時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

クロード・ロラン:ロレーヌ生まれの画家

2009年04月25日 | 絵のある部屋

クロード・ロラン《クリュセイスを父親のもとに返すオデュッセウス》 1644年頃、油彩、カンヴァス
Claude Cellée, dit Le Lorrain (Chamagne, vers 1602-Rome 1682)
Ulysse remettant Chryséis a son pere
vere 1944 Huite sur toile, 119x150cm,
inv 1718
Musée du Louvre
  

 東京、上野の国立西洋美術館で開催中の『ルーブル美術展 17世紀ヨーロッパ絵画』*に、クロード・ロランClaude Lorrain (Claude Gellée or Le Lorraine: Lorraine, c.1600-Rome 1682)の上掲の作品が展示されている。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールと同時代のロレーヌ生まれの画家である。古典風景画の巨匠とされながらもラ・トゥール以上に、日本での知名度は低いのではないか。

 実はこの画家については、いくつかの点で注目してきた。先ず、ラ・トゥールとほぼ同時期のロレーヌ出身の画家であることに加えて、当時としては明らかに長寿といってよい80年近い人生を過ごしたことである。結果として、17世紀の大部分を生きたことになる。しかも、ロランはその生涯のほとんどをイタリアで過ごし、各地を旅し、カラヴァジェスキを始めとして、ヨーロッパの画壇主流の作品に触れたはずであった。その結果として、ロランが何を選んだか、興味を誘われた。

 ロランは1600年、当時はロレーヌ公国であったヴォージュのシャマーニュの町に生まれた。兄弟は5人だった。名前はクロード・ジェレが正しいが、生まれた地域ロレーヌにちなみ、愛称でロランと呼ばれていたらしい。生家は貧困で12歳の時に両親をなくし孤児となり、木版画家の兄のジャン・ジェレとフライブルグへ行った。その後、クロードは仕事を求めて1613年頃にローマへ、そしてナポリへ移った。ナポリでは1619-1621年の2年間、ワルス Goffredo(Gottfried) Wals の下で徒弟修業をしたようだ。そして、1625年4月にはローマへ戻り、かつて自分を傭ってくれた風景画家兼フレスコ画家のタッシ Augustin Tassi(ca1580-1644)の下でさらに修業した。

 ロランは、1626年には少年時代まで過ごしたロレーヌの文化の中心ナンシーで、1年近く宮廷画家クロード・デルエの工房で修業もした。カルメル会派の教会フレスコ画などを制作したとみられるが、現存していない。記録はないが、ラ・トゥールとも交流があった可能性もないわけではない。ラ・トゥールが数歳年上である。ロランは2年ほどして再びローマへ戻り、ロレーヌに戻ることはなかった。ローマの吸引力がいかに大きかったかを思わせる。

 ロランについてさらに興味深いことは、1635年頃からの制作記録が残っていることにある。贋作を防ぐために、作品制作後、自らの作品のデッサンを『真実の書』として一種の備忘録を残した。これ以前の時期については不明だが、この頃からの作品には、裏面に作品の購入者の名前も記されているらしい(通常の展覧会では作品の裏面を見る機会はまずない)。ロランは政情が安定していたローマで制作活動をしたこともあって、現存する作品も多い。画家歴約50年の間に、ほぼ200点近い制作をしたようだ。  
 

 ロランは生まれ故郷であるロレーヌを含めてイタリア、フランス、ドイツなどへ旅行した。いくつかの逸話も残っている。こうしたことから、ロランは当時のヨーロッパ画壇の主要な風を体験していたとみてよいだろう。  

 1637年頃からロランは、風景あるいは海港の景色の画家としての評判を確立した。教皇ウルバヌス8世やスペイン王フェリペ4世などの注文を受けていたことが明らかであり、著名な画家となっていた。さらに、あのニコラ・プッサンの友人となり、一緒にローマ近郊のカンパーニャを題材に古典的風景画を残した。一見すると、二人の作品にはかなり近似するものがあることを感じる。二人とも、カラヴァッジォの影響はほとんど受けていない。

 ロランとプッサンの間には、近似する要素が多いとはいえ、相違点もあった。プッサンにとっては、描かれる人物が主であり、風景は背景にすぎない。他方、ロランにとっては風景が主で、人物は副次的な扱いである。人物は自分の風景画を買ってくれた人への「おまけ」だったともいわれている。ロランは太陽の光の効果を風景画において、いかに精緻に描き出すかということを目指していたようだ。しかし、画題からも明らかなように、描かれた光景は現実の風景ではない。画家の心象風景として構築された風景なのだ。こうした制作態度から生まれたロランの作品は、古典風景画の典型として、その後の風景画家に多くの影響を与えた。今回の『ルーブル美術展』に出展されている作品も、主たる関心事は海港をあるがままに描くことを目指したものではないことが直ちに分かる。

 ちなみに、上掲作品の場面は、ホメロスの「イリアス」に基づいている。アガムメノンがクリュセイスを父親クリュセースのもとへ返すために港で見送る光景である。アガムメノンがその使命を託した男はオデュッセイスである。  

 ロラン、プッサンともに、古代ギリシャ、ローマへの憧憬が強い。そのため鑑賞する側に古典についての十分な蓄積がないと、作品主題の含意、精神性を理解することがきわめて難しい。プッサンについても同様だが、ルーブルで初めてロランの作品に接した時、作品そして画題を見ても直ちに画家が作品に込めたものを理解するに困難を感じた。今回、出展された作品についても同様であり、解題を読んだ後でも十分理解したとは言い切れない(この点については、いずれ記す機会があるかもしれない)。

 さらに、ロランについては、自らが創り出した画風の範囲がかなり限られており、生涯そのスタイルからほとんど逸脱することがなかった。しかし、その作品は古典風景画の典型として、その後の風景画家に多くの影響を残した。日本人にとっては、時に理解が難しい画題が多いが、見慣れてくるにつれて、17世紀ローマを中心とするイタリア美術界の風土、とりわけその精神世界について、新たな想像の次元が広がってくるような気がしている。



Reference
『ルーブル美術展 17世紀ヨーロッパ絵画』公式カタログ、2009年2月28日-6月14日、国立西洋美術館

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ロレーヌ魔女物語(9)

2009年04月24日 | ロレーヌ魔女物語

17世紀初頭の頃、Vicを望む風景銅版画



 魔女狩りといわれる現象は、現代社会に存在しないわけではない。今日でもさまざまな場面で、この言葉、概念が使われている。ある条件が揃うと、時代にかかわりなく、この現象が発生しやすくなる。

 17世紀に入ったヨーロッパ全体でみると、魔女狩りは次第に減少してきたとはいえ、ロレーヌでは依然として絶えることなく、魔女狩りが行われていた。そうはいっても、ロレーヌは、ヨーロッパの他の地域とさほど異なっていたわけではなかった。しかし、魔女狩りを生むようないくつかの条件が重なって存在したことも事実であった。とても、ブログの枠に収まる話ではないが、メモ代わりにもう少し続けてみたい。このテーマの研究者にとっては、ほとんど常識に近いことだが、17世紀ロレーヌに少しでも近づくための材料集積のためだ。今回は、主として経済的背景を考えることにしよう。

農業社会のロレーヌ
 現在でも変わりないが、16世紀から17世紀前半、ロレーヌは基本的に農業社会であった。日常の取引は、短い距離の小さな市場圏で行われていた。しかし、モーゼル川とその近隣の地は、ラインやネーデルラントと水路を経由して結ばれていた。陸上交通の点でもロレーヌは、文化の十字路を形成していた。

 16世紀、ロレーヌでは記録に残るかぎりでは、食料品価格は3倍近くに上昇したが、賃金は2倍にもならなかった。比較的繁栄を享受しえた17世紀初めの20年間についても、ロレーヌでは価格は比較的安定していたが、賃金はわずかに上昇したにすぎなかった。他方、他の地域からの流入もあって人口は増加し、貧窮化が進行した。それにもかかわらず、17世紀に入って1630年頃まで、ロレーヌは比較的恵まれた時を迎えていた。フランス革命までに再び達することのなかった水準だった。

 16世紀末期の宗教戦争、とりわけユグノー戦争は不安と騒乱をもたらしたことは事実だが、百年戦争のような農業労働の完全な中断状態を生み出すようなことはなかった。ただ、17世紀に入ると、30年戦争の戦場に巻き込まれたロレーヌは他の地域よりも過酷な状況に置かれた。

 別の変化も進行していた。ロレーヌの住民は安全で平穏な状況を望んでいた。しかし、そうした期待を裏切るように、地域のコミュニティは次第にメンバー間の協力よりも、紛争の場へと移っていた。不平等が拡大し、実質的に土地を持たない日雇いの農業労働者が増加し、少数の富裕者と多数の貧困層へ階層分化が進行した。

 
さまざまな規制の存在
 ロレーヌの毎日は、荘園とコミュナルな権威が交差する点で、高度に規制されたシステムの中で展開していた。収穫期、休閑地、森林地の管理、あるいは共有の牛馬、牧草地の維持管理などが最重要な問題だった。例外的な特権を購入しないかぎり、農民は領地の水車、パン窯、ワイン絞り器などを使わざるをえなかった。

 戦争その他の理由で、自由農民が土地を放棄せざるをえなくなると、土地は領主によって収奪された。また、保有地を手放さざるを得なくなった農民から、安価に土地を獲得していった。

 ここでは、富と権力は結合していた。牧草地は次第に教会、修道院、貴族などの富裕層などが独占するところになり、農民など普通の人々は必要ならば小作契約をして動物などの飼育をするか、自由な土地を売り、小作契約をするしかなかった。ほとんどの家庭は、他人への日雇い労働をして暮らしていた。かなりの農民は、大農借地の日雇い労働と技術的進歩を遅らせたさまざまな共同体規制、そしてとりわけ家内制農村工業労働のおかげで生存が可能になっていた。こうした状況にあって、貴族となり、ロレーヌの牧草地を馬で放縦に走り回るほどの富を得た画家ラ・トゥールや特権に支えられた修道女たちに向けられた一部農民の怨嗟の光景が彷彿とする。

 16世紀以降、何回かの悪天候、飢饉などがロレーヌの状況悪化を深めた。1630年代までの比較的良い時期は、悪化の進行を緩和したが、反転させたわけではなかった。貧窮化への道は一方通行で、しばしば悲惨な状況を伴った。しかし、暴動のような反乱は少なかった。生活の術がない乞食などの貧窮者が増加し、支配者にローカルな慈善を求めた。穀物、木材、果実の盗みが横行した。しかし、社会秩序は巧みに支えられ、大きな破綻を見せなかった。

不満の蓄積と発散
 
こうして、16世紀前半は比較的繁栄していた。しかし、深刻な貧窮状態に陥ると、農民たちは、どこへ訴えるべきか分からなかったのかもしれない。村へやってくる収税吏、穀物収拾人に対する農民のいくつかの暴力的な行為の例、鬱積した怒りの発現は、この時代環境で起こりうるものだった。特に対象となる犠牲者が社会的なアウトサイダーの場合、事態はしばしば極端に走った。 しかし、コミュニティは修復不可能なほど壊れてはいなかった。異なった階層間をサービスと義務がなんとか結びつけていた。

 人口の多くが、長期にわたる困窮の淵にまで追い込まれていた。それでも、村落の支配者はさまざまな社会的、文化的圧力を駆使して、貧しい人たちの力の集中と暴発を防いできた。断片的に残る農民や下層民との軋轢、衝突などからも、その一端はうかがえる。 1570年代以降の社会経済的状況の悪化と魔女審問の増加は、こうした長年にわたる変化の中から生まれた。農作物に決定的な影響を及ぼす悪天候、そして牛、馬、羊などの動物への悪疫の流行は、人間関係にまで波及し、魔術や呪術への傾斜へ連なっていった。

 誰かの行動がコミュニティを破壊しているか特定できないとしても、その内部に隠れた敵として幻想する対象が、魔女という存在だった。それでは、魔女あるいは魔術を操る者とされたのは、どんな人々だったのだろうか。審問の事例を見ていると、あるイメージがおぼろげながら浮かび上がってくる。
(続く)  

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国境再編の胎動:アメリカ

2009年04月22日 | 移民政策を追って

 ウオール・ストリート発のグローバル危機は、まだ底が見えてこない。イラク問題も不透明なままだ。オバマ大統領は就任以来、景気対策を始めとして、公約実現に向けて八面六臂の活躍をしてはいるが、「最初の100日」をアメリカ国民はどう評価するだろうか。

拡大する不法移民問題
 ブッシュ前政権の後半、最重要課題のひとつではあったが実現に至らなかった移民政策にも、再び火がつき始めた。火元はいくつかある。連邦は昨年、アイオワ州の食肉加工業を臨検し、多数の不法移民が劣悪な条件下で働いていることが明らかになった。食肉加工業はアプトン・シンクレアの『ジャングル』以来、しばしばアメリカの暗黒面を露呈する場となってきた。2006年にもメディアの注目を集めた。さらに、主たる責任はメキシコ側にあると考えがちであった麻薬や銃器の密貿易問題の根源が、実はアメリカ側にあることを再認識させられ、オバマ大統領も早急な対応を迫られている。

 不法移民が定住する地域も、かつてのメキシコ国境隣接州からジョージア、サウス・カロライナ、アイオワ、イリノイなど中西部やワシントンDC.を含む北部へも拡散の動きが進んでいる。従来、南部の国境隣接州ばの問題とされてきた移民問題は、いまやアメリカ国民の日常的関心事となっている。
 
 アメリカ国内には、1200万人近い不法滞在者が居住している。2000年以降、その数は42%増という拡大を見せた。この未曾有の不況下で、帰国したメキシコ人もいるが、ほとんどはアメリカ国内に踏みとどまっている。帰国しても仕事の機会はなく、国境管理は厳し差を増しており、再入国もできなくなる。

 移民政策の見直しをするに、経済危機に直面している現在は、あまり適当な時ではない。歴史的にも不況になると、移民への風当たりは強くなる。労働組合は移民に反対し、外国人は閉め出されてきた。

不法移民を見える存在へ
 オバマ大統領は、移民問題は今年後半に再検討の俎上に乗せると述べている。今はグローバルに広がってしまった経済危機の火元の消火が最大課題なのだ。しかし、麻薬、銃器の不法取引、国境地帯の不法化の拡大とともに移民、とりわけ不法移民問題は放置できないほど切迫してきた。

 国内でも新たな動きが浮上している。労働組合の中にも、移民政策を新たな視点から重要な課題として提起するところが現れた。従来、国内労働者の仕事の機会を奪うとして、保守的な立場をとってきた労働組合の中にも、移民政策を組合活性化の契機としようと考える動きが現れている。

 これまで実態が見えない存在であった不法滞在者を合法化する。それによって、租税基盤の強化が期待されるし、全体の賃金水準が上昇することを通して経済成長を促進するという考えだ。細部については議論もあるが、新たなシステムの輪郭は浮かび上がっている。その柱は、1)現行より厳しく国境を管理する、2)すでにアメリカ国内に定住する不法就労者をある基準の下で合法化する道を開く、3)国内で働く労働者のステイタスを再確認すること、4)不法に働き、ルールを守らない労働者を適切に罰すること、そして、5)将来テンポラリーな労働者を受け入れるあり方について、より良い方法を見いだすことなどから成っている。これらの柱の多くは、もっともなものであり、前政権の時から検討されてはきた。ブッシュ政権時に議論されたケネディ・マッケイン法案も、こうした考えの原型に近い。

不法移民の寄与をどう評価するか 
 
ともすれば、マイナス面ばかり強調される不法滞在者だが、プラスの面もある。ヒスパニック系の移民に好意的なシンクタンク、ピュー・ヒスパニック・センターは次のような点を指摘している:

 ・不法滞在者のほぼ半数は、両親と子供から成る家庭だ。子供たちのおよそ73%はアメリカ生まれで、出生地主義をとるアメリカでは、アメリカ国籍を保有する。他方、アメリカ国民の家庭の中で両親と子供から成る家庭は、全体の21%だけ、合法移民の場合は35%だ。しかし、不法移民の家庭では、47%が両親と子供から成る。年齢の点でも、不法移民の方が若い。高齢化が進むアメリカの将来にとっては望ましい特徴だ。

 ・しかし、すでにアメリカに居住している不法移民を合法化することに反対する者は、不法移民はアメリカに適応しないとする。その理由は概して、英語を習おうとしない、貧困で無教育のままに残る、そして、アメリカをメキシコやその他のラテン国のような実態に変えてしまうなどが挙げられている。しかし、不法移民の間でも若い世代の教育水準は上昇している。 

 ・不法移民の家庭の所得の中央値は2007年、$36,000だった。他方、合法な国民の家庭は$50,000である。依然、格差はあるが、縮小の方向に向かっている。不法移民の労働力率が高いことも望ましいとされる。

 不法移民の数は高水準だが、国境管理政策の強化と国内経済の不振の双方の結果として、南からの越境者の流れは勢いを失っている。こうした点を踏まえると、不法移民といえども、アメリカ国民と結婚その他の点で、密接に関連していていることを考えると、彼らをアメリカ国民と認
めるアムネスティ(特赦)を発動する好機だとする立場も理解できる。

見解分かれる不法移民への対応
  しかし、いくつかの世論調査を見ると、アメリカ国内にすでに居住している不法移民についての考え方は、二つに割れている。言い換えると、アメリカ国民として認め、彼らに市民権を与えよという見方と、市民権を与えるべきではなく、原則帰国させるべきだという見方が、ほとんど拮抗している。ブッシュ政権下で、「包括的移民政策」が議会で最後まで合意に達し得なかったのも、こうした国民的感情の対立がかなり反映している。

 さらに、アメリカには移民労働者に頼らねば存立しえない産業分野が出来上がってしまっている。高い熟練、専門性を必要とするITなどの産業、農業、果実栽培、造園などの低熟練労働力に依存する分野だ。
 
 アメリカは1986年に、「移民改革規制法」*で、アムネスティを実施している。しかし、それが今日の不法移民の増加につながったことも事実だ。国境管理が厳しくなると、なんとかそれをくぐり抜け、じっと我慢して、次のアムネスティを期待する動きが生まれる。 オバマ大統領は、今年後半に検討したいとしているが、それを待ちきれないグループもある。現状はブッシュ前政権の国境管理を強化するという部分のみを実行している。これは、麻薬密貿易が深刻化したため、前政権の路線を踏襲した形になっている。

 オバマ大統領実現に際して、ヒスパニック系は大きな支えとなっただけに、大統領としても、ヒスパニックが多い不法移民へも強硬路線は採用しがたい、他方、議会には不法移民へ強硬な保守勢力もあり、政策の具体的レベルでは難航が予想される。しかし、1200万人近くに達する不法滞在者を帰国させるという政策は、実現の可能性は低い。といって、不法滞在者のすべてにアムネスティを与えるという政策も難点がある。どこまでをアメリカ国民に組み入れるかの線引きは難しい。しかし、それ以外にアメリカ移民改革の道は見えなくなっている。

 グローバル大不況の影響で、メディアは移民労働者に対する保護主義的側面を強調しがちだが、国境をめぐる移民政策は、ダイナミックな再編の必要性に迫られている。先進国の多くは、人口減少、高齢化、新技術への対応などの点で、外国人労働者の力を必要としている。 停滞から脱却するイノヴェーションの促進には、狭い枠に規制されることのない異質で斬新な考え方がどうしても必要だ。移民労働者の排除という保護主義的側面にだけに、目を奪われるべきではないことを強調しておこう。国境は目に見える地図上の線だけを意味しない。目に見えない内なる存在を含めて、国境は変化への胎動を見せている。


*
 The Immigration Reform and Control Act of 1986.
この86年法がもたらした影響は複雑だが、このアムネスティ措置に、アメリカ市民となる資格要件を満たしえず、違法なままにアメリカ国内に留まった外国人は、すの不安定な立場を使用者に利用され、劣悪な労働条件を強いられることになった。


References
“All together now” The Economist April 18th 2009

Linda Chavez. “The good news on illegal immigrants” NEWYORK POST, April 18,
2009.

この機会に、関連情報のご提供をいただいたK.N.さんに感謝申し上げます。

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中国大学生就活の決め手?

2009年04月18日 | グローバル化の断面

 このたびのグローバル危機で、世界経済回復への鍵を握る主導的な役割を担う国のひとつに中国がある。これまでのところ、表舞台に見る限り、中国政府首脳は自らの役割にかなり自信のほどを示してきた。G20など国際的な場では、内需拡大を柱にかつてない積極性を見せている。しかし、問題山積の大国でもあり、内情は決して楽観できるものではない。そのひとつに農民工や大学新卒者にかかわる雇用問題がある。その一端を記してみよう。

緩衝装置としての大学?
 10年以上前のことだが、中国政府の教育政策に関わる方から、大学は雇用政策として役に立つと思うかと尋ねられた。一瞬、なにを聞かれているのだろうかと答に詰まった。しばらく質疑を交わしている間に見えてきたことは、中国に顕在、潜在的に存在する失業者を吸収する上で、大学の数、入学者の数を増やすことは「効果」があるかという内容だった。予期しない質問だった。

 1990年代当時、国営企業の民営化に伴う多数の失職者の増加、農業部門における膨大な不完全就業者、労働力の増加に追いつけない仕事の機会創出など、中国は多くの問題を抱えていた。こうした状況で、多数の若者が仕事に就けない状況が生まれることは、政治的にも不穏な状態を増加させかねない。

 教育機関としての大学を拡大し、若者を一定期間、教育という過程に吸収することで、労働市場へ膨大な数の若者が一気に流入することをある程度緩和できないかという考えであった。大学を本来の教育機関としての位置づけにとどまらず、労働力化に先立つ緩衝装置としての役割を持たせられないかという、日本ではほとんど出てこない発想だった。

大衆化する大学 
 中国の大学および学生数は、その後飛躍的に増加した。大学の大衆化はこの国でも明らかで、外から見ていても驚くほどのスピードで進んだ。今年の夏には国内の大学だけで、630万人の大学卒業生が生まれる。2000年当時と比較して、ほぼ6倍という驚異的な増加だ。来年2010年には、卒業生数は、実に7百万人になると推定されている。2011年には、さらに760万人にまで増加する。大学在学生の18-24歳層に占める比率は、全国では25%を越え、北京、上海など大都市では60%を越えているとみられる。

 中国の大学は、政府にとって対応が難しい教育の場となっている。中国経済の将来を担う高度な能力を持った人材を養成するという大学に期待される本来の役割ばかりではない。なんらかの要因で、大学生が政治や社会に不安や不満を抱き、反政府的な行動にでも立ち上がることになると、体制にとって大きな脅威となる。

 大学生が大きな役割を果たした天安門事件(1989年)に象徴されるように、大学生の抱く思想や行動は、政府にとって看過し得ない大きな関心事だ。幸い、その後は目覚ましい経済的発展と就職市場の流動化が図られ、自分の職業をかなり自分で設計できる環境が生まれたことなどで、憂慮する事件は余り起きなかった。

高まる不安材料 
 しかし、1999年以降、不安材料も台頭してきた。1999年のNATOによるベルグラードの中国大使館誤爆事件、2005年の反日暴動などの勃発である。今年6月には天安門事件の20年目を迎える。政府が憂慮するのは、不況の影響で大学卒業生の就職状況が低迷していることだ。正確な統計はないが、このところ全国大学卒業生の就職率は6割くらいらしい。

 さらに、これだけ大学生が増えてくると、学生の多様化も進む。人生方向が定まらず、親のすねかじりで当面やっていく「老族」や留年したり、キャンパスの片隅に住み込んだりして、なんとか暮らす「頼校族」なども増えているようだ。大学大衆化に伴う学力低下も問題になっている。「大学」とはいえない大学も増えた(これは日本も同じだが)。中国政府は21世紀に拠点となる大学は100校程度としており、大学間の駆け引き、競争も激しくなってきた。

 他方、中央政府・教育部が「重点大学」としている北京大学、清華大学、浙江大学、復旦大学など有名大学では、高度な教育・研究への充実が進んでいる。夜が更けたキャンパス、薄暗い電灯の下で勉強している学生が目につく。以前にも記したことがあるが、野外の電柱の裸電灯の光で英語の本を朗読している学生の姿には感動した。日本ではほとんど見られない光景だった。「お守り?」credentials を得たいとの意味でも、海外留学熱は依然として強い。有名大学ならば、国内大学の卒業免状より「御利益」が大きいと考えているようだ。

虚々実々の対応
 経済危機の影響で企業などの採用が激減している状況に対応するため、中央政府は、大学を出て就職することなく、起業を図る学生には、最大限5万元(7300ドル)の融資を行う。また、進んで兵役に従事したり、貧困な西部の内陸部で働く若者には、授業料の還付がなされる。地方政府によっては、地方で働こうと考える若者にとって、障壁のひとつであった住宅費用の軽減措置をする所も現れた。3年間、過疎地帯の村落で、村役場の職員などの形で働くと、優遇措置が与えられる。全体の労働者の中で、大卒者の比率は未だ6%程度だが、そのウエイトはこの数値以上に重い意味を持っている。

 中国政府は、この機会に青年の共産党員も増やせればと考えているらしい。体制基盤の強化にもなる。確かに大学によっては、入党者が増えているところもあるらしい。1990年代には、青年の党員比率は1%強だったが、今では8%を越えたといわれる。しかし、入党する青年の側にも深謀遠慮があるようで、入社試験に提出する履歴書の目立つ所に、「党員」と書けるのが大きな強みにとなると思っているらしい。志操堅固、指導力ありの証明になるのだろうか。「上に政策あれば、下に対策あり」の国の面目躍如だ。虚々実々の駆け引きが行われている。

 さて、日本はどうでしょう。「漢字検定」の御利益?は大分減ってしまったようですが!

 

Reference
"Where will all the students go?" The Economist April 11th 2009
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チューリップ・バブル再考

2009年04月15日 | グローバル化の断面

1630年代、オランダで人気を集め、記録的高値を記録したチューリップの一種 Semper Augustus




  チューリップにまつわる話題を前回の続きで、もうひとつ。この花を見ると、しばしば17世紀初めオランダの「チューリップ・バブル」のことを思い出す。90年代以降の世界的なバブルの破綻を目にしてきたからかもしれない。

「チューリップ・バブル」:通説
 1630年代のチューリップのバブルとその崩壊は、世界史上もしばしば注目される出来事として話題となってきた。とりわけ、1636-37年は「チューリップ熱の時代」the age of tulip feverといわれてきた。これまで世界史教科書などで伝えられてきたのは、概略次のようなことだった。


 原産地はオランダと思いかねないチューリップだが、1560年代にトルコから伝来した。17世紀に入ると、オランダを中心にフランスやドイツの愛好者などの間で栽培されるようになった。しかし、普通の家の窓辺や食卓を飾る花ではなかった。最初は、貴族、商人、文化人などが好んで邸宅で栽培した。とりわけ、珍しい貝殻や球根などの収集家の間で、取引対象だった。この花の持つ新奇、斬新さは、当時の貴族、ブルジョア的趣味にも合致していた。

 1636年の夏頃から、オランダでチューリップの球根価格が急騰する。特に新種や珍種の価格は暴騰し、人々は球根が途方もない富を生むと信じて投機に狂奔した。いわゆるバブル的現象である。当時からチューリップは4-5月に開花し、6-9月には古い球根が掘り出され、10-11月に新しい球根が市場に出されて、翌年への準備がされるというプロセスをとってきた。今でこそ栽培技術の進歩で、交配、栽培などの仕組みはすべて分かっているが、当時は珍種や新奇な種は、球根についたウイルスなどによって、花の模様や形状を変えるという突然変異のような結果が生まれたらしい。思いがけない新種が生まれると、人々はそれに夢中になった。特に、赤と白、紫と白などの色で、焔が燃え上がったような花が、高値を呼んだようだ。

 バブルたけなわであった1637年1月の時点で、「フローラ(花と春の女神)のことしか頭にない人々が多数いる」との皮肉なコメントが残っている。実際、この頃、新種や珍奇種によっては、わずかひとつの球根で豪華な邸宅が購入できるほど、とてつもない暴騰を見せていたと伝えられている。ところが、2月に入ると、理由は必ずしも明らかではないが、球根価格は暴落し、膨大な損失を被った生産者、貴族、富豪などが破産するなど、大きな社会的ショックが生じた。「チューリップ・バブル」の崩壊だった。

「風の取引」
 この出来事は、当時のオランダの経済・社会を大きく揺るがした事件として、今日までさまざまな形で語り伝えられてきた。特に、実体と離れた投機的取引の狂騒によって、マクロ経済的にも壊滅的衝撃をもたらした出来事として世界史上知られてきた。

 しかし、果たしてそうであったのか。残念ながら、厳密な検証に耐えるような客観的で信頼に耐える資料、情報がないのだ。この現象を題材として小説や論評の類は多いのだが、ほとんど同じ論拠だった。わずかな数の断片的な資料を基に導き出された、かなり危うい推論だった。

 当時の取引はしばしば「風の取引」windhandel といわれたように、現実にはほとんど実際の球根の授受がなされなかった。この時期、新奇種などの球根の価格が大きく上下動したことは事実だが、実際には手形取引を中心に、紙上での取引だった。取引に対応して球根と金が移動したわけではなかった。

文化的価値体系の崩壊
 しかし、オランダは「チューリップ熱」で、本当に破滅的な影響を受けたのか。1980年代に入ると、17世紀の「チューリップ熱」の実態について、通説の見直しが始まった。その結果、これまでほとんど疑問無く受け入れられてきたような、オランダ経済が壊滅的な影響を受けたという解釈は正確でもなく、客観的でもないという見方が提示されるようになった。

 ガーバー, ゴルガーなどの研究者によると、チューリップ熱はオランダ全体ではなく、アムステルダム、ハールレムなど大都市の限られた層、それも必ずしも富裕とはいえない人々に影響を与えたにとどまっていたとされるようになった。

 そして、このバブルがもたらした最も重大な影響は、従来強調されてきた経済面ではなく、オランダの社会的・文化的な名誉と相互信頼というそれまでの価値体系を破壊、混乱させたことにあったとの解釈が提示されるようになった。言い換えると、文化的衝撃は大きかったが、経済面での衝撃を受けた者はそれほど多くなかったという理解だ。興味深いことに、ゴルガーなどは、経済面にほとんど関心を示していない。

 球根価格の暴騰・暴落は、オランダのチューリップ市場のすべてにわたって起きたのではなく、限られた新種、珍奇種に限られていたともされる。従来、バブル崩壊の指標とされてきた球根価格の資料の普遍性、信憑性にも疑問が呈された。

 結局、1637年に入っての価格急落は、需給要因に加えて、珍種、新奇種の取引をめぐる不確実性、そして売り手・買い手の自己制御の弱さ、不誠実な取引倫理などがもたらしたものと考えられるようになってきた。かくして17世紀オランダ、「チューリップ・バブル」に関する研究は、新しい解釈、問題提起を受けて、興味深い論点が次々と生まれている。ブログの話題としたいトピックスも多々残っている。

オランダ:今も世界一の花王国
 17世紀にこうした出来事を経験したオランダは、今日も世界的な花卉園芸植物の貿易で主要なプレーヤーだ。チューリップを中心に、花の国際的な生産では70%近く、貿易では90%を占める。オランダの花(切り花、苗木など)のオークションを主催する協同組合 FloraHollandは、2008年の時点で、オランダ国内で流通する花(切り花、植木など)の実に98%を扱っている。

 オランダは、世界の花・苗木輸出の60%を占めている。協同組合の花・苗木の輸出先は、ほとんどヨーロッパだ。その最大の相手国はドイツ(28.9%)、続いてイギリス(14.6%)、フランス、イタリア、ベルギー、ロシアである。他方、輸入については,「フローラ・ホーランド」経由でオランダ国内で販売される比率は、全世界の輸入額の15%以下だ。輸入先は、ケニヤ(37.8%)、イスラエル(13.2%) エティオピア(12.2%)、エクアドル、ドイツ、ベルギーなどの諸国だ。

 このように、17世紀の「チューリップ熱」の洗礼を受けながらも、オランダは現代の花卉園芸品取引の世界で、依然として図抜けた地位を保っていることが分かる。

 「チューリップ・バブル」の意味を考えていると、目の前に起きているグローバル大不況に立ち戻ってくる。今回の不況が、世界に大きな経済的衝撃をもたらしていることはいうまでもない。その客観的評価は渦中にある現在では、まだできない。しかし、幸いにも遠からず脱却することができれば、その評価がさまざまになされるだろう。

 今の時点で感じられることは、グローバリズムに関する価値体系が大きく揺らいでいることだ。バブル崩壊の影響は、さまざまではあるが、人々の心の中に入り込み、長らく支配的だった社会の価値体系を変えつつあることは確かだ。将来への不安感の増大、刹那的風潮、虚無感などの拡大、反面で、奢侈からの脱却、節約心、環境への配慮、相互の助け合い(連帯感)、自立心の台頭など、明暗さまざまな変化が進行する。バブル崩壊は、マイナス面だけを拡大するわけではない。バブルにも学ぶことは多い。






References
Peter M. Garber. Famous First Bubbles: The Fundamentals of Early Manias. Cambridge: MIT Press, 2000.

Anne Goldgar. TULIPMANIA: Money, Honor, and Knowledge in the Dutch Golden Age. Chicago & London: University of Chicago Press, 2007.
本書については、大変興味深い点があり、いずれ改めて記したい。

”Dutch flowers auctions” The Economist April 11th 2009

アンナ・パヴォード(白幡節子訳)『チューリップ:ヨーロッパを狂わせた花の歴史』大修館書店、2001年

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花で測る地球温暖化

2009年04月11日 | 午後のティールーム

 

 毎年桜の開花と並んで楽しみにしていることがある。猫の額ほどの庭に咲く チューリップのことだ。あるきっかけから、同じ場所に球根を植え始めてから10余年になる。例年、10月頃に球根を植え、水をやるくらいで後は特になにもしない。しかし、自然の摂理は絶妙で、4月後半から5月初めにかけて美しく開花し、目を楽しませてくれる。時には前年取り残した球根が開花することもある。開花している時期、明るく輝いた空間が生まれる。

 あの小さな球根がどこで、季節の移り変わりを感知しているのだろうか。花のセンサーの仕組みは実に不思議だ。球根を植える時、翌年の春にはどんな色と形の花が地上に姿を現すか、その小さな楽しみがこれまで続いてきた。

 このところ、憂慮していることがある。球根を植えた時期とほとんと関係なく、開花の時期が少しずつ早まっていることだ。暖冬といわれた昨年は、明らかに花にも影響を与え、4月1日にはほとんど開花していた。今年も同様で、4月第1週には開花し、すでに満開の時期を過ぎている。球根を植え始めた最初の頃は、5月の連休前くらいが最も美しく、目を楽しませてくれていた。このことは、昨年
早過ぎるフローラのお出まし」と題して少し記した。

 この頃は、日本でもチューリップの美しさが楽しめる場所が少しずつ増えたようだ。この花は一本,一本を楽しむというよりは、ある程度まとまって開花しているのが美しい。オランダのような平坦な地が多い国には、大変似合っている。見渡す限り、広い地面をさまざまな色彩のカーペットで覆ったような光景が展開する。しかも、この花は原色であっても違和感がない。淡色のチューリップも優美だが、広い地面を埋め尽くすには濃い色の花のほうが迫力がある。

 チューリップというと、思い出すのは、やはり
オランダであり、開花の時期の美しさは類がない。
今でこそ世界に輸出され、珍しい花ではないが、当時は大変貴重な植物だった。珍しい形状の花は、きわめて高価でもあった。オランダのような砂地に適し、見た目以上に強靱な花だ。イギリスでも植えてみたが、球根を植えるだけで、後はなにも世話をしなくとも、春には見事に咲いてくれた。もちろん、これまでの間に、おびただしい改良が加えられてきた。桜と違って、毎年球根を植えないと鑑賞できないことも、巧みな改良の結果らしい。

 チューリップの球根は、オランダなどから世界各国へ輸出されているので、どこかで地球温暖化と開花の時期について、記録、検証がなされているのではないかと思っている。  

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春光の中の仏たち(平泉特別展)

2009年04月07日 | 午後のティールーム

 


 子供の時から自他ともに認める(?)博物館好き。といっても、混み合って人の肩越しに展示を見るような所は好みではない。そのため、あまり人の訪れない時間帯、どちらかというと小さな博物館を選ぶようになった。長らく土日くらいしか時間が空かない時期が続いた。幸い今はかなり選択の自由が生まれ、混雑しない週日に行けるようになり、展示鑑賞の満足度は大変高まった。

 「平泉みちのくの浄土」特別展を見に行く。仙台、福岡、東京と、平泉の仏たちが日本列島を縦断する展覧会だ。平泉は今年しばらくぶりに再訪しようと思っていた所だったので、下調べの意味もあって楽しみに出かけた。展覧会のテーマにも関係するが、見に来ている人は中高年者が圧倒的に多い。

 寺外で初公開という国宝の中尊寺金色堂西北壇の諸仏や毛越寺の名宝など、国宝57点、重文41点を含む200件のきわめて充実した展示だ。現地でもこれだけの仏像、資料を、取りこぼしなく見ることはなかなかなかできないだけに、素晴らしい企画である。次の世界遺産登録に,向けてのPRという意味もあるのだろうが、平泉文化の全体像が見渡せる大変充実した展覧会だった。

 詳細は展覧会HPや図録にまかせるとして、少しばかり考えされられることがあった。平泉文化のいわば入り口での手がかりになる「中尊寺建立供養願文」(顕家本、中尊寺大長寿院蔵)*が、展示品のひとつにあった。この「供養願文」は、藤原清衡が亡くなる2年前の天治3年(大治元年、1126年)3月24日付で書かれたもので、原本(藤原敦光文案、冷泉朝隆筆写)は現存しないが、鎌倉時代末期から南北朝時代に書写された写本(北畠顕家筆写本・藤原輔方筆写本)が、中尊寺大長寿院に伝存するものといわれる(特別展図録、17ページ)。



 展示されている「金銀泥一切経」奉納にもかかわる根源的文書である。清衡の仏事・作善としては、最大の大善根とされる「紺紙金銀字一切経」(以下「清衡経」)のことである。「清衡経」は仏典を集大成した一切経(大蔵経)の経文を紺紙に銀字と金字が一行ごとに書写されている。当初の巻数は5390巻(4297巻が現存)に近いと推定されている。この一部分が展示されているが、気の遠くなるような緻密かつ壮大な仕事である。

 特別展図録によると、願主は「弟子正六位上藤原朝臣清衡」とあるため、願文は藤原清衡が中尊寺を鎮護国家の伽藍として造った際に、敦光により作成されたものと見られてきた。さらにこれに添えられた書付には、「件の願文は右京大夫敦光朝臣これを草す。中納言朝隆卿これを書す。しかるに不慮の事有りて,紛失の儀に及び、正文に擬さんがために、忽に疎毫を染める耳」とあり、最後に「鎮守大将軍」北畠顕家の花押があることから,南北朝の内乱期に北畠顕家によって写されたものとされてきた。

 ここまでは、それなりに理解していたつもりだった。しかし、その後、五味文彦氏の新著**を読む機会があり、「伝中尊寺供養願文を読む」というくだりに、驚かされたことがあった。それによると、この文書は,後世の創作にかなり近い可能性があるとのことだ。たとえば、その理由として、文中に中尊寺という記述が出てこない、鎌倉末・南北朝期に書写されていること、この時代を知る基本資料である『吾妻鏡』(文治五年、1189年)に載る平泉の寺塔を列挙した「寺塔巳下注文」と記述がほとんど一致していないこと、年号表記が不自然なこと、などが挙げられている。

  改めて文書を読んでみると、確かにその通りである(図録の記述も淡々としていて、気づかなかった)。中尊寺という名も見あたらない。それでは、まったくの創作かというと、五味氏によると、そうでもないらしい。次のように記されている。「奥州藤原氏の三代以来の歴史を踏まえ、過去の記録を参考にしながら作られたものであろう。願文が清衡を願主に想定して後世に作られたものであることから見て、中尊寺が釈迦如来を本尊とする鎮護国家の大伽藍にふさわしい存在として復興されるべきことを求めて作られたと考えられる。北畠顕家はそのことを認めて願文を書写したのである。」(五味 33)。

 なるほど、そういうことだったのか。この例に限ったことではないが、古文書や絵画を正確に読むことの難しさを改めて感じさせられた。平泉の歴史理解を深めてくれる新知識であった。

 特別展全体としての印象は、展示された仏像が大変美しいことだ。保存や修復技術にもよるのだろうが、かつて見た堂内の薄暗い状況と違って、明るい光の下でみる仏は文字通り黄金色に輝き、みちのくの浄土思想の一端を垣間見せてくれる。間近く見られた中尊寺経の美しさも格別だった。

 美術館の外は桜がほぼ満開近く、目も心も充たされた一日となった。



「特別展 平泉 みちのくの浄土」世田谷美術館、2009年3月14日ー4月19日。

展覧会公式HP
http;//hiraizumi-tokyo.com/

**五味文彦『日本の中世を歩く』岩波新書、2009年。 

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麻薬で壊れるメキシコとアメリカ

2009年04月06日 | グローバル化の断面

 アメリカとメキシコの国境が緊迫感を増している。原因は麻薬密貿易にかかわる犯罪と腐敗の増加にある。その一端は、このブログでも度々とりあげてきた。アメリカ・メキシコ国境の実態は日本ではあまり知られていない。10年余り前、日米共同でカリフォルニア南部の移民労働者調査をした当時、すでに麻薬、銃砲などの密貿易が問題化していたが、今日伝えられるほどひどくはなかった。事態は急速に悪化したようだ。

 いまや国境地帯、とりわけ南側はいたるところで無法地帯化し、メキシコ自体が国家として崩壊寸前の危機にあるとまでいわれている。最近アメリカで発表された軍の報告書は、世界で崩壊の瀬戸際にある国として、パキスタンとメキシコを挙げた。この指摘を問題視したカルデロン・メキシコ大統領は、麻薬貿易はメキシコだけの問題ではなく、アメリカが不法に大量な麻薬を飲み込んでいるからだと反論した。需要があるから供給する者が生まれるのだという考えだ。

ようやく立ち上がるアメリカ
 こうした展開にオバマ新政権も、立ち上がらざるをえなくなった。
2月に急遽メキシコを訪問したヒラリー・クリントン国務長官も、「アメリカの飽くことない麻薬への需要が、麻薬密貿易の火に油を注いでいる」ことを認め、「アメリカが銃火器が不法にメキシコへ密輸され、麻薬取引業者の手に渡っていることを防ぎ得ていないことが、密貿易の増大と(メキシコにおける)警察官、兵士、市民の死を生むことになっている」と述べた。アメリカ側にも大きな問題があることを認めたこのヒラリー発言は、メキシコでは好感をもって迎えられた。
 
  少しさかのぼると、2006年11月、メキシコのカルデロン大統領は就任後、麻薬犯罪、密貿易撲滅に乗り出した。しかし、就任以降、国境地帯における麻薬密貿易をめぐる犯罪はむしろ急増した。過去2年余りの間に密貿易に関わり、国境地帯で1万人以上が死亡、そのうち、2008年には6,268人が死亡した。

 麻薬密貿易はメキシコ、そしてアメリカを蝕み、特にメキシコについては国家を揺るがすほどの大きな脅威となってきた。クリントン長官のメキシコ訪問の後、4月に入ってナポリターノ国家安全保障庁長官とホルダー検事総長が相次いでメキシコを訪れ、対応を協議した。オバマ大統領も間もなく、メキシコ大統領と協議する模様だ。事態の深刻さを思わせる。アメリカ側としては、麻薬組織(カルテル、マフィア)の暴力が、国境を越えて
北上してくることを懸念している。

 他方、メキシコ側は、問題の根源はアメリカ側にあるとして、アメリカが麻薬密売の取締り、銃火器、資金の北から南への移動を阻止することを望んでいる。しかし、これはアメリカにとってきわめて難事だ。オバマ大統領は、関係省庁に南への貨物輸送などの検問を厳しくすることを命じているが、メキシコ側は銃火器の密輸の源を摘発、禁止することを求めている。アメリカ側の国境近辺には7500近い銃砲店があるといわれる。しかし、正当な自己防衛のために銃砲を所有することを主張するアメリカ側保守派は、ロビイ活動などで頑強に反対している。

深く食い入る麻薬組織
 こうした中で、麻薬組織は着々とその魔手を伸ばしてきた。メキシコの組織犯罪取締りの責任者であるノエ・ラミレレ検事総長自身が、麻薬ギャングから毎月なんと45万ドルという巨額の賄賂を受け取っていたことが最近発覚した。彼の周辺でも同様な賄賂を受け取っていた者が多数いた。組織犯罪は国境の警察などの捜査の末端から、メキシコの政府中枢部にまで深く入り込み,浸食していた。こうした事実は、すでにかなり以前から問題とされてきた。しかし、麻薬犯罪によって、組織自体が機能しなくなっており、立て直しはきわめて困難であった。大統領がいくら捜査、摘発の強化を説いても、情報はすべてギャング組織に筒抜けであった。検察体制の上から下まで、犯罪組織が深く入り込んでいる。

 さらに、ギャングは大企業の脅迫、人身売買、誘拐などに手を伸ばしており、国家の安全の土台を脅かし,揺るがしている。さらに、コロンビアなどの中南米諸国の麻薬組織とつながり、その魔手は海外まで拡大しているらしい。

追いつかない対応
 アメリカ・メキシコ国境には、ブッシュ政権時からフェンスの増強を初めとして、ヘリコプター、探査装置の導入、パトロールの増員など出入国管理体制の強化が行われてきた。しかし、急激に増大する犯罪に対応が追いつけない。

 メキシコだけでは、とても対応できないと限界を感じたカルデロン大統領は、密輸の相手国であるアメリカに対して、不法な麻薬取引が放置されていると非難してきた。さらに、非はメキシコ側にあるとするメディアの報道のあり方を問題にしてきた。今年1月に行われたオバマ大統領とカルデロン大統領の会談では、麻薬密貿易問題は最大のテーマとなった。それが両国の安全保障を脅かすものとなっているとして、「戦略的パートナーシップ」のアイディアが提案された。巨額な費用を要する改革だ。

 これまで比較的軽視されてきたのは、大量の麻薬を受け入れるアメリカの需要サイドの解明と対応だ。そこには、メキシコに劣らないギャング組織が存在、活動している。就任早々からかつてない大きな試練に迫られているオバマ大統領だが、アメリカ発のグローバル大不況の消火に懸命で、国境を越える密貿易問題までは十分対処ができていない。グローバル不況の下で、密輸ビジネスだけが繁栄している。

 密輸カルテルの側は巨額な資金を保有している。メキシコ北部の取締が強化されると、拠点を南部へ移し、アメリカばかりでなくヨーロッパも密輸先とするなど、新たな展開をしているようだ。軍隊組織に近いほどの装備と命令体系を保持しているともいわれ、その根絶はきわめて難しいらしい。

 メキシコは、麻薬密輸組織という全容がよく分からない敵と戦っている。国際テロとの戦いと変わらない。その戦いの勝敗は、高度な情報戦を制しうるか否かにかかっている。メキシコはアメリカの力を必要としている。他方、オバマ大統領は自国発の大不況の消火に懸命で、国内の麻薬需要の摘発や不法な銃砲の密輸などへの対応には及び腰だ。大統領選のころは、まさかこれほど重大な問題が山積しているとは思わなかったろう。オバマ大統領への期待があまりに大きいだけに、少なからず心配になる。

 


 
References
"On the trail of the traffickers." The Economist, March 7th 2009
 "Don't keep on trucking"The Economist March 21 2009.
"Taking on the narcos, and their American guns"April 4th 2009.

追記:4月14日BS1「きょうの世界」も、この問題を取り上げていた。

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ロレーヌ魔女物語(8)

2009年04月02日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌの風景から

  アメリカABCのNightline  Face-off (2009年3月26日)が、「悪魔は存在するか」Does Satin Exist? という論争的番組を放送していた。この番組に先立って、「神は存在するか」Does God exist? という番組も放映された。後者のテーマは、これまでもしばしば繰り返されてきたので、目新しいわけではない。しかし、前者には少なからず驚かされた。およそ日本のTV番組には登場しないテーマである。 

 アメリカ人の70%近くが、「悪魔の存在を信じている」という。彼らが思い浮かべる「悪魔」がいかなるものであるかは、正確にはイメージしがたいが、議論を聞いていて、現代の思想環境は17世紀とさほど変わらないところがあると改めて感じた。とりわけ、イラク戦争がアメリカ国民に強い影を落としていることを改めて思った。 

 さらに、興味深い問題は、ほとんどの場合、悪魔が神との対比において議論されていたことであった。この場合、「神」がキリストを意味しているらしいことは伝わってくるのだが、それだけに限定されるのか、よく分からない部分が残った。オバマ大統領が演説の最後で、God bless you. God bless America. という時、Godはどんな神をイメージしているのだろうか。キリスト以外の神を信じる国民も多い国なので、気になっていた。とりわけ、選挙活動中、オバマ氏の宗教はイスラムではないのかという議論もあっただけに、彼が心中、いかなる意味で「神」Godを口にしているのかと思う。

国家形成と魔女審問
 さて、17世紀、ロレーヌ公国という小さな国が、大国に伍して生きていくためには、さまざまなことが必要だった。ロレーヌ公の政治的支配力は弱く、経済基盤も決して盤石なものではなかった。その中でロレーヌが曲がりなりにもひとつの公国として存在するためには、ロレーヌ公国のイメージとして統一した精神的な柱が求められていた。 

 この国を支えていた宗教的基礎は、カトリックだった。ヨーロッパ・カトリック世界の辺境で、ロレーヌはローマ教皇庁の最前線地域として位置づけられ、プロテスタントやさまざまな異教に対峙していた。ロレーヌは、近世初めの神聖国家のひとつとしての道を進んでいた。しかし、「神聖さ」について、上から下へ統一した思想や政策が存在したわけではない。カトリック信仰についても、その布教、伝道は、教会や聖職者たちの手にゆだねられていた。同じカトリックでも,宗派間の反目、対立は激しかった。農民のレベルまで下りれば、さまざまな世俗的信仰なども彼らの生活の中に根付いていた。宗教を軸とする精神世界は上から下まで、かなり混沌としていた。他方、世俗の世界では、君主と裁判官は権力の頂点にあることを自認していた。

魔術学の大家はどう考えていたか 
 ロレーヌの魔女狩りの世界に入り込むには、残されているさまざまな手がかりに頼らねばならない。「惡魔学」(なんとも怖ろしい名前!「妖怪学」や「鬼神学」
もありますが。)は、中世以来重要な位置を占める学問だった。魔術は、決して迷信やいかがわしい信仰のたぐいではなかった。

 当時、ロレーヌの知識人のひとりで、魔女審問に直接携わったニコラ・レミ Nicholas Remy(1534-1600)という人物がいた。1595年にレメギウスという筆名で記した書物『悪魔崇拝論』Demonolatriae*は、いわば魔女と妖術に関する資料集で、魔女裁判の折に審問官の参考書として重用された。

 レミはフランスで教育を受けた法律家であり、その後ロレーヌの階層社会で昇進し、1583年に貴族に任じられ、ロレーヌの上級判事、検事総長にまでなった。敬虔なカトリックであり、時代を代表する悪魔学の権威でもあった。彼の著作は1595年、メッスの司教でロレーヌ公の息子であるシャルル枢機卿にも献呈された。

意図してあいまいに?
 しかし、後世の研究者の目で見ても、レミの著作は大冊だが散漫であり、当時の魔女審問の底流にあったものを知ることはかなり難しいようだ。魔女裁判と宗教を直接に結びつけるような論理も見いだされていない。 レミは、ロレーヌ公と魔女裁判の間の政治的、宗教的目的との関連にも、一言も触れていない。ロレーヌを特別に神聖なものとするような言及もない。魔女狩りと国家の形成や維持の間に、なんらかの関連を思わせるような記述もしていない。しかし、ロレーヌ公シャルル3世は、ナンシーの上級判事にすべての魔女審問判決を審査する権利を与えており、レミもそのひとりだった。シャルル公は、審問の内容などには、なにも関わっていないようだが、こうした仕組みは当時の審問のあり方に、ある程度の方向性をもたせていたのかもしれない。

 レミの著作からは、ロレーヌの魔女狩りにかかわる、とりわけ明確な方向性は見えてこない。全体としてみると、聖職者の無知が農民を悪魔の餌食にするような無知の状態にしているとの一般的記述に留まっている。だが、当時の主要な惡魔学者と同様に、農民が無知だからといって,魔術に寛容的になるのは誤りとする。なぜなら、そこに妖術 sorcery が介在して、他人の道徳を傷つけるからだという。当時、魔術 witchcraft と妖術は明瞭に区分されていた**。

現実には厳しい対応
 レミの用心深い記述の中から浮かび上がってくることは、魔術は、人間が犯す最も非道な行いであり、世俗、教会の別を問わず、それにふさわしい厳しい罰でのぞまねばならないという考えである。レミは魔女審問の過程で、拷問による告白の引き出しを重視していたとみられるが、これは当時の代表的判事たちにも共通の考えだった。レミは1580年代と90年代に、ロレーヌ地方で900人の魔女を焼き殺したと主張している。もっとも、この数値は「適当な」文学的効果を狙った誇張であるとの解釈もある。いずれにせよ、尋常な数ではない。   

 レミの上級判事としての政治的立場が、あいまいな叙述にしたとの推定も可能だが、現実に明確な論理を確立しうるだけの時代環境ではなかったという方が正しいだろう。魔女に象徴される悪魔がなぜ生まれるか、悪魔が行う悪行の実態、魔術と妖術の区分け、惑わされる人間の弱さ、宗教の役割、邪悪な悪魔へいかに対応するか。どれもが謎に包まれていた。その具体的次元での対応は、ほとんどすべてカトリック改革における審問官など、法服エリートの宗教的感覚に依存していた。

 主導的な論理や手がかりがなかったこともあって、判事たちにとって魔女狩りの頻発は好ましいことでもなかった。結果として、審問、判決においては、当時の悪魔学の大家の考えに従うという流れを生み出していた。魔女審問は、彼らにとって、かなりやっかいな出来事だったのだろう。以前に紹介した、エリザベス・ドゥ・ランファングの事例にあったように、24名もの判事のすべてが同じ判断であったというのも、こうした風土によるものだろう。いかに自らの独自な意見を確立し、述べることが難しかったかを想像させる。

 時代のさまざまな束縛から自らを解放し、それでいて多くの人を説得しうる論理を貫くことができるか。それが時代の求めるものと、いかなる関係を保っているか、とりわけ、宗教とのつながりへの判断は、どうか。魔女審問がなくなるまでには、まだかなり長い時間が必要だった。

(続く)

 


* フランス語版の他、英語版もある。
Nicolas Remy. Demonolatry. Edited by Montague Summers. 1595: New York, 1974.

** 魔女狩りや魔女審問に関する文献はきわめて多いが、下記の著作は、これらの錯綜した諸問題を展望するに適した好著のひとつ。
 ジェフリ・スカール、ジョン・カロウ(小泉徹訳)『魔女狩り』岩波書店、2004年。

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