時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

​回想のアメリカ :『 綿の帝国』をめぐって

2023年01月29日 | 回想のアメリカ

(質問への回答も兼ねており、美術トピックスからはしばし離れます)。



行きつけの書店で、Sven Veckert, The Empire of Cotton: A Global History, New York: Alfred A. Knopf, 2014の邦訳書に出会った。このブログでも2014年の原著刊行当時、短く記したことがあったが、英文615ページの大部の書籍のため、翻訳書を今頃になって目にするとは思ってもいなかった。ブログ筆者は原著が刊行された2014年に読んだが、読了するまで10日近くを要した。それだけに、今回刊行を決断された出版社と翻訳者の努力に大きな拍手を送りたい。


スヴェン・ベッカート(鬼澤忍・佐藤絵里訳)『綿の帝国:グローバル資本主義はいかに生まれたか』(紀伊国屋書店、2022年)、848ページ。


産業革命を生んだ綿工業
ブログ筆者は、これまでの人生で綿産業や金属産業の研究にかなりの時間を費やしたことがあった。このブログにも何度か、その断片を記録したことがある。さらに最近では綿工業に始まるイギリスの産業革命の源と展開について新たな解釈も生まれ、認識を新たにしてきた。改めて書き出すと多くの知見があり際限がなくなるのだが、その時間は筆者には残されていない。今回は『綿の帝国』に関係する限りで、ほんの一部をメモとして記しておきたい。

筆者が未だ学生の頃、人生のスタートに先ず選んだのは、アメリカでの大学院生活だった。日米経済の比較研究を志した筆者に、指導教授からせっかくアメリカに来たのだから、アメリカに焦点を定めたテーマを選んだ方が良いのではないかとの強いアドヴァイスを受けた。

ニューイングランドから南部へ
結局、資本主義のダイナミックな歴史に関心があった私が選んだテーマは、20世紀初め、アメリカ・ニューイングランド綿工業の南部移転に関わる労働力、資本などの要素移動に関わる実証研究だった。1920年代頃から顕著となった綿繊維業を初め、その他繊維、機械、靴下、アパレル、電気機械、化学など多くの産業がニューイングランドから南部へと地域移転をしていた。原因は両地域に生まれた大きなコスト格差にあった。これらの産業の地域移転(migration)はアメリカの産業史上でも、際立って大きな注目を集めた動きであった。なかでも綿産業の動きは、多大な注目を集め、大きな政治経済的課題となっていた。例えば、地域間の組合組織率の格差を埋めようとAFL-CIO(米国労働総同盟産別会議、1955年)は発展する南部の組織化拡大を図ったが、はかばかしい成果を上げられなかった。

他方、ニューイングランドでは組合組織化の進展と相まって賃金上昇が目覚ましかった。例えば、ロードアイランドでは、労働者の組合組織化の効果を反映し、男性織工の時給は1890年の時給13.5セントから、1920年には59.8セントに上昇した(Veckert Ch,13)。

労働組合側は経営者が労働組合組織化と高賃金を嫌って、企業がニューイングランドから組合がほとんど未組織で賃金率も低い南部へ移転(migrate)しているからだと主張していた。1920年代から縮小が顕著になったニューイングランド綿工業は、南部に位置する企業との競争に対抗できず、事業自体をやめてしまうような事態に追い込まれた。

これについては、別のパターンもあった。南部の企業家は生産能力増設のほとんどを自らの地域で実施し、拡大していた。ニューイングランドの事業者の中にも、自ら南部へ移転したものもあったが、これは市場の変化への防衛的な対応だった。多くの企業は、ニューイングランドの工場を運営しながら、同時に南部にも工場を開設していた。そして、市場の変動を見ながら、北部の工場を閉鎖するという方針をとっていた。

これらの変化の実態を正しく把握することは、現代資本主義の本質を理解するに不可欠だった。事態は刻々変化し、ニューイングランドと南部の双方の状況を掌握する必要があった。両者の関係は、立ち入るほどに複雑であり、立場によっても大きな差異があった。筆者も膨大なマイクロフィルムの史料に悪戦苦闘しながら、実地調査のために何度かニューイングランドのフォールリヴァー、ポータケット、
ローウエルなどの町々と南部諸州の大工場がある「カンパニータウン」をグレイハウンドのバスで行き来した。

J.F.ケネディの政策提言
この調査の過程で少し後になって気づいたことだが、当時35歳で1953年マサチューセッツ州の上院議員に選出されたJ.F.ケネディ議員が、その翌年に The Atlantic誌のカヴァーストーリーに、連邦の政策で加速され、苦難に瀕している同州の製造業の基盤が、南部へ移ってしまったことの解明と対策を寄稿していた。


J.F. Kennedy, "New England and the South "  The Atlantic, January 1954 (cover)

草稿は実際には、ケネディの「分身」と言われた名文筆家のテオドア・ソレンセンが書いたと推定されるが、ケネディ自身も当然自分の意見を加えたものと思われる。論稿が強調したのは、ニューイングランドから南部への産業移転は、正常な競争と自然の有利さ以外の理由で発生したことが極めて多いということにあった。そして、公正な競争の必要と、北部(ニューイングランド)と南部の同盟を強調した。産業衰退という大きな打撃を受けたマサチューセッツ州選出の議員とはいえ、穏当な結論の提示といえるものだった。

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N.B.
ベッカート『綿の帝国』と「戦争資本主義」
他方、ベッカートの大著は、こうした問題を含みながら、木綿という単一の商品を中心に展開する農業、ビジネス、労働の歴史を世界的視野の下で見事に描き出している。単なる綿業の歴史とは異なり、綿(花、繊維、織物)という天然資源を基軸に、資本主義の発展を濃密に分析した作品である。とりわけ、「戦争資本主義」(war capitalism)というあまり聞き慣れない用語は、人類の発展以来の綿に関わる海賊行為、奴隷化、天然資源の窃盗、及び市場の物理的な押収による非西側諸国の暴力的搾取を主とする形の資本主義の展開を意味する。

「戦争資本主義」は産業革命の前提条件でもあった。海外市場を開拓し、奴隷その他の強制労働によって作られた不可欠な原材料を供給していた。それは新しい産業に資金を供給する資本を蓄積した。さらに産業革命につながった公共及び民間の制度が構築された基盤であった。

企業家たちがいかにして世界の重要な製造業を奴隷的労働を新しい機械と賃金労働を結合しながら帝国的な拡大で作り替えたか。新機械が登場する1780年代以前からアジアに発した綿業という古い産業を産業資本主義の下で発展させ、さらに「帝国」へと拡大し、世界を作り替えるまでにに至ったか。

産業資本主義がいかにして綿を原材料として始まった世界を帝国へと拡大し、さらにその帝国が世界にいかなる影響を及ぼしたか、「綿の帝国」は最初から奴隷とプランター、商人や政治家、農民や商人、労働者や工場所有者などの間のグローバルな争いの支柱のごとき存在だった。

これらの諸力が近代資本主義の世界を推進したか、現代の膨大な富と不平等を生み出すにいかなる働きをしてきたか。この膨大で緻密な作品は、読了にかなりの努力を要する上、読者の世界観を揺るがすほどの影響力を持った重厚な内容だ。北から南への展開は「グローバル・サウス」の次元へとつながる。歴史書というよりは、綿を基軸にいかに「戦争資本主義」という著者独自の概念の下に、現代世界が作り出されてきたかを見事に紡ぎ出した大作である。日本への言及も多く、時間をかけて読むに値する。ただし、「戦争資本主義」の概念は筆者にはあまり納得的ではない。
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Beckertの大著は、刊行後バンクロフト賞を始めとする数々の賞の受賞対象となり、ニューヨークタイムズ紙の2015年の最重要書10冊の1冊にも選ばれている。世の中に数多くの空虚な資本主義論が横溢する現在、綿とその製品を軸に資本主義の発展を描こうとした本書から学ぶことは多い。


Reference
桑原靖夫「技術進歩と女子労働力:アメリカ繊維工業の事例分析」佐野陽子編著『女子労働の経済学』(日本労働協会、昭和47年)

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額縁から作品を解き放つ(12):精緻に守られた遠近法

2023年01月21日 | 絵のある部屋

フィリッポ・リッピ
《受胎告知》1450
Filippo Lippi(1406-1469)
The Annunciation,1450
Tempera on oil, 203 x 189cm
Munich Alte Pinakothek



今回取り上げる画家フィリッポ・リッピ Filippo Lippi(1406-1469)と『絵画論』『建築論』などで知られるレオン・バティスタ・アルベルティ Leon Battista Alberthi (1404-1472)とは、15世紀中期、全くの同時代人であった。アルベルティは、ルネサンス期の「万能の天才」(uomo universale) と呼ばれた。

アルベルティは15世紀イタリア美術の理論的構築に多大な功績を残したことはすでに記した。『絵画論』で展開された《遠近法》《消失点(焦点)》の理論化に際して、彼は基本的に絵画は窓のようなもので、そこから人々は描かれた対象を眺めるという考えだった。テンペラ画の場合、制作に際して、しばしば画材上の消失点(焦点)に小さな釘が打たれ、そこから画家に向かって放射線状に糸が張られていたという。消失点は通常、見る人の視線の高さに設定されていた。

今回取り上げるフィリッポ・リッピは ルネサンス中期の 画家であり、 ボッティチェリの師でもあった。フラ・アンジェリコとともに、 15世紀 前半の フィレンツェ派を代表する画家である。 フラ・アンジェリコが敬虔な修道士であったのとは対照的に 修道女と駆け落ちするなど奔放な生活を送ったことで知られるが、後に教皇から還俗を認められた。画家の性格を反映してか、華やかな作風である。

上掲の《受胎告知》も当時の様式を踏襲した作品だが、遠近法における消失点の位置が歴然と分かる作品である。聖書台のクッション上に置かれた書籍台や手紙などにも消失点の理論が反映されていることが分かる。《受胎告知》は、この時代に最も好まれ、描かれたテーマだが、今日に継承されている作品を渉猟してみると、実に様々な工夫が込められていることが分かる。

描かれた人物、家具などはほとんど全て想像の産物ではあるが、いずれも極めて精緻に描かれている。


フィリッポ・リッピ、《受胎告知》1450 部分


イタリアでは次の時代、極端なまでの写実主義と自然主義の作品で、ひとつの時代を画したカラヴァッジョの登場がある。

ミケランジェロのような古典的理想表現こそが絵画のあるべき姿だと認識されていた当時、カラヴァッジョの作風は大きな衝撃をもたらした。当時のイタリアで長期にわたって受け継がれてきたルネサンス様式を否定したところに大きな意義がある。時代は大きな転機に差しかかっていた。

主題が先にあり、それを裏付ける画法としての遠近法は、この時代の社会的環境、それを反映した作品と不可分の関係にあった。

続く

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額縁から作品を解き放つ(11):画家の思索の跡を追って

2023年01月14日 | 絵のある部屋


パオロ・ウッチェロ《森の中の狩》アシュモレアン博物館、オックスフォード


パオロ・ウッチェロの《森の中の狩》は、画家の最晩年の作品と考えられているが、しばしばいわれるような単に遠近法の技法を駆使しただけの作品ではない。そこには細部にわたり、画家の深慮が働いていることが分かる。前回に続き、画家の思考の跡を少し追ってみよう。


全体の構図を見ても、描かれている人物や動物などが、遠近法の消滅点(焦点)に向かって同じ行動をしているわけではない。画面の左側と右側では、描かれている人物や動物の視線、動きの行方も異なっている。右側の人物の視線は画面中心部の上方に向けられている。


上掲作品右側部分

この作品を仔細に検討したWhislterによると、ウッチェロは次のようないくつかの段階を追って、制作しているようだ。

制作に際して、画家の思考の推移の跡を辿ってみると、次のようになっている(以下のアルファベットは画材の板の該当部分を示す。Whistler 2010, pp.13-15)。


A. カンヴァスの小片を、画面中心、左上の画材(ポプラの板)の節(ふし)があった部分に接着する。

B. 石膏と膠を混ぜた下地(gesso)の層が、絵具を塗るために整えられる。

C. 遠近法の準備線と人物などの輪郭が描かれる。
D. 黒い下地の層が人物、動物、草花などのために塗られ、人物、動物などは白いシルエットとして残される。灰色の下地の層が空の下の空間部分に塗られる。遠方の人物などのために水平線が刻まれ、人物や樹木の幹などが描かれる。
E. 主要部分は卵白のテンペラが塗られている。
F. 人物と樹木のために絵の具がさらに塗られる:木々の葉が描かれる。木々の葉の光っている部分、あるいは陰影を表すために絵の具が加えられる。
G. 最終的に人物の顔など細部に筆が加えられる。画面手前の部分には光沢を維持するため緑色の銅の顔料が加えられる。
H. 木々の葉の形は全体に輪郭が不明瞭な集合として描かれ、金色の葉が画面の凹んだ部分付け加えられ、光を反射するように他の部分も同様に描かれる。




作品の部分、下地塗りの段階。Whistler p.14

現代の科学的な分析によると、この作品におけるウッチェロの顔料、絵具の選択は、当時の画家たちが採用していたものと同じだった。ウッチェロは、これ以前の作品《サン・ロマノの戦い》でも同様な選択をしている。

すなわち、黄色、赤、褐色の土性顔料(種々の酸化鉄)、鉛白、そしてウルトラマリン(粉砕したラピス・ラズリ)が空の部分に、その他の部分には安価なアズライトが使われている(高価なウルトラマリンを節約することが考えられている)。鉛・錫の黄色、ヴァーミリオン、赤色レーキ、カーボン・ブラックなども使われた跡がある。さらにマラカイト(孔雀石)を加工した緑色の絵具が木々の葉が集まった部分などの彩色に使われている。木の下の暗闇の部分などは、経年変化で暗褐色化して見える。

画面の多くの部分を占める部分は、一見すると変哲もない闇に覆われた森のように見えるが、ウッチェロは多くの顔料を用いて、濃淡、闇と光の複雑さを表現しようと努力したことが判明している。この時代、この作品のような木々の葉などに金色などを使うことは稀であったようだが、ウッチェロは大胆に使用して月光に光り輝く木々の葉の効果を上げている。

読者はもうお分かりと思うが、前回のQuizの答え(左上方をみる人物の視線の先)は、画面中央上部(ポプラ材)の節のあるところ(A)に小さく描かれた月なのだ。

《森の中の狩》は、月が上天に上った薄暮の下、月光が射しこむ《夜の森の狩》の光景であることが分かる。月光に輝く木々の葉には、大胆に金色が使われ、下方の地面を彩る草むらの緑との間でコントラストを見せている。




作品上部、月光に輝く木々の葉

画面に縦横に描かれた樹木と垣の中で、多くの人間や動物が活発に動き回る狩の興奮とざわめきが聞こえてくるようだ。そうした臨場感が、見事に計算された遠近法の仕組みの中に巧みに盛り込まれている。

人物や猟犬などの動きが、遠近法の消滅点へ向かっての単純化された印象を与えないよう配慮されている。そして、月光を求めて天を仰ぐ人物たちの配置と視線が、単調化しかねない画面に動と静のコントラストをもたらし、緊張感の中に森の静寂の漂う力作となっている。

作品はロジックとファンタジー、構図の明瞭さと装飾的な色づかいの中に描き出された傑作といえる。全体として、ウッチェロはヴァザーリが評したようなひたすら数学的な構図を追求した画家というよりは、「初期ルネサンスの数学的伝統を受け継ぎながらも、後期ゴシック美術の巧みに奇想を凝らした装飾的な伝統との間に生まれた稀有な画家」と考えるウイッスラーの評(Whistler p.30)は的を射たものと思われる。

続く
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額縁から作品を解き放つ(10):《森の中の狩》を探索する

2023年01月11日 | 絵のある部屋

Catherine Whiltler, Paolo Uccello’s THE HUNT IN THE FOREST (ASHMOLEAN, 2010, enlarged ed., 2011), cover


しばらく、遠近法のことから遠ざかっていたが、偶々今回のテーマで、再び記憶が呼び戻された。2005年の夏に、オックスフォードのアシュモレアン博物館でウッチェロの《森の中の狩》を見た時の印象については、ブログ上に当時短いメモを書き残していた。

パオロ・ウッチェロ《森の中の狩》c. 1470, 油彩・板、65cm x 165cm アシュモレアン博物館 オックスフォード

その後、しばらく雑事に取り紛れ、忘れていたが、同博物館が発行しているこの著名な作品についてのモノグラフの拡大版 enlarged edition(上掲)を友人が送ってきてくれていたことに思い当たった。enlarged といってもサイズがほぼ以前の版のほぼ正方形から横長になった程度で記載内容はほとんど同じなのだが、いくつか変更されていることにも気づいた。そこで、前回の記事では触れなかった点を2、3記してみたい。

この作品、前回アシュモレアンで見た時は、ウッチェロがクライアントの家の壁に架ける独立し額装された作品として制作したと、うっかり思い込んでいた。しかし、実際は1470年代頃まで、フィレンツェあるいは中央イタリアの富裕な豪邸 palazzoによく見られたcameraといわれた大きな応接間、居間に置かれた家具の一部になっていたようだ。そのひとつの例は、下に掲げるような家具である。


Biagio di Antonio Tucci and Jacopo del Sellaio, Cassone with Spalliera, Courtald Institute Gallery, London

その部屋にはしばしば大きなベッドも置かれ、さまざまな収納のための家具や、椅子がわりの家具が置かれていた。しばしば大きな丸天井が特徴の部屋で、家族や姻戚関係などの結婚や祝い事などの大事な集まりが開かれる場所でもあった。豪邸の中でも最も重要な部屋だ。

こうした部屋にはスパニエール spallieraと呼ばれる背板のある豪華な飾りがある上掲の箪笥のような収納家具が何対か置かれていた。そして、ちょうど目の高さくらいの位置に、さまざまな絵が描きこまれていた。《森の中の狩》もその一枚であったようだ。1470ー1520年くらいの時期に最も流行したらしい。時期的には、1475年、ウッチェロが亡くなる前、今日知られている絵画としてはおそらく最後の作品と考えられる。

描かれた絵画は多くの場合、家族の祖先の逸話などに関わる正義、勇敢、忍耐、知恵などを暗示するギリシャ・ローマ神話などの一コマ、あるいは風景、山や川、狩、などの一コマが描かれ、偉大な先祖について、子どもたちへの昔語りなどに役立てられていた。

ウッチェロの作品を所蔵するアシュモレアン博物館が誇る同様の作品:



The Flight of the Vestal Virgins, Biagio di Antonio Tucci, Ashmolean Museum, Oxford
ビアッジオ・ディ・アントニオ・トゥッシ《ヴェスタの処女の飛翔》アシュモレアン博物館、オックスフォード

ウッチェロの《森の中の狩》を画家に制作依頼したパトロン(クライアント)が誰であったかについては、多くの探索がなされたが、不明なままになっている。しかし、当時の流行であったリアリズムから離れたその斬新さ、現代人の目で見ても、アニメでも使えるくらいのモダーンさが感じられる。しかも、その構図はきわめて精緻な思考の上に成立している。

ウッチェロは、いかなる思考と模索の上で、この作品の制作に当たったのだろうか。作品自体を規制観念から離れ、眺めているだけでも、この画家がさまざまな思考の蓄積の上に、制作に当たったことに思い当たる。作品が遠近法 perspectiveという当時としては斬新な技法の具体化であることは既に知られている。しかし、作品を見てみると、登場人物、犬や馬などの動物の動きが、左右では対照的といえるほどに異なっていることに気づく。左側では人も動物もほぼ全てが消失点といわれる遠近法の中心点に向かって動いているかに見える。他方、右側半分では人も動物も行動の方向が異なっている。馬に乗っている人物(貴族たち)は、なにか上方に視線が向いており、進行する方向も異なるようだ。

N.B. 
1987年、本作品の保全のために、Hamilton  Kerr Instituteが行った調査の結果、作品に使われた画材、技法などについて、いくつかの興味深い発見があった(Whiltler 2011, p.11-17)。調査はX線などの透視を含めて、綿密に行われた。画材は2枚に分かれたポプラの厚板であり、木材特有の節目は丁寧に下地などで被覆されて平坦な表面になっている。さらに、2枚の板は分離しないように丁寧に接合されている。下地はgessoといわれる石膏を材料として、動物の油を含んだ上塗りが施され、滑らかに絵具が付着するよう配慮されている。乳白色の表面である。

ウッチェロは絵具で描写する前に、この画材の表面に全体の構図を描いたと思われるが、現在は確認できない。しかし、現代の光学的調査などで、画家が画面のどの辺りに人物や動物を配置し、樹木を描くなどの目処として、下地に目印を入れた跡がほぼ確認できるようだ。そして全体の画面を暗くした上で、下図のように人物、動物、樹木などを配置、彩色した痕跡が確認されている。


 Whiltler,2011, pp.11-13




さて、ここでQuizをひとつ。
画面右側の人物、動物などは、森の奥へと走り込んでゆく気配は感じられない。馬上の人物は画面左上の方向を仰ぎ見ているようだ。彼らは一体何を見ているのだろうか。

答は次回で。

続く
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額縁から作品を解き放つ(9):工房を支える理論〜アルベルティ〜

2023年01月06日 | 絵のある部屋


レオン・バティスタ・アルベルティ『絵画論』(1435)英語訳 2004表紙

15世紀、ルネサンス・イタリアでは、絵画の技法にとどまらず、作品制作の理論でも大きな進歩が見られた。その代表が、アーティスト、建築家、数学者、詩人、哲学者でもあったレオン・バティスタ・アルベルティ Leon Battista Alberthi (1404-1472)による絵画に関する遠近法理論で、美術の世界に大きな変革をもたらした。美術論ばかりでなくそのカヴァーする領域から、ルネサンスの「万能人間」universal man と呼ばれていた。

工房での作品制作の技法が中心となっていた環境で、こうした理論的支えがあったことはイタリアの文化的地位を大きく高めたといえる。ルネサンス期フィレンツェでは遠近法を利用した絵画が急速に花開いたが、ブルネレスキなどの試みの後、アルベルティの『絵画論』は透視図法での詳細な形式化と理論化を果たした作品として燦然と今日に残る。

アルベルティは『絵画論(De pictura)』において、西洋絵画を確立したと言っても過言ではない。彼は遠近法の手法を構築し、絵画は遠近法と構成と物語の三つの要素が調和したものであると考え、これによって絵画の空間を秩序づけた。彼は、芸術作品について常に調和を重んじ、それを文法化することに腐心した。そのため、彼の芸術論は非常に優れたテキストであり、優れた工房を支える理論的柱でもあった。

西洋絵画理論の柱に
『絵画論』はイタリア・ルネサンス期の画家に多大な影響を及ぼし、その範囲はロレンツォ・ギベルティ、フラ・アンジェリコ、ドメニコ・ヴェネツィアーノ、さらに後年ではレオナルド・ダ・ヴィンチなどの大画家にも及んだ。西洋絵画理論を確立した作品といわれる。

 Leon Battista Alberti, On Painting, Translated by Cecil Grayson, With and introduction and Notes by Martin Kemp, (1972), 2004, Penguin Press
L.B.アルベルティ『絵画論』(三輪福松訳) 中央公論美術出版、1992年


ブログ筆者は、英語訳で読んだが、小著でありながら、絵画の真髄についてのきわめて濃密なテキストとも言える。解説を含めても100ページ足らずなのだが、かなり難解ではある。

たまたま英語訳の表紙には、パウロ・ウッチェロ(1397-1475)の『森の中の狩』が採用されている。同時代人のアルベルティとはいかなる関係にあったのかも推測するに興味深い。

専門化が進んだ現代社会では、ともすれば人々は強制的に視野を制約され、狭窄した次元で物事を判断することになるが、その結果、世界の真の姿を見通せなくなる。イタリア・ルネサンスの時代にあっては、アルベルティのような天才「万能人間」には、世界がすべて見渡せたのだろう。

続く

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