時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

フェルメールの帽子(2):誰が作ったか

2011年04月30日 | フェルメールの本棚

 大津波がすべてを流し去ったすさまじい光景。人類最後の日もかくなるものかと思ってしまう。この光景が目前にあるかぎり、心は安まることがない。そうした折、音楽や絵画が秘める力は大きい。一枚の絵でも、作品とそれを見る者の間に交流が生まれれば、しばし現実の苦難や悲惨さを忘れさせてくれる。瓦礫の荒野に美しく咲く桜の花に通じるところもある。
 

 震災前のブログに記したティモシー・ブルック『フェルメールの帽子の続きを少し書いてみよう。フェルメールの作品は確かに大変美しいが、ある美術史家の指摘のように内面的な深みに欠ける。厳しい目でみれば、当時の中産市民の日常生活のスナップ写真のごとき印象である。フェルメールの作品が長く忘れられていた原因のひとつかもしれない。画面は図抜けてきれいだが、思考の深層へのつながりを生むというものではない。同時代ならば、私はレンブラントやルーベンス、ラ・トゥールなどにはるかに大きな魅力を感じる。

窓の外の世界へ

  しかし、フェルメールの作品は、美術論とは別の意味でさまざまなことを考えさせる材料を含んでおり、これまでも興味深く接してきた。その一端はブログで記事にもしてきた。ブルックの著作を読んで、フェルメールの小さな画面を抜け出して、17世紀の広い空間世界へ飛び出す楽しさを改めて感じている。

 世の中の大方のブログとは、遠くかけ離れてしまっているこの「変なブログ」の試みを始めた一端は、まさにそこにあった。時間軸や物理的空間といった制約にとらわれることなく、勝手気ままに記憶の断片を拾ってみようと考えたことが発端だった。

 ブルックの著作自体、フェルメールを素材としながらも、著者が認める通り、美術論や美術史的関心はほとんど含まれていない。フェルメールの作品を取り上げながらも、ほとんど画家の作品についての美術的視点、指摘は感じられないのだ。他方、ブルックはフェルメールの作品に描き込まれたさまざまなディテールを糸口に、それらが画家の工房へ持ち込まれた経緯をたぐることを通して、17世紀という今では少し遠くなってしまった時代への新しい視野を開こうとしている。

 
新教時代の男女交際
 
表題の『フェルメールの帽子』にしても、別に帽子でなくてもよかったのだと記されている。ブルック自身がカナダ人であり、カナダの大学で教壇に立っていたこともあって、ビーヴァーの毛皮で作られた帽子を材料に、ストーリーの骨格を組み上げたと述べられている。実際、この作品において若い女性と楽しげに話す若い士官、そして彼のかぶる大きな帽子は、大変目立つ存在だが、作品上の比重としては副次的なものだ。

 フェルメールが描こうとした意図は、楽しげに会話する若い男女が醸し出す空間であり、とりわけこちらを向いてにこやかに笑っている女性の表情だろう。カトリック・スペインの政治的支配下にあった時代のネーデルラントでは、男女がこうした形でデートすることは認められなかった。フェルメールの時代、新教プロテスタントの国となったネーデルラントの新しい風が、この一室に吹き込んでいる。男の方の表情は、細部を拡大してやっと分かる程度にしか描かれていない。そして、大げさなほど存在感のある大きな毛皮の帽子だ。

 帽子ばかりではない。毛皮交易がヨーロッパと新大陸を結んだように、南アメリカからの銀は中国へつながり、そこで買い求められた陶磁器はヨーロッパへと送られた。若い女性が手にしている茶器は、その象徴だ。フェルメールが生涯のほとんどを過ごしたデルフトの名産品デルフト陶器は、東洋磁器を模した青(デルフト・ブルー)一色のものが多い。

 



フェルメール『兵士と話す若い女』ニューヨーク、フリッツ・コレクション、部分



 レンブラント(
1606-1669)やフェルメール(1632-1675)が活動した時代は、ネーデルラントが活気に満ち、世界に窓を開きつつある時であった。フェルメールが意識していたか否かは不明だが、画家の作品は一部を除き、ほとんどは室内で描かれたものだ。デルフトの義母の家の一室にアトリエは置かれていた。

 
 
フェルメールが画家としての生涯を過ごしたデルフトは、オランダ東インド会社VOCの拠点のひとつであり、ヨーロッパとアジア、とりわけ中国を結ぶ航路の重要な一端となっていた。多くの産品がデルフトへ持ち込まれ、そのいくつかはフェルメールの工房にも溢れ、画家の題材となっていたと思われる。
 
 フェルメールとほぼ同時代のオランダの画家
レンブラントは、きわめて多くの珍しい物品を購入、所有していた。その中には、なぜこんなものまで集めたのかと思われる品々も多い。他方、フェルメールは長年比較的小さなデルフトの町に住み、静かに活動していた、いわば隔離された画家とのイメージが強かった。しかし、デルフトはオランダ東インド会社の重要拠点のひとつだった。

 
オランダ東インド会社VOCは、1602年に設立され、16世紀前半には活動を広くアジアに拡大していた。当時の人々にとっては一見見慣れた光景だったかもしれないが、デルフトは世界貿易の世界の大きな舞台装置の一部であり、アジア、中国などの珍しい産物が行き交っていたのだ。その一部は画家の工房へも入ってきた。

帽子は誰が作ったか 
 
フェルメールの作品に描かれた士官のかぶる黒い毛皮の帽子は、想像で描かれたものではない。恐らく確実に画家の工房にあったものだろう。画家自身が所有していたものかもしれない。フェルメールの叔父ディルック・ファン・ミンネDirck van der Minneは、フェルト職人で帽子屋だった。息子一人と二人の孫があり、東インド諸島に住んでいた。フェルメールの帽子は、恐らく彼が作ったものかもしれない。レンブラントの娘も、バタヴィア(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ領時代の名称)へ行った。17世紀は想像以上にグローバルに開かれていた時代だった。


 フェルメールあるいはその周辺の画家の作品には、帽子をかぶった人物が描かれたものがいくつかある。この若い士官らしい男がかぶる大きな帽子は、北米産のビーヴァーの毛皮で作られたものと思われる。専門家以外にはあまり知られていないが、この時代の毛皮交易はきわめて興味深い問題を含んでいる。 管理人がセントローレンス川流域の開発史に関心を抱いてきた、ひとつの要因でもある。近年大きな話題を呼んだピエトロ・リヴォリ『あなたのTシャツはどこから来たか』 Pietro Rivoli. The Travels of a T-shirt in the Global Economy, 2006. が取り上げた主題につながるところもある。ふたつをつなぐ糸はグローバリゼーションである。この毛皮の帽子には、多くの興味深い謎がつきまとっている。17世紀絵画を楽しみながら、すこしずつ、解きほぐしてみたい(続く)。

 

 

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春を届ける

2011年04月22日 | 特別記事

  震災発生後40日近く経過したのに、なんとなく落ち着かない日々を過ごしている。幸い自分は被災は免れたが、何人かの知人、友人、親戚が被災あるいはそれに近い状態となった。福島第一原発の30キロ圏の少し外側に住むいとこの家族などが抱く不安は、痛いほど伝わってくる。目に見えない放射能という存在、そしてシーベルトという、日常ほとんど聞いたことがない数値で生活を規制される日々が、どんなものであるのか。

 お花見などの気分とはほど遠い日を過ごすうちに、桜も盛りを過ぎてしまっていた。春は世の中の騒然さなどお構いなしに、近くに来ていたのだ。町中で、ふと目についた春の色を少しだけお届けしたい。




被災地そして日本の新生を祈りながら

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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揺らいでいるものは

2011年04月16日 | 特別記事

Georges de Latour. The Magdalene with Two Flames, The Metropolitan Museum of Arts, New York, details.




 

 311日、ひとつの天変地異がこの国を変えてしまった。いや、今も変わりつつあるというのが正確だろう。変わりえなかったら、この国に未来はないのだ。皮肉なことに、過去20年余、政治家たちがいくら変えようとしても変わらなかった国が、一日で激変した。しかし、さらにどう変わるのかは誰も分からない。


 変わることがはっきりしていることのひとつは、この国に新たな原発が生まれることはもはやないということだけだ。福島第一原発の「埋葬」だけでも、10年以上、数十年はかかるかもしれないといわれている。放射能による汚染水を「石棺」墳墓の掘り割りに引き込むわけにも行くまい。どうするのだろうか。専門家たちは口を閉ざしている。

 世界で唯一の被ばく国であるこの国が、自ら作った原発のために被災・被ばくし、他の国まで巻き込んでいる実態には、言葉もない。

 どの程度正確な比較か判然としないが、マグニチュード9は、広島に落とされた原爆の3万発に相当するという。被災地の惨状は、それを否定させない。

 

 戦前1923年の関東大震災、第二次大戦での原爆被ばく、敗戦、神戸・淡路大震災など、大天災・人災は、そのつどこの国の姿・あり方を大きく変えてきた。東日本大震災がいかなる変化を生み出すか、今の段階では誰も語れない。

 

 福島第一原発の報道に関わった専門家・解説者といわれる人々の発言も、当初は楽観的な見通しを述べていたが、日ごとに説得力を失い、ただ危機が近づいていることを述べるだけだ。国民として最も聞きたいことは、語られることがない。TVなどの影響力あるメディアに登場する人々は、正しい情報を正確に伝える責任がある。

 

 カール・マルクスが娘イエニーに残したモットー、「すべてを疑え」が思い浮かぶ。疑うことは、真理の発見につながる道だ。今、揺らいでいるのは、足下の地盤や蝋燭の焔に限らない。政府や専門家への信頼もまた大きく揺らいでいる。

 

* “The Fallout” The Economist March 19th, 2010

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幸福が落ちくだりゆくとき

2011年04月01日 | 特別記事


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『灯火のあるマグダラのマリア』ルーブル美術館(部分)




なんと、わたしたちは、悲痛の持続に目を据えて

悲しみが終わらないのではないか、と思い込むのだ。だが、むし

                       ろ、悲痛こそまぎれもなく、

冬を耐えるわたしたちの簇葉(ぞくよう)、濃く意味深い緑の冬蔦(ふゆづた)

ひそやかな心の年の季(とき)のひとつ――いな季にとどまらず――

場所であり、村落、臥床(ふしど)、土地、住処なのだ。

 

さあれ、ああ、悩みの都市の巷(ちまた)のなんと異(い)なることか。

競いあう騒音が生むいつわりの静寂のなかに、

空虚の型で造られた鋳物が傲然とそびえ立つ、

金メッキの喧噪、破裂音の記念碑(モニュメント)が。

おお、天使ならばこの慰安の市(いち)を跡形なく踏みしだいてしまお

                                  うものを、

(中略)

そしてわたしたち、上昇する幸福を

心に思っているわたしたちは、驚愕にも似た

感動をおぼえることだろう、

幸福が落ちくだりゆくとき。  

 

Und wir, die an steigendes Glück
denken, empfänden die Rührung,
die uns beinah bestürzt,
wenn ein Glückliches fällt.

出所;
R。M.リルケ「ドゥイノの悲歌:第十の悲歌」(檜山哲彦訳)『ドイツ名詩選』(生野孝吉・檜山哲彦選)岩波文庫、

19932009年。
原詩、訳詩は一部分のみ引用。日本語訳のふりがなは( )内に記入。傍点は太字代用。
なお、『ドゥイノの悲歌』の全訳については、手塚富雄訳(岩波文庫、1957、2010改版)に詳細な註解と解説が付されている。

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 この国が再び確固として立ち上がれるか、私には分からない。

いずれにせよ、果てしなく長い苦難の道が待っている。

幸い、わたくしはその行く末を見ることはない。

再びこの国に光が射すならば、きっと世界に

誇れる素晴らしい国となっているだろう。

大きな苦しみを堪え忍び、心の痛みを癒しつつ

分け隔てなく人を愛することができる国に。

 

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