時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

レンブラントの本棚:画家はなにを読んでいたか

2020年10月31日 | レンブラントの部屋

Cover illustration: Rembrandt, Artemisia, 1634.
カヴァー:レンブラント、アルテミシア、1634.

新型コロナウイルスへの感染予防のために導入された自粛生活は、必ずしも悪いことばかりではない。多くの人がこれまでの生活を振り返り、コロナ後のあるべき姿について考えている。激動する世界で生きるには時々立ち止まり、これまで来た道を振り返り、足元を見直すことも必要になる。

図書館や書店にも自由には行かれないとなると、身の回りのことに目がゆく。一度読んだ本でも、時間をおいて再読すると新たな発見がある。「断捨離」で涙を呑んでお別れする前にもう一度読み直したい本が次々と出てくる。今回は一冊の本を手がかりに、かねてからの疑問、近世ヨーロッパの画家たちが自らの作品「ジャンル」をどうして決めていたかについて少し考えてみた。この場合、「ジャンル 」genre とは、絵画、詩・小説・戯曲など文芸作品の様式上の種類・種別をいう。

17-18世紀の画家の作品を見ていると、画家たちはなにを手がかりに自らのジャンルを設定していたのだろうかという疑問が生まれる。「静物画」、「風景画」、「肖像画」などについては、対象が比較的設定しやすい。「肖像画」などは顧客の依頼などもあるだろう。

しかし、「歴史画」、「宗教画」といわれるジャンルについては、描かれる対象について、かなりの準備や蓄積が必要に思われる。イメージは画家の脳裏で創り出される。同じ歴史の場面を描いても、画家によって見るものに与える印象は大きく異る。

画家の研鑽の成果
画家は主題についてなにを知っていたか。いかにしてイメージを形成したのだろうかという疑問が生まれる。この疑問は17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品と生涯にのめり込んだ頃から抱いていた。

ラ・トゥールの作品はジャンルでみると「宗教画」が多い。17世紀ロレーヌのように文化環境という点では、決して恵まれていたとはいいがたい地域で、画家は主題をいかにして決定したのだろうか。そしてどのようなイメージで画布上に具体化したのだろう。他方、前回取り上げたシャルダンの場合は、「風俗画」や「静物画」のジャンルに入る作品が多い。画家が住んでいたパリの環境が反映している。

今回は、同じ17世紀、オランダの巨匠レンブラント(1606~1669)が活動していた社会の文化環境、言い換えると画家が受けた教育、自らの知的探究心による知識の習得・蓄積がいかなるものだったかを探索することで、画家の作品イメージ形成の一端を推察してみたい。レンブラントが聖書についての造詣が深かったことは知られているが、世俗的な主題について画家がどれほどの知識を持っていたかはほとんど不明のままであった。しかし、画家が古い歴史書などを探索し、歴史について研鑽を続けていたことが知られていた(Philip Angel, 1641)。

美術史家エイミー・ゴラニー Amy Golahnyは、レンブラントの本棚に残っていたと思われる書籍を材料に、この巨匠の創作活動の秘密に迫ろうとした。

Amy Golahny, Rembrand’s  Reading, The Artist’s Bookshelf of Ancient Poetry and History, Amsterdam University Press, Amsterdam, 2003. pp.283.


レンブラントの本棚
1656年、レンブラントが破産状態になった時には、画家がかなりの数の収集品を所有していたことが知られている。しかし、残っていた書籍は22冊にすぎなかった。そのうちのいくつかは表題も分かっており、旧約聖書、デューラーの比率に関する書籍、トビアス・スティマーが描いたフラヴィス・ジョセフスに関する書籍などがあった。しかし、15冊についてはこれまで内容がはっきりしていなかった。レンブラントの仕事部屋については、詳細は不明だが作品《ヤン・シックスの肖像》などから雰囲気は感じることができる。

フラヴィス・ヨセフスは帝政ローマ期の政治家及び著述家。66年に勃発したユダヤ戦争で当初ユダヤ軍の指揮官として戦ったがローマ軍に投降し、ティトゥスの幕僚としてエルサレム陥落にいたる一部始終を目撃。後にこの顛末を記した『ユダヤ戦記』を著した。



レンブラントの芸術収集品のコーナー(再現)
(Golahny, 2003, p.76)

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N.B.
1656年、レンブラントが破産状態になった時、高等裁判所は法定清算人を指定し、レンブラントに「セシオ・ボノルム」(ケッシオ・ボノールム、財産譲渡または財産委託)を宣告した。セシオ・ボノルムとは、商取引の損失でよく適用される債務者の財産をすべて現金化して全債権の弁済とする方法であり、破産するよりは比較的緩やかな処分である。これを受けてレンブラントの363項目にわたる財産目録が作成された[。

幸い、競売に付された財産リストが残っており、蒐集品の内容を知ることができる。著名な作者の絵画や素描、ローマ皇帝の胸像、日本の武具やアジアの物品、自然史関係の物品や鉱物などがあったことが知られている。競売は1656年9月に始まり、翌年まで続いた。1660年12月、画家は住み慣れた豪華な邸宅から貧民街であるヨルダーン地区ローゼンフラフトに移住した。

アムステルダムはすでに1578年に公的な図書館があった。レンブラントはライデンでラテン語学校へ通っていたし、徒弟修業も経験していた。破産時に財産目録中に残っていた22冊の書籍の中には、ジャック・カロが描いたイエレサレムについての1冊も含まれていた。
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画家の置かれた文化的環境
1656年時点で残された書籍は、レンブラントがほとんどの財産について処分やむなしとして競売に付せられた後のことであり、目録に残る22冊が画家が所有していた書籍のすべてではないことも分かっている。

アムステルダムはすでに1578年に公的な図書館があった。レンブラントはライデンでラテン語学校へ通っていたし、徒弟修業も経験していた。破産時に財産目録中に残っていた22冊の書籍の中には、ジャック・カロが描いたイエレサレムについての1冊も含まれていた。

レンブラントが活動拠点としたオランダでは、画家がオランダ語について習熟していたことはいうまでもないが、おそらく言語の構造が類似しているドイツ語も読めたのではないかと推定されている。しかし、ルーベンス(1577~1640)のようにラテン語まで手中にしていたかというと、疑問が残る。

こうした点を踏まえた上で、エイミー・ゴラニーが興味深い研究を行った。レンブラントに関する研究は数多いが、この研究も限定されたスコープと史料ではあるが、興味深い結果を導いている。

レンブラントは破産後も画家として制作活動を再開しているが、多くの収集品を失った後は、かつての師匠 ピエテル・ラーストマン Pieter Lastman の工房にかなり頼ったのではないかと思われる。ラーストマンの収集品は、当時の画家たちの工房と比較して、かなり優れていたとみなされている。美術書などを含めて、制作活動の助けとなる書籍なども多数所蔵されていたのではないかと推定されている。

創作活動を支えた環境へ注目する
他方、ロレーヌのような戦乱の多い地域で制作活動を行ったジョルジュ・ド・ラ・トゥールのような画家にとっては、レンブラントのような恵まれた環境にはなく、「歴史画」のジャンルはきわめてハードルが高かったものと推定できる。代わって近づきうるジャンルはせいぜい「宗教画」そして「風俗画」のジャンルだったのではないか。

他方、ニコラ・プッサンやクロード・ロランのようにイタリアで制作活動を行えた画家は、文化環境という点でも格段に恵まれた条件を享受しえただろう。プッサンは宗教画、神話画、歴史画、肖像画など多彩なジャンルで活動したが、おそらく高い文化環境に恵まれたイタリア、ローマの地を拠点にしたから可能だったのだろう。

レンブラントの本棚に残された書籍を探索することで、巨匠の作品イメージの形成に迫るというゴラーニーの試みは大変斬新であり、疲れた脳細胞をかなり活性化させてくれた。巨匠は文字から得たイメージをいかにして絵画という次元へ昇華させたか。レンブラントが好きな方にはお勧めの一冊である。

Reference
Amy Golahny, Rembrand’s  Reading, The Artist’s Bookshelf of Ancient Poetry and History, Amsterdam University Press, Amsterdam, 2003. pp.283.

目次の紹介は省略。
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『新世界へようこそ』〜グラフィック・ノヴェルの試み〜

2020年10月26日 | 移民の情景
人の地域的移動、流れは文明の拡大を主導してきた。しかし、このたびの新型コロナウイルスの世界的蔓延のように、感染症の拡大という恐怖を伴うこともある。新型コロナウイルスの自国への侵入、拡大を防ぐために、国境を閉鎖するなどロックダウンの動きが拡大している。移民・難民などの流れを定める条件は大きく変わってしまった。コロナ禍が終息したとしても、従来のような考えに基づく日々は戻らないだろう。外国人(移民、難民)の受け入れも、単なる数の次元にとどまらない、新たな構想が必要になっている。


表紙:『新世界へようこそ』

折しも世界の大国アメリカでは、まもなく大統領選が実施される。共和党のトランプ大統領が再選されると、アメリカの国境の壁は更に高まり、閉鎖的になると懸念されている。

偶然ではあるが、ある一冊の新刊書を読む機会があった。2018年、ピュリッツァー賞を授与されたエピック・ストーリーを基に、生まれたジャーナリズム分野のグラフィック・ノヴェルである。ストーリーはちょうど4年前に当たる2016年11月8日、ニューヨークJFK空港に到着し、入国申請をしたシリア難民をめぐる話である。

問題理解への新たな手法
この作品のユニークなことのひとつは、グラフィック・ノヴェルという新しい物語手法が採用されていることにある。若い世代の間にコミックが広く普及していることを背景に考えられたものと思われる。グラフィックな手法というと、レヴェルが低いと思われるかもしれないが、最近ではかなり高度な内容の専門書までにグラフィックな手法が使われている。このブログでも
移民問題などで、いくつかを紹介したことがある。

ヨルダンでの日々

主人公は2人のシリア人兄弟とその家族、合計7人である。彼らはシリア難民として母国を脱出し、ヨルダンに住んでいるが、新大陸アメリカ、ニューヘイブン(イエール大学の所在地でもある)へと移民を試みる。特に中心的役割を担っているのはナジというティーンエージャーである。彼はアメリカの理想への期待が強いが、難民という状態が生み出す恐怖、とりわけ死への恐怖も強く抱いている。


アメリカへの移動機内

トランプの選挙活動中の発言から入国禁止がいつ発動されるかに戸惑い、移住を見合わせる人、移住の決意をする人など、難民の心は揺れ動く。トランプ政権になると、イスラム教徒への風当たりは厳しくなり、結果としてヨルダンに難民として滞在している祖母や兄弟、従兄弟たちとのつながりも絶たれると考えられていた。彼らがヨルダンを離れる時も、同じ難民たちを刺激しないよう密かに旅立つなど、複雑な心境なのだ。

適応のプロセス
そして、大きな問題なく入国を許されても、その後の新しい文化と環境への順応には多くの試行錯誤が必要になる。移民や難民は入国を認められたからといって、それがその後の安定した生活を保証するわけではまったくない。彼らの苦難は入国した段階から始まるといってもよい。長年にわたり、ブログ筆者はその点を強調してきた。単に受け入れる外国人(移民・難民)の数をを増やすあるいは減らすといった次元の問題ではない。移住してくる人々、受け入れる側の人びと、そして地域とのさまざまな対応の長いプロセスなのだ。アメリカは多民族国家であり、現在でも問題は山積しているが、同時に多くの経験を積み重ねてきている。


多民族国家のイメージ

多民族の共生
それまでほとんど知ることのなかった土地で、家庭というようなものがつくれるのだろうか。英語の習得、仕事を得るための訓練プログラム、ヒジャブを被っての高校入学など、不安は渦巻く。仮の家となった場所の近くを車が静かに通ると、連行されるのではないかとの恐怖に駆られる。現実に接するアメリカは時に親切であり、無知であり、寛容であるかと思えば残酷で、元気づけるかと思えば、胸が張り裂けるような思いをさせる。





入学の挨拶

このストーリーの特色は新大陸へ移り住むシリア人家族の挑戦と成功を描くばかりでなく、彼らが住むことになる町や地域のスピリットを良くも悪くも描いていることにある。トランプ政権下のアメリカにシリアから難民として移り住むという、これまであまり描かれたことのなかった家族の物語である。

こうしたグラフィック・ストーリーに慣れないと、違和感があるかもしれない。グラフィックだと、文字数はきわめて少なくなる。しかし、読み慣れると、単調な文字の列を読んでいるのと異なり、様々な感情移入もできるようになる。

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折しも、10月24日NHKスペシャル*2がシリア難民の苦難を伝えていた。映像だけに本書よりはるかに厳しく鮮烈に迫ってくる。併せて見ると、問題への理解は格段に深まるだろう。


 Welcome to the New World by Jake Halpern & Michael Sloan, Metropolitan Books, New York, N.Y., 2020


*2 NHKスペシャル「世界は私たちを忘れた~追いつめられるシリア難民~」
2020年10月24日(土) 午後9:00~午後9:50(50分)
レバノンに逃れた120万から150万人のシリア難民がコロナ禍で窮地に追い込まれている。臓器売買、売春、家庭内暴力…最も弱い存在の女性と子供たちに密着、世界から忘れられたと訴える難民たちの姿を伝えている。

追記:
2020年10月29日、NHKは現地からの報告として、シリアにおける新型コロナウイルスが蔓延し、悲劇的な状況にあることを報じている。BBCは、シリア避難民キャンプでは、ウイルスが拡大し、制御不能な段階に入っていることを伝えている。戦争、極度な貧困、食料不足、不衛生な環境、医療設備などの決定的不足など、解決がほとんど期待できないといわれる。

2020年10月30日 NHK@nycのコーナーで、2006年にニューヨークへ到着した難民、移民の苦難が報じられていた。世界で行き場がない人々へ、支援の手を伸ばすヴォランタリーなグループの存在と活動に安堵の思いがした。


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失った時間を取り戻す:コロナ禍のもたらしたもの

2020年10月22日 | 絵のある部屋

これまで折に触れて取り上げてきたジャン・シメオン・シャルダンの作品は、筆者にとってはラ・トゥールほどの強い吸引力は持ってはいない。ラ・トゥールの作品に深く入り込むうちに、いつの間にか次の世代に入るこの画家の世界にも惹かれていった。

シャルダンの作品は、とりわけ風俗画と言われるジャンルの絵画に漂う穏やかだが、どこかに感じられる規律や厳格さに救われるものを感じていた。風俗画といわれるジャンルにともすれば感じられる放埒さ、弛緩、退廃のような雰囲気が漂っていない。なにか凛とした印象を与える画風である。

《洗濯女》との対画として描かれたとみられる本作《水を汲む女》は、当時の炊事場における日々の家事のひと駒である。中心に描かれているのは、薄暗い場所で、白いボンネットをかぶった女性が大きな銅製の給水器から瓶に水を入れるために腰をかがめている姿である。当時のパリでは、近隣の共同井戸などからこの給水器に運ばれた水がこのような形で家事に使われていた。



《給水器から水を汲む女》1733-39年頃39.7 x 31.8cm, 油彩・キャンバス、トレド美術館(アメリカ)


前回に記した女性のボンネットとブラウスの白さが際立っている。顔は、ボンネットによって隠されていて見えない。壁にはいずれ調理の材料となる肉が吊り下げられている。水を使っているので室温が低いのだろう。やや奥には、 別の召使と子供が戸口の側に描かれている。女性の足元は石畳のようであり、仕事の場所としても恵まれているとはいえない。冬などはかなり冷えて厳しかっただろう。

他方、描かれている対象の違いはあっても、差し込んでいる光の取り扱いなどを見ると、17世紀の北方絵画から多大な影響を受けていることは明らかに分かる。

光が十分には差し込まない炊事場の一角は、シャルダンが住んでいたパリの住居だったのだろう。フェルメールのような明るい光が差し込む上質な部屋を描いたものではない。しかし、そこに差し込む光の効果、それが生み出す明暗は見事に描かれている。

シャルダンの作品、とりわけ風俗画と言われるジャンルの絵画に漂う穏やかだが、どこかに感じられる規律や厳格さに救われるものを感じていた。

しかし、フェルメールに感じられるようなある種の張りつめた硬さのようなものは感じられない。シャルダンのよく知られた《食前の祈り》も18世紀前半のフランスの家庭での日常的光景を描いたものだが、見る人に穏やかな安らぎと家庭におけるしつけの原点のようなものを感じさせる。かつてはヨーロッパの多くの家庭で、grace といわれる食前・食後の祈りが行われていた。筆者も友人の家などで何度か経験したことがあった。



食前の祈り Saying Grace,Woman drawing water at the cistern ,
1740年頃49.5×39.5cm, 油彩・キャンバス, ルーヴル美術館(パリ)


「忘却」の裏側に残っていた記憶
このブログ、17世紀の絵画との出会いとその後をたどるメモのようなことから書き始めてからいつの間にか10数年、5700日を越えた。その間、今日まで取り上げてきたトピックスも多様化し、サイトを訪れてくれた出版社の編集者からは、テーマを整理するとかなりの数のエッセイや本が出来ますねといわれるまでにはなった。

しかし、ブログなるものを始めて以来、本にしようとの意図はほとんどなかった。むしろ、本には書き難いような行間の話や、人生の色々な段階で体験したり、考えたことの断片をアドホックな形でひとまずメモにしてみようとの思いの方が上回っていた。「忘却」という言葉の裏側に消されることなく残っていた切れ端を引き出すことで、記憶細胞から消却されてしまったと思った時間のある部分を復活させるような楽しみが増えてきた。この試みは想像した以上に楽しいものとなった。

記憶の糸を繰る
手始めに記し始めた17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールにしても、書き留めておきたいことは、いまだかなりあるのだが、筆者の人生の時間も限られてきたこともあり、最近ではメモしておきたい他のトピックスも増えてきた。それだけに最近ブログを訪れてくださる方は、どういう意図や脈絡でこれらの記事が書かれているか、とらえがたく当惑されている方も多いだろう。

筆者の記憶においては、こうした一見脈絡がつけがたいような記事の集積は、これまでの人生において形成された人生観や世界像の部品や潤滑油のようなものになっている。書き記すことで、糸を繰るように埋もれていた記憶が掘り起こされる。

ブログを支える柱の一本となっているジョルジュ・ド・ラ・トゥールを取り上げた時、最初は多くの知人・友人からほとんど知らない、作品も見たこともないという感想を聞いた。配偶者がフランス人である友人から、どうしてそんなことを知っているのと言われ、逆に当惑したこともあった。西洋文化の輸入で始まった日本では受け入れに伴うバイアス、研究者の偏在などもあって、同じ17世紀ヨーロッパ美術でも、たとえばフェルメールなどに過大な評価、そして関心が偏重していると筆者などは感じていた。同様なことを友人のオランダ人の美術研究者から指摘されたこともあった。文化の受容の仕方に時々違和感を覚えることもあった。しかし、ラ・トゥールについてみると、2005年には国立西洋美術館で特別展が開催されたこともあり、日本におけるこの画家の認知度はかなり上がった。

ちなみに筆者はこれまで美術史を専攻したわけではない。なんとか専門といえるのは「経済学」という美術とは遠く離れ、きわめて縁遠い領域で多くの時間を過ごしてきた。その傍ら国内外で仕事をする途上で、専門領域での研究の傍ら、美術史の講座を受講したり、友人の美術家や文学研究者などから話を聞いて、いつの間にか頭脳の片隅に考えたことがかなり集積していた。一時期職場を共にしたフランスやドイツ文学の碩学のお話に瞠目したこともあった。とりわけ、それぞれの時代に、さまざまな場で「働く人たち」や「仕事の光景」を描いた画家の作品には、格別関心を掻き立てられてきた。

コロナ禍に世界が大きく揺れ動く時にあって、これまでのせわしない人生で奪われてしまっていた時間のある部分を取り戻すことができるのは、生きていることの喜びを感じさせてくれる。この世界的な感染症という災厄がもたらした思いがけない時間の恵みをもう少し楽しんでみたい。



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一枚の絵に世界を見る:シャルダンの《洗濯女》The Laundress ~2~

2020年10月13日 | 絵のある部屋



時代を知る貴重な作品
シャルダンの作品は静物画を含めて、風俗画、装飾画などのジャンルに分かれるが、風俗画には18世紀当時のフランス、多くはパリ、セーヌ左岸における日常生活にみられる仕事の情景を穏やかな雰囲気をもって描いた作品があり、歴史の各段階における「仕事(労働)の記録」に格別の関心を抱いてきた筆者にとっては、無視できない得難い画家のひとりである。写真のような媒体が未だなかった時代にあって、通常はほとんど描かれることのない時代の仕事のありさまを推測するに、絵画は大変貴重な情景を今日に伝えてくれる。

この作品に限ったことではないが、シャルダンの作品はきわめて細部にいたるまで手を抜く?ことなく、描きこまれている。女性が仕事の道具としている樽は、その板材、タガにいたるまで、細密に描かれている。この作品では視認しがたいが、画家の署名は洗い桶が置かれた台に記されている(エルミタージュ美術館所蔵の同一テーマの作品は画面左上)。

シャルダンの両親、そして最初の妻の両親も共に豊かではなく、加えて銀行のスキャンダルに巻き込まれ、財産を失ったと伝えられる。そのため画家は両親のためにもかなり努力をして働かねばならなかった。フォンテーヌブロー宮殿の修復作業などに参加するとともに、1730年頃から静物画の制作に傾斜している。

1733年頃から風俗画の制作が増え始めた。その大半は食卓の情景やカード遊びに興じる子供などを描いてきた。こうした努力が実って1752年以降、国王の年金を給付されている。1757年にはルーヴル宮殿にはアトリエ兼住居を授かっている。歴史画を描くことがかなわなかった風俗画家としては異例の名誉であった。穏やかな雰囲気が画面から漂ってくるシャルダンの作品には、国内外の王侯貴族に人気があった。要望に応えるため、シャルダンはしばしば同一テーマで複数の作品を残している。

白が持つ重み
これらの点を念頭において、改めてこの作品を見直すと、色彩的にも重要な意味を持つのは、白色であることに気づく。白は「清潔さ」と「折り目(秩序)」を表し、薄暗い洗濯場で支配的な重みを持っている。洗濯女として描かれた若い女性のボンネット、エプロンは薄暗い洗濯場の中で、改めて見る人の目を惹きつける。この時代、汚れのない白という色が意味した内容は、今日の想像を超えて深いものがある。単に「清潔」という次元を超えて社会的階層、富を象徴し、貴族とブルジョアの色でもあった。当時の人びとは着ている衣類とその清潔さで、いかなる階層に属するかを瞬時に判断しえた。



今日と異なって、生活の使用に耐える水は住居に近い所にある井戸か、パリの場合、セーヌ川へ行くしかなかった。水を運搬するのもメイドの仕事であった。セーヌの水はすでに黄灰色に汚れていた。当時のフランスでは、「大掃除」grand wash といわれる年2回くらい家の清掃をする慣行があったが、パリのような大都市ではほとんど行われなくなっていた。

一般の家庭には十分な物干し場もなかった。18世紀前半にはパリではセーヌ河畔に洗濯女といわれる人たちが2000人近く働いていた。洗濯は特別な仕事であった。そこへ仕事を頼む家庭もあったが、洗濯物の盗難、逸失、損傷なども多く、不満は絶えなかった。仕上がりも決して満足の得られるものではなく、礼儀や清潔を重んじる人々には耐え難いものだった。

富裕な人々、社会階層で輝くような白い衣服が必要な人々は、なんとオランダへ洗濯を依頼した人たちもいた。とりわけハーレム Haarlemは、仕上がりの白さの点でも抜きん出た水準を達成できる技術を誇り、国内外でよく知られていた。洗濯の技術と使用する水の清らかさだけが必要な条件ではなかった。輝く日光の下での漂白などの技術がそれを支えていた。さらに水準の高い仕上がりを求める場合は、奴隷が存在したグアデループやマルチニークなどの島々まで送られた。

変化した洗濯の光景
その後、洗濯の世界は大きく変化した。固形石鹸の普及がひとつの転機をもたらした。それ以前は自宅の暖炉か灰を売る業者から木灰を入手していた。石鹸は木灰よりも手にやさしく、すすぎの回数も少なくてすんだ。中でも最古のものはSavon de Marseilleで、今日でも使用されている。



18世紀に入ると、洗濯の仕方も変化した。家庭でも時々の大洗濯をするよりも、シャルダンの絵のように、週単位、隔週ごとに小規模な洗濯をするという風習が一般化していった。この作品では中心に位置する女性が、洗濯の手順や作業を仕切り、後方で後ろ向きに描かれた若い女性に衣類の干し方などを指示していたのだろう。総じて、これらの女性の労働条件はきわめて厳しいものであり、劣悪な労働に甘んじ、僅かな賃金を得て、汚く不健康な生活環境で過ごしていた。しかし、彼女たちの労働なしには、この時代の都市の生活は機能しなかった。


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N.B.
シャルダンは薄暗い、汚れた環境で働いていた女性たちの姿を穏やかな雰囲気の内に描いている。作品画面の右側で洗濯物を干している若い女性は後ろ向きに描かれている。画家にとって作品の主人公ではない、脇役の人物を後ろ向きあるいは遠くに描く技法は、《市場から帰って》など、シャルダンの他の作品にも使われている。
この技法は19世紀末デンマークの画家ヴィルヘルム・ハマスホイが、画面に唯一人登場する女性をすべて背後から描いていることを想起させ興味深いものがある。

最近、美術館などの日本語表記が変わったようだ(ハンマースホイ→ハマスホイ)。
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水についての意識
一般市民の水についての考え方も興味深い。当時のフランスでは医師の考えでも人間の皮膚は多孔であり、ウイルス、細菌などを通過させるという考えが強かった。そのため、日常生活では顔と手だけを水できれいに洗えばそれでよいという。見える所だけを洗い、汗を布で吸い取り、発汗を防ぐという考えだ。友人でパスツール研究所にいたことがある日本人医師は、今でも根底にはこうした意識があるようだと話してくれた。

18世紀になとると、フランスでも個人的な衛生観念を深めるという考えが芽生えた。水で対処するだけでなく、下着自体を取り替える。きれいな衣服は汗を減らし、発汗や匂いを減らすことで皮膚を清潔に保つという考えを受け入れるようになっていた。ベッドやテーブル用の布がどれだけ積んであるかが、主婦の誇りであったともいわれる。労働者階級でも下着の重要性が認識されてきたが、それでも年間を通して、保有枚数が2枚程度だったとの記述に出会う。しかし、18 世紀に入るととこうした状況は絶えることなく着実に改善されていった。

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N.B.
興味深いイギリス人とフランス人との違い?
ここでこの時代におけるイギリス人とフランス人についての興味深い観察がある。フランスへのイギリス人旅行者は、フランス人は概して、きわめてきれいな衣服を身に着けていることに驚かされたが、他方あまりきれいとはいえないアパートメントに住んでいるとの記述が見いだされる。他方、イギリス人は衣服は汚れていて、およそきれいとはいえないが、家やアパートは概して掃除が行き届き、バスタブが設置されていた。この点、フランスは概して他のヨーロッパ大陸の諸国とほぼおなじのようだ。

最近では長い袋に入れてくれることが多いバケットだが、しばらく前まではそのまま買い物袋に突っ込んだり、手が触れる所だけを紙で包んで持ち歩く人々の姿をよく見かけた。日本人からすれば、ほとんどの人が驚く光景だが、フランスよりも高温多湿な国に生まれ育ったわれわれの生活感覚とは異なるのかもしれない。
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変化した衣服事情
1759年頃のある資料では、未婚の男子貴族はシャツ5枚、カフ(袖口カバー)、ハンカチーフ3枚、ソックス、ストッキングス2枚を毎週洗濯屋へ出していた。シャツはほとんど毎日変えていたが、スボン下は見えないからとの理由で月1回だったとの滑稽な話も伝わっていた。結婚後は変わり、毎日代えていた。

17世紀半ば、ジャン・ジャック・ルソーはシャルダンと同じ職人の息子として育ったが、未だ哲学者としての名声もなく、外交官の秘書として働いていた。その頃、42枚のシャツを盗まれたとして話題となったことがあった。外交官という職業柄、清潔な衣類を身につけることが要求された結果だろう。

ここで注目されるのは女性が頭を覆っているボンネットといわれる帽子のような被り物である。主として白色系の柔らかな素材で出来ており、刺繍がほどこされたものが多い。形状もさまざまで当時の女性ならば、少なくも10枚以上は持っていたようだ。髪の汚れや乱れを隠し、容貌を美しくみせる効果も期待できた。素材はモスリン(フランス語: mousseline、英語: muslin)といわれる木綿や羊毛などの梳毛糸を平織りにした薄地の織物が普通だった。 

全体に18世紀に入ると、家庭の保有する衣類の数は着実に増加している。

薄暗い仕事場で遊ぶ子供
シャルダンの作品では、床に座った子供がシャボン玉を吹いて遊んでいるが、これも新しいタイプの遊びであり、子供といっても誰もが同じように遊べたわけではなかった。母親の仕事場の傍らで遊ぶ子供にとって、シャボン玉遊びは他の子供たちは容易に手にすることのない遊びに、周囲のことなどにおかまいなく夢中だったのかもしれない。実際石鹸はシャルダンの時代でも高価だった。シャボン玉で遊んでいる子も夢中になる理由があったのだろう。



しかし、子供はつぎの当たったジャケットを着て、ぼろぼろなズボンを履いている。ジャケットは立てばおそらく膝まである大人のものだ。そうした衣服も貧困による単なる節約のためではなく、しばしば父親が着ていた衣類を捨てることなくとっておいた「お下がり」であることが多かった。

残念なことに、シャルダンは1751年で風俗画のジャンルをやめ、静物画に専念するようになった。この画家は作品数が少なく、今日に継承されているのは油彩画200点程度であり、60年を越える画業生活を考えると、年間3-4点に相当する。歴史画と異なり、作品は小品が多く、描かれた対象も少なかった。画家は自分が満足するまで目前の作品に多くの時間をかけていたと思われる。

シャルダンの静物画は富裕な収集家、貴族、王などが購入することが多く、一般のファンは銅版画を買い求めた。実際、シャルダンの作品には熱心な愛好者がいたことが知られている。画面に描かれた対象は、《赤エイ》、《死んだうさぎ》、《いちご》など、限られているのだが、画家が注いた熱意に惹かれたのだろう。

この作品《洗濯女》The Laundressは、当初Chevalier de la Roqueが所蔵していたが、所蔵者の死後、1745年に売却され、スエーデン王の跡継ぎのアドルフ・フリードリッヒの妻ルイズ・ウルリケ Louise Ulrike が入手した。彼女はフレデリック大王の妹にあたりワトー Watteau を好んだ王と同様にフランス、ロココの油彩画を好んだ。彼女はシャルダンの作品を少なくも7点は購入したといわれる。

シャルダンのこうした風俗画が、富裕な生活を過ごしていたとみられる彼女ルイズの心にいかに響いたのかは、残念ながら明らかではない。しかし、現代人の目でみても、18世紀フランス社会の底辺で日々働いていた女性たちの姿が、穏やかな光の下で描かれている作品は、コロナ禍の下で予期しなかった日々を迫られている現代の我々にとって、しばし過ぎ去った遠い時代へ思いを馳せるよすがとなるだろう。


Reference
Rosenberg Pierre (ed.) Chardin, exh.cat., Grand Palais, Oaris/Dusseldorf/London/New York, 
1999-2000
& others


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一枚の絵に世界を見る:シャルダンの《洗濯女》The Laundress ~1~

2020年10月11日 | 絵のある部屋


《洗濯女》(職業)
Jean Simeon Chardan (1699-1779)
The Laundress (French: La Blanchisseuse), 1733
37.5 x 42.5cm 
Stockholm, National museum
画家シャルダンは、この画題で3点のほぼ同一の作品を描いた。最初の作品はHermitage Museum が所蔵している。2番目が上掲の作品である。第3番めの作品はロスチャイルド家のコレクションに入っていたが、第二次世界大戦中に滅失したと伝えられる。





この絵はいったいなにを描いたものでしょうか。時は18世紀前半のフランス。描かれているのは3人、2人の女性と1人の子供。女性のひとりは後ろ向きで顔も分からない。それでもよく見ると、片隅には猫も描かれています。しかし、場所といい、室内の暗さといい、当時の上流階級が好んだような宮殿や豪華な装飾のある室内などとはおよそ反対に近い場所だ。この時代によく見かけたエレガントな男女の肖像などとも、縁遠い人たちがそこにはいる。

洗濯を仕事として
この作品、「洗濯女」The Laundressといわれる人の仕事場の情景とされている。洗濯をいわば職業として生きている女性である。描かれた時は、パリは平和と繁栄を享受していた。ルイ14世の乱費を伴った戦争が終り、海外との貿易が成果を上げていた。新たに開発された布やガラスのような新商品が話題となっていた。職人たちの世界は次第に企業家によって主導される方向へと移行していた。こうした中でフランスの貴族たちは人生の楽しみを享受していた。フランス革命はこれから50年くらい先のことであった。美術史上ではアントワーヌ・ワット、ブーシェ、フラゴナールなどで知られるロココの時代であった。

華麗な時代環境の中で、ここに取り上げられた洗濯場、洗濯女といった無粋な画題は、当時の華やかな美術のレパトリーからすれば大きく主流から外れたものだった。しかし、この作品をてがけたシャルダンは例外であった。シャルダンの父は建具などの指物師の親方であり、王室のビリアード・テーブルの補修などを手がけていた。現在のパリ、サンジェルマン・デ・プレに工房を開いていた。

シャルダンがここに取り上げた対象は、家内労働といわれる範疇に入り、およそ画題には縁遠いと思われていた。描かれている女性もシルクやダマスクスのスカートをまとったハイヒールの女性ではない。洗濯を仕事としてたくましく生きている女性の仕事場である。女性の子供なのか、足元に座り込み、シャボン玉を吹く子供も、つぎの当たったくたびれた上衣を着ている。そこは、時にはブルジョア家族が住む家のひっそりとした片隅であった。

画家が住んだ家の片隅に
シャルダンはこの作品を描いた時、パリの両親と一緒に暮らしていた。家には25人くらいが一緒に住んでいたといわれる。工房は表通りに面していたが、家自体は質素な作りで細長く上方と後方へつながっていた。洗濯場は日の当たらない奥にあり、数人の若い娘たち jorners journeyman も働いていた。後ろ向きに描かれている女性は、おそらくそうした娘なのだろう。

シャルダンは妻と2人の子供と両親の家に住み、母親に年210リーブルを渡していた。彼はそこに8年間住んだ。画家の妻の両親は娘が画家という不安定な仕事をする男と結婚することに反対していた。妻は病気がちで1731年に男児、1733年には女児が誕生した。しかし、その妻は1735年に死亡した。画家は再婚したが最初の妻の死から9年後であった。再婚相手は裕福な未亡人で自宅を持っていた。最初の結婚は短く8年間であり、その後9年の独身という空白を経ての再婚であった。18世紀的なメンタリティともいわれる。

シャルダンの両親は、夫が指物師という職人であったとはいえ、生活は貧しかった。さらに当時起きた銀行のスキャンダルなどで貯金も失い、催事の花火の仕掛けなどを作って小銭を稼いでいたらしい。

シャルダンは画家として徒弟から職人になるという道を経ずして、多くの無名の画家たちから手ほどきを受けていた。当初はジャンルとして最高ランクに位置づけられていた「歴史画」を描くことを志したが、画題の選択、時代考証、構図の設定など、準備に時間資金を要したこともあって、静物画など手近かなジャンルに目標を定めたようだ。

作品に光が当たる時
1734年、シャルダンはパリのドーフィヌ広場で開催されたオープン・エアの展覧会に出展し、1735年にはここに取り上げた《洗濯女》The Laundress 他1点をロイヤル・アカデミーの絵画・彫刻展に出展した。この作品には多くのレヴューが生まれ、作品の買い手も現れた。

シャルダンのような質素な家庭でも、少なくとも1人はメイドを雇っていた。家事は大変だったが、1人のメイドは比較的安い費用で雇うことができた。彼女たちの多くは農家の口減らしのために都会へ働きに出てきていた。衣食住の環境は劣悪で住み込んだ家では台所や階段の下で寝ていた。彼女たちはいちおう衣服は支給され、特別な時には若干のボーナスも出た。しかし、彼女たち、しばしば侍女servant girlと呼ばれたが、その生活、そしてたどった運命は過酷な事が多かった。厳しい状況で働き、生きていた女性たちであったが、シャルダンはソフトに描いた。
このブログでもすでに《市場から帰って(あるいはパンの重さなどで記したことがある。
続く
コメント
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