時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

短かった2016年

2016年12月31日 | 午後のティールーム

 


今年は月日の過ぎるのが早かった気がする。世界中で驚くことが続いたからかもしれない。とりわけBREXITとアメリカ大統領選でのトランプ候補の当選には世界中が驚いた。どちらも、世論調査などがありえないとしたことが現実のものとなったから衝撃が大きかった。その陰に隠れた形になったが、気候変動も大きく異常だった。

 この時期、例年話題とすることが多かったカナダ、オンタリオの友人からのクリスマス・カードをまた例に挙げよう。ナイアガラに近いセント・キャサリンスというカナダ側に住むこの友人は、ツツジやサツキを中心に30種近い植物の栽培でその世界では知られた園芸家夫妻だ。

 今年は「もうクリスマスなの」という気分だったという。
12月最初の週のことだった。気温が一挙に17度近くに上昇したそうだ。その前の週も全く雨が降らず、丹精込めて育てている草花、樹木が枯れそうになり、散水に大慌てだったという。

 ところが、クリスマスの10日ほど前から気温は急低下、零度以下となり、雪が降り出し、例年の冬モードになったらしい。それでやっとクリスマス・カードを書く気になったとのこと。カードには同家を訪れた孫たちが作った大きな雪だるまが写っていた。

 この異常気象はこのところ全地球的問題となっている。この友人の奥さんは退職前モントリオールの大病院の看護部長をしていて、看護学部の教授でもあったが、5月にヴィクトリア病院看護学校の55年卒業記念でロンドンへ出かけた。ところがロンドンにいた5月から9月初めは大変暑く、雨もほとんど降らなかったらしい。しかし、BBREXT騒動の中で^、カナダへ戻ってみるとこちらも気温は高く、地域の樹木は立ち枯れ寸前の状態だったが、庭園の方は隣家が好意で散水してくれたので助かったとのこと。

 カナダに限らず、イギリスも暑いのだ。筆者もかつてオックスフォードで短期ステイの家探しをした折り、滞在していた市内のホテルのあまりの暑さに、少し離れた郊外のサマータウンまで逃れた?ことがあった。ここでも暑かったが、市内よりはるかにましであった。確かハリケーン「カトリーナ」がフロリダを襲って大被害を出していた頃だった。この頃、ロンドンでも高級ホテルでないと、冷房は入らなかった。

 さて、友人の丹精こめて栽培した樹木は救われたが、人間の方は暑さに耐え難くなり、10日ほどニューファウンドランドへ逃げ出したとのことだ。セント・ジョンからドライブして、グロス・モーン国立公園 まで行ったとのこと。半世紀前に友人たちとキャンピング・カーを借りて、旅した所でなつかしい。氷山まで見られ、Figgy Duff(ニューファンドランド名物のレーズンの入ったプディング)から有名なロブスターまで堪能して戻ってきたという羨ましい限りの話もつけられていた。

 他方、パリや中国大連からの空気汚染のひどさも今年は話題となった。異常な気象も大気汚染も、この地球に深刻な異変がおきていることを示している。

 その外、いろいろあって、この1年大変早く過ぎてしまった。来年は平穏に過ぎますよう。どうぞ皆様よいお年をお迎えください。

 

 

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美術と文学:ヒエロニムス・ボスとトーマス・モア(2)

2016年12月25日 | 午後のティールーム

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Hans Holbein. Portrait of Thomas More, 1527
The Frick Collection, New York
(Quoted in Belting (2002), 2016)

ハンス・ホルバイン『トーマス・モアの肖像」
クリック拡大 


NHK『日曜美術館』が『クラーナハ展』(国立西洋美術館)を取り上げていたが、日本でのこの画家の知名度は、それほど高くはない。作品について、かなり好き嫌いが分かれる点では、ヒエロニムス・ボスと似たところがある。

  今日のテーマもブログを訪れてくださる方にはあまり興味を呼び起こさないだろう。あくまで筆者の心覚え、メモのようなものである。世の中のブログと言われる形式からも遠く離れている。話の輪郭は確保したつもりだが、基本はメモなので詳しい説明は意図していない。それでも、筆者の記憶力の低下に比例して、文字数は増加してきた(笑)。

文人たちの世界観 
 今回、取り上げた問題は、簡単に言えば、ヒエロニムス・ボス、トーマス・モアをめぐるエラスムス、ピーター・ジャイルス、アンブロシウス・ホルバイン(ハンス・ホルバイン 1497/98-1543の兄)など、16世紀前半のヨーロッパの文人たちのあまり知られていない関係である。

 ボス以外は、トーマス・モアの『ユートピア』に直接関係していることがほぼ明らかになっている。彼らは一体どんな世界観を持っていたのだろうか。画家のヒエロニムス・ボスの作品『地上の楽園』と思想家トーマス・モアの『ユートピア』の間には何か共通する点があるのだろうか。ほぼ同時代人の画家と思想家の描いていた理想の世界がいかなるものであったか、興味深いところがある。さらに言えば、もはやユートピアを描くことのできない現代人にとって、時代のおかれた位置を見定めるひとつの材料になりうるかもしれない。

ボスの『地上の楽園』とクラーナハの作品には、類似した点が見出されるものもある。たとえば、ルカス・クラーナハ(子)(ヴィッテンベルグ 1515ー1586 ヴィッテンベルグ)『ディアナとアクタイオン』1550年頃、油彩 板、トリエステ国立古典絵画館

  トーマス・モア(1478−1535)が、『ユートピア』 Utopiaを書いた1516年頃は、世界は北米新大陸などの発見、植民開拓、交易拡大の黎明期にあり、新たな可能性が大きく開けそうに思われた。大西洋のかなたには、それまでヨーロッパの人々が見たことも、想像したこともないような世界が広がっていた。画家ボスの作品は奇想に溢れ、不思議な動植物が描かれているが、その発想の一部にはアフリカや北米新大陸から様々に伝えられてくる情報が色濃く反映している。他方、宗教改革の動きなど、時代は変革の胎動を見せていた。

モアが意図していたことは
 こうした中で、思想家トマス・モアは文筆の力をもって『ユートピア』という空想の島を描くことを試みた。しかし、モアにとっては、単なる架空の世界を描くことが目的ではなかった。モアはこの「ユートピア」を借りることによって、彼が生きたイギリス commonwealth の政治や社会の制度的批判を密かに意図していた。

 モアが作品を構想した時代背景は極めて難しい状況にあった。ヨーロッパは宗教改革が展開期に入りつつあり、とりわけイギリスはヘンリ8世(在位1509−47)の時代だったが、王妃キャサリンとの離婚問題でローマ教皇クレメンス7世と対立、1534年には首長法の成立をもってカトリックから分離、イギリス国教会の成立にまでになった。

 この難しい時代にモアはギリシャ古典の世界にヒントを得た概念 Utopia(No-place:存在しないの意味)を拡大することで、新大陸の仮想の島を舞台に、ひとつのモデル社会を構想した。

 モアは、素晴らしい社会ではあるが、現実にはまったく存在しない場所という意味で、想像の産物としてではあるが、ひとつの完成した社会のヴィジョンを提示してみせた。ただ、ユートピアといっても、モアの展開した概念は、その後かなり一般化した牧歌的な理想郷(アルカディア)にはほど遠い。様々に管理され、非人間的な側面もあり、奴隷も存在する社会で、時代の制約も感じられる虚構の共和国である。

 モアがこの作品を構想した動機は、当時のイギリス社会のあり方を批判することにあったことはほぼ確かである。ユートピアの概念はその後の時代にきわめて多様化するが、モアの提示した概念は、特別に限定されたものであった。今日と違って16世紀のイギリスで、政治や社会の批判を行うことは、作者の生命に関わる大きな危険をはらんでいた。そのためにモアは作品の構成自体に慎重な配慮をしている。作品は最初、ラテン語で書かれていた。ラテン語は人文学者など知識層の間では、理解されていた。さらに、モアが一人の敬虔なカトリック教徒としての立場を維持しながら、大陸から押し寄せる宗教改革の激浪に抗していたことも反映している。 

 モアの『ユートピア』は、ギリシア的脈絡という独自の設定を行っているが、自分がユートピアの体験をしているわけではない。もともと存在しない仮想の存在である。ボスの作品が聖書的な楽園というフィクションではあるが、かなりの程度現実の享楽的側面を描いているのに対して、モアのユートピアは、あるポルトガル人の新世界の島への旅の報告を聞いてという形で、宗教的色彩を排除し、巧みな構成をとっている。

 当時、モアは国王へンリ8世の命を受けてフランドルに行き、スペイン王との外交的交渉に携わっていた。その間にアントワープなどを訪れ、多くの人々に会っているが、作品『ユートピア』にも登場するピーター・ジャイルスPeter Jails(1486-1533)という実在した優れた人物がいた。ジャイルスはエラスムスの弟子として,人文学者で印刷業にも携わり、アントワープで判事もしていた。エラスムス、モアの支援者でもあり、モアも作品に登場させ、冒頭でその人格を高く評価している。1515年の夏、モアはジャイルス のところへ滞在していた。彼はそこで本書の構想を発展させたと思われる。

 Utopiaのストーリーはベルギー、ルーヴァンのノートルダム寺院のミサの後、モアがジャイルスのはからいで、新大陸から帰ったばかりのかつてはポルトガル人であったラファエル・ヒスロディ(Raphael Hythiodaeus、おしゃべりが得意な人の意)なる人物に出会うところから始まる。彼はアメリゴ・ヴェスプッチの船団に加わり、4回目の航海の折に現地に残ることを決定する。そして、長らく現地に滞在した後、現在のインドから別の船に乗船してヨーロッパへ戻った。モアはピーターの紹介という設定で、この赤銅色に日に焼け、いかにも航海から戻ったばかりと思われるラファエルから新大陸についての話を聞くという構成である(下掲図)。この版画で左側に長い杖を持つのがラファエル、中心がモア、右側がジャイルスである。

Ambrosius Holbein, Woodcut, in the Basel edition of Utopia published by Joh.Froben,1518
アムブロシウス・ホルバイン『ユートピア」木版画。バーゼル版『ユートピア』所収

 この構成は、ギリシャの風刺家ルシアン・サモサータ Lucian Samosata(c120-180AD)の使った常套手段だったといわれる。こうした組み立てで、ハンス・ホルバインの兄 によって上掲のような木版画などが挿入された。Utopiaが刊行されたルーヴァンは、モアの生涯の友人であったエラスムス(Desiderius Erasmus, 1466-1536)がいた地でもあった。エラスムスはここで彼の人生に大きな影響を与えた『新約聖書註解』の写本に出会っている。

 

ピーター・ジャイルスの肖像
Qw
entin Massys, Portrait of Peter Jails, 1517,
Longford Castle, The Collection of the Earl of Radnor 

『ロッテルダムのエラスムスの肖像
Quwentin Massys, Portrait of Erasmus of Rotterdam, 1517,
The Royal Collection of Hampton Court

 

現代に通じるモアの社会批判
 以上のように設定されて始まる『ユートピア』は、モアが想像し、作りだしたものだが、著者がかなり楽しんで描いていると思われる光景が随所にある。たとえば、この島では金は最も価値のないものに使われている。たとえば、溲瓶、奴隷を縛る手かせ、足かせの鎖などである。金は本来、人間が使うことで価値が生まれるのだが、当時のヨーロッパ(そして現代)では、人間が金に使われていると評されてきた。また、弁護士は揉め事を増長するばかりで必要ないとしている(モアは法律家だった)。イギリスで当時展開しつつあった新興地主による農地の囲い込み「エンクロージャー」を「羊が人間を食べている」として批判したこともよく知られている記述である。いずれも痛烈な風刺である。

 ユートピアにおける労働のあり方についても、興味深い点がある。ユートピアでは昼夜を24時間に等分し、労働に当てているのは6時間にすぎない。午前中、3時間の労働、昼食の後2時間の休息を経て3時間の労働で1日は終わることになっている。

 さらに戦争を忌み嫌い、「戦争で得られた名誉ほど不名誉なものはないと考えている」(p.144)。そのほか、モアの批判には、社会における人間の働きとその意義など、現代に通じる多くの興味深い点が含まれている。モアが英国で法律家として最高の地位であった大法官にまでなったこと、その悲劇的な最後などを知ると、多くのことを考えさせられる。

 モアは、この島がどこにあるのかを聞きただすことを思いもしなかったと記している。実際に「ユートピア」はどこにあるかとの質問がかなりあったらしい。さらに、『ユートピア』は刊行後、大きな話題を呼ぶが、モアは作品の情報源であるラファエルのその後の消息は不明であるとしている(元来、実在しない架空の人物である)。

ヒエロニムス・ボスとモアの違い 
 モアとヒエロニムス・ボスの間には直接的な対話や交流の機会があったか、不明である。ボスについての文書の記録は少ない。しかし、ほぼ同時期、ボスはフランドル地方でも活動していた。ヨーロッパの知識人を軸にして次第に形成されつつあった新たな思想的風土が、結果としてボスの地上の楽園(パラダイス)的な考えを生み出す刺激になったといえるかもしれない。ボスの作品には、モアの『ユートピア』同様、奇怪な動植物が多数描かれている。他方、アフリカやアメリカ新大陸などに実在し、ヨーロッパへ持ち込まれた実物も描かれている。

 ボスとモアの間に出会いのような直接的な関係があったか否かは分からない。しかし、お互いにその存在は知っていたことと思われる。モアがヘンリー8世の命でスペインとの外交折衝のための使節としてフランドルに赴いたのは、1515年の夏であった。ボスの作品『快楽の園』については、以前に記したナッソー・ブレダのヘンドリックIII世(画家ヤン・ホッサールト制作)のことを想起せずにはいられない。ヘンドリックIII世は1520-25年の間、ネーデルラントに滞在していた。彼がボスの『快楽の園』を持っていたことは、ほぼ確かであり、この地の画家や人文学者などの活動の支えでもあった。

 かくして、ユートピア世界は単にキリスト教的未来の絵画ばかりでなく、虚構の世界ではあるが、文学によっても描かれるようになった。モアに始まるユートピア思想、そして同時代のヒエロニムスの「快楽の園」は、それぞれ「非科学的」「空想的」と批判されることになるが、両者ともに、当時の社会に蔓延していた欠陥や退廃を鋭く指摘、批判することが秘められていた。

ヒエロニムス・ボスと推定される肖像画(作者不詳)
1550年頃
アラス、市立図書館蔵

 ヒエロニムス・ボスの作品に限ったことではないが、作品を唯眺めるだけでは見えてこない時代の底流が、こうした探索を通して明らかになってくることは、美術、文学の領域にとっても意義深いことと思われる。


References
Hans Belting, Hieronymus Bosch: Garden of Earthly Delights,Munich Prestel
(2002 first hardback) 2016 reprint

トマス・モア『ユートピア』(平井正穂訳、岩波書店、1978年

 

 
 
 
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美術と文学:ヒエロニムス・ボスとトーマス・モア(1)

2016年12月13日 | 午後のティールーム

 

ヒエロニムス・ボス『地上の楽園』(『快楽の園』)
マドリード:プラド美術館
2000年に修復

 

 1588 年、スペインの無敵艦隊アルマダがイギリスに破れて間もない1593年に、ヒエロニムス・ボスの最高傑作といわれる『地上の楽園』(『快楽の園』) Garden of Earthly Delightsは、フィリップII世の美術コレクションに正式に認定されたといわれる。作品は1世紀ほど前の1504−5年くらいに制作されたと推定されている。しかし、正確な制作年次、画家の詳しい経歴は明らかではない。南ネーデルラントのエルトーゲンボスで生まれ、広くヨーロッパで活動したとみられる(これらの点は以前にブログでも記した)。

 彼の作品がいかなる経緯でスペイン王室のものとなったかについても経緯は不明ではあるが、スペインは当時南ネーデルラントへ進駐し、北ネーデルラントと戦っていた。今日、ボスはフレミッシュの画家たち、ピーター・ブリューゲル(父)、ルーベンスなどのカテゴリーに含まれている。

  このような経緯は別にして、ボスはいかなることを思い描き、この作品を制作したのだろうか。画家は当時の状況で、世界観のようなものを思い描いていたのだろうか。もし、そうだとすれば、彼の抱いていた世界観とは、どのような背景から生まれ、形成されたのだろうか。さらに、この世における「地上の楽園」あるいは「ユートピア」なるものは、なにが契機となって絵画作品へと具体化されていったのだろうか。

人類社会の行方
 多くの現代人とっては、来たるべき世界について考えたりする余裕もない日常だろう。ましてや地球上のどこかにボスが描いたような「楽園」や「ユートピア」が存在するなど想像しがたい。それどころか、最近のシリアのアレッポの惨状に見るように、地球上の現実は人類滅亡の危機に近づいていると考える人々も少なくない。近年の世界の激変はこれ
からの時代が容易ならざるものであることを様々に告げている。

 それならば、あのヒエロニムス・ボスは、なぜ到底平和な時代とは言えなかった16世紀ヨーロッパにあって、この祭壇画『地上の楽園』を制作したのだろうか。さらに、そこにかなり奇怪でもあり、官能的ともいえる享楽的な光景が描かれるについては、なにかそれを裏付ける背景があったのだろうか。画家は作品を通して、なにを語ろうとしているのだろうか。

 今日に残るこの3連式祭壇画の左右両翼には天国(エデンの園)と地獄と思われる光景が描かれているが、中心に描かれている光景は、伝統的なキリストや聖母の姿ではなく、人間があらゆる快楽を享受していると思われる、きわめて享楽的で異様な光景だ。この作品が生まれた16世紀に、これを思わせる光景がどこかに存在したとは到底思えない。現世における人間が享楽にふける有様を、想像のかぎりを尽くして描いたのだろうか。

 この作品に限ったことではないが、細部にわたって見るほどに、画家が並々ならぬ蓄積、熟慮と発想の下に制作したことが伝わってくる。総体として、当時の絵画では異端としか思われかねない
奇想と深い知的蓄積に溢れた作品である。このたびの生誕500年記念事業で、現代の科学的分析とこれまでの研究の成果を元に考え直しても、依然として画家の真の意図が解明しきれたとはいいきれない。

暑さを忘れさせた作品
 酷熱の日々が続いた今夏、暑さしのぎに、ボスの生涯と作品について、多少深入りして考えてみた。幸い、今年は画家没後500年にあたり、2016年には大規模な記念事業を含めてきわめて多くの研究書や解説書が出版された。筆者が目にしえたのは、そのうちのわずかなものに過ぎないが、それでも多くのことを考えさせられた。 

Hans Belting, Hieronymus Bosch: Garden of Earthly Delights, cover


「地上の楽園」と「ユートピア」
 人類の未来はどうなるのか。先の見えた筆者としてはどうでもよいことなのだが、それでも興味を惹かれることもある。ボス・ヒエロニムスとその時代的な意味について考えている間に、ある指摘に行き当たった(Belting 上掲書 2002, 2016, 107-122)。

 ボスの作品『
地上の楽園』」と、サー・トマス・モア『ユートピア』に関するきわめて興味深い議論である。とりわけ、ここで話題とするのは、ベルティングが「文学との対話における美術の新しい概念」A new concept of art in dialogue with literature と題した論考である。ただし、ここに記しのは、そのほんの一部にすぎない。

 著者ハンス・ベルティング Hans Beltingは、ボスのこの作品を黙示録的というよりはユートピア的であるという。他方、美術史家のラインデルト・ファルケンブルグ Reindert Falkenburug は、この作品は、画家の神人同形説(擬人観)ともいうべき範疇に入るもので、見る人の想像的対応が必要という。客観的解釈を拒否する考えともいえる。他方、エルウイン・パノフスキ Erwin Panofskyは、白昼夢あるいは悪夢のようなもので解明すべき点がきわめて多く残されているという。いずれにしても、ヒエロニムス・ボスの本作品制作に当たっての心象世界については依然謎が残る。

「ユートピア」の思想と影響
 他方、ユートピアという考えは、プラトンの時代まで遡るが、ボスの時代にヨーロッパでも一定の浸透があったようだ。しかし、影響力という点では、ユートピアという言葉を世界に広めた16世紀の大思想家サー・トーマス・モア Sir Thomas More (1478-1535)が傑出している。1516年に仮想の島「ユートピア」Island of Utopia への旅行記を刊行し、大きな話題となった。偶然この年に、「地上の楽園」 を描いたボス・ヒエロニムスが世を去っている。ボスとモアは、ほとんど同時代人であったのだ。

Thomas More
The Island of Utopia
1518

Woodcut, 17,8 x 11,8 cm
Öffentliche Kunstsammlung, Basel 

 ユートピアという言葉を世界に広めたトーマス・モアの作品「ユートピア」は大きな話題を呼んだが、初版の原文はラテン語で書かれた。画家であるボスは、モアの「ユートピア」を読む機会を得なかった。他方、「ユートピア」が発行された翌年からマルチン・ルターの宗教改革活動も始まっている。15世紀後半から16世紀前半にかけての時期は、ヨーロッパでそれまで見えなかった新たな思想が、深層から芽生え、胎動し始めた時代だったと言えるかもしれない。

 モアのユートピア社会という構想が、ほぼ同時代の画家ボスの『地上の楽園』に描かれている享楽的ともいえる人間の世界の理解といかなる位置関係にあったかということは大変興味深い。文学と美術という観点からベルティングが示唆する点でもある。モアの『ユートピア』は、ボスの世界ほどパラダイス的ではない。さらに、現代人が「理想郷」と考えるような素朴なユートピアでもない。モアの描いた「ユートピア」には非人間的な管理社会の色彩があり、奴隷も存在する階層社会でもある。単純な自由主義的理想郷ではない。この点はモアの辿った悲劇的な人生とも重ねて考えたいが、このブログの次元を超える。

 ボスそしてモアの作品の根底に流れる思想を考えると、絵画と文学という違いはあるが、この時代のヨーロッパの人々、とりわけ知識人の間に漠然と共有されていた世界観の本質的な部分が反映されているように思われる。

 その点をめぐり去来することはかなりあるのだが、到底この小さな覚え書きの範囲を逸脱するし、筆者の能力を超える。ただ折に触れ、夏の夜の夢想(妄想?)の断片を記すことがあるかもしれない。 

 

Thomas More, Utopia, Penguin Classics, cover
イギリス人の多くが手にしたといわれるRobinson 訳
なかったので、Dominic Baker-Smith (Penguin Classics)と
平井正穂訳を参考に読んだが、今読んでもきわめて
興味深い作品である。 

 

References

Hans Belting, Hieronymus Bosch: Garden of Earthly Delights, Munich Prestel (2002 first hardback) 2016 reprinted. 

トマス・モア『ユートピア』(平井正穂訳、岩波書店、1978年





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希望は遠く海の彼方:地中海難民・移民の苦悩

2016年12月03日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

 

復活する移民・難民アフリカ・ルート
今日、地中海を超える移民・難民ルートは大別して3つある。
1)東ルート  エーゲ海を渡り、ギリシャへ
2)中央(イタリア)ルート  リビアからイタリアへ
3)西ルート  チュニジアなどからポルトガル、スペインへ
Travelling in hope, The Economist October 22nd 2016 

 

新たな道を求めて
 昨年来のヨーロッパを目指す難民・移民の大移動で世界に広く知られることになった「バルカン・ルート」は、いまや閉ざされてしまった。あの大脱出 Exodus ともいわれた人の流れはほとんど見られなくなった。それでも、あえて危険を冒しても、このルートを辿る人たちもいるが、多くは別の道を探し求める。その道は、すでに知られている。アフリカのリビヤあるいはチュニジアなどの沿岸から地中海を渡り、イタリアやポルトガルを経由し、ドイツなどヨーロッパを目指すルートだ。これにもいくつかの経路がある。

 これまでこのルートを辿ったのは、ほとんどアフリカ内陸部ソマリアやナイジェリアなどからヨーロッパを目指すアフリカ系移民、難民であった。そこへ、シリア、アフガニスタンなど中東紛争国からの難民・移民が加わった。

 IT時代、ある経路が閉ざされると、人々は新たな情報を求め、必死に他の経路を探し求める。スマートフォンひとつが彼らの命をつなぐ。

   昨年は百万人を越える人々が地中海を渡った。際立って大きな流れは、トルコ経由でギリシャへ渡った85万人近いシリア難民だった。この突然の流入は、ヨーロッパの難民救済システムを崩壊の一歩前まで追い込んだ。

遠い解決への道
 この問題の究極の解決は、紛争の根源である彼らの祖国における内戦の集結以外にはない。それはいつになったら達成できるか、まったく光は見えない。人々は戦火に家を焼かれ、家族を失い、故国を捨てる。

 EUはトルコのエルドガン大統領と協定を結び、ギリシャへ渡ろうとする流れをなんとかトルコで引きとどめようとした。しかし、その後のクーデターの失敗などを経て、エルドガン大統領は一段と専横的になり、この協定が果たして守られるか、見通しは暗くなっている。ギリシャへの渡航成功者は今年8月には2月の55,000人から3,000人に激減したが、最近エルドガン大統領は自国のEU加盟を早めないなら、ヨーロッパへ向けて再び国境を開くと脅迫まがいの発言をしている。

危ういアフリカからの海路  
 アフリカに目を転じると、かつてリビアをカダフィ大佐が支配していた頃は、海上に出た難民を軍艦で送り戻していた。しかし、カダフィが2011年に死去すると、EUとの協定は壊れ、2012年にはヨーロッパ人権裁判所は彼らをリビアへ送り戻すのは人道的な違法とした。

  2013年イタリア政府は、Operation Mare Nostrumという難民救済システムを発足させた。これについて、イギリス政府はこうした救済はかえって移民を志すものを増加させると反対した。実際にはこうした危険な旅を試みる者は増加し、海上での溺死者などが増加した

  2015年には、ソフィア作戦と名付けた対応で人身売買業者の小さなボートに満載状態で、イタリアを目指す人々への対応が動き出した。

 シリア、アフガニスタンなどからの中東難民・移民を別にすれば、多くはアフリカ大陸の奥地からやってくる。その経路には、宿舎、車、ブローカーなどさまざまな密航へつながる手段がそろっている。いうまでもなく、手配をしているのは、ヨーロッパという一筋の希望にすがる難民・移民をビジネスの対象とする悪質なブローカー、トラフィッカーである。彼らは、言葉巧みに密航希望者をその術中に誘い込み、多額の金品を奪い取る。

 これらの拠点のひとつは、上掲地図のほぼ中央に位置するニジェールの Agadez である。サワラ砂漠を超える直前に位置する人口約12万人の砂漠の中の都市である。IOM(国際移住機構)によると、今年の2月から9月の間におよそ27万人がここを通過したと推定されている。人身売買などにかかわる業者は、渡航希望者が多く集まる拠点で活動している。

 本年8月からニジェール政府はこうした業者を犯罪取り締まりの対象としたことで、渡航者の数は表面的には減少している。しかし、危険な砂漠を越え、海も渡る移民・難民は各所でブローカーの手を借りねば、目的を達成することは到底できない。


終わりなき旅路
 密航希望者はブローカーに高額な金を手渡し、彼らの手引きで砂漠を通り、地中海沿岸にたどりつく。いかに海が荒れても、彼らには戻るところがなくない。これからの季節は海が荒れ、密航は危険が増す。しかし、新年になり海が穏やかになれば、再び密航の船が増える。

 人道的観点から、彼らを救出し、収容することは、EU諸国にとっては思いがけない結果につながる。海上での救出体制が充実するほど、難民・移民にとって危険度は減少する。地中海を渡りきることのできない老朽ボートで洋上まで乗り出し、ITなどの手段で近くを航行中の船舶、救援組織に救助を求めることが増えてきた。通報を受けた当事者としては、救助を求める人々を目前にして、彼らを見殺しにすることはできない。直ちに救援に当たり、イタリアなどの収容施設へ向かう。彼らの中で難民の認定を受ける者はきわめて少ない。残りは不法移民の判定となるが、その多くは帰国することなく、イタリアなどの不法就労の世界は紛れ込んでしまう。しかし、この予期せぬ悪循環を断ち切る術は未だ見つかっていない。

Source: 
"Traveling in hope" The Economist October 22nd 2016

 


お知らせ(2016/12/08)

関連資料として『終わりなき旅:アメリカ移民制度改革展望』を政策検討フォーラム (2016年11月17日)に掲載してあります。 筆者の講演資料ですが、最近のアメリカ移民制度改革の主要点を展望しています。近く改めて論説として拡充掲載予定。

 

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