Alan Greenspan and Adrian Wooldridge, CAPITALISM IN AMERICA~ A History ~
New York, Penguin Press, 2018
このたびの新型コロナウイルスの世界的蔓延が、人類の歴史にいかなる傷痕を残すか、今の段階では十分に確認できない。感染の拡大がどこまで及ぶのか、ウイルスの活動が終息に向かわない限り、正確にはわからない。勝敗はまだついていない。しかし、政治や経済面では次第に新型コロナウイルスがもたらした影響のあらましが見えるようになってきた。コロナ後の世界は明らかにこれまでとはかなり違ったものになるだろう。
経済的損失は「世界大恐慌」に次ぐ?
ウイルスが蔓延する過程で社会の生産活動は顕著に低下し、人々の働く機会を奪ってきた。グローバルな経済的損失は極めて大きく、ある推定では、1930年代アメリカに端を発した「世界大恐慌」 the Great Depression 以来の規模であるといわれている。どの程度、似ているのか、あるいはどれだけ異なっているのか。このたびのコロナウイルス大不況の全面的な評価は、ウイルスの終息を待ってのこれからの課題であることは言うまでもない。
比較の対象となる1930年代の大恐慌の記憶が人々の網膜からほとんど消えてしまっている。それだけに、その展開の輪郭を辿ってみることは意義があることと思う。大恐慌については、すでにおびただしい調査・研究が残されており、時系列的にも評価が変化してきた。筆者も長らく関心を抱いてきたが、到底書き尽くせるものではない。
わずかに、今回の新型コロナウイルスの感染過程での対策を考える上で、1930年代、アメリカにおける大恐慌の発端と政策の輪郭だけは心覚えに残しておこう。
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youtubeでNY Stock Exchangeでの株価暴落に至るまでの経緯を映像で見るには下記がお勧めです。1929 Stock Market Crash and the Great Depression -Documentary (日本語版、英語版)
https://www.youtube.com/watch?v=ApC8U_myIPA
大恐慌突入まで
大恐慌はほとんどなんの前触れもなく突然に起きた。1920年代は「轟く20年代」Rroaring Twenties といわれ、アメリカ社会は活況を呈していた。株式市場も発達し取引も活発だった。人々は将来に大きな期待をかけて、日々の活動にいそしんでいた。信用市場も発達して国民の生活に浸透し、人々は次々と生まれる家電など耐久消費財を現金がなくとも次々と買い集め、当時大きな人気の的となっていた自動車まで購入していた。
大恐慌の影はこうした中で静かに、しかし急速に忍び寄っていた。今回の不況が、新型コロナウイルスという目に見えない原因で生み出されたように、大恐慌も株式市場を発端とする信用崩壊、そして1930年代のダスト・ボウル the Dust Bowl と呼ばれた破滅的な被害をもたらす干ばつと砂嵐の発生が大きな破壊力を持った。大平原 Great Plains 、そして南西部が最も凄まじい影響を受けた。特にテキサス、カンザス、コロラド、ニューメキシコ、そしてオクラホマが惨憺たる被害を受けた。被害は急速に全米に及び、人々の生活に深刻な影響をもたらした。砂嵐を吸い込むと、砂塵は細かいガラス状の細粉状になり、珪肺症になる恐れが多分にあった。当時の写真を見ると、目前から地平線まで竜巻のような砂嵐が立ち上り、全面土色でこの世のものとは思えない光景を呈している。
ジョン・スタインベックの小説『怒りのぶどう』はこのダスト・ボウルと呼ばれた灼熱の空気と共に生まれた砂嵐から逃れて、ジョード Joadという家族がオハイオ州の農場からカリフォルニアへ仕事を求めて旅をする話である。小説は実話ではないが、スタインベックは新聞記者として、”Okie”と呼ばれた同様な旅をした農民にインタヴューしたことがあった。
こうしてカリフォルニアへやってくる貧しい労働者家族に、連邦政府は対応に苦慮したあげく、カリフォルニアに10カ所のキャンプを設置し、出稼ぎ家族は仕事が見つかるまでそこで過ごした。今に残る映像や資料で見る限り、東日本大震災の惨状と甲乙付け難い。貧困と疲労に打ちひしがれた出稼ぎ労働者の母親と子供のイメージをブログに掲載したこともある。
Jean Edward Smith, FDR, New York: RANDOM HOUSE TRADE PAPERBACKS, 2007
F.D.ローズヴェルトの伝記は様々な視点から数多く存在するが、本書はそれらをほとんど取り込んているという意味で、安定した伝記といえる。
1930年代、大恐慌のアメリカにおける対応について、ブログ筆者には大筋の印象として次のような諸点が脳裏に残っている:
1)迅速な政策着手
2)斬新な改革案〜ケインジアン的視点
3)大規模な実験的プロジェクト
4)国民との密接な交流
ひとつの例を挙げてみる。フランクリン・ローズヴェルトが大統領就任後の100日間は、「100日議会」と呼ばれた。この3ヶ月くらいの間に、初期ニューディール政策の主要法案15件が次々と成立し、改革へと結びついていた。失業者救済、全国産業復興法(NIRA)など、注目すべきスピードと包括性をもって実行に移された。今回の新型コロナウイルスへの対応と比較すると、よくこれだけのことができたと驚嘆する。
政府による経済への介入は、総じてケインジアン的な特色を帯びていた。テネシー渓谷開発公社、民間公共工事局 (Public Works Administration, PWA)、 公共事業促進局 (Works Progress Administration, WPA)、 社会保障局、連邦住宅局 (Federal Housing Administration, FHA)などを設立し、大規模 公共事業による 失業者対策を実施した。また 団体交渉権保障などによる 労働者の地位向上・ 社会保障の充実なども次々と実施に移された。
ローズヴェルトが就任した1933年以降、 アメリカ経済は回復過程に入り、実質GDPが1929年を上回った。1936年 の 大統領選挙では当時の一般投票歴代最多得票率(60.80%)で再選を果たした。しかし、1937年の金融・財政の引き締めによる景気後退25もあり、結局任期の1期目と2期目である1933年から1940年の期間には名目GDPや失業率は1929年の水準までは回復しなかった。
ローズヴェルト大統領の閣僚として、初めて女性で労働長官として任命されたフランセス・パーキンス女史とその周辺で働いた人たちの話は、このブログにも少し記したことがある。建国以来の大きな危機に対し、懸命に働いた人たちの話はかなり強く記憶に残っている。
ローズヴェルトの行った毎週のラジオ演説は「 炉辺談話」 fireside chatsと呼ばれ、国民に対するルーズヴェルトの考えを表明する場となってローズヴェルトの人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となった。
このたびの新型コロナウイルス恐慌で、いち早く感染規制の緩和を発表したニュージーランドのアーダン首相の親しく国民に寄り添うという姿勢は国民は好評なようだ。
比較して、今日の安倍政権には苦言を呈したい。このたびの新型コロナウイルスの蔓延に伴う急速な不況の浸透にも関わらず、実効ある政策がほとんど提示されず空転している。新型コロナウイルスが発見されてからすでに4ヶ月余りが経過した今でも、ほとんど政策効果が見えてこない(大騒ぎしたマスク2枚も配達されたのは4月28日であった!)。
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FDRと大恐慌時代 (1929–1939)を回顧する際の私的メモ
1929年10月29日 ウオール街、株式市場で株式大暴落 「暗黒の火曜日」
1931年 フーヴァー・モラトリアム
1932年 失業率25%に
11月8日 フランクリン・ローズヴェルト大統領選でフーヴァに勝利する
1933年 3月4日 ローズヴェルト大統領就任(1933-45)、ニューディール政策に着手(NIRA, AAA, TVAなど実行)
3月9日〜5月16日 大統領就任100日が経過、多くの新政策が導入された
4月19日 アメリカ合衆国は事実上金本位制離脱
1934年 最初のDust Bowl
1935年 4月14日 「暗黒の月曜日」
8月14日 社会保障プログラム制定
ワグナー法成立
CIO成立
9月20日 フーヴァーダム(ボルダーダムを改名)竣工
1937年6月25日 連邦最低賃金制定
1938年11月 CIO、AFLから独立
1939年 第二次世界大戦ヨーロッパで始まる
4月30日 ニューヨーク世界博開幕
1940年 ローズヴェルト大統領史上初めて3期目に当選
1941年 12月7日 日本の真珠湾攻撃
12月8日 アメリカ第二次大戦参戦