時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

1枚の絵が語る数千の言葉:プルーストと絵画

2018年07月23日 | 書棚の片隅から

 

異常な酷暑が続く毎日、ともすれば気力が低下して、眠くなったりする。そうした折々に見ているものがいくつかある。多少は消夏法になっている。今回はそのひとつをご紹介しよう。

『プルーストにみる絵画』Paintings in Proust なる一冊だ。20世紀を代表する作家マルセル・プルースト(1871~1922)の一大長編『失われた時を求めて』に明示的あるいは暗黙裡に登場するさまざまな絵画を対象とした巧みな構成の一冊である。必ずしも最初から読み始める必要もない。プルーストの作品には200を越える絵画が出て来るといわれるが、プルースト・フリークではないブログ筆者は、掲載されている絵画作品を見てもプルーストのどこに出てきたか、すぐに思い当たるものは多くはない。それだけに改めてあの大著を繰ってみようかという思いも生まれる。日本はフランスに次ぎプルースト愛好者が多いのではないか。何しろこれまで10種類近い翻訳があり、優劣を競っている。ちなみにブログ筆者は鈴木道彦氏訳で読んだ。大変洗練され、読みやすい訳と思った。

さて、本書は、354ページにわたる書籍だが、装丁も瀟洒で素晴らしく、プルースト・フリークでなくとも、手元において、折に触れて手に取りたい魅力的な体裁だ。総数209点の掲載絵画作品のうち199点はカラー印刷であり、本書の魅力を際立たせている。

さらに著者のEric Karpeles エリック・カルペレス自身が画家でもあり、絵画の世界に通暁していることも、本書の価値を引き立てている。類書とは異なる巧みな構成だ。

ブログ筆者にとって有難いことは、本書が英語で書かれていることだ。これまで比較的、未開拓だった英語圏の読者を誘引、魅了することだろう。さらに本書は判明している限りでは、下記の2種類の表紙の版があり、読者の好みで選択できる。

上掲:
絵画作品 

Grand Odalisque, Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1824 (関連記事、Karpeles, p.170)

 

Supper, Leon Bakst, 1901(関連記事、Karples, pp.208-209)
このパリの社交界の女性の頭を飾る帽子の奇抜ともいうべきファッションは、当時大きな話題となったようだ。初めて見た作品で大変興味深かった。

プルーストについての知識が少なかったブログ筆者に大きな救いになったのは、かつて勤務した職場に日本を代表する卓越したプルーストの研究者がおられたことだった。ご著作をいただいたり、啓発され自分で関連文献を求めたりで、作品のいくつかは読み、そのつど目を覚まされた。わずかではあるが、この世界的な作家の作品、人となりについての知識も増えた。しかし、専攻分野も異なり、プルーストにのめり込んだことはない。

プルーストの作品と美術、音楽が切り離せない関係にあることはかねて感じていた。とりわけ吉田一義氏のご労作などを手に取って以来のことである。今回のカルペレス の著作は視角が異なり、プルーストの作品に出てくる絵画作品の一枚ごとに、該当箇所やコメントが記されている。Narrator はマルセルという設定だ。

プルーストの仕事部屋には、ほとんど絵画(複製を含め)の類はなかったといわれるが、名作『失われた時を求めて』の執筆の時には、ほとんど組み込むべき絵画作品の詳細なイメージが作家の頭には入っていた。プルーストは「私の作品は美術だ」とジャン・コクトー宛の書簡に記していたといわれる。

View of Delft, Jan Vermeer, 1619-60
(関連記事: Karpeles pp.216-217) 

身体は虚弱であったプルーストであったが、ヨーロッパの美術作品についての造詣は深かったことがうかがわれる。ルーヴルへはいうまでもなく数多く足を運んだ。ヴェネツィアやオランダの美術館には行ったことがないようだが、作品についてはジョットからシャルダンまで幅広く良く知悉していたようだ。本書を見てその視界の広さに驚かされる。

Charles I, King of England, Anthony van Dyck, c.1633
(関連記事、Karpeles, pp266-267) 

Charles I: King and Collector
22 Jan 2018 by Edited by Desmond Shawe-Taylor and Edited by Per Rumberg

 

プルーストはラスキン Ruskin に深く傾倒していたが、ブログ筆者もかつて、ターナーの作品について多少調べた折、ラスキンの著作を読み、考えさせられることがあった。

本書の著者 エリック・カルペレスは、プルーストはベルリーニ Berlini からホイッスラー Whistler まで100人を越えるヨーロッパの画家を見ていると述べている。さらに、『失われた時を求めて』を 「西欧文学の中で最も充実したヴィジュアルな著作のひとつ」と評している。
 
Portrait of Savonarola, 1498
(関連記事:Karpeles PP.92-93) 

プルーストは身体が虚弱であったこともあり、ニューヨークなどの美術館にまで出かけることはできなかったが、小説に取り上げられた作品は彼の地まで包含している。プルーストの著作をひもとく人々にとって、フィリップ・ミシェル=チリエ[著] 保苅瑞穂[監修] 福沢英彦・中野知律・横山裕人[訳}とともにまたとない手引きとなるだろう。ちなみに、ミッシェル=チリエのこの大部な著作は、これまでの人生で、ブログ筆者が手にしたことのある最も興味深い一冊である。ある作家や画家の生涯、性格、家族、友人、社会的関係などに関して、これほどまでに仔細に調査が行き届いた著作を見たことはない。プルーストに関わる百科事典と言えるだろう。今回のカルペレスの新著は、それをさらに補填する瞠目すべき一冊だと思う。

Roses in a Bowl, Henri Fantin-Latour, 1882
(関連記事:Karpeles pp.118-119) 

 

References: 

Eric Karpeles, PAINTINGS in PROUST, A Visual Companion to the Search of Lost Time, Thames & Hudson, 2017

Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust
À la recherche du temps perdu, Bibliothèque de la Pléiade,1987,4 vols.
テクスト(邦訳)
『失われた時を求めて』鈴木道彦訳 集英社 文庫版13冊本、 2006年~2007年

吉田一義『プルーストと絵画』岩波書店、2008年

フィリップ・ミシェル=チリエ[著] 保苅瑞穂[監修] 福沢英彦・中野知律・横山裕人[訳}『事典 プルースト博物館』筑摩書房、2002年
(本書はプルーストの百科事典の感があるが、この時代の知識階級の自伝、社会史として読んでも極めて興味深い。よくぞこれほどまでに調べ上げたという畏敬の念を抱く。プルースト愛好者ならずとも魅了される。)

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怪獣ビヒモスを追って(6):サミュエル・スレイター再考

2018年07月14日 | 怪獣ヒモスを追って

スレーター・ミル、ポタケット
現存するのはレプリカ 

 

サミュエル・スレイターという人物をご存知だろうか。アメリカの産業革命の歴史において、”製造業の父”と言われる反面、イギリスから当時は禁制の繊維産業技術を密かに持ち出した”産業スパイ”のごとき評価も下されてきた。この点は以前にも取り上げたことがあるが、評価はどちらが真実なのだろうか。一般にはやや過度に単純化された後者のレジェンドが流布されてきた。

近年、研究が進み、より客観的なスレーター像が描かれるようになった。いかなる先端産業でもその技術の核心は重要な企業機密とされ、秘匿されるのが競争力維持の要諦であった。当時のイギリスは繊維産業を中核に世界の最先進国であった。そのこともあって、イギリス内外で新たに企業化を意図する者はなんとか最先端の機械などの設計デザインを手中にすることを目指した。”アメリカ産業革命の創始者”として歴史に名を残すサミュエル・スレイターもその一人だった。

産業革命の先駆者であったイングランドは、戦略的産業である繊維技術の海外流出を懸念し、1843年まで関連情報の流出を厳禁していた。機械設計図などの海外搬出は厳しく取り締まられていた。その中で繊維技術者であったサミュエル・スレイターは、熟練技術者の新大陸への移住が禁じられていた中で、職業を隠して密かにアメリカへ渡航した。イングランドのベルパーで生まれたスレイターは当時、世界で最先端であったストラットJedediah Strutt の工場で、経営者の家族に入り込み、工場では技術習得のための技術者として働きながらアークライトの発明した最先端技術を体得した。さらに、スレイターは簿記、経営管理など、繊維企業の経営に必要な知識と技術を包括して体得した。

 スレーターが企業化の対象とした繊維工場は、伝統的な手工業のそれと比較して大規模だった。核心となる動力は水力で、通常工場の地下に水車として設置された。水車の回転から生まれた動力は、各種ギアの助けを借りて各階の機械へと伝達される仕組みだった。スレーターは全てを彼の頭脳に記憶していたと伝えられるが、機械や建屋の設計など、実際に記憶のみから生み出されたものか、真相は分からない。

19世紀、ストラット  JwswsihStrutt の工場内部 

当時、中心となる繊維機械はリチャード・アークライト Richard Arkwright がパテントを持つ機械だった。梳毛機械 carding machine (綿、亜麻、羊毛などの繊維をほぐし、くしけずって短繊維、夾雑物などを除き、長さの揃った繊維を揃える機械 )、紡糸機 spinning (綿のような短繊維を紡ぎ糸や撚り糸にする機械)だった。こうした機械配置の要諦は、1台ごとの機械精度と、工程のどこかにボトルネックが生じることなく、工場全体の操業が滞りなく進行することだった。

1789年、スレーターはその技術流出禁止の壁をくぐり抜け、誰にも意図を伝えることなく、イングランドを抜け出し、新大陸へ渡った。アメリカに上陸するや、直ちにプロヴィデンスの商人モーゼス・ブラウンに接触し、彼の企業であるアルミー・アンド・ブラウン A&B に雇われた。スイターは繊維機械技術者として、ロードアイランド、ポタケットに水力で動く繊維工場を設置することを期待された。イングランドの企業はレンガか石造りであったが、アルミー・アンド。ブラウンの工場は木造2階建の簡素なものであった。最初は小規模なスタートで、最初の労働者はなんと9人の地域の子供たちであった。1801年には100人を越える子供たちが働くまでになった。

A&Bはその後スレーターが自分の工場を所有することになり、別の経営体となった。スレーターの工場は河川の水量が少なく、さらに労働力の子供たちが地域で調達できなかったので、概して小規模だった。イギリスのように救貧院 the poor house がなかったので子供の供給力には限界があった。そのため工場側は地域の男性は熟練労働者として、子供は機械の見張り役として働かせる策をとった。しかし、人口の少なかった新大陸では工場の大規模化は困難に直面し、経営者は労働力を求めて工場を分散化した。1809年にはロードアイランド、東部コネチカット、マサチューセッツ南部に20社近い工場が操業していた。

アメリカの工場は基本的にイングランドの慣行を取り入れていた。とりわけ、児童労働の広範な使用だった。極端な例としては4歳の子供まで動員されていた。成人労働者、児童を含めて、労働の報酬は現金ではなく、金券のようなもので、企業の経営する店でしか通用しないものだった。これは後年、筆者が調査した1960-70年代の南部の大工場でも、同じであった。

アメリカの木綿繊維産業の歴史を辿ると、別の事業で財を成した商人と並び、小規模な、熟練職人などが経営の母体となった例がかなり多い。スレイターが雇われた起業家ブラウンは、西インド諸島の貿易で財を成し、自分のポータケット工場は機械化した紡機を導入しようと企図していた。スレイターは記憶に頼り、イギリス仕様の機械を設計、1790年12月に最初の紡糸を生産するに成功した。スレーターは大変エネルギッシュに事業を進め、多大な利益を計上し、新たな工場建設に乗り出し、1799年には自分の工場を持つまでになった。1806年までにロードアイランドの田園にはスレーターズヴィル Slatersville の集落が生まれた。

スレーターの工場 Slater Mill は国立歴史的ランドマークに指定され、ポタケットのブラックストーン河の岸辺に残っている。ただし、スレイター存命当時の工場ではなく、そのレプリカである。工場は北米最初の水力による木綿紡機工場でイングランドでリチャード・アークライトが発明した紡機システムを採用している。

 サミエル・スレーター ポートレイト、1830年代
Courtesy Pawtucket Public Library 

 

アメリカの繊維産業はポタケットに根を下ろした。そしてサムエル・スレーターはその中心的人物であった。しかし、単に技術だけでは企業は新大陸に根付かなかった。ポタケットの成功を生んだのはスレーターが体得した企業経営の包括的な経営思想であり、経営の技術や管理手法であった。これは今日残るスレーター関連の様々な資料をみるとよく分かる。スレーターがイギリスで海外持ち出しを禁じていたアークライトの設計図を、記憶、体現し、新大陸で再現したことは、当時の文脈からすれば議論の残る点かもしれない。しかし、機械だけでは企業経営は不可能であり、スレーターはイギリスでの修業の間に広く経営・管理の手法を蓄積しており、新大陸に来ても、絶えず研鑽を怠らなかった起業家として稀有な人物であった。

アメリカの繊維産業は、スレーターによる”ロード・アイランド” 型では終わらなかった。さらに新たなプロトタイプが生まれてくる。

 

続く 

References

Anthony Burton, The rise and fall of king cotton, BBC, 1984 

George Savage White, Memoir of Samuel Slater: The Father of american Manufactur: SCHOLAR'S CHOICE, second edition, Lwnox Library: New York,  1836

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怪獣ビヒモスを追って(5):アメリカのマンチェスター

2018年07月07日 | 怪獣ヒモスを追って

美しい運河に沿ってカーブしたレンガ作りのクラシックな建物。これがなにであるかを知る人は今や大変少ないでしょう。ヒントは、産業遺産、”アメリカのマンチェスター”


大工場システムの盛衰

イングランドに端を発した第一次産業革命において、”大工場システム・ビヒモス”のシンボル的存在は繊維産業だった。毛織物、木綿などの繊維産業はその後、産業革命発祥の地イギリスからヨーロッパ大陸、そしてアメリカ新大陸へと巨大な足跡を残した。ここに掲げたのはアメリカにおける産業革命の中核として発展し、衰亡した、ある大企業の在りし日の姿である。

その名はアモスキーグ製造会社 Amoskeag Manufacturing Company であり、19世紀初め、アメリカ、ニューハンプシャー州マンチェスターに立地し、19世紀を通して拡大し、一時は世界一の木綿繊維工場にまで発展した。しかし、繁栄は長く続かなかった。1996年には、廃業に追い込まれ、壮大で美しい工場タウンも一部の記念碑的建築を除き、取り壊され、博物館やパーキング・エリアなどになってしまった。

エレガントな煉瓦造りの工場も取り壊された

今日、トランプ大統領が関税引き上げなどの保護主義的政策を持って救済しようとしているのは、一部はすでに同様な状況に陥っている鉄鋼、アルミニウム、自動車などの産業である。マンチェスターの盛衰は、これらの産業の復活がいかに厳しいものであるかを物語っている。

過去の栄光
1807年、この地の起業家のひとりサミュエル・ブロジェットは、この地が”アメリカのマンチェスター”となることを構想し、メリマック河から引き込んだ運河の整備などの努力をしていた。1810年には町の名前デリフィールドはマンチェスターに取り替えられた。この年、ブロジェットは3人の兄弟とともにこの地に水力による繊維工場を建設する。

彼らはロード・アイランド州ポタケットに、イングランドから紡織機械を持ちこんだサミュエル・スレイターから中古の機械設備を買ったが、うまく機能しなかった。1811年には新しく綿から糸を紡ぐ機械が導入され操業を続けた。この地域の女性、子供を雇用する小企業、家内工業だった。こうした努力にもかかわらず、マンチェスターの工場は利益が生まれなかった。

ユートピア的工場・都市の実現
1822年ロード・アイランドのオルニー・ロビンソンが企業を買収した。しかし、経営には無能であり、事業は資金の貸し手であるサミュエル・スレーターとラーニッド・ピッチャーの手に移った。1825年には事業の5分の3はドクター・オリバー・ディーンなどに譲渡された。ディーンはこの地に移り、経営の刷新を図った。その結果、1831年にはアモスキーグ製造会社の名の下に本格発足した。その後、経営陣の努力もあって内容は顕著に改善され、工場のみならず、従業員の宿舎、学校など公共的施設も設置され、マンチェスターは、ローウエに比肩する、「ユートピア的工場ー都市計画」のモデルと見なされるまでになった。道路、建物、学校、病院、消防署、運河などを含む見事な都市計画の成果がそこにあった。従業員については手厚く、とりわけ女子の労働・生活についてはローウエルと並び、工場、宿舎の生活まで包括して計画・管理された。これらの設計を委ねられたのはエゼキール・ストローという19歳の技術者だった。1833年にはアンドリュー・ジャクソン大統領が視察に訪れ、その状況に感銘した。

若き技術者ストロー設計の在りし日の女子寮と設計図 

古いイタリアの広場の様に見えるこの場所もいまは取り壊されて存在しない

栄光から落日へ
1807年の創立以来、拡大を続け、その製品は質量ともに並ぶものがなかった。1875年にはこれらの工場は1日当たり143マイルの長さになる布を生産した。しかし、1920年代初めには、繊維産業の立地は賃金も安い南部の原綿産出州へと移転しつつあった。

この頃、マンチェスターの市民もアモスキーグ社を産業上の失敗のシンボルとみなす様になっていた。この巨大企業 は次第に市場の変化に適応できなくなり、1936年には工場のすべての資産が清算の対象となり、およそ80社の地域の企業などが、資産を分割し保有、経営することになった。1861年にはマンチェスター市の住宅局がコンサルタントのAD社に同市の再建、将来計画のプランニングを依頼した。報告書は同社と市の将来について厳しいものだった。大学などの歴史家や都市計画の関係者の間には、なんとかこの古典的な建造物を保全できないかとの願いはあったが、現実は冷酷であり、建物の多くは取り壊され、運河も埋め立てられた。そして同社は1969年に廃業の運命をたどった。ビヒモスは巨大な足跡を残したが、その結末は傷跡深く、破滅的なものだった。

この過程を調査、研究対象としていたボストン在住の若い研究者ランドルフ・ランゲンバッハは、”我々の都市を救う努力の中で、あまりに多くの人々の心を切り裂いてしまった”と記している(p.121)。

 

Tamara K. Hareven & Randolph Langenbach., AMOSKEAG: LIFE AND WORK IN AN AMERICAN-FACTORY-CITY, Pantheon Books, New York, 1978.
本書はアモスキーグ社のかつての従業員を対象に行ったインタビュー調査に基づき、この”壁の中の企業”ともいえるアメリカの工場・都市における労働者の生活と仕事の世界を描写した興味ふかい著作である。

A Doomed Industrial Monument, FORTUNE February 1969

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見る人が試される瞬間

2018年07月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 


日本経済新聞 2018年7月1日、 The STYLE/ART という特集で、「絵画の戒め(上) 故意の一瞬 醒めた誘惑」と題し、次の3点が取り上げられていた。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《ダイヤのエースを持ついかさま師》(ルーヴル美術館蔵)、クエンティン・マサイス《不釣り合いなカップル》(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)、ルーカス・クラーナハ(父)《不釣り合いなカップル》(ウイーン美術史美術館蔵)

このブログでも取り上げたことがあり、ご存知の方も多い作品である。いずれも含意はそれぞれ異なるが、ある社会階層の男性が揶揄、批判、物笑いなどの対象として取り上げられている。

ここではよく知られているラ・トゥールの作品について考えてみよう。カード詐欺師のグループに ’むしりとられる’ 世間知らずの富裕な貴族の若者が描かれている。

この作品は今や大変著名なもので、この画家の代表作のひとつとしてよく知られるまでになった。ラ・トゥールは17世紀、現在フランスの東北部ロレーヌの小さな町のパン屋の息子として生まれたが、天賦の才と努力、隠れた才能を見出した代官などの支援などもあって、ルイ13世付きの画家にまで上り詰めた。当時は大変”有名な画家”であったが、その後忘却され、20世紀初めに再発見されるまでは全く忘れ去られていた。

再発見後、ラ・トゥールは長らくロウソクの焔で映しだされる”夜の画家”としても知られてきたが、この作品の発見で”昼の画家”でもあることが話題となってきた。ブログ筆者は、この画家には”昼、夜の別”はないのだと考えている。この作品は”昼の世界”を描いたとされてきたが、作品の意味するところからすれば、昼でも夜でもない深い闇の世界の次元である。

リアリズムの視点から問題の核心に迫ることを特徴としてきたラ・トゥール作品の解説は別として、ブログ筆者が関心を寄せてきた点の一つは、描かれた人物は画家の純然たる想像の産物か、実在のモデルが存在し、それにある程度依拠しているのかということにある。想像上の結果とすれば、この画家は、リアリズムの画家としても知られており、多くの作品が画家の身辺にいた実在の人物をモデルとしてきた。この作品でひときわ目立つのは、美術評論家のベルト・ロンギが”ダチョウの卵”と形容した卵形の顔で美貌だが、妖しい影のある女性である。当時宮殿社会で見かけられた高級娼婦ではないかとされてきた。改めて見直すと、どの人物も一癖ありげな容姿である。他方、貴族の若者はカード詐欺師の仲間から剥ぎ取られる世の中が見えていない若者として類型化されている。

画家が出入りを許されていたと思われるロレーヌ公国ナンシーの宮殿にはこうしたいかがわしい人物が出入りしていたと推定されている。とりわけ、イタリア帰りの若者は、世界の文化の中心地ローマのファッション、マナーを身につけているということだけで、宮殿世界では’モテモテ’の存在だったようだ。貴族女性の格好なお遊び相手でもあった。

いかさま師に怪しげな目配せで指示をする女性、その召使いなどはいかにもうさんくさい。新聞紙上の印刷では作品の微妙な色合いなどは感じ難いが、実際の作品に接する機会があれば、その微妙さに引き込まれる。この帽子の色は”ラ・トゥールの黄色”と言われる深みがある。画家がその顔料をどこから入手したかを探索するだけでも、脳細胞は活性化する。

描かれているのは、詐欺師たちがこの勝負にかける緊迫した一瞬だ。彼らは若者のテーブルに置かれた金貨をすべて巻き上げることを企んでいるはずだ。次の瞬間、ゲームはどう展開するか。作品を鑑賞する側の能力が試されている。

近年、美術、音楽などを、現代社会のさまざまな病、とりわけ精神面の病や疲労のセラピーの手段として活用する試みがなされている。この作品は癒しの手段としては遠いが、画家が見る人を試している意図を探ることで、衰えた脳細胞もかなり生き返る。みなさんは画面にみなぎる一瞬の緊迫感を感じられますか。

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