この人は誰でしょう。ヒントはアメリカ合衆国歴代大統領の一人である。直ぐわかった方はアメリカ史にかなり通じた人だ。
去る8月12日土曜日、ヴァージニア州シャーロッツビルでの事件★を知って、ほとんど半世紀前に一度訪れ、数日滞在したことを思い出した。その時はワシントンDC郊外マウント・ヴァーノンやウイリアムズバーグなども訪ねた旅だった。訪れた時は、公民権運動の最中であった。
★この日シャーロッツビルは大規模な白人至上主義者の集会によって非常事態宣言が出されるほどの混乱に陥り、その過程で集会に抗議する人々に車が突っ込み、一人が死亡、十数人がケガをするという事態となった。また関連して近くで警戒にあたっていた警察のヘリコプターが墜落し、乗っていた二人の警察官が死亡した。ここで起きた事件は、アメリカにおけるヘイトスピーチの問題を考える際に避けて通れない事例として、おそらく今後繰り返し論及され続けることになるだろう。事件にただちに反応した人々で目立つところだけ拾っても、バラク・オバマ、ヒラリー・クリントン、ジョン・マケイン、ジョー・バイデンなど、アメリカで影響力をもつ政治家は、党派を超えてすべて何らかの形で事件に対する非難を表明している。特に問題となったのは、トランプ大統領による「非難」声明であった。避難対象を明確にせず「多くの立場による憎しみ」という表現をしたことが、「この期に及んでどっちもどっち」という批判を浴びた。
出来事の直接のきっかけは、市内の公園にあるロバート・E・リー(南北戦争時の南軍の司令官の像を、市議会が今年4月に撤去(および公園の改名)を決めたことだった(現在はまだ裁判係争中で執行はされていない)。現在のアメリカにおいて南北戦争時代の南軍側を支持することはそれ自体がヘイトスピーチやレイシズムと同義であるわけではないが、今回のイベントでも南軍旗が象徴的に使われていたように、白人至上主義とのつながりは非常に強い。このような背景もあって近年こうした像については撤去する動きが進んでおり、今回のシャーロッツビルでの市議会の決定も、その流れに沿ったものだった。
今回のイベントにはKKKなどの他にも多くの「オルトライト」運動の関係者が参加したと言われており、そうした意味ではイベントは既存の白人至上主義者とオルトライトの接点を作ったともいえる。KKKが今も活動していることはその昔を知る者には衝撃的だが、南部にはそれを許容する不思議な風土がある。変化など起こりそうにない微妙な静まりを感じる。北部と南部はかなり近接したとはいえ、そこにはなんとも形容しがたい違いが今日も継承されている。
静かな町シャーロッツビル
ヴァージニア大学などのある美しい静かな町だった。今回の騒動など予想もしなかった。ここはアメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソン(任期1801-09)が生まれ育ったことで知られている。一時期かなり読んでいた南部文学の巨匠ウイリアム・フォークナーが、ヴァージニア大学内に住んでいたことも知った。シャーロッツビルのジェファーソンの邸宅モンティチェロはその後世界遺産となっていた。
さて、シャーロッツビルの事件は、KKKなどの白人至上主義者の集まりにおけるヘイト・スピーチが火だねであったが、この点は日本の新聞でも報道されたので、ご存じの方も多いだろう。筆者は実はトーマス・ジェファーソンのことを思い出していた。この点は今回ほとんど記事にならなかったので、少し記しておこう。
トーマス・ジェファーソンは、「独立宣言」Declaration of Independence の起草者として、アメリカの大統領の評価順位では常に最高位を維持している。アメリカ創生期の重要人物の中では最も長くその地位にあっただけに、その評価も影響力が大きく、その人格と遺産が今日まで大きな意味を持つ。
ワシントン大統領の下で、初代の国務長官を務め、反連邦派(anti-federalist)の主要人物として、後にリパブリカン党を結成し、1800年の大統領選挙に出馬し、当選、第3代大統領となった。
ジェファーソンは反連邦派でありながら、州政府を犠牲にして連邦権力を強化する立場をとっていた。当時フランス領であったルイジアナを1803年に購入したことで、この広大な地域を支配するため、連邦政府の権限を強化することがどうしても必要となっていた。このルイジアナの格安の購入は、当時のアメリカの国土をほぼ倍増させ、その後のアメリカにとって大きな貢献であり、ジェファーソンの評価を定める最大要因であった。
ジェファーソンは、連邦議会で反連邦派の党が掲げる大衆的な価値観を拠り所として大統領制を民主化した。
かくして、ジェファーソンはアメリカ建国期においては、極めて長い間中心的人物の位置にあった。しかし、彼が起草した独立宣言の内容とジェファーソンの実際の私生活(1826年死去)の間には大きな断絶を伴う距離があった。それにも関わらず、「独立宣言」はアメリカの信条として黒人を含めて今日までその高い精神性を維持してきた。
語られざる側面
筆者はアメリカの政治史は専門でもなかったので、副産物として知ったことだが、トーマス・ジェファーソンは、彼のプランテーション、モンティチェロで、当時奴隷であった女性で未亡人だったサリーの間に数人の子供があったとの噂があった。この真偽が長らく論争の種となっていたようだ。とりわけ、彼の起草した高い理想を掲げた「独立宣言」の内容との関係でジェファーソンの真意や人格に関わる論争として長く続いてきた。その後、子供の一人は、DNA鑑定でジェファーソンの子供であると確定されたようだ。アメリカ大統領の個人的背景が、大統領としての公的評価にいかに影響するかを示す例と言える。
実際、ジェファーソン自身はヴァージニアの大農園主で奴隷を200人近く所有していた。公的には奴隷貿易には反対し、黒人奴隷制度は徐々に消滅させてゆくことを主張していた。しかし、現実とはかなり離れていた。こうした隔絶を伴う例は当時の指導者層の間でもかなり多数存在したとも言われている。
ジェファーソンは当時の現実に身を置きながら、「独立宣言」では新大陸アメリカのあるべき理想の姿を、いわば期待、情熱の形で描いたのだろうか。アメリカ合衆国という国は、その建国以来、自らを理想の実現のための実験材料と考えてきたようなところがある。そのためか、大統領、議会の下で展開する政策があたかも時計の振り子のように、大きく揺れ動き、時の経過とともに落ち着くべきところに収斂するようなところがあった。今、その振り子は再び大きく揺れ動いている。行き先を見定めるにはまだかなりの時を待たねばならないようだ。
*1997年までヴァージニア州の州歌であった。
和訳もされ、よく歌われていた。「帰りたやヴァージニア、花咲き実るよきところ・・・」
There's where the cotton and the corn and taters grow,
There's where the birds warble sweet in the spring time,
There's where the darkey's heart am longed to go.
Day after day in the field of yellow corn,
No place on earth do I love more sincerely,
Than old Virginny, the state where I was born.