガラス工芸のデザインまで手がけた場合もあった。

コピーは工房の宝
徒弟や職人が技能の熟達を目指す上で、工房での習作、名画の模写はきわめて大事なことと見做されていた。有名な工房には、多数の名作のコピーが保蔵されていた。徒弟にとって、これらは恰好な教材だった。

モデルが必要な場合は、工房の若者が務めることも多かったようだ。多数の画家志望者がイタリア行きを目指したのは、町中に溢れる芸術作品の数々と併せて、こうした工房が蓄えた美術習得のための有形・無形の財産だった。

イタリア・ルネサンス工房の作品は、ほとんどが共同作業の結果であり、中心人物、顔などの重要部分のみ親方が描き、残りの部分は工房職人が描くのが通例であった。その結果が、工房の基準に達していれば親方がサインをするという段取りであり、作品が全て親方の手になるという意味での真性さ authenthisity は、さほど問題にされなかった。

このように、イタリアの有名工房は多数の徒弟、職人を抱え、大規模な作品制作にも応えることができた。この点、大きな作品の制作依頼が稀にしかないイタリア以外の地域では、多数の職人や徒弟を抱えることはできなかった。ロレーヌなどの場合、工房の徒弟はほとんど一人か二人だったようだ。

私的な書斎の重要性
美術品の世代的な継承が行われる場所は、それらが描かれている教会や聖堂の壁面、祭壇画、工房や個人などの所蔵など、多数の場所に分散していたが、ルネサンス後のイタリアで長年にわたる美術の世代を経ての劣化、散逸が激しかった場所の一つが studioli と呼ばれる貴族、高位聖職者、知識人などの私的な書斎であったと言われている。最盛期には多くの絵画、彫刻、内装、家具、科学的な装置などあらゆるタイプの貴重な品々が、収集されてそこに置かれていた。これらは私的な収集、博物館的コレクションとして維持されてきたが、16世紀には骨董市での対象となったり、骨董品の展示場  Wunderkammer となっていった。

上掲の作品は、こうした良き時代の書斎の状況を描いた一枚であり、当時を偲ぶ貴重な一枚である。

続く
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額縁から作品を解き放つ(7):工房の働き

2022年12月11日 | 絵のある部屋


15世紀の工房

イタリアに限ったことではなく、どこの国でも画家は長らく、パン屋、大工などと同じ部類の「職人」’craftsmen’ として位置づけられていた。子供が職業選択をするに際しては、ほとんどの場合、父親の職業を継ぐか、親の考え次第で決まっていた。時代を下って、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやジョン・コンスタブルのように、パン屋や粉屋であった父親の仕事を継がなかった例などもあるが、画家は概して先が分からない、リスクの多い職業として考えられてきた。才能の評価は、多くの要因に依存しており、画家として成功できるかは容易に定め難かった。

ルネサンス期のイタリアにおいては、絵画などの美術作品は画家や彫刻家などが自らの創意で制作し、それを見た顧客が購入するという今日のような状況ではなかった。作品は概して高価であり、徹底して顧客による注文生産だった。顧客は典型的には領主などの支配者、貴族、銀行家、富裕な商人、名士、教会などであった。時には、結婚祝い、病気の治癒を感謝する印として、上層の市民からの注文もあった。画家に求められる芸術性などもあってか、彼らは次第に ’artists’と呼ばれるようになった。

イタリア・ルネサンス期の画家の工房 bottegaは、初期段階では、親方画家と職人一人くらいで運営されていたような状況もあったが、時代が進むとともに、教会、聖堂、修道院などからの壁画や天井画、祭壇画などの大規模な作品需要が増加し、ローマ、フローレンスやヴェネツィアなどでは、親方の下に助手として職人、徒弟などを集めた大きな工房が生まれるようになった。

厳しい顧客
こうした工房への作品の依頼主は、制作されるべき作品への要件が厳しく、主要点は契約に記載することを求めたばかりでなく、完成した作品が意に沿わないと、描き直しや契約破棄なども少なからず発生した。要件の内容も宗教画であれば人々の信仰心をかき立てるものであること、歴史画であれば、描かれる人物の容貌、衣装などに、厳しい内容が求められた。大聖堂など公共の場に描かれる作品には、しばしば独立の画家グループなどによる評価も行われた。大変著名な画家が新たな創意で制作した作品でも、伝統を重視する顧客側から不満足とのコメント、苦情などがあると、画家が自らの意思を貫徹できる場合は極めて少なく、その意味で画家は長年、顧客に従属する職人の地位に甘んじなければならなかった。

よく知られた例としては、バチカン宮殿にあるスィスティーナ礼拝堂のフレスコ画を描いたミケランジェロの場合、聖職者たちの間から裸体が多すぎるとの批判、苦情が出て、一時はフレスコ画の取り壊しまで議論された。この例はミケランジェロのような大画家といえども、長年に渡り蓄積された慣例、しきたりから離反することがいかに困難であったかを示している。

他方、フローレンス、ヴェニス、マントバ、シエナなどの都市間では強いライヴァル意識があり、それぞれの独自性を発揮させるために、他の都市から芸術家を引き抜いて新奇な試みをさせるなどの動きがあった。そのため、人気がある画家たちの中には、いくつかの都市を渡り歩いて制作し、多額の制作費を稼ぐ者も現れていた。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)のように、引き受けた作品を未完成のままに放置してしまうことで、評判の悪い画家も生まれた。

アーティストを育てる工房の役割
15世紀中頃から末にかけて、それまでの顧客、パトロンが絶対優位の関係は急速に変化した。画家に依頼される仕事も大きくなり、画家ひとりでは消化できなくなっていた。画家の工房は、次第に規模が大きくなり、画家の父親は息子を画家にすることに熱心だった。それでも、人手が不足し、徒弟という形で画家を志す若者にスキルを伝授する方法が足られた。幼い頃から優れた画才を示した若者は、有名な画家の工房に入るよう勧められた。

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N.B.
ルネサンス期の工房から育った有名画家たち
ロレンゾ・ギベルティ(1378-1455)は有名な彫刻家だったが、フローレンスの幼児洗礼堂の扉の前で長年働いたが、後年、市内に大きな工房を持った。ドナテロ、パオロ・ウッチェロ(1397-1475)など、多くのアーティストがここから育った。アンドレア・デル・ヴェロッキオ(c.1435-1488)の工房からは、ピエトロ・ペルギーノ(c.1450-1523)、サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)、レオナルド・ダ・ヴィンチなどが育った。ペルギーノはペルージアまで出向き、ラファエロ(1488-1520)を指導した。ルネサンス美術の世界は大きなものではなかったので、画家たちはライヴァルがどの程度の仕事をしているか、つぶさに知っていた。複数の工房を運営する画家もあり、ドナテロとミケランジェロのように、ピサ、フローレンスなどで工房をシェアしていた場合もあった。

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この時期の工房は、大小の違いはあったが、親方の下に職人、徒弟などの階層があった。徒弟は一般に男子(女子もいなかったわけではない)で、11歳くらいの若さで採用され、上達の具合などで3年から5年を費やした。徒弟は通常親方の家に住み込み、食費、衣料なども支給された。最初は工房の掃除など簡単な仕事から始まり、使い走り、刷毛の製作、画材の準備などを経て、親方の指示により簡単な部分の描画、彩色などの段階へと進んだ。さらに親方の認定次第で、職人などと呼ばれるようになると、作品のある部分の制作を担当したり、親方の素描に沿って、ほとんどひとりで作品を完成することもあった。

職業集団としての工房・ギルド
助手や職人にまでなると、工房所在地にあるギルドに加入し、会費を納め、一人前の画家として工房にいながらも制作することが認められた。熟達した職人は作品に自分の名前を入れることも認められた。初期のレオナルド・ダ・ヴィンチは、こうした過程を過ごした。工房を離れ、独り立ちする場合には、自らが制作した優れた作品をギルドに提示することが求められた。顧客が工房を選ぶ場合、職人や助手にどれだけの報酬が支払われているかも、ひとつの要因だったようだ。

イタリア・ルネサンスの栄光を支えた底辺には、こうした工房の働きがあった。工房ではギリシャ・ローマ時代の作品の模写、収集が行われていた。古代美術の流れを正確に継承するために、有名な工房はさまざまな内部蓄積を怠らなかった。ルネサンス期のイタリアは文化の中心地として、ヨーロッパ各地から多くの美術志願者を集めた。教会、大聖堂などの壁画、祭壇画などの大きな需要が少なかった他の地域では見られなかった、工房を中心とした独自の文化拠点が生まれていた。

続く




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額縁から作品を解き放つ(6):画材からスキルへ

2022年11月29日 | 絵のある部屋

ラファエロ《キリストの変容》部分

前回までしばしば論及してきたバクサンドールという卓越した美術史家は、15世紀イタリア・ルネサンス期の作品を例に、それが生み出された「社会」との関連で考えることを強調した。ともすれば、作品だけを前に限定された次元で絵画作品の鑑賞、評価を行いがちな現代人にとって、きわめて新鮮に感じられる。少なくもブログ筆者は最初にバクサンドールの著書に接した時に、その内容に大きな感銘を受けた。

Michael Baxandall, Painting & Experience in Fifteenth-Century Italy, (1872), 1988

彼が考える「社会」の概念は、経済、政治などの範囲にとどまらず、宗教、思想、文化などの次元を広くカヴァーしている。ブログ筆者なりに分かりやすく表現すれば、作品を額縁の中だけの次元で判断しないという視点である。

画材よりもスキルの重視へ
このことを裏付けるために、バクサンドールは15世紀イタリア、ルネサンスの舞台へ登場させるプレイヤーを先ず画家とパトロン(「パトロン階級」 Baxandall, 2nd ed., p.38)という最小限に絞り込んだ。そして、両者の間に交わされた契約の内容が、当初の画材の品質、金額などの段階から、描かれるべき人物、風景などの指示に変化してきたことを史料をもって実証しようとした。

15世紀中頃になると、史料として残る画家とパトロンの間の契約に見る限り、作品の評価が画材の質量から画家の持つスキル(技量)の優劣に重点が移っていることが認められている。

職人から自立した画家へ
バクサンダールは、パトロンが画材よりも画家のスキルの優れた点をどのように評価したかが記されている契約例の史料を提示し、自らの主張を論証しようと努めている。もちろん、この時代の全ての史料が同じ方向を示しているとは思えない。しかし、時代の流れは明らかにパトロンの絶対優位(画家が職人であった時代)から、画家のスキルの重視と社会的評価への拡大に向かっていたと思われる。画家間の個性や優劣評価にも関心が高まっていたようだ。この事実は、ブログ筆者なりに言い換えると、画家の社会的自立への移行が起こりつつあったことを示しているとも考えられる。この点はバクサンドールが独自に着目し検討したユニークな論点といえる。

時代の展開と共に、画家たちもパトロン(クライアント)の反応に敏感になるとともに、社会一般の人々が作品を観る場合、どこに関心を寄せたかに注目するようになっていった。

かくして、15世紀中頃にかけて、イタリアでは画家の技量(スキル)を認知し、重視する動きが起きていた。競い合う画家の間のスキルの優劣、画家の間の創造性、表現力などの微妙な違いなどが、暗黙の内にも重視されるようになってきた。

ライヴァル意識の醸成
こうした変化は画家の間にも伝わり、彼らの間に競争を作り出し、しばしばライヴァル意識も生まれたようだ。

良く知られた例を挙げてみよう。15世紀初め頃からフローレンスのパトロンたちは、画家たちを互いに競わせ、大作を制作させるよう仕向けていた。メディチ家のギウリオ枢機卿は、後のクレメントVII世だが、さまざまな手段を駆使して、彼のフランス、ナルボンヌ教区の祭壇画をラファエロとミケランジェロの二人が互いに競い合うことを熟知した上で制作させた。

別の例を挙げてみよう。
16世紀前半、ヴェニス、ローマで競い合った画家たちの中で、セバスティアーノ・デル・ピオンボ(ca1485年 - 1547年)は、ヴェネツィア派だが、ローマで半生を過ごし、ローマ派の堂々とした構図などを受け継いでいる。ヴァザーリによると、ミケランジェロは友人であったピオンボの制作に際し、構図を提供したともいわれる。

ピオンボの大作《ラザロの蘇生》でもっとも目立つのは、ディテールの知識、感情表現に加えて、一時はミケランジェロの制作ともいわれたほどの卓越した画法の発揮にある。

ラファエロの《キリストの変容》も、ほぼ同時期、同じパトロンのために描かれたものである。2作は一緒に展示されたが、優劣の点ではすでにラファエロに評価が定まっていたようだ。確かに、ピオンボの筆力も素晴らしいが、人々の描き方などは混み合い過ぎている感がある。



セバスティアーノ・デル・ピオンボ《ラザロの蘇生》(1517年 - 1519年) , 油彩・カンヴァス
381 x 289 cm
ロンドン、ナショナル・ギャラリー



ラファエル・サンティ《キリストの変容》(1518 - 20年), 油彩・板
405 x 278 cm
ヴァティカン美術館

バクサンダールが主唱する「時代の眼」とは、特定の文化の中で視覚的な形を形成する社会的行為と文化的慣行とされる。これらの経験は、その文化によって形作られ、その文化を代表したものとなる。彼の「時代の眼」の理論構築が美術史家の全面的な支持を受けたわけでもない。異論も提示されている。しかし、ブログ筆者にはその著作に接した当初から、強い印象を残してきた。


続く

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額縁から作品を解き放つ(5):「時代の眼」を試す

2022年11月12日 | 絵のある部屋

サンドロ・ボッティチェリ
Sandro Botticelli (Alessandro di Mariano Filipepi)
フローレンス,1445-1510
《コジモ・デ・メディチのメダルを持つ男の肖像》
1474年、テンペラ・板、 57.5 x 44cm
フローレンス、ウフィツィ美術館


赤い帽子が目立つ豊かな髪を持った若い男がメダルのようなものを両手で持って、こちらに向けて見せているようだ。若者の表情はなんとなく硬い。背景には取り立てて特徴があるとは思えない山と野原のような光景が広がっている。作品の主題は何だろう。一体どんな意味があるのだろうか。制作したのは15世紀後半、イタリア、フローレンスで活動したサンドロ・ボッティチェリという大変著名な画家である。ウフィツィが所蔵する《春:プリマヴェーラ》ca.1482という華やかな寓意画を思い浮かべる方もあるかもしれない。

この作品を見て、画家の描こうとしたものが何であるかを推理できるのは、イタリア・ルネサンス期の美術に大変詳しい方だろう。21世紀の世界に生きる現代人にとっては、作品を一見しただけでは、ほとんど無理なことではないか。

前回も記した美術史家のマイケル・バクサンドールは現代人は「15世紀イタリアのビジネスマンにはなれない」という卓抜な表現で、この問題を論じている。

しかし、現代人も然るべき努力をすれば、500年を超える時空の隔たりを縮小できるレンズを手にすることはできるかもしれないと述べている。

「時代の眼」を求めて
ここで、そのレンズになるかもしれない小さな探索の試みをしてみよう。実は上掲の作品は、画家ボッティチェリの有名な寓意画とされている。

時は、15世紀後半のフローレンス、ロレンツォ・デ・メディチの黄金時代に遡る。イタリア・ルネサンスの洗練され、平穏だが高揚した時期の作品である。

鍵は、この時代、貴族の間では貨幣(古銭、メダルなどの収集・研究)を行う「ニュマズマティックス」(Numismatics) という知的な楽しみが流行していた。

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* N.B.
Numismatics 貨幣(古銭、メダルなどの収集・研究)は、ルネサンス期の貴族などの間に流行した。皇帝の肖像が刻印された貨幣の全てを所有することは、所有者のギリシャ・ローマの古代についての洗練と愛を示すとされた。
メダルは政治的価値を付与され、外交官や訪れる賓客などに贈られた。制作は特別の技量を持った職工に発注され、画家もしばしばデザインや描画を行った。とりわけ、ピサネロの工房で鋳造されたメダルは、その創造性とデザインによって他に比肩し難いものとされた。

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若者が手にしている大きなメダルは表面の摩耗などから、画家が実際に存在したものを写したと考えられる。刻印されている肖像はフィレンツェの ルネサンス期における メディチ家最盛時の当主ロレンツォ・デ・メディチと考えられる。
このメダルは、実際に1465年から1469年にかけて鋳造されたもので、フィレンツェのバルジェッロ美術館に本物が所蔵されている。メダルには「 MAGNUS COSMVS MEDICES PPP(国父)」の文字が刻まれている。
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ボッティチェリは、フィリッポ・リッピの工房で1460年代に修業をし、1466年にアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房を共同で運営することになる。メディチ家の人々の肖像画を数多く描いたことは、彼がこのフローレンスの盟主の家に頻繁に出入りしていたことを示すと考えられる。
ボッティチェリはその後、1482年にはローマへ出向き、システィン教会堂の装飾のチーフ・デザイナーを務めた。フローレンスへ戻った後、ロレンツォ・デ・メディチ御贔屓の画家としてフレスコ画、祭壇画、聖人画を描いた。

フローレンスでは、1492年にはロレンツォの死とサヴォーナローラの峻烈な市政改革とその失策による1498年の焚刑があった。

ボッティチェリの晩年は、サヴォナローラの宗教的影響を強く受け、硬質的で神経質な表現へと作風が一変。人気が急落、ついには画業をやめるまでになった。最晩年は孤独のうちに65歳で死去した。

この作品でモデルとなっている若い男性については、名前が知られていない。さまざまな推測がなされてきたが、今日まで不明なままである。若者の表情は、硬く憂いのあるような容貌に描かれているが、これは当時の流行であったともいわれている。

背景に描かれている風景は、山と川からなる特徴のない平凡なもので、おそらく工房の助手、徒弟に描かせたものだろう。

画材から画家のスキル(技量)重視へ
この作品が制作された15世紀後半においては、パトロン(クライアント)と画家の関係にも変化が生まれていた。それまでの顔料・絵具(金、ウルトラマリンなど)、額縁枠などへの関心から、画家のスキル(技量)、画家の間の優劣へと重点が移行してきた。それと共に、パトロンに従属していた職人のような地位にあった画家たちの間に、自らのスキル・技量に立脚した画家としての自立の動き、画家間の優劣の意識が芽生えてくる。

見る目のある顧客が、絵画に充てる資金を顔料の金から画家の絵筆(スキル)へと振り返る方法は色々あった。注文した絵の人物の背景に、緊迫ではなく風景を指定することもその一例だった」(Baxandall, p.16)

スキルを気前よく買う顧客となるには、もうひとつ確実と思われる方法があり、それは15世紀中頃にはすでに定着していた。つまりどのような手仕事においても、それぞれの工房内で親方と助手が費やす手間の価値について、相対的にかなり大きな格差があったことである」(Baxandall, p.17)

例えば、フラ・アンジェリコの工房では、親方のアンジェリコと3人の助手の間には、年間の報酬に次のような差異があった:
フラ・アンジェリコ 200フローリン
ヴェノツォ・ゴッゾリ  84フローリン
ジョヴァンニ・デラ・ケーチャ 12フローリン
ジャコモ・ダ・ポーリ  12フローリン

工房が後にオルヴィエトに移った後では、この格差は維持されてきたが、ジョヴァンニ・デラ・ケーチャだけは、月収が1から2フローリンに倍増された。この大きな格差は親方が見たスキルの基準によるものであった。(Baxandall, p.20)

こうした史料からも推定できるように、上掲のような作品においても、アンジェリコなどの親方は、構図など重要な部分は自ら絵筆を振るったが、背景などについては、指示だけして助手に任せたと思われる。

この一点の作品の意味を推し測るだけでも、現代人は数世紀の時空を遡り、多大な努力をしなければならない。恐らく15世紀フローレンスの同時代の人々は、比較的容易に作品の含意、そして画家のスキルの優劣などを感じ取ったことだろう。

バクサンドールのいう「時代の眼」に匹敵するレンズを獲得するためには、現代人は多大な努力をしなければならないことが分かる。

ブログ筆者は「コンテンポラリーの視点」という概念で、かなりバクサンドールと近似した考えを抱いてきたが、専門の相違もあって同一の概念ではない。人生に残された時間が許せば、それらの点にも言及してみたい。


Reference
Michael Baxandall, PAINTING & EXPERIENCE IN FIFTEENTH-CENTURY ITALY, Oxford University Press, second edition, (1972) 1988

続く




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額縁から作品を解き放つ(4):「画家」が「職人」であった時代

2022年11月01日 | 絵のある部屋


サンドロ・ボッティチェリ《東方3博士の礼拝》1475, テンペラ・板、111 x 134cm, フローレンス、ウフィツイ美術館 (元来、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂内にあるラーマ家の祭壇画であった)。


この絵画作品はかなり有名なので、ご存じの方もおられよう。しかし、作品の依頼者、主題、大きさ、色彩、スタイル、描かれている人々などを決めたのは誰かとなると、かなり難しいはずだ。イタリア美術史専門の友人でも直ぐには答えられないだろう。

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北方への旅に出る直前、読み終えていた一冊の本がある。ヤマザキ・マリさんの最近著『リ・アルティジャーニ:ルネサンス画家職人伝』(新潮社、2022年)である。卓抜なマンガの描写力で15世紀ルネサンスの画家群像が描かれている。この時代、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどで知られる巨匠が活躍した画期的な時代であった。しかし、当時の画家たちは「画家」という認識がなく、あくまでも「職人(アルティジャーニ、Gli Artigiani)であると自他共に考えていたという。
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大変興味深く読了したが、読者としては率直に分かりにくい点もあった。この時代の画家たちがなぜ「職人」であり「画家」ではなかったのか、そして次の時代には彼らがいかにして「画家」へと自立していったのか、という論理が画家群像の影に隠れて読み取り難いという印象を抱いた。今回はその点を少し記してみたい。

商業的な絵画市場、私的なコレクターなどが生まれるまでの時期には、教会や公的な場所の祭壇画や装飾のためには、パトロン(クライアント)が画家や彫刻家に制作を依頼し、画材などを含め制作費用を支払った。彼らの存在なしには画家は存立が難しかった。イタリアの場合、パトロンは金融、商業、毛織物業などで蓄財した富裕な商人、製造業者が多かった。彼らは同職組合を結成し、互いに勢力を競い合った。フィレンツェの場合、メディチ家の庇護、支援を確保するために、パトロン間の競争も激しかった。他方、画家、彫刻家などは職人層に含まれ、彼らからの仕事を得ることで存立していた。

メディチ家の特別な地位
上掲のポッティチェリの作品を例に、パトロンと画家の関係を考えてみたい。ボッティチェリはメディチ家と親しかったパトロンの銀行家ガスパーレ・ザノビ・デル・ラーマの依頼でメディチ家の繁栄を願い、この祭壇画を描いた。フィレンツェの門閥貴族であったメディチ家は15世紀に全盛を迎えていた。商業、金融などで勃興し、ルネサンスの学問、芸術の保護者であった。パトロンたちはメディチ家の繁栄と庇護の下で、自らの事業などを展開していた。メディチ家の存在は、他の地域とは一線を画す特別な存在であった。パトロンとメディチ家の繁栄は、表裏一体の関係にあったといえる。

ポッティチェリは人気のある画家ではあったが、自らの芸術的発想で自由に画面に絵筆を振るえた訳ではなかった。主題から描きこまれる人物まで、パトロンの要求する条件でがんじがらめになっていた。この点は本ブログでも取り上げてきた17世紀以降の画家たちの制作環境とはかなり異なっている。彼らにとってもパトロンの存在は重要ではあったが、自らの創造性、技量の発揮によって、芸術家としての独立性を確立していた。

15世紀イタリアの場合、パトロンの求めた諸条件は画家との間の契約書、文書などに記載されている。今日まで多くの史料が残されており、確認できるものもある。この点を補充する具体的事実を知るには邦語文献では下掲の研究が充実している。

松本典昭『パトロンたちのルネサンス:フィレンツェ美術の舞台裏』日本放送出版協会、2007年

さて、この作品ではテーマの《東方3博士の礼拝》の下に、描かれた対象はさまざまな条件が盛り込まれている。背景左端の壊れた古代遺跡は異教の終焉を象徴し、右端の孔雀はキリスト教会の勝利を象徴する。

描かれている人物の幾人かは、誰であるか判明している。3博士と従者には、メディチ家のコジモ(完成時故人、最初の賢人の姿)と息子ピエロ(故人、中央赤色衣装)、ロレンツォとジュリアーノ兄弟、ラーマや画家自身、さらにポリツィアーノ、プルチ、アルギュロプロスなどロレンツォを取り巻く文化人などを描き込ませている。画面左側に赤い帽子を被った若者はアンジェロ・ポリツィアーノという有名な詩人である。彼は左側の貴人に礼拝を促している。描かれている人物の多くは、メディチ家に関連する重要な政治的・文化的なグループに所属したと想定されている。ちなみにこの祭壇画が完成した翌年の1476年、ラーマは詐欺罪で有罪判決を受け失墜した(松本 171ページ)。




上掲図部分

15世紀イタリアでは依頼者であるパトロンは画面のどこか目立たないような所に傍観者などの形で顔、姿を描かせることは珍しいことではなかった。時には妻や子供など家族も描きこませた。この作品ではパトロンのラーマは右側後方に観る人の方に顔をむけて描かれている。彼の前に青い衣装で描かれているのは、ロレンツォだろう。画面右側、黄色の衣装の人物は、画家ボッティチェリの自画像とみられる。


上掲図部分

これらの諸点から見ても、パトロンが画家に要求した条件は数多く、画家の裁量を厳しく支配していた。画家はその制約の中で、自らの技量を誇示するしかなかった。職人といわれる所以である。それでもポッティチェリは、その天賦の才を発揮している。

親方が運営する工房が依頼者であるパトロンから注文を受けると、職人が分業で作品を仕上げていく。その中で特異な能力や技能を保持する者が、新たなアイディアに基づく作品や技法を展開し、それまでの芸術の歴史を大きく変革していった。ルネサンスと言われる時代であった。

画家の自立に向かって
パトロンの関心は、時代とともに顔料、絵の具など画材の質、量から、作品の質そしてその制作に当たる画家の技能の評価へと重点が移行していった。パトロンの立場は依然として強かったが、その過程で画家は次第に自らの主張を強め、芸術家としての独立した立場を獲得して行く。ブログ筆者は、このアーティストとしての自立の過程を重視したい。

15世紀イタリアでは、絵画や彫刻などアートを鑑賞する側の人々は何を基準として作品、そして画家のスキルの優劣を判断したのか。この点が次の課題となる。


続く


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​額縁から作品を解き放つ(3) 

2022年10月03日 | 絵のある部屋

ドミニコ・ギルランダイオ
《ジオヴァンニ・トルナブオニの肖像》
Domenico Ghirlandaio
Portrait of Giovanna Tornabuoni, 1488
Tempera on panel, 76x50cm
Madrid, Museo  Thyssen-Bornemisza

このブログで「個人的覚え書き」として取り上げてきた17世紀ヨーロッパ美術の作品を見ても、それらが創り出された環境は我々の住む現代の社会・文化環境とは決定的に異なっている。ましてや15世紀イタリア美術の世界まで遡ると、その時代的隔絶はあまりに大きい。

画面に描かれた人物にしても、現代人とはあらゆる点で大きく異なる。美術館などで15世紀のルネサンス絵画作品の前に立って、我々はこれらの作品をどれだけ正しく観ているのだろうかと思うこともある。観客が現代を遠く離れて、15世紀イタリアの社会環境まで立ち戻り、仮想体験をすることがどれだけできるだろうか。

例えば、この時期に多い横顔の肖像画を観ていると、どこまでが様式化されているのだろうかという疑問も生まれる。現代人と比較して、どう見てもかなり離れている。不自然な感じは拭い難い。しかし、当時の人々には十分共感、理解できたはずだ。

ピエトロ・デラ・フランセスカ《フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ
 & バティスタ・ストルツア》肖像
Piero della Francesca
The Urbino Diptych(Portrait of Federico da Montefeltro and Battista Storza)
1465-72, Tempera on panel, 47 x 33cm(each panel)
Florence, Galleria degli Uffizi

バクサンドールは、この問いに「時代の眼」Perood’s Eyeという視点を導入し、対峙しようとする。

15世紀の眼を通して見る
バクサンドールの前掲書第II部「時代の眼」では、著者は「絵画のスタイルは社会史の適切な材料だ」(序文)と記している。言い換えると、絵画は歴史書と併せて、見方によっては当時の社会を推し測るに重要な原史料となりうることが強調されている。

バクサンドールのアプローチは、視覚文化史ともいうべき広域領域への美術史学の拡大とも言えるかもしれない。その一例として、第 I部「取引の条件」では「美術史において金(money)は非常に重要だ」という瞠目する一文を提示している。それまでの伝統的な美術史家にすれば、驚くべき指摘といえる。

15世紀イタリアの画家と観衆が、絵画や彫刻という「ヴィジュアルな経験に基づく芸術にいかに対したか」、そしてこの対面の質が、画家に作品を依頼する「パトロンとなっているクラス」の考えとして、取り入れられる(Baxandall, p.38)。パトロンの想定と認識のスキルがいかに制作に携わった画家に伝わったか。言い換えると、パトロンたちの認識と期待、そして願望が、画家が制作した作品にどのように伝わっているか(p.40)。

バクサンドールの答は、我々現代人は15世紀の絵画について同時代人が所持していた経験を保持していないということだ。なぜか。当時の画家、彫刻家などのアーティストたちは彼らの時代の人々が絵画に対し持っていたものを保持していたー彼らの経験、知識、スキルのセットをほぼ共有しー画家たちはそれらを意識して制作していた(p.48)。

現代人にとってはデフォルメされていると思われる肖像画は、15世紀イタリア人にとっては意図的にデフォルメして描かれていると受け取られた。パトロンはその橋渡しをしていたといえる。

画材の価値より画家の技量へ〜問われたパトロンの美術的素養


ドメニコ・ギルランダイオ《曽祖父と彼の曾孫の肖像》
Domenico Ghirlandaio, Portrait of a Grandfather and and His Grandson
ca. 1490
Tempera of panel, 62x46cm
Paris, Musee du Louvre

15世紀イタリアではパトロンは単に画家の使用する画材に注文をつけたばかりか、書き込まれる背景として、山、川、森など、かなり指定もあったようだ(例:上掲右上)。パトロンは画家の仕事をほぼ全て管理していた。使われるピグメント(顔料・絵の具)の種類や量の管理まで行っていた。現代の画家が享受する自立した制作環境とは大きく異なっていた。本ブログで取り上げている17世紀以降の画家の環境とは、決定的に異なるものがあった。

15世紀末に向けて、パトロンの考えにも変化が見られるようになる。ピグメントなどの価値よりも画家の技量が問われるようになる。肖像画などにも新たな胎動があり、容赦ないリアリズムが求められたりするようになった。ギルランダイオの曽祖父と曾孫の例に見られるような驚くほどのリアリズム、二人の画像の対比、年代の対比、同じ赤色の衣服が与える親密感、窓外の景色の導入など新たな試みが見られる。

例えば、1485年のギルランダイオGhirlandaioとジョヴァンニ・トルナブオニGiovanni Tornabuoniの間の契約には、背景には人物、建物、城、都市などを含むことなどの具体的指示が記されているという。

宗教的要素の浸透も大きい。15世紀イタリアの人々はキリスト教主体の時代に生きており、教会その他で絶えず説教を聞いており、制作にあたる画家も、人々の誰もがそうした聖書の話を知っているものとしてカンヴァスなどに向かっていた。さらに芝居で俳優たちが自らの演技後も舞台に残っていることなど、当時の人々なら誰もがすぐに分かることがあった。

バクサンダールは全掲書第III部:「絵画とカテゴリー」において、著書の最初に戻る。彼は「作品のフォルムズ(forms)やスタイルは社会的環境に対応することを強調すること」から始める。「そして等式を逆転することで終わる。絵画のフォルムやスタイルは我々の社会への認識を鋭利なものとする」(p.151)

バクサンダールは結論として「視覚的なセンスは経験の主要な器官」であるので絵画は「文書や教会の役割」と同様に見做されるべきだとする。「それらはクアトロチェントの人が知的かつ良識的にいかなるものであるかを知るに洞察力を与える」(p.152)

Quatrocento クアトロチェント イタリア語、1400の短縮形:15世紀、特にイタリアの芸術や文学に関連して用いる。

パトロンが抱いた作品への想い
このように見てくると、この時代の美術の性格を支えるものとしてパトロンの存在は、作品のイメージ形成を含めて重要な重みを持つ。彼らの抱いた時代感覚、美術への考えは、画家と並び、あるいはそれ以上に作品の性格を支配した。彼らが画家に託したものは一体何であったのだろうか。パトロンの立場もそれぞれ多様であり、要約することは極めて難しい。

パトロンが原動力となって生み出される美術作品によって最も恩恵を受けたのは教会であった。この時代、作品主題の多くは宗教的な含意を持っていた。さらに、パトロンは自らが継承あるいは蓄積した富の使途として、画家に作品を依頼し、作品は教会を飾り、家族、知人などの間でも鑑賞の対象となった。これらの作品も、彼らの間で話題となり、さらに世代を超えて継承されていった。

パトロンの抱く様々な意図を、いかなる形で具象化するか。パトロンと画家との間では、恐らく口頭での意思伝達がかなり図られたであろうことは想像に難くない。そして、最終的にはパトロンと画家の間に交わされた契約文書と書簡で骨子は確定された。画家とパトロン間の共生の結果と言えるかもしれない。

バクサンドールが指摘した15世紀イタリアにおけるパトロンの優位性、とりわけ作品に盛り込まれるべき内容、金などの画材の使用についての条件などについての問題、それらが画家とパトロンの間に交わされた書簡、契約に記載されていることへの注目は、この時代の作品を鑑賞、評価する上では、確かに重要な意味を持つ。

バクサンドールは、イタリア・ルネサンス期の絵画スタイルの発展を支えた主要な証拠は、上述のように画家とクライアント(パトロン)の間に交わされた契約に残されるという。そしてその内容はそれまで美術史家によって解明されたことはなかったと独自性を主張した。

メディチ家の特別な役割
バクサンドールが著書で設定している15世紀中頃から後半にかけてのフローレンスの支配階級はメディチ家であった。彼らは当時のパトロンと画家の関係を取り仕切った演出家ともいうべき存在だった。さらに彼らは典型的なパトロンではなく、ルネサンス期において多数の画家に影響力を及ぼした。メディチ家は教会など公的な芸術ばかりでなく、個人レヴェルでの美術にも関与していた。彼らはフローレンス社会の支配者として、教会を支えるために多額の資金を供与した。メディチ家にとっては美術は激動する政治的変化の波に対して、フローレンスの市民を彼らの側に引きとどめる手段でもあった。

この時期の芸術の主題や色彩がいかに限られた範囲に抑制されていたかを知るには、パトロン、画家、そして彼らを背後にあって支配したメディチ家の思想があったことを改めて考える必要がある。

しかし、パトロンの絵画観、画題や画材への注文は、当時の美術作品に反映されるべきイタリアあるいはフローレンス社会の美術感、絵画のスタイルに対する影響力という意味ではかなり限られたものであったことに、ブログ筆者は着目したい。パトロンは
あくまで富裕層であり、社会全体を代表する存在ではなかった。パトロンという限られた階層の考えと観察を通して具象化された作品であることの限界にも気づかざるを得ない。

バクサンドールの「時代の目」'Period Eye'の概念は、単純に表現すると、ある文化において視覚的形態を形作る社会的行動であり、文化的行為である。さらに、これらの経験はその文化によって形作られ、それを代表するものとなる。

我々21世紀の現代人が、遠く過ぎ去った15世紀のパトロンたちと同様のレンズで作品を見るに際して使われる道具 toolとして、バクサンドールの「時代の眼」は、美術の理解のための革新的な概念 であることは間違いない。パトロン(クライアント)と画家の取引を通して凝縮され、時代の美的感覚が絵画や彫刻という形で美的に具象化するという考えは秀逸な発想だ。ある文化の下でヴィジュアルなフォームを形作る社会的行動であり文化的な行為である。しかし、この発想を実際に有用なレンズとするには多くの欠陥があり、さらに補正が必要に思われる。

 
‘Period Eye’ in simple terms, is the social acts and cultural practices that shape visual forms within a given culture.
quoted from Michael Baxandall's Painting and Experience in 15th Century Italy

続く

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額縁から作品を解き放つ(2)

2022年09月30日 | 絵のある部屋


アンドレア・デル・ヴェロッキオ《キリストの洗礼》部分
Andrea del Verrocchio and Leonard da Vinci, The Baptism of Christ,part
ヴェロッキオの工房は15世紀後半のフィレンツェにおいて
最も著名で効率も高いことで知られていた。ヴェロッキオは重要な人物の顔や
しぐさなどは自ら描いたが、その他の部分は輪郭だけを描き、工房職人の手に
委ねたと伝えられる。

パトロンなしには絵は描けない?

読者は現代の画家ならば、自分の創意によって自由にカンヴァスに絵筆を振るうのは当然と考えるかもしれない。しかし、15世紀イタリアの画家たちはそういうわけには行かなかった。市民が自由に美術品の制作を画家に依頼できる時代ではなかった。

画家として生計を立てるためには、彼らは現代とはかなり異なる職業や取引上の制度や慣行の中で活動せざるを得なかった。それはどういうことなのか。前回に続き、美術史家バクサンドールの述べることに注目しよう。

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Michael Baxandall's Painting and Experience in 15th Century Italy, Oxford University Press, (1972), second edition 1988
本書は183ページの小著ではあるが、著者の美術史に関する考えのエッセンスが凝縮した好著である。内容は次の3部から構成されている。
I 取引の条件
II  時代の眼
III 絵画とカテゴリー

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バクサンドールは 本書の第I部 で人々は画家の技量と作品の質をいかに測るかという問いを提示している。何を元に人々は作品や画家の評価をするのか。

バクサンドールは第一章 Conditions for Trade「取引の条件」の冒頭で、次のように記している:(以下引用)

15世紀絵画は社会的関係のデポジット(寄託物)である。一方には絵画の制作に当たった、あるいは少なくともその過程を監督した画家がいた。他方には作品の制作を依頼し、そのための資金を画家のために供与した者がいた。こうした手立てを講じた後、彼らは作品をなんらかの目的用途に使い始めることになる。両者は時代の諸制度や慣習 〜最も広い意味での社会的、商業的、宗教的、知覚的 〜の中で活動したが、それらは今日の我々の時代とは大きく異なっており、両者が作り上げた形態(forms)に影響を与えた(Baxandall p. 1 , 1988)


これだけでは、やや抽象的で分かりにくいかもしれない。この記述を念頭に置いた上で、もう少し具体化してみよう。

ルネサンス期の画家たちはパトロンあるいは(バクサンドール好みの用語ではクライアント、顧客 (clients)の指示と支援なしには、制作活動ができなかった。バクサンドールは、画家のスタイルがいかに彼に仕事を委託したパトロンの考えによって影響を受けるかを強調している。パトロンの作品についての考えは、当時の文化に沿って彼らに体得されていた。言い換えると、ルネサンス期の画家は、パトロンの供与する資金と指図に従って制作にあたり、作品の完成を待って目的を達成したことになるのだった。

パトロンの求める内容の作品を期日までに仕上げるために、画家はしばしば工房を開設し、志や技能をほぼ同じくする職人の画家たちに作品の周辺部分やあまり重要でない箇所の作業を任せた。当時、パトロンから製作費用を支払われた親方画家は、指示された主要人物の容貌とか、主題の意味を暗示するような手指など作品の最も重要な箇所だけしか絵筆を振わなかった。

例:
よく知られた例として画家、彫刻家であったヴェロッキオ(ca1435-1488)が請け負って制作した《キリストの洗礼》の場合を取り上げてみよう。この作品にはヴェロッキオから学んだといわれるレオナルド・ダ・ヴィンチが工房で制作に加わっていたとみられる。



アンドレア・デル・ヴェッロキオ(ca,1435-1488) & レオナルド・ダ・ヴィンチ(1453-1519)《キリストの洗礼》
Andrea del Verrocchio and Leonard da Vinci, The Baptism of Christ, 1470-80 (or 1472-75), oil and tempera on panel, 177x151cm, Uffizi Gallery, Florence*



ヴェロッキオの工房ではレオナルド・ダ・ヴィンチやペルギーノなどの画家たちが腕を競い合っていた。上掲の作品についてはヴェロッキオ自らがどこの部分をどのくらい分担したかについては、鑑定者などの評価も様々で一致していない。しかし、一部分(下掲)についてはほぼレオナルド・ダ・ヴィンチの筆によるものであることで後世美術史家の見解は一致している。



上掲画面左下隅の山と水(スフマートの雰囲気)の部分と長いブロンドの髪の二人の天使は後世においてもダ・ヴィンチ特有の絶妙な描写になるものであることに疑いは出されていない(頭上の光輪は平凡で他の職人によるものかもしれない)。


結局、ルネサンス期のイタリアでは画家は最初パトロンから製作費用に相当する代金を受け取ることが先決で、その後工房などで制作にあたるという順序であった。パトロンの後ろ盾がしっかりしていたボッティチェリ、ミケランジェロ、ラファエル、ヴェロッキオなどの大画家でも、制作に当たって、白地の画布へ自由に絵筆を振るうというわけではなく、パトロンの求める作品イメージや使用する画材(とりわけ金やラピス・ラズリ、など)などへの思いは常に念頭に浮かんでいたのだろう。

アートの歴史に占める取引の重要性
画家といえども生計を立てねばならない。それだから、画業は当時からビジネスとなる特徴を秘めている。15世紀イタリアでは画業は、画家と裕福なクライアント(顧客)の間での契約的関係だった。この関係は時代が進むにつれて広く展開していった。15世紀初期においては、クライアントは画家の使用する画材の質に最も関心を寄せた。彼らはきらびやかな金、銀を重視し、次いでウルトラマリーンとして知られる青色の顔料を重視した。

そして時代が進むにつれて、彼らの関心は画材の質から作品自体の質へと移っていった。
バクサンドールのいう「時代の眼」Period’s Eyeは、こうした時代の変化とともに形成され変化してゆく。

続く


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​額縁から作品を解き放つ(1)

2022年09月20日 | 絵のある部屋
  


現代の人々が油彩画などの美術品を観るのは、主として美術館、展覧会、画廊、個人の所有などの場である。ほとんどの場合、作品は額装されている。作品を観る一般の人たちは、小品や大作の違いはあっても額縁で限られた次元に描かれている限りで、作品を鑑賞し、評価を行う。額縁も時には作品を凌ぐのではないかと思われるほど、精巧、美麗なものもあり、画面より額縁が目についてしまうという場合もないわけではない。

作品の独立性と可搬性を確保するために額縁が生まれた背景については、下記の書籍が興味深い。
望月典子『タブローの「物語」: フランス近世絵画史入門』慶応義塾大学三田哲学会、2020年

しかし、美術史などの進歩もあって、人々は作品の額縁という制約から解き放たれた背後の世界へと評価、鑑賞の次元を拡大していった。美術史の専攻ではないが、筆者の場合も感動を受けたごひいきの画家については、図らずも美術史の研究者以上に画家や作品の追跡、活動した地での実地調査に近いことを半世紀近く行なってきた。そのひとつの表れが、このブログにメモ代わりに記したジョルジュ・ド・ラ・トゥールやL.S.ラウリーである。

実際にこれらの画家の作品を鑑賞するに当たって、作品が制作された時代の政治・経済、文化などの社会的環境、さらには宗教的背景などを考慮することなく作品を鑑賞することは難しい。制作に際し画家あるいはパトロンなど当時の人々が思い描いたイメージとは異なった受け取り方で、現代の鑑賞者が観ていることは十分考え得ることだ。

現代の作品ならともかく、作品が創り出された時代から数世紀を越える時が経過した場合など、現代の鑑賞者が作品を観て思い浮かべる内容との間に大きな乖離が生まれるこはむしろ当然なのだ。イコノグラフィー(図像学)などが生まれたのは、ひとつには作品が制作された時代に意図された通りに、後の時代の鑑賞者が理解、鑑賞できるためとも言える。

我々は作品を正しく観ているのだろうか
ブログ筆者が時折強調してきた「コンテンポラリー(同時代)の視点」に立ち戻るとは、ひとつには作品が創り出された時代の状況に我々が近づくためには何をしたらよいかという問題を提示することになる。

美術史の流れにおいても、この問題領域でいくつかの学派が生まれてきた。これらの問題に近づくために新しい美術史学も生まれた。ここで取り上げるのは、イギリスの美術史家マイケル・バクサンドール(1937~2008)の『15世紀イタリアの油彩画と経験』と題した著作である。

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Michael Baxandall's Painting and Experience in 15th Century Italy, Oxford University Press, (1972), second edition 1988
最初は1972年に出版されて以来、各国語版に翻訳され、第2版は1988年
刊行以来好評に推移してきた。
マイケル・バクサンドールは、イギリス出身の美術史家。長くヴァールブルク研究所の教授を務め、その後、コーネル大学、カリフォルニア大学バークレー校で教壇に立った。20世紀後半の欧米の美術史学において中心的な役割を果たした。ブログ筆者はたまたま生前のバクサンドールの講演に参列できた経験があったが、その博識には圧倒される思いがした。バクサンドールは若い頃、エルンスト・ゴンブリッチの下でヴァールブルグ研究所の研究員を務め、自らを‘Gonbrichan’と称してもいた。ブログ筆者は美術史とは全く異なる領域を専門として生きてきたが、同時代人で身近に感じたことのあるバクサンドールの著作にはしばしば関心を掻き立てられてきた。

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バクサンドールが大きな関心を寄せた問題のひとつは、絵画の鑑賞者がいかに作品を見るかという点での理論化にあった。ハスケル、ラカン、ゴンブリッチ、チェンバースなど、バクサンデールの前にも類似のテーマで貢献してきた美術理論家もいた。

バクサンドールの『15世紀イタリアの油彩画と経験:描写スタイルの社会史入門』(第2版)は、182ページ、3章から成る一見小著だが、かなり手強い。アメリカ型のテキストによく見られる平易なトピックから段階的に高みに上るような叙述ではなく、読者の予想しなかったテーマから出発する。J.M.ケインズの『雇用・利子及び貨幣の一般理論』などに近似するものがある。問題のコンテクスト(文脈)を十分理解していないと、全体像の俯瞰に困難が伴う。

バクサンドールの著書の中核は、第2章 THE PERIOD EYEで展開される認識スタイルの全概念にある。著者の叙述の根底には、それまで作業を共にしてきた文化人類学者的思考が流れている。それに沿って、バクサンドールのいう「時代の眼」’Period Eye'の概念の深化に当てられている。

最初は人間の生理学的接近の説明から始まり、われわれはすべて同じものを見ているとする。しかし、続く解釈の段階で、視覚的認識への人間の対応は一人一人異なり同一ではないとされる。

単純に表現すると、バクサンドールの提示する「時代の眼」(period eye)とは、ある文化において視覚的形態を形作る社会的行動であり、文化的行為であるとされる。さらに、これらの経験はその文化によって形作られ、それを代表するものとなる。

バクサンドールの「時代の眼」に関する章は、我々21世紀の観衆が、15世紀の観衆と同様のレンズで、美術作品を見るに際して使われる道具箱ともいうべきものである。この意味で「時代の眼」は、美術の理解のための共時的な概念 synchronic approach なのだ。

例を挙げれば、我々21世紀に生きる者が15世紀のイタリア絵画を見るについては、相応の準備をしなければならないということになる。これは図らずもブログ筆者の「コンテンポラリーの視点」に通じるものがある。しかし、バクサンドールの論理は、かなり定式化されており、専攻領域の異なる筆者から見てもそのまま受け入れ難い部分もある。

バクサンドールが何を言おうとしているのか。その具体例は第1章 CONDITIONS OF TRADE で提示されている。このブログで以前に簡単な紹介をしたことがあるが、次回では、さらに立ち入って考えてみたい。


続き

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苦難の時代:対比モデルとしてのルーベンス(2)

2022年05月13日 | 絵のある部屋




Self-portrait in  Hut, 1623《帽子を被ったルーベンス自画像》ダンビー侯爵の依頼で、チャールス王(当時はプリンス・オブ・ウエールズ)へのプレゼントとするために制作。
油彩・板、85.7 x 62.2cm, Royal 
Collection, London,  UK
Commissioned by Henn Danvers, Earl of Danby(1573-1643) as a present for King Charles, when he was Prince of Wales

この自画像制作は、ルーベンスを大変驚かせたと伝えられている。ダンヴァース伯の求めとはいえ、未来の王に自画像を贈るというのは傲慢ではないかと感じたのだろう。伯爵は作品が助手が介在せず、ルーベンスが自ら筆をとり制作した作品であることを確実にする意味でも自画像を望んだといわれる。ルーベンスの作品といっても実態は工房の助手の制作に近いものであることが流布していたのかもしれない。その意味で、この作品はルーベンスの自画像制作の真の技量を計るにふさわしい作品といわれている。大変興味深い作品だ。



アントウェルペン時代(1609年ー1621年)
ルーベンスはイタリアに約8年滞在した。イタリアの魅力はこの画家にとっても非常に大きく、もっと長く留まりたかったようだ。しかし、母マリアが病に倒れたことを機に、1608年にはアントウエルペンへ戻った。画家が帰国した理由の一つには、当時ネーデルラント諸州とスペインの間で勃発していた80年戦争が、1609年の停戦協定によって12年間の休戦期に入ったことがあげられている。
     
1609年には、ルーベンスはスペイン領ネーデルラント君主のオースリア大公アルブレヒト7世と大公妃となったスペイン皇女イサベルの宮廷画家に迎えられた。ブリュッセルの宮殿ではなく、アントウエルペンに特別に工房を開設することが認められ、宮廷ばかりでなく多くの顧客からの注文を受けるようになった。かくして画家、外交官としての役割も重みを増し、1609年にはアントウエルペンの有力者の娘イザベラ・ブラントと結婚した。

1610年にはルーベンスは自らデザインした新居(現在は博物館)に移り住んだ。ここは画家の素晴らしい工房となり、ここで働いたアンソニー・ヴァン・ダイクやヤン・ブリューゲルなど多くの優れた芸術家を生み出した。大規模な工房で多くの職人、徒弟がおり、ルーベンスはしばしば素描だけを行い、職人たちに色彩などを指示し、最後に筆を加えるというタイプの作品がかなり多かったといわれる。工房には、後に著名となった職人たちが多数働いていた。



Rubens and Brueghel the Elder, The Feast of Achelous, ca.1615, oil on wood, 108 x 163.8cm, The Metropolitan Museum of Art, New York
ルーベンス&ヤン・ブリューゲル《アケロウスの祝宴》


この作品は、メトロポリタン美術館が所蔵する数少ないルーベンス作品(来日していない)の一点だが、神話上の想定、人物はルーベンス、風景は友人のヤン・ブリューゲルが描き、二人の親密な共同制作の成果として知られている。
画題はオウィディウス(43B.C-A.D.17?:  ローマの詩人、オウグスタス帝に追放され客死)の神話伝説集 Metamorphosesから選ばれた光景といわれる。
ルーベンスとブリューゲルの合作とは一見見えない一体感のある作品だ。



この時代、ルーベンスは同時代の他の画家が到底望み得ない恵まれた環境において、画業の充実・拡大を行なった。とりわけ、アントウエルペンの聖母マリア大聖堂の祭壇画《キリスト昇架》(1610年)、《キリスト降架》(1613-1614年)などの作品制作は、バロック期祭壇画の中心的作品として、ルーベンスがフランドルにおいても画家としての評価を決定づけることになった。


マリー・ド・メディシスの庇護と外交官としての活動(1621-1630年)
1621年にはフランス王太后となったマリー・ド・メディシスが、パリのリュクサンっブール宮殿の装飾用にと、自身の生涯と1610年に死去した夫アンリ4世の生涯を記念する連作絵画をルーベンスに依頼している。しかし、マリーは、息子のフランス王ルイ13世によって追放され、1942年にケルンで死去した。

《マリー・ド・メディシスの生涯》は24点からなり、現在はルーヴル美術館が所蔵している。

1621年にネーデルラントとスペインの12年間の休戦期間が終わると、スペインのハプスブルグ家の君主はルーベンスを外交官としての任務に起用し始めた。1627年から1630年にかけて、ルーベンスはこの仕事に多くの時間を費やした。


Allegory of Peace and War or Minerva Protects Pax from Mars, 1629-30, oil on canvas, 203.5 x 298cm, The National Gallery, London
《平和と戦争の寓意》(1629-30年、ナショナル・ギャラリー蔵)
ルーベンスは1930年までロンドンに滞在。


晩年の活動(1630-1640年)
晩年の1630年から1640年にかけては、画家はアントウエルペンと近隣で過ごした。

最初の妻イザベラが思いがけず死去した後、1630年には53歳になったルーベンスは、16歳のエレーヌ・ルールマンと再婚している。その後、エレーヌは画家のモデルとして多くの作品に描かれるようになった。

ルーベンスの作品の中心は、歴史画や風景画までも含めて広い意味での神話画にあるといわれているが、ブログ筆者は以前からこの画家の肖像画の技量に惹かれてきた。画家の生涯において広く張り巡らされた人的関係のネットは、多くの顧客から肖像画の発注を生み出した。結果として肖像画家と言ってもよいほど多数の肖像画の作品を制作し、多くが今日まで継承されている。工房が関わった作品も多いと思われるが、妻や子供の肖像画はルーベンスが自ら全てを制作したと考えられ、画家の熱意が十分に注入された作品となっている。それぞれに人物の性格を的確に把握した作品となっているが、とりわけ幼い子供の描写は素晴らしく、このブログでも紹介したことがある。


Clara Serena, ca.1616, oil on canvas mounted on panel, 37 x 27cm, Liechtenstein Museum, Vienna, Austria
《クララ・セレナの肖像》
ルーベンスの最初の妻との間に生まれた5歳の娘、(下掲の)母親に非常に似ている。写真のように見る者に近接感を与える描写は当時の主流ではなかったが、画家の最初の子供としての愛情が反映したものだろう。頬の赤み、鼻の部分の光の当たり具合など生き生きとした描写であり、肖像画の傑作といえるだろう。



Portrait of Isabella Brant, ca. 1625, oil on panel, 86 x 62cm
Galleria degil Uffizi, Florence
《イサベラ・ブラントの肖像》
ルーベンスの最初の妻であり、画家として著名になっていた時期に描かれた肖像画である。イサベラはこの翌年に死去している。ルーベンスはイサベラの肖像画はほとんど描いていないが、夫妻が幸せな時期を過ごしていた頃の肖像として、信頼の表情が窺える良い肖像画である。



Portrait of Helene Fourment, 
ca.1630-32, oil on canvas, 97 x 69cm, Alte Pinakothek, Munich, Germany
《エレーヌ・フォウルマンの肖像》
ルーベンスの第二の妻であるエレーヌについても、画家はかなりの数の肖像を自らの手で全てを描いたと推定されるが、完成後は工房の助手や画家の愛好家などが模写の対象としたため、議論の対象となる作品もある。しかしながら、その中でこの作品はルーベンスが全てを描いたとされている。


ルーベンスの生涯における作品数は1200点余り(一説では1500点から2000点)と極めて多作だが、大部分は工房での作品と推定されている。画家はデッサン程度で、職人、徒弟に指示を与えて制作させ、最後に筆を加えたことが多かったといわれる。しかし、画家は自らの関与の程度に十分配慮し、作品価格などに反映させたようだ。

ラ・トゥールの現存する作品数が50点余であるのは、戦乱の地という過酷な環境で、多くの作品が逸失、滅失したと考えられる。それにしても、ルーベンスの旺盛な製作意欲には驚かされる。ルーベンスは祭壇画、神話画、肖像画、風景画などを含む歴史画を中心に様々なジャンルの絵画作品を残した。さらに、外交官、人文主義学者、美術品蒐集家など広範な領域で活発な活動をし、さまざまな成果を残した。

かくして、ルーベンスの生涯はきわめて恵まれ、多くの栄光に輝いたものとなった。この画家は天賦の才に加え、その出自、徒弟時代、イタリアへの旅と長い滞在、多数の庇護者と人脈、多彩な作品ジャンル、アントウエルペンでの大規模な工房運営、外交官としての活動と作品への顧客増加など、この時代の画家としては数少ない傑出した画家となった。

こうした画家としての輝かしい成果は、ルーベンス個人の画家としての天賦の才、努力に帰属するものであることはいうまでもないが、画家の生まれ育ち、活動した北方ネーデルラントの社会環境の成熟度が大きく寄与していることも指摘しておくべきだろう。ルーベンス、レンブラント、フェルメールなどの画業生活を支えた舞台は、他の地域では望み得ないものであった。

17世紀ヨーロッパ画家の作品評価の基軸をどこに置くべきか。考えるべき多くの課題が未だ残されているように思われる。



概略年表
1577年  ペーテル・パウル・ルーベンス 6月28日、ジーゲン(ウエストファーリア:現在はドイツ)に生まれる。
1587 年 家族はスペイン領オランダ(現在はベルギー)アントワープに移住。
1598年 アントワープの画家ギルドに入会を認められる。
1600年 イタリア、スペインに旅する。《キリスト昇架》《(マントヴ ァからの友人との)自画像》などを制作。
1605年 3年近くをジェノヴァ、ローマなどで過ごす。イタリアにはおよそ8年滞在した。
1608年 アントワープへ戻る。同地はフランドルでの対抗宗教改革の 拠点。
1609年 イザベラ・ブラントと結婚。《(イザベラと共に)自画像》、 《スイカズラの東屋》など。
1610年 《サムソンとデリラ》
1610-14年  《キリスト昇架》《キリスト降架》などでヨーロッパ有数 の画家としての評価確立。
1611年 最初の子供クララ誕生。
1614年 長女アルベルト誕生。
1618年 3番目の子供ニコラ誕生。
1622-25年 フランス王ルイXIIIのためタペストリー制作。フランス王家のための美術品制作。「王子・王女の画家」との評価広がる。
1623年 《帽子を被った自画像》
1624年 《東方3博士の礼拝》Adoration of Magi
1625年 ヤン・ブリューゲル死去。ルーベンスは遺児の保護者となる。
1626年 イザベラ・ブラント死去。ルーベンスは痛風に悩まされる。
1629年 ロンドン、ホワイトホールの天井画制作。
1629-30年 《戦争と平和の寓意》
1630年 エレーヌ・フォウルマンと再婚。夫妻は5人の子供を養育す る。最後の子供は画家の死後5ヶ月目に誕生。
1630-32年 《聖イルデフォンソ祭壇画》などの仕事を完成させる。
1635-40年 神話画制作
1640年 5月30日、心臓発作で死去。62歳。


References
‘RUBENS, SIR PETER PAUL’ The Oxford Companion to Western Art, 2004
Susie Hodge, RUBENS: HIS LIFE AND WORK IN 500 IMAGES, LORENZ BOOKS, 2017

クリスティン・ローゼ・ベルキン『リュベンス』高橋裕子訳、岩波書店、2003年
ヤーコブ・ブルクハルト『ルーベンス回想録』ちくまライブラリー、1993年



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